カレーコロッケが全て黄金色になると、鮎川先生は帰り支度を始めた。

 僕は「一緒に食べませんか」と誘わない。

 先生が飯を作りに来てくれた当初は、一緒に食卓を囲む事もあった。

 だけど、叔父さんが先生に「なんでお前までウチの食いモン喰うんだよ」とケチな事を言い始め、「食費を浮かす事が目的なんだろ」と詰ったので、先生は一緒に飯を食わなくなったのだ。

 それでも僕の為に心配して通ってくれたのだから、本当に良い人だ。

 もしかすると、僕の為だけじゃなく、叔父さんの為でもあったのかもしれないな。

 ますます良い人だ。

 僕は出来たてのカレーコロッケを数個、アルミホイルに包んで先生に差し出した。

「今日は心配して来てくださってありがとうございました。助かりました。持っていってください」

「でも……」

 チラッと茶の間の奥へ視線をやる先生。

 叔父さんは、まだ部屋に籠もっている様子だ。

「本当はここで食べて行って欲しいんですけど……帰ってから飯炊いたり、大変でしょう? あ、米も持っていきます? なんならお握りにして……」

「ふふふ。雅弥さん、立派な主夫みたいね。ご飯まで申し訳ないわ。大丈夫よ。コロッケはパンとも相性がいいの」

「すみません……」

「いいのよ。また明日、学校でね」

 先生はそう言ってから、思い出したように僕へ尋ねた。

「九条さんには……まだ声を掛ける余裕なかったわよね」

 僕はハッとした。

 そうだ。叔父さんの話のせいで、マリカの話を忘れていた。

 アレを登校させるのは不可能だと、先生を説得しようとしていたのに。

 本当に、邪魔なオッサンだ。

「それなんですけど……」

「なあに? もしかして、お話しできた?」

 身を乗り出し気味に嬉しそうにする先生を見て、僕は黙ってしまう。

 こんなに良くしてもらった後で、先生の希望を潰す事が出来なかった。

「いえ、はい……その……昨日家に行ってみたのですが、ちょっと話が出来る状態ではない人がインターホンに出て……」

 先生は「ああ……」と残念そうに声を漏らした。

 それから、

「お家へ行ったの」

 と、小さく言った。

 僕はその小さな声から、どこか責める様なニュアンスを感じ取った。それはもの凄く些細なニュアンスだったが、僕の胸の中を冷たくするのに充分だった。

 マリカの家へ行く事は、いけない事だったのだろうか。

「家に行けば確実に誘えるかなと思って……」

「……九条さんのお母様よね」

 僕の返事をスルーして、先生が独り言の様に呟く。

「あの館にマリカと母親以外の女性がいないなら、多分。母親と話が出来たら……」

 先生が、僕を遮る様にゆっくりと首を横に振った。

「あのお母様は無理よ。九条さんを見えていないの」

「え」

「九条さんのお母様は村の外から来た人だから、この村で言う『幽霊』が見えないのよ」

 そう言うと、先生は「ふぅ」とため息を吐いた。

 僕はそのため息を前に、なんとなく居心地の悪さを感じた。しかも、先生はため息の後黙ってしまって、それが余計に僕を追い詰めた。

―――知らなかったなんてね。

―――母親へ相談くらい、教師の私が思いつかないとでも?

