第4話 織部梨愛
そこは白い部屋だった。白くて妙に清潔で、簡素な部屋。
鉄パイプで骨組みが作られたベッドの上に、十代半ばの少女が目を閉じて横たわっていた。酸素マスクを口につけている。呼吸は浅く今にも止まりそうだ。
ベッドの横に設置されあバイタルモニタは規則的な電子音を発している。小さなディスプレイに表示されているのは、心拍数と血圧。そして呼吸数などだ。
「……
女性の声。ベッドの横には中年の男女が立っていた。女性が呼んだのはベッドに横たわっている少女の名前だ。横たわっている――自分の娘の名前。
二人は夫婦で、ベッドに横たわっている少女の両親だ。
「おかあ……さん。お……とうさん」
梨愛が目を開ける。弱々しい声で母親を呼んだ。女性が梨愛の手を取る。横に立つ父親も少女を覗き込んだ。
梨愛がさらに口を開く。マスク越しなのと弱々しいのとで何を言っているのか聞き取れない。母親は彼女の口元に耳を寄せた。
「……ふたりとも……ありがと……」
それが梨愛の最後の言葉だった。梨愛がゆっくりと目を閉じる。バイタルモニタの電子音が鳴りっぱなしになった。病室のドアが開き、医師と看護師が飛び込んでくる。
「梨愛? 梨愛!」
母親の叫び声。父親に抱き抱えられるように、ベッドから引き離される。それでも彼女は叫び続けた。
◆
そこは白い部屋だった。広くて妙に豪華で、高価な調度品に囲まれた部屋。
大きな天蓋付きのベッドの上で、彼女は目を覚ました。
「おおっ。皇女殿下が目を覚まされたぞ!」
周りに複数の気配を感じ、彼女は顔だけ横を向く。黒いスーツ姿の男性が、部屋を出て行くのが見えた。
「オフィーリア様!」
若い女の声が反対側から聞こえた。彼女はそちらを向く。メイド服姿の女性が心配そうに彼女を見ていた。
「ここは……?」
どこなのだろうか? 彼女は起き上がると、見知らぬ部屋の中を見回した。いや、彼女はここがどこなのか知っていた。
(自分の部屋だ。けど、さっきまで病院に――)
そこまで考えて彼女はハッとする。そうだ病院だ。病室にいて両親がいて、でもここは自分の部屋で両親なんてここ何年も会っていなくて……。
(ビョウイン? あたしは何を……)
出てくる思考が支離滅裂過ぎる。自分の考えていることが理解できずに彼女は混乱した。
下を向き両手を見て、自分の着ている服を見る。白い
(最期に着ていたのはこんな服ではない……最期?)
「大丈夫です。服はハティがちゃんと着せておきました。誰にも見られていません!」
横にいるメイドが言った。その表情は何故か得意げだ。
「着せた?」
そう訊いた瞬間、記憶が映像となって頭の中に飛び込んできた。
月明かりの差し込む室内。目の前にはフード付きのマントを被った仮面の男。自分は着ていた
彼女は恥ずかしさのあまり、顔を両手で覆った。この記憶はつい最近――昨晩のもの。
自分は男に体を許したというのか。彼女にとって初めてのはずなのに。見ず知らずの、それも自分を殺しに来た人間と。
(え? 殺しに? でもあたしは病気で……死んだ……はず?)
「いやっ。あたしは死にたくなんてなかった!」
彼女の心に恐怖が生まれる。それはもう何もかもが手遅れになってしまったという恐怖。自分が居なくなるという恐怖。存在がこの世から消えてしまうという恐怖。
「落ち着いてください、オフィーリア様! 死んではいません。ちゃんと生きていますから」
そう言ってメイドが彼女の手を握って来た。その手の温かさに彼女――オフィーリアは我に返る。
「ハリエット……?」
名前が自然に口から出た。それが自分付きの侍女のものであることを思い出す。目の前にいるメイド服に身を包んだ栗色の髪をした少女。可愛らしい顔立ちの少し間の抜けた所のある侍女の名前だ。
(あ、この
先程から知らない単語が浮かんでくる。よく考えるとその言葉に違和感を覚えるが、浮かんだ瞬間は何故か理解できているのだ。
「そんな。いつものようにハティとお呼び下さいぃ」
ハリエットは濃い茶色の瞳を潤ませてオフィーリアを見ている。
「ハ……ハティ?」
「はいっ。オフィーリア様!」
満面の笑みを浮かべ、嬉しそうにハリエットが答えた。その様子はまるで名前を呼ばれた子犬のようだ。思わず、オフィーリアは侍女の頭を撫でる。
驚いて身を固くするハリエット。しかし彼女はすぐに心地よさそうに目を細めて身を任せた。自分の行動に驚いて手を止めようとしたオフィーリアだったが、その様子を見て彼女の頭を撫で続けた。
「ありがとう」自然と言葉が出る。
「はいっ! オフィーリア様の裸はこのハティが守りました!」
得意げにハリエットは言う。それを見てオフィーリアが笑みを浮かべる。
彼女のおかげで少しずつ、オフィーリアは落ち着きを取り戻していた。
(……オフィーリア)それは自分の名前だ。間違いない。(でもあたしは――
目を覚ましてすぐは戸惑ったが、いまは自分がいる場所も理解できている。王都にある離宮。半ば閉じこめられるように人生の半分を過ごしてきた場所だ。だが同時に、この場所にいることに違和感も覚えていた。
(あたしは……なぜここにいるの?)
二つの記憶が頭の中にあった。ここではない世界。オフィーリアではない誰か。でもそれは確かに自分。死を迎えたはずの自分。先程まで見ていた夢の――いや記憶の中の自分だ。
「お目覚めになりましたか皇女殿下。御加減はいかがですか?」
白いローブ姿の中年男性が入って来た。オフィーリアの記憶が正しければ男は司祭のはずだ。
すぐ後ろには先程出て行ったと思われるスーツ姿の男性がいた。後ろ姿を見ただけでは気づかなかったが、初老の男性だ。この離宮の家務を取り仕切っている執事のバシェルだ。
バシェルがハリエットを見て咳払いをする。ハリエットは慌ててオフィーリアの
「体を診させて頂いても、よろしいですか?」
司祭の言葉にオフィーリアは頷いた。
「失礼します」
司祭はオフィーリアの額に手を翳し、何やら呟いた。司祭の手が微かに光を帯びる。手は彼女の上半身を撫でるように何度か往復した。
「どこか痛む所はございますか?」
診察を終えた司祭がオフィーリアに訊く。彼女は首を横に振って否定した。
「外傷はありませんでしたのでおそらく大丈夫かと。他に気になることはございますか?」
無いと言えば嘘になる。だが記憶の件はまだ誰にも言うべきではない。オフィーリアとしての経験がそう告げていた。。
「いいえ」
オフィーリアは静かに首を横に振った。
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