第70話 紅白牡丹




 籠原かごはらに、二人の姫君がやってきた。

 宋十郎そうじゅうろうの妻となった伊奈いなひめと、彼の室として宛がわれた波留はるひめである。

 既に婚姻の儀式のとき、彼は姉妹のそばに佇む白い影を見た。彼に憑いている亡霊は、花嫁がやってきたことに気付いているようだった。

 ところで三蕊みしべの姉妹は、面差しに似通うものはあっても、性格はまるで違っていた。

 妹の伊奈は好奇心旺盛で行動的だったが、姉の波留はうつむきがちで、問われなければ自分から口を開かなかった。

 それもあって彼が新婦と口をきくことはほとんどなかったし、彼は夜に波留の部屋を訪ねることも怠っていた。したがって、波留と交わすものはわずかな挨拶の言葉くらいである。

 しかしその一方で、波留が物憂げで口数少ない理由を、彼なりに想像したりもした。もとからの性格であるとか、実家が恋しいとか、深渓の田舎ぶりに嫌気がさしているとか。でなければ、彼の妻となったことに絶望しているのかもしれない。

 いずれにしろ、彼にできることはない。この婚姻は初めから不幸であり、呪いと共にある。それを知っているのが彼だけだとしても、彼にそうでない振りをするだけの力は残っていなかった。







 山を下りてきた彼は、川沿いの土手を歩いていた。

 街へ行くのをやめて以来、余暇があれば山野を歩くことが多かった。

 ふとその時、女のすすり泣くような声を聞いたように思った。

 また影の類かと思い無視していたら、前方の川のほとりに、女ものの着物が見えた。岩の上に座って洟を啜っているのは、なんと伊奈姫だった。

 三蕊の姉妹は、家臣や女中頭から家のことを教わっているときの他は、どちらかの部屋に集まって琴を弾いたり歌留多をとったりしていた。それがなぜ、こんなところに一人でいるのだろうか。

 彼が答えを想像する前に、草を踏む音を聞いた伊奈姫が振り返った。

 黒く丸い瞳が驚いている。ここなら誰も来ぬと思って泣いていたのならそうだろう。実際にこの場所は、屋敷からそれなりに離れている。森を歩いたこともなさそうなお姫さまが一人でここまで来たことに、彼のほうも驚いていたところである。

「あ、義兄上あにうえ

 目が合ったうえ声を掛けられて、応えるしかなくなった。

「……伊奈姫、こんなところでお一人ですか」

 姫君は慌てて目元を拭った。

「あの、わたくしは……いえ、大丈夫です」

 そう言われた以上、あれこれ訊ねるのは野暮だろう。彼は頷き、行き過ぎようとして、ふと思いついた。足を止め、姫を振り返る。

「お一人で戻れますか」

 屋敷までは、森を抜けねばならない。案の定、伊奈姫ははっとしたようだった。

 丸い瞳がしばし迷い、ちらと彼を振り返った。

「……あの、よろしければ、少しお座りになりませんか」

 そう言って伊奈姫は、隣の岩肌を撫でた。

 意外な誘いだった。しかし、断るのも不躾に思える。

「では、お邪魔しますね」

 彼が隣に座ると、伊奈姫は川の水面を見つめ、言った。

「ここは、きれいなところですね」

 彼は頷いた。

「ええ、私も、ここからの眺めは好きです」

 実際にその通りで、今伊奈姫が座っている場所に、彼も時々一人で座っていた。

「わたくし、初めて森を歩きました。供も付けずに一人で歩いたのも、初めてです」

 そうだろうなと、彼は頷く。

「どうでした?」

「楽しかったです」

 もう一度袖で目元を拭った伊奈姫は、小さく微笑んだ。

 その笑顔には、彼は共感できた。彼も微笑んだ。

「そうでしょうね」

 伊奈姫は言った。

「皆、探しているでしょうか」

「ううん、どうでしょうねえ。姫のお付きの……およしどのは心配してるかもしれませんけど、他は気付いてないかもしれませんね。籠原は三蕊と違っていい加減ですから、小さな屋敷なのに、誰がどこにいるのかよくわからないんですよ」