―――それが無理だから、あなたを頼ったんじゃない。

 先生はそんな事を言っていない。

 なのに、勝手に僕の頭の中で、先生の声がぐるぐると響き出してしまった。

 幻の声に、僕は慌てた。

 先生に幻滅されたくなかった。

 それも、頼み事をされてからたった二日で。

 もう「マリカに意欲がないから無理ですよ」などと、言える雰囲気ではなくなっていた。

「い、家を尋ねるのは諦めて、マリカを説得してみますから」

 僕が努力する意志を見せると、先生は顔を上げ、微笑んだ。

 先生は微笑むと、骨格のせいか歯が剥き出る。それを見て、僕はホッとする。

 良かった。先生が微笑んでくれた。

「そうね、そうしてちょうだい」

「わかりました」

 頷く僕の肩に、先生が骨張った手を置いた。

「……背が高くなったわねぇ。頼もしいわ。よろしくね」

 成長に触れてくれた事が嬉しくて、僕は「はい!」と、頷いた。


 土間玄関の外まで先生を見送り、細い背中が遠ざかるのを見守った。

 僕はもう子供ではないのに、この見送りの時を寂しく感じてしまう。

 幼い頃に「ちょっと留守番していてね」などと言って、買い出しや近所の用事で家を出て行く母を見送った時の、心許ない気持ちになるのだ。

 毎回先生に母を重ねてしまう事を申し訳なく思いつつ、土間玄関の戸締まりをした。

「はぁ……どうしよう」

 後に引けなくなってしまった。

 ゲンナリしたものの、それ以上の気持ちが、僕の胸の中を重くしていた。

 マリカが自分の姿を見れない母親と暮らしている、という話が、酷く残酷に思えたのだ。

 マリカの館のインターホンから響いた金切り声を、思い出す。

―――マリカはいません、いません……

 村の人達はマリカが幽霊として存在すると言う。しかし、母親はマリカの姿が見えない。

 それでは神経が衰弱してしまっても、しょうがないかもしれない。

 そんな事を考えて立ちつくしていると、茶の間から「腹が減ったぞ!」と、叔父さんが現れた。

「あ、ごめんなさい」

 僕は急いで飯の準備の方へ、意識を向けた。

 


 叔父さんは、カレーコロッケを見る前から、土間台所に漂うカレーの香りに激怒していた。

「夜はカレーじゃないって言っただろうが!」

 僕は急いでカレーコロッケの盛られた皿を、ちゃぶ台へ持っていった。

 先生から過去の話を聞いた後だったので、用心深く叔父さんの「良い子」だった部分を探そうとしたが……。

「カレーじゃないよ。カレーコロッケだよ」

「味がカレーだろ!? だったらカレーだろうが!!」

 良い子など欠片も見つける事が出来そうにない。

 カレーコロッケだと言っているだろうが。

 僕はムカつきながらも、茶碗にご飯をよそった。

「余ってたから……」

「うるせええええっ! ふざけんな! 嘘つきだな! お前は嘘つきだ!!」

 せっかく作った飯で、嘘つき呼ばわりされてキレそうだ。

 だが僕は、キレそうなのに、微笑んでいる。

「作り置きのナムルもあるよ」

「ケッ! 嘘つきがよ!!」

 叔父さんの喚き声が頭の中でワンワン響いたが、僕は薄笑いして黙々と先生の作ってくれたカレーコロッケを囓る。

 味がしなかった。

 それは、叔父さんに対する不愉快さのせいなのか、それとも今日一日でドッと押し寄せてきた「知らなかった」のせいなのか……きっと両方だろう。

 散々文句を言ってスッキリしたのか、叔父さんはカレーコロッケをバクバク頬張り始めていた。

 教室の隅で静かに本を読んでいる少年の面影を見つける事は、不可能だ。

 高熱を出した時に死ねば良かったのに。ついついそんな事を思ってしまった。

 僕は箸をそっとテーブルに置いた。

 茶碗を片付け出した僕を見て、叔父さんが口の中のカレーコロッケを見せつけながら、

「もう喰わねえのか」

 と、心底不思議そうに言った。カレーコロッケ、美味いみたいだ。

「……うん」

「お前本当に喰わねえよな。だからそんなヒョロヒョロなんだぞ!」

 叔父さんは僕を馬鹿にして、僕の分のカレーコロッケに箸を伸ばす。

 僕はその暴挙を好きにさせた。

 折角先生が作ってくれたカレーコロッケなのに、今の僕の胃には重たい。

 ゆっくり風呂に入って寝てしまおう。

 マリカの事も、叔父さんの事も、来年の春までの我慢だ……。

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