④
不安そうな顔で首を傾げたマリカの唇が動いた。
――『ダイジョウブ?』
彼女は音を聞き付けて戻ってきたようだ。
僕は軽く頷いて見せた。
マリカは店内に戻ってきて、僕が屈んで片付けをする傍にしゃがみ込んで言った。
「ケガしてない?」
「うん」
「ホント?」
見上げてくる顔は本当に心配してくれているみたいだったが、僕は顔を逸らして頷いた。
「ほっぺケガしてるじゃんか!」
すぐに頬の切り傷を見つけたマリカが、甲高い声を上げた。
「かすり傷だから……」
ケガをしている僕が悪いみたいな声を出す。女ってどうしてこういう責める様な心配の仕方をするんだろう。耳の中がキンキンする。
「マリカじゃないか。ガラスに触るんじゃないぞ」
酒井さんが紙袋を持って来た。
マリカの気が酒井さんに逸れたので、ホッとする。
彼女は酒井さんの注意に、「はーい」と、返事をして弾む様に立ち上がった。制服の短いスカートがヒラリと揺れたので、僕は箒を動かす事に集中した。
酒井さん、さっきまでマリカが店内にいた事に気づいていない様子だった。
「ファッション誌、入荷したぞ」
「あんがとー! もう見たよ!」
「なんだ、もう立ち読みしたのか?」
「うん!」
他の人が立ち読みをすると怒る酒井さんだが、マリカだけは許しているみたいだった。
マリカが幽霊だからだろう。
「持っていってもいいぞ」
「ホント? ありがとー!」
なんて会話までしている。
みんなマリカを甘やかし過ぎだと思う。
掃除が終わると、僕は叔父さんに頼まれたビールの冷蔵棚へ向かった。
中の冷気が逃げないように、サッと叔父さんの好んでいる銘柄を手に取る。その横から、マリカの白い手がニュッと伸びてきた。
「私も!」
「奢らんぞ」
「ケチ!」
そこで僕はピンと思いついた。
「奢ったら学校行くか?」
途端、ポイッと白い手がビール缶を手放す。
「ビール一本じゃあね~」
「十分だろ……そもそも高校生がビールを飲むな」
「高校生だけど二十歳超えてるもん!」
「大分な!」
マリカは今年で二十八歳だ。
しかし、精神的にも肉体的にも十八歳のままだ。幽霊はそういうモノらしい。
子供の頃はマリカの事が随分大人に見えていたが、今では僕の方が背が高いし、言動から少し子供っぽさを感じる時もあった。
マリカを追い払いながら、レジでビールと煙草の精算をした(村の下ではやたら厳しいらしいけど、酒井さんの店は昔ながらで未成年の買い物に厳しくない)。
チョロチョロ後をついて来たマリカは、僕の買い物品目を見て笑った。
「不良じゃーん」
「キヨさんのだよ」
「パシリじゃーん」
「コノ……ッ!」
「ほらほら、ケンカするなよ。雅弥、危ない目に合わせてごめんなぁ」
酒井さんは申し訳なさそうにして、レジ横の保温ケースで暖まっている唐揚げ数個を包んで渡してくれた。
あれほど食欲がなかったのに、なんだか腹が減ってきていたので、ありがたく受け取った。
コンビニで随分足止めを食ってしまった。
新学期になったばかりで学校は時短授業だから、もう下校時刻だろう。
これから学校へ行くかどうしようか迷っていると、遅れてコンビニを出て来たマリカが僕の肩をチョンチョンと突いた。
「……なに」
「これあげる」
マリカはそう言って、新品の絆創膏の箱を、僕の顔の前へ突き出した。
その絆創膏は女児が喜びそうな、花柄のピンク色だった。
コンビニで買ってきてくれたみたいだが、ベーシックなデザインの物もあったハズだ。僕にはその可愛らしい絆創膏を、頬に貼る勇気がない。
マリカは、僕が絆創膏をありがたく受け取ると思っていたのだろうか、怪訝な顔をして見上げてくる。
「可愛いケド、これは『絆創膏』っていうケガに貼るヤツだよ?」
絆創膏を見た事がない奴扱いされてしまった。
「し、知ってる」
「なら貼りなさいよ。ばい菌が入ったら大変だよ。顔が腐ったらブチャイクになっちゃうんだから」
マリカはそう言いながら、箱を開けて絆創膏を取り出した。やっぱり花柄ピンクの軽薄そうな絆創膏が箱から出てくる。
「いらん、大丈夫だって」
「だめ!」
マリカは問答無用で、素早く絆創膏を僕の頬へ貼り付けた。
ぺったん! という擬音がピッタリくる雑で勢いの良い貼り方に、僕の傷が刺激を受けて余計に痛んだ。
「や、やめろ!」
慌てて絆創膏を剥がしかけた時、マリカが俯いてポツンと言った。
「ごめんね」
僕は絆創膏を剥がすのを止めて、俯くマリカをまじまじと見た。
こんなしおらしいマリカを見るのは初めてだった。
「……どうしてマリカが謝る?」
「だって私を追いかけて来た所に落ちたでしょ?」
「そんなのマリカのせいじゃない」
言いながら、剥がしかけた絆創膏をそっと指で押さえた。
「……」
マリカは黙って、子供みたいに首を振る。
「手抜き工事だったんだろ、業者め、田舎だからって馬鹿にして」
「……違うもん」
なんだこのマリカは。
僕は初めて見せるマリカの様子に、完全に狼狽えてしまった。
まさか泣き出したりしないよな?
