1話

 息が上がる。薄暗い路地をひた走る。

 聞こえるのは自分の足音と荒い息遣いのみ。前しか見ていないので追跡者が今どこにいるのか、後ろから追ってきているのかどうかすらわからない。

 ひょっとして撒いたか?

 そう思ったのを一瞬で否定する。ここまでずっと見通しのいい場所ばかりだった。だから相手が諦めでもしないかぎり、この鬼ごっこが終わることはないだろう。

 そして相手が諦めることは決してない。≪バグ≫が一度獲物と見定めたら、どこまでも果てしなく追いかけっこは続く。どちらかが死ぬまで。

 走りすぎて肺が痛い。心臓が口から飛び出そうだ。

 ふいに前方の街路樹がガサガサッと音を立てた。

 考える間もなく言葉が飛び出す。


時野谷トキノヤ!」

「応えよう」


 走り抜ける自分と入れ違うように、茂みから飛び出した影が背後に降り立つ。


「ハロー、マイケル」


 すれ違う瞬間にちらっと見えたのは鶏の顔。そのマスクをかぶる人物。そして右手のクローハンマー。

 釘抜きになった鋭利な部分を、彼は振りかぶった。

 すぐに止まりきれず惰性で数メートル先まで駆けてしまったところ、スライディングの要領で停止する。自分も応戦すべきか、あるいは邪魔にならないように隠れるべきか。頭の中で瞬時に計算が走る。

 けれどふり返ったときにはもう決着がついてしまっていた。


 とどめの一撃を振り下ろした時野谷が立ち上がる。

 つけているのは鶏のフルフェイス・マスク。前に「どうして鶏なの?」と訊ねたら「鳥だから」とよくわからない返答をされた。たしかに猛禽類みたいな目をしているし、ふわふわの髪は羽毛のようにも見えなくもない。

 彼はマスクを左手ではぎ取った。

 現れたのは男性にしてはやや長い髪。髪もまつ毛も色素が薄く、外国人めいた風貌をしている。いつも緩く弧を描く唇は、珍しく引き結ばれて怜悧な印象だ。

 しかしこちらと目が合うと、彼はすぐにいつもの笑みを浮かべた。見る人が違えばにやにやして気味が悪いと思うだろう。頭がおかしい奴なのではないかと。

 ただ実際は単に感情のバリエーションが少ないだけ。喜怒哀楽のうち喜と楽くらいしか示しようがないだけだ。

 彼と出会って二ヵ月ちょっと。だけど怒っているところも悲しんでいるところも見たことがなくて、いつも笑って楽しそうにしている。実際、楽しいのだろう。人生を謳歌しているように見える。「お気楽そうだなぁ」とは思うものの羨ましくはない。


「ハラノイ、無事?」

「おかげさまでなんとか。来てくれてありがとう、助かった。ナイスタイミング」

「どういたしまして。それにしてもなぜ逃げてた?」


 至極まっとうな質問をする時野谷に、無言のままハサミを取り出す。

 ボロボロになった刃先を見て「なるほど」と納得したようだった。最初は応戦していたが得物が使い物にならなくなったので逃げまわっていたと、わかってくれたのだろう。


「怪我は?」

「ない。君はだいじょう」


 ぶと訊ねようとして口を噤む。理由は、彼が≪不死者≫だと思い出したのと、血のにおいがしたからだ。


「怪我してるね」


 指摘すると、時野谷はにっこりと笑った。

 どうも彼はこういうところがある。こちらの空腹が刺激されるとわかっていて、わざと怪我をしている節がある。でも煽ってやろうとかそういうつもりはないらしく、ただの親切心らしい。

