三題噺「曇天」「空気」「体温計」
白長依留
「曇天」「空気」「体温計」
ピピピッピピピッ……と音が鳴る。
朝起きて日課になっている体温測定。左脇にさした体温計を抜き取ると、そこには「32.9℃」の文字が浮かび上がっていた。
「あーやっべ、今日はやばそうな体調だな」
普通と言える平熱よりはるかに低い体温。だからといって、手足が冷たいとかいうわけじゃない。むしろ今にも泣き出しそうな空模様の外の方が肌寒く感じそうだった。
ベッドに胡座をかいた体勢で窓を開ける。曇天模様から想像通りの冷たい風が吹き込み、体の体温を奪っていく。むしろ、このままもっと体温を奪っていって、動けなくなるようになりたいと思った。
目覚まし時計のスヌーズ機能が働き、容赦なく僕の頭の中をかき回す。かき回された頭の中が、体にこぼれ落ちるような感覚。二度寝するには眼が覚めすぎてしまった。
正直、今日の体調で学校には行きたくない。それどころか外にすら行きたくない。そう思った所で、部屋の片隅で影が蠢き始めるのを見つけ、急いで学校へいく準備を始めた。
逃げ道がある外と、逃げ道のない自室。どちらを選ぶのが正解か、考えるまでもなかった。
両親はすでに他界している。父親も母親も、中学生の時になくなってしまった。幸い、遺産を残してくれていたので一人暮らしで高校へ通うことは出来ている。それでも、後見人は必要で、叔母さんが一つの条件と引き換えに後見人になってくれた。
その条件は普通に考えれば両親の遺産と言われると思ったのだ違った。毎日、手渡された体温計で体温を測ること。体温計の指示する温度が30℃を切ったら、必ず叔母さんに連絡するということだった。
幸いなのか、いままで30℃を下回ったことはない。むしろ、30℃を下回ったら、すでにこの世のいないだろう。馬鹿な事だと思いつつ、律儀に体温を測り続けている。
だが、体温が30℃に近付けば近付くほど、不思議な現象が起こるようになっていった。
学校に到着し、こっそりと体温計でもう一度体温を測る。
――31.5℃。
体に異常はない。むしろ以上があるとすれば、7月の曇天模様で蒸し暑いどころか肌寒い気温だ。クラスの連中は以上だと言ってはいるが、とても過ごしやすい機構だと喜んでいた。
校庭の木の陰から……電柱の陰から……民家の陰から……。じわりじわりと、見えてはいけないものが見え始める。
「どうしたコースケ? さっきから外をぼーっとみてさ」
クラスメイトが話しかけてくるが、正直に今見ている事を話すわけにはいかない。間違いなく頭がおかしい人間だと思われる。それくらい考えられるくらい、僕は正常だ。異常なのは陰で蠢くアレらだ。
体温計を渡してきたのは叔母さんだ。全く何も知らないはずがないはずなんだ。それなのに、体温が30℃を下回らないと、何があってもすぐに電話を切られてしまう。
今まで、体温が下がって見えてはいけないだろうモノが見えても、害はなかった。ただ、陰の中から僕の様子を見ているような不思議な感覚がしていただけだった。
でも今日は違う気がした。教室の窓からでも感じる視線。全ての陰が僕を見ている用だった。
ぶるり……と背筋が震える。僕は授業中でも、教師に注意されながらも、何度も何度も体温計で体温を測り続けた。
放課後になったころには、クラスメイトが不気味なモノを見る目で僕を見ていた。そりゃそうだろう、何度も何度も病的に体温計を使う男なんて、頭がおかしく映るのが普通だろう。
けれど、そんな周囲の視線が気にならないくらいに僕の右手の平は脂汗で滲んでいた。右手で握りしめた体温計が指し示す体温は「29.8℃」。
本当のこんな体温だったら死んでいるのが当たり前だ。なのに僕は生きている。そのかわり、窓の外から突き刺さるような視線を、強く感じるようになった。
「おい、コースケ。先生が教員室にこいってよ。今日のおかしな行動に関してだろうな」
