第2話 紫苑と季妃


 楚々そそとした足取りで一人の女が歩いていた。

 まるで仙人が自ら手がけた画から飛び出たような美貌には、その名の通り花のような微笑みが浮かんでいるが——。


(ふざけるなよ。あいつ、マジで。絶対にここを出たら死なない程度に痛めつけてやるからな)


 心の中は罵詈雑言で埋め尽くされていた。

 それも耳を塞ぎたくなるよう単語ばかりだ。耳にした人間は一人残らず、女——紫苑の怒りを察するだろう。

 それでも紫苑が怒りを一寸たりとも顔には出さないため、誰もその心を知ることはない。滲み出そうな怒りを抑え込み、名家の姫として凛とした態度を保てるのは、こうなったのお陰でもあった。幼い頃から理不尽に付き合わされること数知れず、元凶の気まぐれに振り回され、周りからちくちくと嫌味を言われ続けた結果、鋼のような精神力を身につけることができた。

 喜べばいいのかは微妙なところだが、今、この状況であっても発狂しないでいいのは利点だといえる。


(自分は安全地帯で、また私だけを利用する気だな)


 場所は後宮、鳳凰ほうおう殿。歴代の皇后が住まうこの殿舎は贅沢にも幾多の金で彩られていた。色鮮やかな朱塗りの壁や柱と相まって、その様相は目が眩むほど。

 その輝きをさらに引き立てるのは紫苑の行くすえを見守る三人の佳人である。各々、位を表す色の衣裳を身に纏い、宝玉で着飾った姿はこの鳳凰殿にも負けない輝きを放っている。静かに伏せられた面は見えないが、いずれも名花であることは分かりきっていた。

 紫苑は負けじと胸を張って歩く。彼女達が類を見ない名花であっても、これから紫苑がとなるのだから舐められないように毅然きぜんとした態度を心がけた。

 四人の前を通り過ぎ、奥に設置された豪奢な長椅子に腰掛ける。乱れたすそをさり気なく整えると眼下で揖礼ゆうれいを捧げたままの佳人等を睥睨へいげいする。階級が上の者の許可がなければ顔を上げることも、発言も許されないなんて不自由だなと思いながら、普段は塗らない紅で彩られた唇を開いた。


「顔をあげなさい」


 その声に佳人等はそっと面を持ち上げた。

 予想通り、否それ以上の名花揃いであることに衝撃を受けつつも紫苑は笑みをくのを忘れない。


「本日より、後宮の統治を任されることになった崔紫苑と申します。まだ未熟者ゆえ、あなた達に負担をかけることも多いかと思いますが、なにとぞよろしくお願いしますね」


 事前の調査で紫苑の生家の方が家柄は高いことは確認済みだが、威圧的をとればこの後の調査に差し支えるだろう。

 けれど、普段通りの口調では舐められてしまう。

 なので、できる限り丁寧に、けれど凛とした態度で臨む。


「ご丁寧なお心遣いに感謝いたしますわ、崔皇后陛下。あなた様が訪れるこの日をわたくし共は心よりお待ちしておりました。こちらこそよろしくお願いいたします」


 猛々しい炎を連想させる真っ赤な襦裙に身を包んだ少女が、その衣裳に負けない赤い唇を持ち上げた。衣裳の色から彼女は夏扇かせん宮の統治を任された夏妃かひ——よう珠珠であることは分かっている。

 皇后として後宮を統治する際、最も警戒すべき人物だ。

 妃位くらいは同じでも生家の力がものをいうこの箱庭では、最年少である葉夏妃が実権を握っていると聞いている。その証拠に、残ったニ人は何も言わず葉夏妃に従うように一斉に頭を下げた。


「顔をあげて」


 紫苑は困ったように小首を傾げた。猫撫で声を使っているという現実に悪寒を覚えながらも「私は」と続ける。


「皇后という立場であれど、新参者ですもの。あなた達とは姉妹のように仲良くしたいわ」


 ぞぞぞ、と背筋が寒くなる。

 仕方ないと分かっていても、こんな言動とりたくはない。


「それは嬉しゅうございます」

「あなたは葉夏妃ね? からお話は聞いているわ」


 皇后せいさいの立場であっても大衆の面前で天凱の名を呼ぶことは許されていない。それをあえて紫苑が口にしたのは自分の立場を季妃きひに知らしめるためだ。


 ——私はあなた達と違って、慶王に望まれて、ここにいるのよ?


