⑥
カレーコロッケが全て黄金色になると、鮎川先生は帰り支度を始めた。
僕は「一緒に食べませんか」と誘わない。
先生が飯を作りに来てくれた当初は、一緒に食卓を囲む事もあった。
だけど、叔父さんが先生に「なんでお前までウチの食いモン喰うんだよ」とケチな事を言い始め、「食費を浮かす事が目的なんだろ」と詰ったので、先生は一緒に飯を食わなくなったのだ。
それでも僕の為に心配して通ってくれたのだから、本当に良い人だ。
もしかすると、僕の為だけじゃなく、叔父さんの為でもあったのかもしれないな。
ますます良い人だ。
僕は出来たてのカレーコロッケを数個、アルミホイルに包んで先生に差し出した。
「今日は心配して来てくださってありがとうございました。助かりました。持っていってください」
「でも……」
チラッと茶の間の奥へ視線をやる先生。
叔父さんは、まだ部屋に籠もっている様子だ。
「本当はここで食べて行って欲しいんですけど……帰ってから飯炊いたり、大変でしょう? あ、米も持っていきます? なんならお握りにして……」
「ふふふ。雅弥さん、立派な主夫みたいね。ご飯まで申し訳ないわ。大丈夫よ。コロッケはパンとも相性がいいの」
「すみません……」
「いいのよ。また明日、学校でね」
先生はそう言ってから、思い出したように僕へ尋ねた。
「九条さんには……まだ声を掛ける余裕なかったわよね」
僕はハッとした。
そうだ。叔父さんの話のせいで、マリカの話を忘れていた。
アレを登校させるのは不可能だと、先生を説得しようとしていたのに。
本当に、邪魔なオッサンだ。
「それなんですけど……」
「なあに? もしかして、お話しできた?」
身を乗り出し気味に嬉しそうにする先生を見て、僕は黙ってしまう。
こんなに良くしてもらった後で、先生の希望を潰す事が出来なかった。
「いえ、はい……その……昨日家に行ってみたのですが、ちょっと話が出来る状態ではない人がインターホンに出て……」
先生は「ああ……」と残念そうに声を漏らした。
それから、
「お家へ行ったの」
と、小さく言った。
僕はその小さな声から、どこか責める様なニュアンスを感じ取った。それはもの凄く些細なニュアンスだったが、僕の胸の中を冷たくするのに充分だった。
マリカの家へ行く事は、いけない事だったのだろうか。
「家に行けば確実に誘えるかなと思って……」
「……九条さんのお母様よね」
僕の返事をスルーして、先生が独り言の様に呟く。
「あの館にマリカと母親以外の女性がいないなら、多分。母親と話が出来たら……」
先生が、僕を遮る様にゆっくりと首を横に振った。
「あのお母様は無理よ。九条さんを見えていないの」
「え」
「九条さんのお母様は村の外から来た人だから、この村で言う『幽霊』が見えないのよ」
そう言うと、先生は「ふぅ」とため息を吐いた。
僕はそのため息を前に、なんとなく居心地の悪さを感じた。しかも、先生はため息の後黙ってしまって、それが余計に僕を追い詰めた。
―――知らなかったなんてね。
―――母親へ相談くらい、教師の私が思いつかないとでも?
