第10話 北国境の攻防
夜が明けてすぐ、人間側の国境砦から魔族の基地へ向けて大軍が出撃した。
その数およそ1万。
そのうち大司教公国から派遣された回復士はたったの300人。圧倒的に数が足りていないのが現状だ。
実際、昨日の戦闘で負傷した者の回復が追い付いておらず、砦に残る回復士もいた。
騎士たちはフルフェイスの兜の内側に防粉マスクを着けているため、顔がわからない。
兜もマスクもしていないのは列の中ほどにいる将と優星だけだ。
エリアナはホリーと共に馬車で移動している。
馬車の後ろに続くのは、この軍の指揮を任されている連隊長のイシュタル・ラウの騎馬だった。
イシュタルは指揮官だとわかるように、腕に黄色の腕章をつけていた。
彼はホリーの乗る馬車を恨めしそうに眺めていた。
「…ったく、あの女。何様のつもりだ」
イシュタルが怒っているのは、夜明け前に開かれた軍議での出来事についてだった。
彼は連隊長として、砦の兵の編成を任されていた。
怪我人が多く、回復が間に合っていないことを理由に、本国からの兵の補充を待って、軍の編成の見直しを提案した。
ところがそれに異を唱えたのがホリーだった。
「そんな悠長なことを言っている場合ではありません!今すぐに出撃して、魔族の基地を攻めるべきです!指揮官を失った今が好機ではありませんか!」
ホリーは祭司長であり、この場にいる誰よりも階級が上だった。
「昨日の戦闘ではこちらにもかなりの犠牲が出ました。このまま兵を補充もせず戦いを続けるのは少々無茶と言わざるを得ませんな」
慎重な意見を云ったのは駐留軍の司令官、つまりイシュタルの上官だった。
しかしホリーは強気だった。
「何を弱気なことを。魔族の前線基地を落とせば、人間側がぐっと有利になるのですよ。これが成功すれば人間の歴史において、100年前の勇者以来の栄誉となり、世界中から称賛されることになるのです!」
これに対して、イシュタルは正論でもって反論した。
「お言葉ですが、昨日の疲れもあり、兵の士気は高くありません。こんな状態で良い結果が出るとは思えません」
「多少の怪我ならばポーションでも持たせて参加させれば良いではありませんか」
「それが回復士の言う事ですか!」
他人事のように云うホリーにイシュタルは激高した。
「そんなに尻込みするのなら俺たちだけでやってやろうか?」
余裕の表情でそう云ったのは、昨日、敵の指揮官を倒した勇者候補の将だった。
するとホリーはここぞとばかりに熱弁を振るい始めた。
「そうですわ!彼らを戦力の中心にしてあなた方騎士団は彼らを援護すれば良いのです。勇者候補たちが昨日、敵の指揮官を倒すという輝かしい功績をあげたのはご存知でしょう?あなた方が何年にも渡って小競り合いを繰り返して来たにも拘らず、大した成果もあげていないことをとやかくいうつもりはありません。しかし我々が来た以上、成果を出してご覧に入れますわ」
ホリーは遠回しに、駐留軍を無能だと云っているのだ。
結局、ホリーに押し切られる形で全軍で出撃することになった。
事実、駐留軍の司令官は、5年前にアトルヘイム帝国本国からこの砦に赴任して以来、功績らしい功績をあげていない。
まんまとホリーの口車に乗せられてしまったのだ。
イシュタルにとっては事情も知らぬ女にあれこれ命令される筋合いはない。
「大司教公国の勇者だか何だか知らんが、あんな子供を戦わせて得意顔しているあの女の気が知れん。兵を何だと思っているんだ」
イシュタルはマスクの内側で毒づいた。
そして、マスクも防護服も着用していない勇者候補たちをじっと見つめた。
こんな若者たちを頼りにせねばならない自分たちが腹立たしかった。
