第9話 司馬冬妃
「おはよう。いい天気ね」
まだ蕾にもなっていない椿の枝に手を添えていた司馬冬妃は紫苑に気がつくと愛でるのをやめて、
「司馬冬妃、顔をあげよ」
天凱が不遜な態度で命じる。
おずおずと顔を持ち上げた司馬冬妃は落ち着いた眼差しで天凱の言葉の先を待つ。
「こんな早朝に紫苑になんの用だ? お前達には殿舎から出るなと命じていたはずだが。答えろ」
「崔皇后陛下とのお茶会が楽しみで、居ても立ってもいられなくて」
「それで
「はい。そうです。花が好きなので、崔皇后様がお越しになるまで待とうと思いました」
にっこりと笑う司馬冬妃に対して、天凱は不服そうな顔を浮かべ、紫苑の腰に手を回して引き寄せた。
「お前が来たせいで紫苑との時間がとれなかった」
「まあ、天凱様。子どものようなことを言わないでください」
厚い胸元に頬を寄せた紫苑は袖で口元を隠してくすくす笑う。いじけた子どもが可愛いという風に。
(……恥ずかしすぎる!!)
他人の目がある場所では仲睦まじい姿を見せると決めていたが、いざ実行すると恥ずかしくて仕方ない。袖を持ち上げた、赤くなった顔を全て覆い隠す。
(英峰、後で覚えているよ)
天凱の斜め後ろに控える英峰からは紫苑の真っ赤な顔は丸見えのようで、にやにやといやらしく笑われた。後で躾てやる、と紫苑は心に誓った。
「ほら、司馬冬妃をいじめるのはやめてください」
怒っていると表現するため、空いた手で天凱の胸板を軽く叩く。遠くで様子を見守っていた侍女や宦官達が息を止める気配がした。
「天凱様はどうせ夜もお越しになるのでしょう? 早くお仕事にでも行ってくださいませ」
次に背中を押す。紫苑も長身だが、天凱の方が背は高い。その分、体重もあり、体幹がしっかりしているため、紫苑が押しても微動だにしない。
「ほら、私は早く司馬冬妃とお話したいの」
「予がいるのに?」
「だって、あなたとはいつでも話せるじゃない」
「……」
「そんなお顔しても無駄よ。それなら一刻でも早く、お仕事を終わらせてきてくださいな」
「予も同席しては駄目か?」
は? と紫苑は素で声をだす。先程の話し合いでは周囲に見せつけるために少しだけふざけて、すぐに政務に戻るはずだったのに、なぜ居残ろうとするのだろうか。
(これも演技だ。騙されるな)
例え天凱が捨てられた子犬のような目で見てきても、感化されてはいけない、と紫苑は自分に言い聞かせた。身近な異性が英峰という奇想天外なわがまま男だったので、こういう純粋な甘えに弱く、しばらく黙っていたら英峰の方からくふくふとおかしな音が聞こえた。
ちらり、と横目で見てみれば布を巻きかさ増しした腹を抱えて、背を丸め、全身を震えさせた英峰の姿が入り込む。あのおかしな音は吹き出すのを堪えているかららしい。
「ふっ、……くくっ、慶王様は、崔皇后様を、ふふっ、お慕いしていますからね」
笑いを堪えきれていない上擦った声が癇に障る。精一杯の抗議の証に睨みつけた。声を荒げて叱りつけるのは「優しくて温和な崔皇后」として避けなければ。
「なにを当たり前なことを。くだらない政務に没頭するより、
「だからといってお仕事を
「政務はあそこにいる
口角を持ち上げた天凱が意味ありげな視線を英峰へ向けると、英峰は腹を抱えた体勢のまま笑うのをやめた。
そのぽかんとした顔が面白くて、紫苑はにっこりと心の奥底から笑う。
「あら、
「はい、なんでしょうか」
「お茶会に天凱様もご一緒してもいいかしら? 暇になったらしいの」
司馬冬妃は少し困ったように眉を寄せたが「ええ」と頷く。側室が慶王を
「もちろんです」
「あなたならそう言ってくれると思っていたわ」
紫苑が満足げに笑うと、天凱を見上げた。
「いいですか? これは私と司馬冬妃が仲良くなるためのお茶会です。邪魔をしたら追い出しますよ」
「もちろんさ。邪魔は決してしないと誓う」
「じゃあ、場所を移動しましょうか」
天凱と司馬冬妃を引き連れて、紫苑は歩き出した。背後では、英峰が紫苑を目で殺す勢いで睨みつけているのに気がつかないふりをした。
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