1週間、インドで

@nekomatake

第1話

一九九四年、夏。

インドへ行きたい!どうしても行きたい!

居ても立っても居られない二十四歳の私は、一週間の休暇を取ってインドへの旅に出た。

初の海外旅行、予定は未定、行き当たりばったりの旅だった。片道十二時間、六千キロの彼方まで行って、たった一週間で、何が出来るのか?

これは、インドに翻弄され、笑って、怒って、泣いて、感じた、二十四歳の私の旅の記録である。




八月二十四日・一日目

    ニュー・デリー~ 


インディラ・ガンジー空港に着いた。飛行機を降りて人の流れる方向へ進む。その先にはイミグレーションがあるのだ。ついに着いた!バンコクで客を降ろすために一時間留まるのを含めて成田から十一時間近く乗っていたことになる。思っていたほど暑くはない。東京と変わらなかった。


 イミグレーションに着いて、外国人用、と書かれた列に並んだ。私の列は前の方で何やら揉めていてなかなか進まなかった。他の列はどんどん短くなっていく。列を移る人も出てきたが、ここまで来たら焦ることもない、とそのままでいると、二本向こうの係官に、こっちへ来い、と手招きされた。


 パスポートと、機内で記入した入国カードを渡す。係官はタイプをパチパチ打ったり、パスポートの写真と私の顔を見比べたりしていたが、何も聞かずに、行ってよい、と言った。次に手荷物のX線検査をして入国の手続きは終わった。

 

 ついに来た!インドなのだ! ひどく興奮していた。そして同時に、不安だった。帰りの航空券を持っているだけで、宿は決まっていないのだ。

 手元の時計では〇時三十五分、三時間半時差があるのでインド時間で今は二十一時五分、空港の時計で確認して針を戻した。


 さて、これからどうしたらいいのか?持ってきたガイドブック「地球の歩き方」をめくってみる。空港に夜着いたらどうするか、という項目がある。まず両替だ。銀行の列に付こうとすると、インド人の男が寄って来た。何を言っているのだ、、、タクシー?二百ルピー?腕を引っ張ってカウンターの受付まで連れて行こうとする。

 

 まだ両替していないんだよと心の中で叫び、「ノオー、ノオー」と口に出して言った。列は一向に短くならない。誰かが、空港内にもう一つ銀行があると言った。本当かよ、と思っていると、白人女性が両替を済ませて戻って来た。大丈夫なのか、、、と列を離れてそこへ向かった。


 窓口には二人の男がいた。両替したいんですけど、と言うと、いくらだ?と聞かれる。いくらだろう?いくらで何日暮らせるのかさっぱり分からない。ガイドブックによれば、一日二千円もあれば十分らしい。二年ほど前の本だが、そうは変わっていないだろう。とりあえず六十ドル替えることにした。


 男は電卓を叩いた。一八七一 六十ドルが千八百七十一ルピーになった。一ドルが三十一ルピー二十パイサ、一ドル百円とすると、一ルピーは約三・二円ということになる。両替えが済んで、いよいよ宿を探さなければならない。「Tourist Information」と書かれたカウンターに行けば、安宿から高級ホテルまで予約出来るらしい。カウンターはあるが、看板が無い。手近な所に寄って行って、宿を取りたいんですけど、と言うと、受付の男はリストを出してきた。


どれくらいの宿だ?千ルピー位か?

いえ、あの、、、百ルピー位のは無いですか?

無いよっ!最低で六百だね。

六百ルピー、、、千八百円か、、、安くないなあ、、、。もちろん他にも宿を探す方法はあった。安宿の集中するメイン・バザールという所へ行って、当たればいいのだ。


 しかし初めてのインドで夜も遅い。カタコトの英語は話せても、相手の言っていることがろくに聞き取れないことは今既に体験してしまった。ガイドブック一冊と、機内で隣のインド人にもらったデリーの地図が一枚あるだけだ。インドの夜は安全なのか?宿がふさがっていたら?見知らぬ土地を夜うろうろするのは得策とは思えない、、、。


 六百ルピーの宿を手配してもらい、タクシーで行くことにした。案内の男に付いて車に向かう。その男がドライバーだと思っていたが、タクシーには運転手が既に席にいた。乗り込んで座っていると、男は、チップをくれ、と言った。え?という顔(をしたと思う)で見ると、今度は、チップ!とだけ言った。