 くすりと伊奈が笑った。そして、彼を振り返る。

「義兄上、わたくしのことは、伊奈とお呼びください。わたくしはあなたの義妹ですもの。気軽にお話してもらえたほうが、嬉しく思います」


 それから伊奈は、彼を相手に他愛ないお喋りをした。

 例えば、読書の話をした。伊奈は真名まな(漢字)を読み、漢籍に詳しいということが知れた。伊奈の兄の影響だという。ただしその兄は戦場で死に、今はもういないのだという話もした。

 日が南に届く前に彼らは衣についた草を払って立ち上がり、森を歩いて屋敷へ戻った。







 それ以来、彼は時々、川のほとりで伊奈に会った。

 彼が山を下りてくるとそこに伊奈がいることもあり、彼が川を眺めているところに伊奈が現れることもあった。

 姫君は彼をお喋りの相手として認めたようだった。

 書物の話、近隣諸国の動静、子供の頃の思い出、食事の献立。伊奈は色々な話をして、また一人で屋敷へ戻れるようにもなった。

 彼のほうも次第にこの時間に慣れていった。さらに言えば、彼は徐々にこの時間を楽しむようにすらなっていたかもしれない。籠原にいて、これほど雑多なことを誰かと話したことはそれまでなかった。


 ある日並んで座っているとき、伊奈が言った。

「あの、わたくしと義兄上が初めてここでお会いした日。あの日、宋十郎さまの顔に痣があったでしょう。おぼえてらっしゃいますか」

 彼は考え、思い出した。確かにその日見かけた宋十郎は、片目の周りを青黒くしていた。鍛錬の最中に誤って槍の柄でも打ち付けたのだろうと思って、全く気にしていなかった。

「そういえば、そんなことあったかもね。でも、それがどうしたの?」

「あれは、わたくしのせいだったんです」

 どこか気まずそうに言った伊奈は、続けて語った。

 その前の晩、伊奈と宋十郎は初夜を過ごすことになった。二人とも武家の子であるからして手ほどきは受けているし勝手は心得ていたはずだが、いざことに及ぼうとして、伊奈は尻込みした。待ってくれと宋十郎に伝えようとしたが咄嗟に言葉が出ず、動揺のあまり、宋十郎の顔面に頭突きを食らわせてしまったということだった。

 そこまで聞いた時点で、彼は思わず笑ってしまった。

「義兄上、笑い事ではないのですよ」

 伊奈は顔を赤くして睨んでいる。ごめんごめんと彼は謝った。伊奈にしてもこんな話を男の彼に打ち明けるのは勇気がいることだったろうし、敢えて語ったということは理由があるのだろう。

 彼は笑いを抑えようとして、片手で口元を覆いつつ訊ねる。

「そのあと、何か困ったことでもあったの?」

 こくりと伊奈は頷いた。

「それ以来ずっと、わたくし、宋十郎さまに避けられているんです。……なんて乱暴で間抜けな女だろうと、呆れられたに違いありません」

「いや、伊奈に呆れてるっていうより……」

 丸い瞳に見つめ返され、彼はううんと首を傾げた。

「……多分宋は、単に恥をかいたと思ってるんじゃないかな。もしかしたら伊奈に嫌われたと思ってるかも」

 すると、伊奈は眉を下げた。

「でも、嫌ってなんかいませんし、恥をかいたのはわたくしのほうですのに」

「じゃあ、そうやって宋に言ってあげたら?」

「いつ、どのようにそんなことを切り出せばよいのか……」

「次宋を廊下かどこかで見掛けたら、宋の袖を掴んで耳打ちするだけでいいと思うよ」

「……何と言うのですか」

「今宵わたくしの部屋で肌を合わせましょうって」

 そうすれば、問題は即解決するだろう。糞真面目な宋十郎は本来義務に忠実だし、そうでなくても二人は若く、さらに伊奈は愛らしい。

 しかしそこで、伊奈は顔を赤くして拳を振り上げた。

「からかわないでください! そんなこと、言えるわけありませんでしょう」

 伊奈に肩を殴られながら、彼はあははと笑った。真面目に助言したつもりだったと言えば、ますます顰蹙を買いそうである。

 小さく眉を寄せると、伊奈は呟いた。

「……どうお伝えするか、考えてみようと思います」

 うんと、彼は頷いた。

 続いて伊奈は、ふと思い出したように言った。

「ですけど、義兄上が姉さまのお部屋をお訪ねにならないのは、どうしてですか」

 唐突な話題転換に、彼は眉を上げた。訪ねないというのは、夜のことを言っているのだろう。

「ええと……もしかして、波留が何か言ってた?」

 伊奈は首を振った。

「いいえ。姉さまのことですから、何も仰いません。でも隣の部屋で寝起きしてるのですもの、わかります。ねえ、兄義上は姉さまをお嫌いですか。それとも、女を抱かぬ性質たちですか」