そんな連隊長の気も知らず、勇者候補たちは馬を並べて無邪気に会話していた。
「ところで将。結局トワは戻って来なかったのか?」
「ああ、エリアナも探してたけど、見つからなかったってさ」
「捜索隊は出さなかったわけ?」
「あのホリーって女が、もう死んでるだろうから行くだけ無駄だって止めたんだとよ」
「…酷いね」
「あの女にとって勇者候補なんてどうせ捨て駒さ。俺らだって、もし戦場で倒れたら置き去りにされるんだろうよ」
「ありえるね。…けど、本当に死んじゃったのかな、トワ」
「さあな。戦場になった場所は半分砂漠みたいな荒野だったし、砂に埋まってたら見つからねえかもな」
「そっか…。無理だよね…昨夜は寒かったし」
優星は整った顔を少し歪めてホリーの乗る馬車を見つめた。
「こんな戦場に連れて来られて、いなくなっても探してももらえないなんて、あんまりだよ…」
優星は唇をぎゅっと噛んだ。
その時、どこからか叫び声が聞こえた。
「見ろ!ドラゴンだ!」
「ドラゴンが飛んでるぞ!」
叫んでいたのは先頭にいた騎士たちだった。
皆、空を指差している。
その指し示す方向を見上げると、敵の前線基地の上空から巨大なドラゴンが飛んでくるのが見えた。
エリアナも馬車の窓から身を乗り出し、思わず声を上げた。
「何あれ…!昨日はあんなのいなかったわよ?」
「ばかな!ドラゴンは100年前、魔王と共に倒されたはずよ!」
ホリーは信じられないという顔をした。
ドラゴンは魔王が召喚したものだ。
ドラゴンが復活したということは、つまり、魔王が復活した可能性があるということだ。
一方、この光景を馬上で興奮しながら見ていたのは将だった。
「すげえ、すげえー!ドラゴンて本当にいるんだ!」
「そんなこと言ってる場合じゃないよ!こっちに向かってくるよ!」
優星は馬上からドラゴンに向けて弓を構えた。
だがドラゴンはすばらしいスピードで彼らの頭上を通り過ぎていった。
その羽ばたきが巻き起こす風で砂塵が舞い、視界を奪われる。
「ドラゴンに構うな!前方を見ろ、魔族が来るぞ!」
連隊長イシュタルの激が飛ぶ。
ドラゴンに気を取られているうちに、魔族の大軍が押し寄せてくるのに気付くのが遅れた。
魔族の足はこちらの騎馬並みに速い。
気が付くとあっという間に距離を詰められていた。
「弓部隊、放て!」
イシュタルの号令で、両翼の部隊から弓矢が射かけられた。
すると、通り過ぎたはずのドラゴンが低空を滑空して戻って来た。
その巨体が巻き起こす砂嵐で、彼らの弓矢はあらぬ方向へ飛ばされてしまい、魔王軍に届くことはなかった。
「馬車を前に出して!あたしがやるわ!」
エリアナは御者役の兵に命じ、馬車は行列から飛び出して魔王軍の真ん前に出た。
彼女は走る馬車の窓から身を乗り出し、広範囲火炎魔法を敵に向けて撃った。
これは昨日と同じパターンである。
エリアナは昨日、魔族の集団に向けて広範囲の火炎魔法<大爆炎弾>を連発し、魔族たちの勢いを削ぐことに成功したのだ。
彼女は同じように魔族の集団に向けて右に左に魔法を撃った。
無詠唱で強力な魔法を連発する彼女の前に敵は回避行動を取る暇すらなく、弾き飛ばされて行った。
馬車には魔力を供給できるホリーが同乗していて、エリアナは思い切り大魔法を撃ち続けることができた。
爆炎と共に魔族らは気持ちいい程に吹っ飛ばされていった。
その後を将や優星たちが縦横無尽に駆け、まだ向かってくる魔族たちを次々と倒していく。
他の騎士たちはその援護に回った。
こうして魔族との戦闘が開始された。
(いける!これなら敵の基地を落とすことができるわ!)
