第49話 サキーユ・クイン③
俺はゆっくりとサキーユに近づくスピードで飛んだ。これもサキーユの恐怖心を
ついには彼女の正面へと肉薄し、俺は再び指をワッカにしてサキーユの
もちろん、サキーユは空気に運ばれているわけで、額を弾くのとサキーユが飛ばされるのとはまったく因果関係のないことだ。
しかしその架空の因果関係を作り出すことが、サキーユの精神にもたらす影響は大きい。
「もういい」
「もういい?」
「好きなだけわたくしを
「逃げないってことは、俺の指示に逆らうってことだろ? 約束を
「ええ……」
サキーユはいっさいの抵抗をしなくなった。重力も発生させていない。俺が空気を開放したらサキーユは落下するだろう。
絶望に新鮮味を持たせるには、少し希望を持たせるといい。
「キーラの分をチャラにした公約だが、今日だけは免除してやるよ」
「今日だけ、ですって⁉」
希望を持たせるつもりが、認識の相違から絶望が深まったようだ。べつにそれはそれで構わないが。
「もしかして、おまえが何でもするって今日だけのつもりだった? そんなんで許すわけないだろ。未来永劫だよ。何でもって言ったんだから、その期間も含めて俺の意のままだろ」
こう言えば、なおさらキーラの分の報復を受けておいたほうが楽になれるだろうが、いまのサキーユにとって「今日だけは免除」という言葉はあまりにも
「分かり、ました……。今日だけでも、許してください」
もはやサキーユに表情はない。
「あーあ、俺、本当は急いでんだ。マーリンを取り返さなきゃいけないからな」
俺は帝国の方へ向かって飛んだ。ちらとサキーユを見るが、サキーユは動かなかった。
さらに距離が開き、肉眼では見えないところまでやってきた。俺は空気をレンズ状に凝縮してサキーユの様子をうかがう。
さっきまで地に横たわっていた彼女が、のっそりと上体を起こした。復帰が早い。それもそのはずだ。精神的には全力で責めたが、物理的な攻撃はかなり加減した。多少痛めつけはしたものの、体のダメージは少ないはずだ。
俺がなぜまだ彼女の様子をうかがっているのか。
それはもちろん、彼女への責めが終わっていないからだ。
マジックイーターどもは俺のいない隙を狙って俺のテリトリーに踏み入り、荒らしまわる。
具体的には、俺がいないときを見計らってジム・アクティにキーラをさらわせ、ローグ学園の連中にシャイルとリーズをさらわせ、そしてマーリンをさらった。
俺を警戒して不在を狙っているのだとしたら愚かの極みだ。その結果、どんな報復を受けることになるか思い知らせなければならない。マーリンを取り返した後にまた狙わせないためにも。
そして俺は、それを為すのに手段を選ばない。
「終わったと思った?」
サキーユがようやく立ち上がったところだった。俺はサキーユの正面に、隕石のような瞬間的な速さで降りたった。
サキーユを突き飛ばし、仰向けに倒れたところに上から
「しつこい……。さっき今日だけは許すって……」
「今日だけ許すってのは、おまえが自発的に俺のためになる行動を取ることだ。つまりキーラの分。まさかマーリンを連れ去った罰や、俺を殺そうとした罰まで免れると思ってないよな? 俺はおまえを絶対に許さないぞ」
「――ッ!」
サキーユの頬に人差し指を這わす。
すると、彼女の柔肌にわだちのように赤い線が入った。そこから血が
俺は自身の指に薄く鋭い風をまとわせているのだ。俺の指はいま、カッターと同じ切れ味を有している。
「さすがは
さっきは縦に頬をなぞったが、今度は左から右へ鼻をまたいで五本の指でなぞった。
サキーユの顔には五本の線が刻まれた。
「こうなると篭絡の魔女は引退だな。いや、ちょっと線の入れ方が綺麗すぎたな。もっと笑える感じにしてやろうか」
「ゲス・エスト。なぜそこまで残忍になれますの? あなた、人の領域を著しく外れていますわ。マジックイーターが世界を支配するだのということが小さく思えるほどに。ネームドイーターですらあなたほどの残虐性を持つものはいないでしょう。あなた、本当に何なんですの?」
「そう問われると、俺は『人間だ』と答えるしかない。しかしそれは存外おかしな返答でもないんだぜ。人間にもピンからキリまであって、人間の性質というものは一般化できるものではないが、俺の性質は十分に人間というカテゴリーの範囲内のものだ」
「最低、ですわ……」
俺はサキーユの顔にかざしていた五本の指を引っ込めた。
「ここまでがマーリンの分だ。おまえたちの所業がいかに罪深いか分かったか? あと残っているのは、俺を殺そうとした分だ。そう、おまえ、俺を殺そうとしたんだよなぁ。許せねぇなぁ! 俺は本物の殺意を決して許さない。まあでも、今日はこのくらいにしとこうかな。ああ、でもでも、どうしようかなぁ。おまえへの怒りが治まるとは思えないが、日をまたいで薄らいだりしても嫌だしなぁ。まあでも、そろそろ行こうかな。戻ってこないかはともかくとしてな!」
また戻ってくるかもしれない、という恐怖を置き土産にして、俺は帝国へとまっすぐ飛んだ。
もう振り向かない。
俺を殺そうとした分の裁きをあえて残しておくことで、サキーユには恐怖という苦しみを与えつづけるのだ。
それにしても、サキーユへの処断は我ながらうんざりするほど
俺はマーリンを奪還すべく誘拐犯を追跡しなければならないのに、時間をかけすぎた。
俺は慣性による圧迫を感じながら、飛行速度をグングンと上げていった。
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