 思わず喉の奥がつかえたが、彼は何でもないように首を振った。

「いや……違うよ。波留を嫌いなわけじゃないよ」

「じゃあ、なぜですか」

 問われ、彼は言葉を選ぼうとする。

 伊奈の丸い両の目は、まっすぐ彼を見つめ返していた。ふとその目を見て、宋十郎の眼差しを思い出した。

 ふうと、彼は細く溜息を吐いた。

「……あのね、伊奈には正直に言うけれど、おれは、呪われてるんだよ。生まれる子に呪いをうつしたくないんだ。それにね、本当は誰も、おれの子供なんて見たくないと思ってるしね」

 そのとき、慣れた悪寒が背筋に差し込むのを感じた。眼差しを伊奈の向こうに移すと、視界の端に、白い影が佇んで見えた。

 彼は立ち上がった。

「……ごめん、変なこと言ったね。おれ、先に戻るよ」

 そう言った彼を、伊奈は止めなかった。


 彼が使った『呪い』という言葉を、伊奈は別のものと解釈したようだった。

「わたくし、出自の違いなど、大したことではないと思います」

 後日会ったとき、そう伊奈は言った。つまり伊奈は、彼の『呪い』が、彼が遊女であった側室の腹から生まれたことだと思っている。

 確かにそれも彼が生まれながらに背負っている呪いの一つではあった。そしてその呪いを、伊奈は否定した。古の時代の賢王は血筋でなく徳によって選ばれたのだと、わざわざ漢籍に見える故事を繙いて説得してくれた。そうした伊奈の真心は、彼の心をいくらか柔らかくした。

 しかし実際には、彼の呪いはそればかりではない。彼は度々、波留の背後に白衣の影を見た。彼が花嫁と関わることを避けていても、亡霊は気にせぬようである。

 あるいは彼の呪いが籠原の家に関わるものであるなら、亡霊は三蕊の家にも関わりがあるのかもしれない。彼はそんなことも考えた。籠原が巍氏であった時代には、かつて有秦であった三蕊と遠夜の存在がある。

 今では伊奈は彼にとって親しい義妹だが、彼は波留に思い入れを抱けずにいる。しかし、物静かな姫君の背後に亡霊が立つことは、どうしても不安だった。







 川が凍り山が白く化粧する冬にも、彼は時々、川のほとりで伊奈と会った。

 その日、彼は馬を曳いていた。馬を見た伊奈が、乗ってみたいと言った。

 彼に断る理由はなく、彼は伊奈を自分の前に乗せて馬を駆けさせた。伊奈は楽しそうに笑った。

「幼い頃、馬に乗るのが夢だったのです」

 彼も笑った。

「夢が叶ってよかった」

 やがていつもの川べりに戻ってきて、彼らは並んで座った。とはいえ寒いので、そう長くはお喋りしていられない。

 突然、伊奈が言った。

「義兄上は、まだ呪いを恐れてらっしゃるのですか」

 彼は瞬きし、次いで伊奈を見た。

「……うん」

「いつまで恐れているおつもりですか」

 いつまでだろうか。彼はいつまで、この曖昧な場所に座っているのだろう。恐れていた花嫁がやってきて、彼は正しく逃げることもせず、ただここに居座っている。

 彼は言った。

「……本当はね、おれは、深渓みたにを出るべきなんだ」

 伊奈の目が険しくなった。

「それは、あなたが呪われた当主だからですか」

 迷い、彼は頷いた。

 彼は、彼にしか見えないものについて、人に語ることを避けてきた。例外は充國みつくにだけだ。もし伊奈に語ったら、伊奈はどんな顔をするだろうか。彼の出自など気にしないと言った伊奈は、籠原に、そしてもしかしたら三蕊にも憑いているかもしれない呪いの話など信じるだろうか。それとも彼を気狂いだと思うだろうか。