 だから余計に質が悪い。


「あの、今腹ペコなんで、あんまりこっち来ないでもらえると……って言ってるそばからどうして近づいてくるの君は。私が理性をなくして襲いかかってもいいの」

「かまわない。早く食べておくれ」

「素直か。でもそれだと私が駆除される」


 そこまで言ってようやく、時野谷は渋々と距離を空けた。それでも何メートルも離れてないので、血の香りがそこかしこに漂っている。

 この二ヵ月で嫌というほど嗅ぎなれてしまった、甘く柔らかな香り。

 喉が鳴る。

 お腹が空いた。

 少しでも紛らわせようと話すことに集中する。


「それで、君が戦っていた相手はどうしたの」


 てっきりとどめを差したか、つないできたと言われると思っていた。しかし時野谷はただ一言、


「逃がした」

「え、逃が、え、なんで?」

「早くおまえのところに来たかったから。それに逃がしたとはいってもそれこそ虫の息だ。問題ない」


 ほらと言うのでふり返ると、時野谷が来た方角から人の気配。複数いる。

 今日の月色は警告信号黄色。にもかかわらず裏通りを歩き回るとしたら、その人間はかぎられている。

 現れたのは見慣れた制服とトレードマークのガスマスク。自警団だ。

 しかもその先頭を歩くのは斬人斬人だった。マスクを押し上げると、意志の強そうな瞳が露わになる。そして怒り出した。


「おい、コラ時野谷! 途中で勝手に抜けてんじゃねェよ。せめて一言ぐらい声かけろや!」

「キンキュージタイだったから」

「はあ? ……あ、乃伊ノイじゃん。なに、おまえもエンカウント?」

「うん。それでほら、これ」

「うわぁ」


 時野谷に見せたように、ボロボロで使い物にならなくなったハサミを斬人にも見せた。顔をしかめた斬人は、それで何があったか大体を察したようだ。「だからハサミはやめて違う武器にしろって言ったのに」とぶつぶつ言っている。


「うん。でもこれが一番使い慣れてるし」

「なら、もっとデカイやつか刃こぼれしにくいやつにしとけ。明日も仕事だろ、師匠に相談してみたら?」

「そうだねぇ」

「僕がついてるから必要ない」


 それまで黙っていた時野谷が言った。思わず斬人と二人、顔を見合わせる。


「ですって、奥さん」

「オクサンじゃないハラノイだ」

「そっちもちげェよ、原乃伊ハラ・ノイだよ」

「毎回訂正しててえらいね。私なんて早々に諦めたのに」

「諦めんな、自分のことだろうが」


 喧嘩みたいな言い合いばかりしているけれど、斬人と時野谷の相性は悪くない。それはたぶん時野谷に悪意がないことと、斬人が根っからの世話好きだからだと思う。純粋だけれど世間ずれした時野谷のことを、なんだかんだ言いつつ面倒みている。もし嫌っていたらここまで気にかけないだろう。


 時野谷が仕留めた≪バグ≫の遺体を確かめて、斬人は「あとはやっとくから、任せとけ」と請け負ってくれた。ちなみにさっき逃がしたという≪バグ≫も、斬人たちの部隊が駆除したらしい。

 他の隊員たちにもお礼を言って、時野谷と二人その場を抜け出した。だいぶ遠くまで来てしまったけれど、三十分と歩かず家まで帰れるはず。

 そんな思いを見透かすように時野谷が言った。


「うちへ来るだろう?」


 疑問系だが、逃がさんと言わんばかりだ。

 途端に強くなる血のにおい。強く芳醇な香りに全身が包まれる。理性が焼き切れそうだ。


「…………お言葉に甘えて、お邪魔します」


 無駄な抵抗をやめて頭を下げる。時野谷は妙に発音よく「歓迎光臨いらっしゃいませ」と答え、にっこりと笑った。



*****



 薄暗い浴室。灯るのは蝋燭の明かり一つだけ。前に「照明は明るすぎて嫌だ」と言って、かといって電気を消すと何も見えなくて、だから代わりに蝋燭の明かりを灯すようにしていた。

 ピチャ、と粘り気のある水音が反響する。抉れた首筋は頸動脈まで食いちぎってしまったのか、ドクドクととめどなく血が流れ続けていた。タイルにこぼすのがもったいない。だから噴き出すそばから舐め取っては啜るものの、流れる速度に追いつかない。

 はぁ、と荒い息を吐く。そのたびにまるで獣みたいだと他人事のように思った。

 口いっぱいに広がる鉄の味。

 おいしい。もっと飲みたい。ただ飲んでも飲んでも満たされなくて、せつない気持ちになってくる。この感覚が我ながらちょっと恐ろしい。

 首をさらすように傾いた時野谷はなぜかずっと笑っていて、時折ふっと息を漏らしていた。

 その反応がさすがに気になったので口を離す。


「毎回訊くけど痛くない?」

「毎回訊かれるが痛くない」


 時野谷は喉を震わせて笑った。

 ぱりぱりに乾いた自分の上唇を舐め取れば、案の定鉄の味。きっと口周りは今、ミートソースを食べたときみたいにベタベタだ。


「じゃあなんでずっと笑ってるの。くすぐったい?」


 そう訊ねれば至近距離で目が合った。「いや」と耳に息がかかるくらいのところから声がして、口端をべろりと舐められる。生暖かい湿った感触。近所にいる犬のことを思い出す。そのまま何度か舐められた。


