紫苑の花は後宮に秘する

萩原なお

【序章】

第0話 花海棠が咲く庭園で


 花海棠が色濃く香る自宅の花庭で、鍛錬が終わり紫苑しおんがまどろんでいた時のこと。隣家の三男坊であり、幼馴染でもある英峰えいほうが慌てた様子で駆け込んできたと思ったら「力を貸してくれ」と頭を下げてきた。


「頼む。紫苑!」


 それはもう見事な土下座であった。この場面を切り取って教本に貼り付ければ、きっと見る者のいい手本になっただろう。心優しい者がこの場にいれば思わず手を差し伸べたくなるほど切迫した雰囲気が漂っていた。

 しかし、紫苑は「嫌だ。断る」とばっさり斬り伏せた。幼馴染とはいえ英峰が持ってきたが最低最悪のものだったからだ。


「あのさ、英峰」


 名を呼ばれ英峰はおずおずと顔を持ち上げた。

 そこに微かに希望がにじんでいるのを紫苑は見逃さない。


「それ、下手したら二人共々死罪になるの分かっているの?」


 じっとりとした目で睨みつけると幼馴染はにへらと気持ちの悪い笑みを浮かべた。軽薄な容貌と相まって、なんとも薄気味悪い。


「大丈夫さ!」

「なにを根拠に……」


 紫苑は頭痛を覚え、こめかみを抑えた。


「お前は背も高く、声も低い。胸もない。どうみても男に見える」


 腹が立ったのでたまたま手にしていた棒で肩を叩いた。思ったより勢いがついてしまい、やり過ぎてしまったかと顔を顰めるが、地に伏せた英峰がなおも「力も強く、気も強い」と軽口を叩くので安心する。


「私が男っぽいことは知っているよ。けど、だからって不敬罪に当たる行為を好き好んでするとでも?」

「いい金になるんだ! 金銭で百両。二人で分けてもこれだ!」


 英峰は右手を開いてみせた。銀や銅銭ではなく、金銭で、しかも百両。紫苑の父の二年分の俸禄ほうろくにあたる額だ。その内の五割を貰えるのはとても魅力的だが同時にその魅力を凌ぐほど危険であることも知っていた。


「いや、割合とかどうでもいいんだけど」

「嘘だろ!? お前は金の価値が分かっていない!!」


 悔しそうに英峰は叫ぶと地面を叩いた。直後、痛みで右手を抱え込み、うずくまった。

 何を一人で遊んでいるんだと紫苑は白んだ目で見下ろした。


「平民なら一生遊んで暮らせるのに!」

「あなたの場合はほぼ借金の返済で無くなるだろうね」


 賭博とばくが趣味の英峰がこさえた借金は金銭五十両でぎりぎり足りるかどうかだろう。借金を全て返済しても賭け狂いの幼馴染はきっと早急にまた借金まみれになるのは容易に想像がつく。


「幼馴染が冷たい」


 英峰は蹲ったまま顔を覆い、すすり泣いた。

 どう見ても泣くフリだ。何度も使われた手段に紫苑は苛立ち舌を打つ。


「俺は不幸者だ……」

「無理難題を何度も押し付けてきて、それでも幼馴染でいてあげている私に言うこと?」


 苛立ちのままに紫苑は棒で英峰の頭を軽く叩いた。英峰が破落戸ごろつきに絡まれ逃げ惑っているのを助けたり、借金の支払い期限が過ぎそうになって泣きついてきたため肩代わりしたこともある。ちなみにだが肩代わりした金はまだ返してもらっていない。それなのに冷酷な人間と呼ばれるのは筋違いではないか、と言うと英峰は啜り泣くのを止めた。

 やはり演技だった。全くもって潤んでいない瞳に紫苑を映す。


「なんでそこまで嫌がるんだ?」

「いや、嫌がるに決まっているだろ」


 英峰は自分の頭を叩く棒を掴むと紫苑へと顔を近づけた。軽薄な顔が近くなり紫苑は咄嗟に空いていた左手で英峰の顔を鷲掴み、これ以上近づかないようにした。

 どう考えても拒絶の意味なのに英峰は気にしていないのか、はたまた気が付いていないのかぐいぐいと顔を近づけようとするので紫苑は「近い!」と怒鳴る。が、やはり英峰は気にしない。


「男として慶王けいおう様の家来となり、性格を叩き直した後に女であることを告白するってだけじゃあないか」


 なんてこともない、ただ、近所に買い出しに行ってとでもいうぐらい軽く言うので紫苑のこめかみに青筋が浮かぶ。


「慶王様を騙すなんて首切り確定でしょ。ううん、それどころか、一族全員が殺される」

「いい金になるんだ!」

「お金と命なら私は命をとる」

「俺の借金返済を手伝ってくれないんだ?!」


 英峰の叫びに、紫苑は片眉を持ち上げた。


「なんであなたの借金のために私が駆り出されるわけ?」


 英峰との繋がりは幼馴染の腐れ縁という切りたくても切れない縁しかない。幼い頃は縁談も持ち上がったが紫苑の祖父が難色を示したので無くなり、今では話題にすら出すことは禁じられている。

 なので、たかが一介の幼馴染の我が儘にこれ以上、付き合う必要はない。

 なのに、


「俺とお前は幼馴染だろう?」


 なにを当然のことを言わせるんだ? と英峰が不思議そうに両目をまたたかせたので紫苑は重々しい溜息をはく。悪い意味で純真無垢な英峰は心の底から紫苑が手伝うのが当たり前だと思っているようだ。

 紫苑は苛立ちのままに英峰の足を棒で薙ぎ払った。無様に地面に転がったのを見届けてからえりを掴み、引きずっていく。引きずられてもなお英峰は仕事の利点をつらつらあげるのでそれに適当に「そう」「へえ」と相槌あいづちを打ちながら門へと向かった。

 門の前につくと紫苑は襟を掴む手を離した。支えをなくし、頭を打った英峰は後頭部を抑えつつ涙目で紫苑を見上げる。


「ねえ、英峰。私は確かにあなたの幼馴染だけど、子分でもないの。手下でもないし、部下でもない」

「何を当たり前のことを言っているんだ?」


 英峰は首を傾げた。

 紫苑は再度、英峰の襟と帯を掴むと力任せに門の外へと放り投げる。


「幼馴染をゴミのように扱うな!」


 ごろごろと転がった末、地面に伏した英峰は抗議の声をあげた。

 それを紫苑は冷たい目で一瞥いちべつする。


「一人で解決しろ。くだらない話に私を巻き込むな」


 鋭い声で言えば英峰は諦めたように俯いた。

 少し言い過ぎたかと後悔するが今までさんざんこの男に利用されていた過去を思い出し、紫苑は少し反省すればいいと声をかけることはせず、そのまま自宅に戻るためにきびすを返した。




 ——この時、紫苑は忘れていた。英峰がどんなに諦めが悪く、狡賢いことを。そのせいで今までどんな目に合ってきたのかを。

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