 

 怖い。暗がりのタクシーという密室にインド人二人に囲まれているのだ。いくら払えばいいのか分からず財布をゴソゴソやっていると、十ルピー!と言った。言われるままに払うと、男は今来た道を引き返して行った。


 タクシーが走り出して窓から初めてのインドを眺めた。ひどく暗い道端には、人がたむろしていたり、寝ていたりする。そして初めての、インドの牛を見た。

 暗い道を走りながら、運転手は無言であった。そして私もまた無言であった。荒っぽい運転だった。前の車に追い付くと、それでもさらにジリジリと寄っていく。すると前の車の運転手が車を左に寄せ、窓から右手を出して追い越せ、という合図をする。その僅かな隙間をぬって車は進んだ。


 宿に着いた。運転手が宿の男に何か言う。男も運転手に何か言う。ヒンズー語だ。分からない。しばらくごにょごにょ話していたが、男はチェックインするための宿帳を出して来た。名前、日本の住所、パスポートナンバーなどを書き込む。


 チェックアウトは何時ですか? 男の指さした壁を見ると、「NOON」と書いたプレートがあった。十二時?と聞くと、そうだと言う。宿代は前払いだと言うので払おうとすると、六百六十ルピーだと言う。空港で六百って聞いたけどな、、、と思いつつ黙って払った。後から考えると、これは十%の税金で、別に不当なものではなかったのだ。


 部屋へ案内された。ダブルベッド、タンスが置いてあり、壁には山の絵が額に入って掛けられている。エアコン付き。スイッチの使い方、テレビの映りなどを示してボーイは出て行った。しっかりカギを掛けて、ベッドに座った。何はともあれ、今日はここで寝られる。ようやく一段落した。


 タバコを吸いながら、テレビを付けてみた。映るチャンネルは六つ。インドのテレビシリーズKARTAVYA、ニュース、ドキュメント、ドイツ映画、英語MTV、Star TVという局。しばらく押ボタン式のチャンネルをいじって替わるがわる見ていたが、一番写りのまともなKARTAVYAというインドのドラマを眺めた。


 村でトラが暴れ出し、人々が逃げまどっている。一人の少女がトラに襲われた。緊迫した音楽の流れる中、男が助けに来てトラと格闘を始めた。どうやって訓練したのだ?本気で噛んでいるとしか思えないトラと、本気で焦っているような男、、、。先が気になるが、明日からの予定を立てなくてはと思いテレビを消した。


 ベッドに寝転がり地図を広げてみる。ここはどこだ?空港でむこうの地図で示してもらったが、自分の地図にはマークし忘れた。明日聞くことにしよう。ガイドブックを開いて、デリーのページを見てみる。予備知識はあまり入れたくなかったので、眺める程度でろくに読んでこなかった。


インド門、ラージ・ガート、ガンジー記念博物館、、、見る所は結構あるらしい。安宿、レストラン、安く買える店、リクシャーの利用法、、、有用な情報は詰まっているが、すべてを頭に入れることは出来ないし、マニュアル化してしまうのもつまらない。面倒くさくなって、読むのをやめた。


 風呂に入ることにした.浴槽の無いユニットバスで、湯は期待しなかったが、やはり出なかった。どこかスイッチがあるのかもしれないが、使い方も聞いていなかったので、生ぬるい水を浴びた。


 のどが渇いたが、生水は危なくて飲めない。初日から下痢をするのはごめんだ。ジュースか何か買っとくんだったと思いながら、疲労回復の気休めにビタミン剤をつばで流し込んだ。部屋の写真と、黄色い頭のゴキブリが現れたので撮る。


 トイレを使った。便器に腰を下ろすと、足元の壁に蛇口が付いていて、その下に小さな水くみの容器が置いてある。これに水を汲んで、左手で尻を拭くのか、、、。やってみたが、濡れた尻にパンツを履くと、乾くまで落ち着かなかった。


 何もかも明日考えることにして、寝ることにする。寝冷えを警戒して、ゴーゴーとすごい音のするクーラーも、天井で回っている大きな三枚羽根のファンも止めて、少し暑かったが薄いフトンにくるまった。

 

           ~ 続く~

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