ホリーはその様子を見て確信した。
やはり、敵の司令官は不在のようだ。
これならば勇者候補たちの力だけで押し切れる。
「このまま敵基地まで進軍しましょう!」
そう声に出した次の瞬間、彼女の目を疑う事態が起こった。
エリアナが魔法を放った直後、その真上をドラゴンが通りすぎると、倒れていた魔族たちが一斉に起き上がってきたのだ。
「え…?」
ドラゴンが通り過ぎた戦場では、倒されたはずの魔族たちが次々と立ち上がってくる。
予想もしない展開に焦り、いつの間にか将たちは馬を失い、魔族に囲まれてしまっていた。
「なんだ、どうなってる?」
「くそっ、囲まれたよ!将、どうする?」
「こいつら倒しても倒しても起き上がってきやがる。ゾンビかよ!」
「えっ?ゾンビってマジ!?僕、ホラー苦手なんだけど!」
「バッカ、これは映画じゃねーんだ!くそっ、功を焦って前に出すぎた。このままだと孤立するぞ」
「後退して本隊と合流しようよ」
「俺が道を切り開く。優星は後ろから援護してくれ」
「わかった」
将と優星は騎士たちがいる戦線よりかなり突出していたため、戻って後方の軍に合流しようと考えた。
すると、2人を囲んでいた魔族たちは、スッと将たちに道を開けた。
「えっ?なんだ?」
「行けって言ってる?なんだかわかんないけど、チャンスだよ!行こう!」
なぜか魔族たちは、将たちに手出しせず道を譲った。
撤退しながら、優星はチラッと後ろを見た。
道を譲るくらいだから追いかけてこないのかと思っていたら、後ろから魔族たちが大挙して追っかけてきていた。
「うわぁぁぁ!来てる、来てるよぉ!」
優星は前を走る将を追い抜いて行った。
「お、おいっ!待てよ!置いてくな!」
将も負けずに全力で走った。
2人は抜きつ抜かれつ状態のまま全力で走り切り、なんとか後方の部隊と合流することができた。
その頃、エリアナは馬車を降りて、迫りくる魔族へ四方八方に魔法を撃ちこんでいた。
その間ホリーは馬車から降りず、外で戦っているエリアナと彼女を援護する騎士たちを回復していた。
ところが、倒しても倒しても、魔族たちは起き上がってくる。
「勇者候補、撤退しましょう。これではきりがありません」
護衛の騎士がエリアナに声を掛けた。
「何なのよ、もう!」
先程から何度も頭上を通過していくドラゴンを仰ぎ見て、エリアナは罵声を浴びせる。
「も~~!あのドラゴンが何かしたんだわ!」
「何かとは?」
「そんなのわかんないわよ!だってあのドラゴンが通るたびにあいつら立ち上がってくるんだもん!」
騎士に八つ当たりしながらエリアナは、上空のドラゴンを睨みつけた。
「ン…?ドラゴンの背に、誰か乗ってるわ」
「何ですって?」
彼女の指摘を受けて、ホリーも馬車の窓から顔を出し、ドラゴンを見た。
確認できたのは漆黒のマントに不気味な白い仮面を付けた人物だった。
「あれは…まさか、魔王…!?」
ホリーの顔がサッと青ざめた。
「間違いない。やっぱり魔王が復活したのだわ。マズイわ。ここにいたらあのドラゴンに殺される…!」
彼女はエリアナに声を掛けようと馬車から一歩降りた。
そこへ、傷ついた兵士が馬車の近くまで這いつくばってやって来た。
その兵士は兜を失い、血まみれの顔を剥き出しにして彼女の足にしがみついてきた。自分の白いマントに血の手形を見た彼女はパニックに陥った。
「ひっ!」
「か…かい…ふ…く…を…」
「は、離しなさい、この無礼者!」
ホリーはその兵士を足で蹴り払い、慌てて馬車に戻った。
「早く馬車を出して!基地へ戻るのよ!早く!」
「しかし、まだ勇者候補が…」
「いいから!これは命令よ!早く!」
御者席にいた兵士に無理矢理命じると、ホリーの乗る馬車は砦方面に猛スピードで撤退していった。
それに気づいたエリアナは呆然とした。