それだけ言って、これ以上は関わり合いになりたくないとばかりに、足早に教室をでていくクラスメイト。他のクラスメイトも殆どが教室を出た後だった。
教員室に向かう途中、叔母さんに電話をかける。1コール、2コール、3コール……たった数秒がとても長く感じられた時、叔母さんが電話にでた。
『コースケかい。どうしたんだい。私は忙しいから手短に言いな』
「あの、その。体温が30℃下回って。そとの陰がおかしくて。僕、みられてて。訳分からなくて叔母さんに……」
『まともに用件も言えないんかい。忙しいっていったろ、切るよ』
「ま、まって!」
ツーツーツーと、無情な音を響かせて電話は沈黙した。なにが30℃切ったら連絡しろだよと思いつつも、何度も掛け直すが一向に叔母さんが出ることは無かった。
教員室ではクラスメイトの言うとおり、担任が体温計の件について注意をしているようだった。起こっているのは分かる、体温計の単語は聞き取れた。でも、それ以外は何も頭に入ってこなかった。机の陰から、椅子の陰から、あらゆる陰から視線を感じる。
どこにも居たくない、居られない。
見えない視線に晒されながらも、怯えるように帰途につく。
時刻は6時前。なのに、もう黄昏時のようにくらくなり始める――7月なのに。
陰がまるで包み込んでくるような錯覚を覚える。日差しに逆らう様に陰が曲がり、まるで檻のように包み込んでくる。
――ギョロッ。
まるでそんな音がしたように聞こえる。陰がまるで生きているようにナニカの形をとっていく。
「ヒッ!」
あまりの恐怖に喉が絞られ、肺からの空気が無様な音を奏でた。陰から生まれたナニカの目玉が僕を上から見つめる。僕は、あまりの恐怖に腰を抜かして動く事が出来ない。ずりずりと後ろに下がることだけが出来るだけだった。
いつもは陰から違和感は感じても、こんな事は無かったのだ。それがいったいどうしてこんなことに。
混乱する頭で考えだけが巡り、体はじりじりと下がるだけだった。
「なにしてるんだい。逃げるくらいしなさいな」
聞き覚えるのある声と共に、頭を強く殴られる。僕は「叔母さん!」と声を上げそうになり、口を閉じられなくなった。
「なんだい? さっさと掃除して帰るよ」
白いフリフリ。いわゆるゴシックロリータという出で立ちで叔母さんが立っていた。以前に見た叔母さん然とした風貌はなりを潜め、まるで10代前半の若々しさで、凜々しくたつ叔母さん口調の少女。
肩にテレビでよく見える魔法のステッキを乗せ、若干の柄の悪さを見せる。
「まったく。両親と同じで、あんたも魔法少女に覚醒しちまったかい。めんどくさいったらありゃしない。ま、とりあえず掃除が最初だね」
肩に当てていたステッキを振り回す叔母さん口調の少女。その姿を見てまるで嫌がるように蠢く陰。
「こんな雑魚におじけづいてるんじゃないよ……ほら!」
バトンのようにステッキを回転させると、キラキラと光が周囲に降り注ぐ。夜空に散らばった星が落ちてきたかのような錯覚を受けると、いつの間にか薄暗かった世界は明るく光を湛えていた。
「ほら、いくよ。今日からあんたも魔法少女だよ」
何を言っているのか分からないが、見た目からは想像できない力で腕を掴まれ引っ張られる。
「き、君はだれなのさ。助けてくれたみたいだけど……」
「あん? まだ寝ぼけてんのかい。それとも見た目で人を判断するような人間に育っちまったのか? あんたの叔母さんだよ」
いやいやいやいや。おかしいでしょ、全てがおかしいでしょ。
自称叔母さんの少女は、面倒くさそうな顔をすると「死にたくなければ、さっさと魔法少女としての力に慣れな」となんてことないように言ってくる。
え? え?
浅田光輔16歳。魔法少女としてデビューしました。師匠は叔母さんです。数年後、街の平和を守るために、一人の白い少女が街を飛び回っていた。
三題噺「曇天」「空気」「体温計」 白長依留 @debalgal
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