「やめなよ。自分の血なんておいしくもなんともないでしょ」

「味覚がないからわからないな。でもこれが血の味か」


 時野谷は呟いた。やっぱりわからないと。


「ハラノイのだったらオイシイのかな」

「試してみる?」

「機会があれば。あえて傷をつけるのは大変だろう。人間はそれだけでも死んでしまう」

「君らと違ってすぐ傷が塞がらないからね。それにしたって、こぼれた血はどうやって補ってるの。何で失血死しないのか毎回謎なんだけど」

「さぁ。わからない」


 本人でさえ「知らない」と言うのだから、きっとこの先も解明されることはないのだろう。時野谷にかぎらず≪不死者≫たちの存在は不思議だ。なぜ死なないのか、どこから出現するのかなど、すべてはベールに包まれたまま。まさに摩訶不思議。その一言に尽きる。

 一説では≪バグ≫に対抗するための人間の進化とも言われているけれど、時野谷を見るかぎり「人間の延長」という感じはしない。まったく別の生き物に見える。

 しかも彼は、治癒速度をコントロールできるらしい。遅くしたり早くしたりできるのだという。

 だから本当なら今頃は、抉れた肉も傷ついた血管もすべて元通りになっているはず。そうなっていないのは彼が「あえて回復を遅くしてくれている」のだろう。こちらが食べやすいようにと。

 なんてでたらめな構造なのかと、最初に聞いたときは思わず呆れてしまった。まさに人外。人とは違う理で生きる者。

 では、そんな彼を食べる自分はいったい何だろう。

 人間といえるのか?



「やつら(バグ)は僕なんて喰わないさ」

「なぜ人の形をしたものを食べてはいけない? 人間は不思議だ。ありとあらゆる動植物を食べながら、なぜ同胞を喰ってはいけないのか。その理由とはなんだろう」

「人が人を食べないなら、『その人間すら食べられる生き物』と自らを再定義してしまえばいい」



 ふいに目の前が暗く翳った。瞼に温かな感触。時野谷の片手で視界を覆われているのだと気づく。


「え、何? どうしたの?」

「理由はない」

「君がこういうことするなんて珍しいね」


 覆っていた手が外された。

 真っ先に見えたのは、こちらをのぞき込むピジョン・ブラッドの目。普段は淡いブラウンなのにときどき深紅になることがあって、仕組みは本人もわからないらしい。

 その目に見つめられるのは嫌いじゃない。むしろ心地よい。頭の芯がしびれるような、でも逆に冷静になるみたいな、そんな不思議な感覚が芽生える。


 なんとなく可笑しくって、息を漏らしながらさっき放り投げたナイフに手を伸ばした。しかし微妙に届かない。ところを、時野谷がひょいと取って手渡してくれる。「ありがとう」と受け取ったナイフを目の前の胸に突き立て、垂直に引き下ろした。湧き水みたいに血が噴き出す。それを端から掬い取る。

 手を差し入れた腹の中は、温かく湿っていて粘り気があって、柔らかかった。≪不死者≫といえど中身は人間と変わらないんだなぁなんてつい感動してしまう。

 腹部から上に移動すれば、ほどなく行き当たる硬い感触。骨だ。ゆるくカーブを描く軌跡をなぞりつつ、爪を立てて表面を擦った。その合間も、裂いた皮膚から零れる血を吸い上げる。

 血のほのかに温かく甘やかな味わい。

 裂いた肉に歯を立てた。その食感はこれまで食べてきたどの牛や豚や鳥とも異なって、ほろほろとしていて柔らかい。

 おいしい、もっと。それにしか考えられなくなって夢中になってがっつく。


「おまえのやりたいように、好きにすればいい」


 何をしてもいいのだと。それは最初に約束したことでもある。

 ざらついた声がすぐ耳元から差し込まれて脳内を舐る。頭蓋の中から揺さぶられるような感覚。


「呪いを解くのは愛のみだ」


 そう言って三度、彼は笑った。

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