 いくらか知り合ってわかったことだったが、伊奈は強い。是非や利害を切り分け、陋劣な感情に流されずにそれを判断する。そして自らがそうできるゆえに、他者にもその力があるはずだと願い信じる精神は、彼には眩いほどに美しい。

 しかし彼の世界では、人は合理を無視するし漠然とした概念を根拠とみなしたりする。例えば血胤の貴卑という概念はもう何千年も昔から、人が信奉してきた概念である。彼がいかに努力し何をなそうと、それらの人々に対しては意味を持たない。感情はある人々の中では正当な根拠になりうるし、何より彼自身が感情に振り回され、その奴隷になっている。

 彼は強く美しい娘を見つめた。あるいはこんな娘であれば、彼に絡みついた呪いを解いてくれるのだろうか。しかし、伊奈が守るように運命づけられているのは、宋十郎である。すなわち、深渓だ。

 彼は笑った。

「伊奈は、おれと一緒に籠原を出てくれる?」

 姫君は眉を寄せ、小さく首を振った。

「あなたが恐れている呪いは、あなたにしか解けないものだと思います」







 その日の晩、彼は守十の部屋に呼び付けられた。

 部屋に入って叔父を見た瞬間、彼は殴られるのではないかと思った。それまで見たこともないほど、叔父の影が怒気にゆらめいていた。守十は言った。

「なぜ自身の室を訪ねずに、弟の室に忍び込む」

 すぐに彼は合点がいった。彼と伊奈のことを言っている。彼が伊奈と親しいことを、誰かが知って守十に密告したのだ。しかし、そこには誤解もある。彼と伊奈の間は、全く清潔である。

 しかしそれをすぐに言い出せぬほど、叔父はただならぬ雰囲気を漂わせていた。普段取り澄ましている顔が強張り、青ざめている。

 守十曰く、下僕の一人が伊奈が裏門を抜けるのを見掛けそのあとを追ったところ、伊奈は屋敷から離れた川べりで彼と落ち合い、二人で馬に乗って去った。下僕は、雪の日に一人で出掛ける姫を心配してあとを尾けたのだが、思わぬものを見て仰天し、守十に報告にきたらしい。

「これは、品性の問題では済まぬ。道義に悖る」

 抑えきれない怒りを滲ませて、守十は言った。彼は途端に体の奥が冷えてゆくのを感じた。

 潔癖症の守十はもともと彼が街へ遊びに出ることを嫌っている。そしてそれ以前に、彼が薄汚い街娼の子であることも忌々しく思っている。守十の中では、彼は生まれた瞬間から不潔なのである。それだから、彼が伊奈に手を付けたのだという短絡的な妄想を疑わなかった。

 既に彼は、言い訳する気も失せていた。しかし誤解を放置することは、伊奈の名誉にかかわる。狭い屋敷の中では、噂話はすぐに広まる。

「伯父上。私は、伊奈姫には触れておりませんよ。いえもちろん、着物の上から触れはしましたけれどね。共に馬に乗ったのですから。ですけれど、それだけです。伊奈姫は童の頃から、馬に乗ることに憧れていたのだそうです。宋十郎はあの通り生真面目な上に心配性ですから、それならばと私がお誘いしたのです。ですが伊奈姫には、夫以外の男に肌を許すなど思ってもみないことだと思いますよ。誇り高い三蕊の姫君ですから」

 守十の怒りと侮蔑に淀んだ瞳がじろりと彼を見た。嘘か真か、真ならばどこまでそうなのか、測りかねているのだろう。

 次に叔父の口から出たのは、こんな言葉だった。

「……汝は、なぜ妻の部屋を訪ねぬのだ」

 弟の妻にちょっかいを出す前に、まずは自分の妻を愛でろということだ。その問いはまだ誤解を前提にしているが、まあ、妥当な忠告だろうと彼は思った。

 好みではないからなどと言ったらいよいよ殴られるのだろうか。それも愉快そうだと彼は思ったが、つまらない欲求に蓋をする。するとしかし、また別のいらない感情が頭をもたげる。それに押されて彼は言った。

