間章

第57話 ナラチフのロア

 ナラチフに残ったロアは、城門の入口からネビュロスの最後の軍が引き上げていくのを見届けた。


 避難していた領民たちも無事戻って来ることが出来た。

 彼らはロアの姿を見て駆け寄ってきた。


「ロア!」

「ああ、シュマ!おまえも無事だったか」


 シュマと呼ばれた青年は、ロアの弟である。

 背が高く、堂々とした体躯で、ロアとよく似ていた。


「ホルス様を連れて来てくれてありがとう、ロア」

「おまえも、よく領地を守ってくれた」


 ロアはシュマと抱き合った。

 シュマの後ろから、ナラチフの領民たちも駆けつけた。


「ロア様!よくぞご無事で」

「ああ、皆、よく頑張ってくれた」

「魔王都の軍が来てくださったんですね」

「そうだ。魔王様がお戻りになられたのだ」

「おお!」

「それはようございました」

「それでネビュロス軍が引き上げていったのですか」

「ああ、もう安心だ。ホルス様がネビュロスを魔王都へ引っ立てて行った。治安部隊も機能を回復する。ネビュロス軍に破壊された畑や施設の修復費、家畜の弁済などはネビュロスが全額賠償金で支払うことになっている。思いきりふんだくってやるつもりだ」

「ああ、ありがたい!」


 領民たちは涙を流して喜んだ。


 ネビュロスの軍が駐留を始めた時、彼らは領民から食糧や物資を奪っていった。

 倉庫から作物を、牧場から家畜を強奪した。

 誰もそれを咎める者はいなかった。逆らえば殺されるからだ。

 食糧が常に不足するという状況の中で、ロアから領主代理を受けていたシュマはその留守を守り、一部の住民たちを魔の森へ避難させていた。そこで収穫してきた食糧をナラチフへ残った者たちへ密かに分配してなんとか生き延びてきた。

 ナラチフは他の直轄領に比べるとその面積はかなり広く、そのほとんどが広大な農地だった。

 元は小さな領地だったが、ある時期に隣の領地と併合され、広大な直轄領となった。

 小麦に似たブッファや苺に似たソレリーという果実が特産品で、国内でも人気のブランド品であった。

 ネビュロス軍は、それらの農作物を取りつくし、苗を踏みつけて作物を枯らしたりと農地に相当なダメージを与えたのだった。


「長い間苦労をかけたな、シュマ。これからは共に再建していこう」



 ネビュロス軍による被害の報告をまとめ、復興計画を整えるのに一区切りついたところで、ロアはカマソ村に残っている部下たちを迎えに行った。

 その際、村長を始め村人全員にナラチフへの移住を勧めたが、彼らは丁重に断った。ロアの部下の中にも村での気ままな暮らしが気に入って残りたいという者もいたが、ロアはそれを止めなかった。


 ロアの家は彼女がナラチフを出てから無人だったため、ネビュロスの軍の兵士たちが物色したらしく、ずいぶん荒らされていた。

 まずは掃除から始めることにした。

 そこはロアがパートナーと共に過ごした領主の家だった。

 もともとナラチフの領主だったパートナーは100年前の大戦の折り、旧友に誘われたとかで魔王軍に参加するため、ロアに領主を委ねていった。


 2人は大戦前の繁殖期の終盤に初めてパートナーとなった。

 戦から帰ったら、その次の繁殖期で子供を作ろうと約束したので、ロアは女性体のまま、彼の帰りを待つことを選択した。

 だが、戦が終わっても彼は帰ってこなかった。

 彼の所属していた軍は行方不明で、彼自身も消息不明となったまま、もう100年も彼の帰りを待っている。

 腕に刻まれた、彼と交わした<エンゲージ>はそのままだ。

 もし、彼が死んでいれば、この<エンゲージ>した魔法紋クレストを消すことができる。


 ロアは二重になった左腕の魔法紋をじっと見つめる。

 弟のシュマからは彼がもう死んでいる可能性が高いと云われ、いい加減踏ん切りをつけろと諭されていた。

 ロアも薄々は感じている。

 どれだけ待っても、彼はもう戻って来ることはないのだろう。

 だが彼の死を認める勇気を、どうしても持てなかった。

 逃亡中も、彼の存在だけがロアの支えだったのだ。


 しかし、こうしてナラチフを取り戻し、皆が新たな一歩を踏み出そうとしている。

 自分もけじめをつけるべきなのだろう。


 掃除の手伝いにきていたシュマが、心配そうにロアに声を掛けた。


「ロア。まだ奴のことをあきらめきれていないのか」


 ロアはシュマの言葉に首を振った。

 そして、左腕の魔法紋に触れた。


「いや、おまえの云う通りだ。私もけじめをつけて<エンゲージ>を解消するよ」


 そう宣言し、自分の腕に触れた。


「…」


 だが、<エンゲージ>の魔法紋は消えなかった。

 いや、消せなかった。


「まさか…」

「どうした?」


 ロアの様子を見て、シュマが彼女の顔を覗き込んだ。


「消せない」

「なんだって?<エンゲージ>が解消できない?」


 シュマの問いかけにロアは頷いた。


 <エンゲージ>を解消する方法は、お互いが了承し、相手の魔法紋をそれぞれ消すことだ。どちらか片方だけが一方的に消すことはできない。

 だが例外がひとつだけある。

 それは相手が死んだ時だ。

 魔族は死ぬと、その魔法紋も失われる。その際、<エンゲージ>は効力を失う。

 だが<エンゲージ>した魔法紋は消えないので、自分で消さねばならない。

 それができないということは、彼が生きていることを示している。


「あの人はどこかで生きている…!」


 ずっと諦めかけて、確かめるのを恐れていた。

 それが、ここへ来て彼が生きていることがハッキリした。


「ではなぜ帰ってこないんだ?」


 シュマは怒ったように云った。


「だいたい、あいつは少しいい加減なところがあった。もしやどこかで遊び惚けているのではないのか?」

「帰ってこれない事情があるのかもしれない」


 ジュスターたちも大戦に参加して以降100年の間、人間の国から帰れなかったと云っていたではないか。

 同じように彼も人間の国に取り残されているのかもしれない。


「ふん、どうかな。どこかで浮気でもしているんじゃないのか?」

「彼に限ってそんなことはない!きっと何か事情があるんだ。人間の国にいて、戻りたくても戻れない環境にいるに違いない」


 もしや、奴隷に落とされて、人間に捕まっているのだとしたら…?

 ロアはそう考えると、居てもたってもいられなくなった。


 彼を探しに行きたい。

 だが人間の国といっても広すぎて、どこをどう探せばいいのかもわからない。

 闇雲に探したところで見つかる可能性は低いだろう。

 それに、人間の国では魔族狩りとやらが横行しているとも聞く。

 はっきり云ってリスクしかない。


「ロア、気持ちはわかるが、今は…」

「わかっている。今は復興が優先だ。私は、領主なのだからな」


 ロアはシュマに気丈に笑顔を見せた。

 不意に、彼女の脳裏には、トワの顔が浮かんだ。

 そうだ、トワなら人間の国に詳しいかもしれない。

 落ち着いたら一度、相談してみよう。

 もしかしたら力を貸してくれるかもしれない。


「会いたい。今、どこにいるの?…マルティス」


 誰にも聞こえない程か細い声で、ロアは呟いた。

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