 天凱の寵を得られない彼女達と違って、紫苑は天凱に望まれて後宮ここにいるのだ、と言外に伝える。

 更に紫苑の後ろには繋ぎで理不尽と名高い慶王もついてくるとなれば、彼女達は迂闊うかつな行動はできない。

 英峰が考えた作戦は四方から顰蹙ひんしゅくを買いそうな行為だと思うが、これも犯人を炙り出すためだ。紫苑は我慢して、演じる。


「まあ、なんてお話されたのかしら……」


 葉夏妃は頬に手を添えて顔を俯かせる。


「まだ年若いのに後宮を取り仕切っている、頼りになる人だと。実際にお会いすると天凱様が言っていたとおりだと思ったわ。私は先程言った通り、未熟者だから後宮のこと教えてくださいね」

「もちろんでございます。わたくしでよろしければ」


 紫苑は次に、葉夏妃の隣に佇む女性を見た。黒色の衣裳に身を包む、落ち着いた雰囲気を纏う女性は紫苑の視線を受けて、口元に笑みを浮かべた。


「司馬冬妃は文学に精通する才女。今まで文学に触れたことはなかったのだけれど、後宮ここにくることになって調べたらとても面白かったの。おすすめがあれば教えてちょうだい」

「はい、ここの蔵書楼ぞうしょろうには慶国各地から集められた書物がありますので、その中でも選りすぐりのものをご紹介いたします」


 次に、白色の衣裳の女性。垂れ下がった目尻が可愛らしい、どこかのんびりした雰囲気を纏っている。


しゃ秋妃しゅうひは馬術が得意な一族の出と聞いたわ。今度、一緒に遠乗りにでもいかない? もちろん、天凱様には許可をとって」

「まあ、本当でございますか? わたくし、族出身なんですけれど、この国の女性は乗馬をたしなまないとお聞きしました」


 今まで興味なさげだったのに急に目を大きく見開き、前のめりになる。


「馬の飼育もしてはいけないと言われて、とても暇でしたの。後宮から出て、ということは走らせてもいいということでしょうか? あっ、崔皇后陛下も馬術は得意なんですか? 走らせるのは駄目でしょうか……?」


 あまりの勢いに気圧されつつも紫苑は首を振った。


「大好きよ。家にいた頃は自分の馬を育てて、よく走らせたわ」


 まあ、と謝秋妃は頬に手を添える。


「お会いしてみたいです! わたくしも馬を育てて、ここには連れてきていないのですけれど、美しい黒の駿馬しゅんめで、わたくしの自慢の——」

「謝秋妃様、はしたないですわ」


 やんわりと、しかし有無を言わせない叱責が飛んできた。葉夏妃だ。


「崔皇后陛下は本日入内したばかりなのに、そのように品もなくまくしたてるのはどうかと思います」


 その指摘に謝秋妃は口をつぐむと俯いた。

 しばらくしてから謝罪の言葉が紡がれる。

 葉夏妃はふんと鼻を鳴らすと紫苑に向かって眉を下げた。


「申し訳ございません。謝秋妃様はこの国に来たばかりなので、まだ素養も身についておらず……。非礼をお許しくださいませ」


 あからさまに含まれた毒に紫苑は内心、驚きつつも気付かないふりをして首を振る。


「いいえ、構わないわ。国が違えば文化も違うのですもの。ゆっくりと学んでいけばいいだけのことよ」


 次に、と紫苑はきょろきょろと周りを見渡した。あらかじめ天凱から手渡された資料には季妃には象徴色が定められていると書いてあった。春妃の席を与えられた、緑色の衣裳を纏う女性の姿が見えない。