「波留姫は、私のことがお嫌いなようなので」

 すると幾分、守十の姿から怒気が薄らいだ。

 眉根を寄せ、叔父は訊ねた。

「その、根拠は」

「根拠はありませんが、そう感じます。声を掛けるのはいつも私からですし」

 守十は、いからせていた肩を、いくらか落とした。

「そんなことで……子供の戯れではなかろうに。第一、奥方が新しい家に馴染めぬならばそれを根気強く慰めるのも汝の務めではないか。汝には弦楽や歌のような特技もあるだろう。今それを用いずにどこで使う」

 同じことを朴念仁の宋十郎にも言ってやれ、という台詞は喉の奥に押し込んで、彼は頷いた。腐った感情は愚劣な判断しかもたらさない。







 彼の呪いを解くことができるのは彼だけだと、伊奈はそう言った。

 しかし、伊奈は彼のもう一つの呪いを知らないはずである。

 両目を閉じて、波留の姿を思い描いた。優しくて美しい形。

 しかし次の瞬間、その隣に、白い影が立つのである。

 彼は急な恐怖に襲われる。

 もし子が生まれてしまうようなことがあれば。

 彼はこの醜悪さを、腐敗したものを、呪いを、どこにも残したくない。

 本来ならば彼は消え去るはずだった。

 それを、子を成して残そうだなどと。

 もし波留が子を宿すようなことがあれば、彼はそれを殺すしかない。

 そこまで考え、彼は自分が気狂いであることを思い出す。

 そう、彼は腐っている。


 彼は自室の書棚に歩み寄っていき、調度品のように置かれている茶壷を手に取った。

 この中身は、毒薬である。

 追ヶ原おいがはらの充國のもとに通っていた時期に、眠り薬と合わせて、遠夜えんやの術師に調合してもらったものだった。

 充國は、彼が自死を考えていると知ると、捨てるくらいならばその命を寄越せと、冗談半分のように言った。

 しかし充國は、躊躇いもなく彼に毒薬を与えた。彼とは違う方向にいかれている充國の真意は彼には測りようがないが、もしかしたら充國は、彼がそれをすぐに使わぬと見通していたのだろうか。

 現に、その薬はまだ使われずにここにある。


「十馬さま」

 細い声がして、彼はびくりと振り返った。

 部屋の間口に、盆を捧げ持った波留が立っていた。盆の上には、茶がのっている。

 廊下の向こうは既に暗い。時間のことを差し引いても、こんな風に波留が彼の部屋を訪ねてきたのは初めてだった。

「波留どの……どうされましたか?」

 彼は茶壷を棚に戻し、波留の方へ体を向けた。

八重やえが、茶を淹れてくれたのです。貴方さまにも、お持ちしてはいかがかと」

 八重は波留付きの侍女だが、その八重に茶を淹れるよう勧めたのは、伊奈だろうか、守十だろうか。

 波留の、いつもどこか悲しげに見える瞳が、彼を見ている。

 彼は思った。波留が籠原に来る以前から何かに絶望しているとすると、波留も既に壊れているということになる。

 いつも彼の奥でねじれている感情が、意識の上へのぼってくるのを感じる。彼は微笑を作って波留に歩み寄ると、盆の上の茶を取った。

「ありがとうございます。でも本当は、酒を頂けるともっと嬉しかったのですけれど」

 ここで波留を彼の寝所に引きずり込んだなら、守十は満足するのだろうか。波留はそれで構わないのだろうか。

 壊れたまま辛うじて均衡を保っている何かを、完全に崩してしまうべきだろうか。波留もあるいは、全てが崩れて壊れてしまうことを望んでいるのだろうか。

「眠れないのですか」

 意外なことを、波留は訊ねた。彼は答える。

「はい。……波留どのも、眠れないのですか」

 あるいは、もしかしたら本当に、伊奈が言うような力が彼にもあるのだろうか。壊れて腐っている彼にでも、なせることはあるだろうか。もし波留が壊れているとするのなら、彼は波留を直す力になることができるのだろうか。

 その時、波留の肩の向こうに、見慣れた白い影が映った。

皓夜叉しろやしゃさま』

 亡霊が、彼を呼んだ。

 彼は両目を閉じ、また開いた。

「よければ、私の飲んでいる薬をお貸ししましょう。よく眠れますよ」

 そう彼が言うと、波留は微笑まない瞳で、柔らかく頷いた。




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