―――それが無理だから、あなたを頼ったんじゃない。
先生はそんな事を言っていない。
なのに、勝手に僕の頭の中で、先生の声がぐるぐると響き出してしまった。
幻の声に、僕は慌てた。
先生に幻滅されたくなかった。
それも、頼み事をされてからたった二日で。
もう「マリカに意欲がないから無理ですよ」などと、言える雰囲気ではなくなっていた。
「い、家を尋ねるのは諦めて、マリカを説得してみますから」
僕が努力する意志を見せると、先生は顔を上げ、微笑んだ。
先生は微笑むと、骨格のせいか歯が剥き出る。それを見て、僕はホッとする。
良かった。先生が微笑んでくれた。
「そうね、そうしてちょうだい」
「わかりました」
頷く僕の肩に、先生が骨張った手を置いた。
「……背が高くなったわねぇ。頼もしいわ。よろしくね」
成長に触れてくれた事が嬉しくて、僕は「はい!」と、頷いた。
土間玄関の外まで先生を見送り、細い背中が遠ざかるのを見守った。
僕はもう子供ではないのに、この見送りの時を寂しく感じてしまう。
幼い頃に「ちょっと留守番していてね」などと言って、買い出しや近所の用事で家を出て行く母を見送った時の、心許ない気持ちになるのだ。
毎回先生に母を重ねてしまう事を申し訳なく思いつつ、土間玄関の戸締まりをした。
「はぁ……どうしよう」
後に引けなくなってしまった。
ゲンナリしたものの、それ以上の気持ちが、僕の胸の中を重くしていた。
マリカが自分の姿を見れない母親と暮らしている、という話が、酷く残酷に思えたのだ。
マリカの館のインターホンから響いた金切り声を、思い出す。
―――マリカはいません、いません……
村の人達はマリカが幽霊として存在すると言う。しかし、母親はマリカの姿が見えない。
それでは神経が衰弱してしまっても、しょうがないかもしれない。
そんな事を考えて立ちつくしていると、茶の間から「腹が減ったぞ!」と、叔父さんが現れた。
「あ、ごめんなさい」
僕は急いで飯の準備の方へ、意識を向けた。
*
叔父さんは、カレーコロッケを見る前から、土間台所に漂うカレーの香りに激怒していた。
「夜はカレーじゃないって言っただろうが!」
僕は急いでカレーコロッケの盛られた皿を、ちゃぶ台へ持っていった。
先生から過去の話を聞いた後だったので、用心深く叔父さんの「良い子」だった部分を探そうとしたが……。
「カレーじゃないよ。カレーコロッケだよ」
「味がカレーだろ!? だったらカレーだろうが!!」
良い子など欠片も見つける事が出来そうにない。
カレーコロッケだと言っているだろうが。
僕はムカつきながらも、茶碗にご飯をよそった。
「余ってたから……」
「うるせええええっ! ふざけんな! 嘘つきだな! お前は嘘つきだ!!」
せっかく作った飯で、嘘つき呼ばわりされてキレそうだ。
だが僕は、キレそうなのに、微笑んでいる。
「作り置きのナムルもあるよ」
「ケッ! 嘘つきがよ!!」
叔父さんの喚き声が頭の中でワンワン響いたが、僕は薄笑いして黙々と先生の作ってくれたカレーコロッケを囓る。
味がしなかった。
それは、叔父さんに対する不愉快さのせいなのか、それとも今日一日でドッと押し寄せてきた「知らなかった」のせいなのか……きっと両方だろう。
散々文句を言ってスッキリしたのか、叔父さんはカレーコロッケをバクバク頬張り始めていた。
教室の隅で静かに本を読んでいる少年の面影を見つける事は、不可能だ。
高熱を出した時に死ねば良かったのに。ついついそんな事を思ってしまった。
僕は箸をそっとテーブルに置いた。
茶碗を片付け出した僕を見て、叔父さんが口の中のカレーコロッケを見せつけながら、
「もう喰わねえのか」
と、心底不思議そうに言った。カレーコロッケ、美味いみたいだ。
「……うん」
「お前本当に喰わねえよな。だからそんなヒョロヒョロなんだぞ!」
叔父さんは僕を馬鹿にして、僕の分のカレーコロッケに箸を伸ばす。
僕はその暴挙を好きにさせた。
折角先生が作ってくれたカレーコロッケなのに、今の僕の胃には重たい。
ゆっくり風呂に入って寝てしまおう。
マリカの事も、叔父さんの事も、来年の春までの我慢だ……。
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