「姫春妃はどちらに? お姿がないけれど」


 紫苑は壁際に控えている薄緑色の衣裳を着た女性達に語りかけた。付き人は主人の象徴色より淡い色を纏っているので見分けがつきやすい。


「それが、私達がお房室へやを訪ねてもおられなくて」


 帯に玉飾りをつけた、侍女頭が応えた。その顔は青白く、叱責を恐れているようだ。


「そう、どうしたのかしら」

「司馬冬妃はご存じなくて? あの方が司馬冬妃にだけはお会いしていたと聞いているわ」


 葉夏妃の言葉に、この場にいた全員の視線が司馬冬妃に集まる。司馬冬妃はゆっくり首を振ると眉尻を下げた。


「さあ……。私もここ最近の様子までは分からないわ」

「あら、どうして? あれだけ仲がよろしかったのに」

「会いに行っても門前払いされたから」

「門前払い?」

「会いたくない、と」

「会いたくと言われて大人しくしているだなんて。無理矢理、会いにいけばいいじゃない」

「どれだけ仲が良くても、茉莉花が嫌がる以上、軽率に踏み込めないわ」


 困ったように睫毛を伏せた司馬冬妃を、葉夏妃は冷めた目で一瞥した。


「ふぅん。司馬冬妃だけは特別なのかと思っていましたわ。お二人は恋仲に見えるほど、仲がよろしかったから」


 朗らかな声音だがひどく刺々しい。


「同郷だから。ここじゃ、誰よりも信用できるから仕方がないわ」


 司馬冬妃は葉夏妃の態度に微かな苦笑を浮かべながらも、毅然きぜんとした態度を崩さなかった。葉夏妃の言葉の裏に潜む嫉妬や疑念を感じ取りながらも、それを無視して会話を続けた。


「君は分からないと思うけど」


 葉夏妃は鋭い眼光で司馬冬妃を睨みつける。その瞳の奥には何かしらの計略がちらついているように見えたが、それを指摘するのは無粋だと紫苑は判断し、仲裁のため、声をかけた。


「故郷から遠く離れた地では、確かにお互いの存在は尊いものだわ。気心知れた相手なら特に。……それでね、話を戻すのだけれど、後でお茶会を開こうと思っているの。姫春妃には挨拶ついでに直接声をかけに行ってみるわ」

「まあ、素敵なお誘いありがとうございます。崔皇后陛下とご一緒にだなんて僥倖ぎょうこうですわ」

「ふふっ、喜んでもらえて嬉しいわ。みんな、ぜひ参加してね」


 ええ! と葉夏妃は頷く。司馬冬妃に向けられていた苛立ちは嘘のように消え去り、にこにこと笑う。可憐な容姿と相まってなんとも可愛らしい。

 先程よりも和らいだ雰囲気に紫苑は胸を撫で下ろした。誰が例の宦官の恋人か、今の時点では判断ができないため、できる限り穏便に事を運びたい。ただでさえ、自分は嫌われるのに十分な理由で入内したのだから関係悪化は避けたいところだ。

 けれど、



「失礼いたします。至急、崔皇后陛下のお耳に入れたいことがあり、馳せ参じました」



 どんな星の下に生まれたのか紫苑の日常は平穏とは程遠いらしい。

 血相を変えて転がり込んできたのは内侍省ないじしょうの長官を務める男だ。確か名はどく秋海しゅうかい。幼少期に宦官になってから二十数年、後宮に暮らすこの男は「忠誠心は高いが懐が読めない」と天凱から評価されている。


「あら、騒がしいわね。せっかくの集まりなのに」


 毎朝行われる朝礼は決して乱してはならない行事である。

 それを内侍監ないじかんである秋海が知らないわけがない。

 それでも来たということは秋海の言う「お耳に入れたいこと」とは、重大な報告であるということ。

 現に、秋海は宦官にしては肉付きが悪いおもてを焦りに歪めていた。どうにか焦りを内に押し留め、冷静さを保とうとしているがひたいからは止めどなく脂汗が流れ、床に落ちている。


「落ち着いて、ゆっくり話しなさい」

「承知いたしました」


 心を落ち着かせるため、秋海は一呼吸して、静かに言葉を選びながら話し始めた。


「先ほど、宮女から報告がございました。くりやの前に人のものと思われる臓物が置かれていたのを皮切りに、後宮の各地で指や耳、骨が見つかりました」


 穏やかとは程遠い内容に紫苑は眉をひそめた。


「中には血に塗れた衣裳もあり、それは……」


 秋海はぐっと唇を噛み締める。



「……姫春妃様がお召しになっていたものに酷似こくじしている、と」



 その告白に全員が言葉を失った。

 辺りは水を打ったように静まりかえり、ただ沈黙だけが空間を支配した。


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