どうしたらいいか分からない。
あー、とか、うー、とか声を上げていると、手の中にある唐揚げの包みがクシャリと音を立てた。無意識に手の中で少し潰してしまったみたいだった。
僕は、咄嗟に唐揚げをマリカへ差し出した。
「あ、あ、唐揚げ食う?」
マリカは顔をパアッと明るくさせて、涎を垂らした。
「くう!」
なんだ、マリカじゃないか。
もしかして、唐揚げが狙いだったか……!?
僕は包みの中から素早く二個だけ食って、残りを包みごと渡してやった。
「わーい!」
マリカは唐揚げをパクパク食べた。
僕はホッとした気持ちで、それを眺めた。
なんとなく傍で見ていなければいけない気がした。
しかし、さっきのしおらしさはどこへ行ったんだ?
「うめぇ~ッ!」
唐揚げを食べ終えたマリカはそう咆えて、油で艶めく唇をペロリと舐める。
「そうかそうか……あ、お礼に学校へ行かない……か?」
「ない、ない!!」
マリカはそう言って、絆創膏を貼った僕の頬をツンと強めに突くと、
「じゃーねー!」
と、集落へ続く道へとスタスタ歩き出し、途中でクルッと振り向いて言った。
「もう着いてくんなよ!」
「でも……学校に……」
と、尚も食い下がろうとした僕へ、マリカが言った。
「君付けして呼ぶぞ!」
「……なっ」
僕は驚愕して足を止める。
それは、早乙女家に対して絶対にしてはいけない脅しだった。
そう、僕たちN村の人々は、風習やしきたりで脅し合う事が出来てしまう。
でもそれは、絶対にしてはいけない事なのだ。
子供同士のおふざけでも絶対に駄目だ。
そうした者は、寺で厳しい仕置きが待っている。
仕置き内容は、毎年正月に回覧される寺からの新年挨拶に、絵付きで明記されていた。濡れたズタ袋をかぶせられ、水攻めと共に百叩きの後――とかそんなカンジだ。それから、おそらく村八分が待っている。
と、言っても、村の人達は自分の家の風習やしきたりをとても大切にしているので、余所の家の風習やしきたりも同じ様に大切にする。
子供も自然とそれに習うから、どこそこの誰が仕置きを受けた、などといった話を聞いた事がなかった。
もしも今後慣行されるとすれば、仕置きを受けるのは叔父さんじゃないかと僕は踏んでいた。――環とヒカル叔母さんが村で暮らし始めたから、村八分は避けたいところだが。
叔父さんの事はさておき、僕は門守さんに奇妙な話を聞いた後だったので、仕置きや村八分を避けたいとかいう以前に、もっと重大な事だという事が分かっていた。
――脅すだけではなく、恐らく、確実に害する事も出来る。
なんて事を。なんて奴だ。
マリカは固まった僕を見て、一瞬だけ顔を歪めた。
意図せず小鳥の雛を踏んでしまった様な、罪悪感が広がっていた。
しかし、「それでいい」とでも言う様に、前を向いて早足に行ってしまった。
*
クソッ!
唐揚げを分けてやるんじゃなかった!
やっぱりマリカは悪霊だ!
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