「え?ちょ、ちょっと、嘘でしょ?」
そして彼女はホリーに置き去りにされたことにやっと気が付いた。
「待ちなさいよ!あたしを置いて行くつもり!?」
エリアナは去って行く馬車に向かって叫んだ。
さすがに彼女の魔力も底をつきかけていた。
倒しても倒しても起き上がってくる魔族たちに、心も折れかけていた。
「こんなの無理、やってらんないわ!皆、撤退するわよ!」
このままでは魔力切れを起こしてしまうと思ったエリアナは、周囲の騎士たちに声をかけた。
ここで不思議なことが起こった。
騎士たちが撤退するために負傷した兵を担ぎ上げて馬に乗せている間、なぜか魔族たちは手を出さず、じっとしていたのだ。
まるで待っているかのように。
「…何?どういうこと?なんで襲って来ないの?」
「わかりませんが、とにかく今のうちに撤退しましょう」
魔族の行動を不審に思ったが、エリアナは同行した騎士の馬に乗せてもらって砦へと帰還していった。
魔族たちは撤退する彼女らを追いかけてくることもしなかった。
馬上から空を眺めていると、先程のドラゴンが戦場の上空を悠々と旋回しているのが見えた。
「あのドラゴンも変よね。ただ飛んでいるだけで、どうして攻撃してこないの…?」
同じ頃、後方にいた回復士たちは、ドラゴンに恐れをなして命令を待たずに既に撤退してしまっていた。
頼みの綱である回復士がいなくなっては、戦闘を継続することが困難と判断したイシュタルは、全軍に撤退命令を出した。
彼は味方をできるだけ戦場から離脱させようと
ところが魔族たちはなぜか追ってこようとはせず、基地へと撤退していった。
イシュタルは不思議に思っていた。
「なぜだ?奴らは勝っていたはずなのに、なぜ追ってこない?」
何かある。
そう考えていると、騎士団の一部隊が撤退して行く魔族を追撃していくのが見えた。明らかな命令違反だ。
「おまえたち、何をしている!命令が聞こえなかったのか!?撤退だ、戻れ!」
「連隊長、俺たちあの女に一泡吹かせてやりたいんスよ!」
「やられっぱなしじゃ帝国騎士の名が泣きますぜ!」
血気盛んな連中が部隊の規律を乱すことはたまにある。
イシュタルには連隊長として、彼らを止める義務がある。
「待て!引き返せ!」
イシュタルが彼らの後を追って行こうとした時だった。
彼の目の前に火の玉が着弾した。
「うわああ!」
その衝撃に馬が驚いて、イシュタルを振り落として逃げて行った。
地面に投げ出された彼が兜越しに見上げた空には、滑空するドラゴンの姿が映った。
ドラゴンは上空を飛びながら、追撃していた騎士たち目掛けて火球を吐き出した。
「そうか…あのドラゴンの攻撃に巻き込まれないように、魔族たちは撤退したのか…!」
それは想像を絶する恐ろしい光景だった。
空からドラゴンの吐く火の玉が雨のように降り注ぎ、騎士たちは怯える馬を制御するので精一杯で魔族を追うことが出来ず立ち往生してしまった。
彼らはパニック状態になり、我先に逃げようとぶつかり合い、次々と落馬した。
そもそも全員兜と防粉マスクをつけているので視界が悪いのだ。
鎧同士がぶつかり合い、将棋倒しになり、さながら修羅場のようだ。
地面に横たわったままのイシュタルも動くことが出来ず、逃げて来た味方の騎馬に顔面ごと容赦なく踏み潰された。
ドラゴンによる火球攻撃には勇者候補たちでさえなすすべもなく、後退することしかできなかった。
火球自体は小さく、それほど威力のあるものではなかったが、パニック状態になっている騎士たちに恐怖を与えるには十分だった。
指揮官を失った軍は瓦解し、騎士たちは這う這うの体で砦に逃げ帰って行った。
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