ターンアウトスイッチ
香久乃このみ
第1話 思い出せない名前
気が付けば私は高級感漂うリビングにいた。腰かけているのはダークブラウンの皮張りソファー。目の前のガラステーブルには埃一つ浮いていない。優しい色合いの観葉植物が部屋の片隅を飾る。大きな壁かけテレビの下には、木目の美しい深い飴色のローボードがあった。
(ここ、は……?)
不安になり立ち上がる。部屋から出て行こうとノブに手を伸ばした瞬間、扉が開いた。
「ぅお、びっくりした!」
部屋に入ってきた人物が目を丸くして私を見下ろしている。だが、すぐに人懐こい笑顔を浮かべ、ごつごつした手で私の頭を撫でた。
「ドア、開けてくれようとしたのか。ありがとうな、聡美」
男は背が高く、扉の枠の上部に頭をぶつけそうになりながら部屋へと入ってくる。手にしたトレイには、湯気の立つコーヒーカップが2つ乗っていた。
(あぁ、そうだ……)
私は思い出した。自分はこの人の妻だと。
改めて夫を見つめる。体を覆う隆々たる筋肉は服越しにもわかる。無駄な脂肪がそぎ落とされ、くっきりとした陰影を持つその身は彫像のように美しい。
「どうした、聡美? 映画見るんだろ?」
「え? あ、うん」
ソファーへ私を招くその瞳は、生命力みなぎる光をたたえている。野性味あふれる体つき、自信に満ちた表情。声はほろ苦さと甘さを併せ持ち、耳にしただけで体の奥を痺れさせる。
「今日は何を観るの? えぇと……」
夫の名を呼ぼうとして、私は違和感を覚えた。
(この人の名前、何?)
思い出そうとするものの、なぜか記憶の中に彼の名は存在しない。探れば探るほど靄の彼方へと消え去ってしまう。
(あれ? どうして……)
「聡美?」
「あ、ごめんなさい、えっと……」
「……」
(どうして? なんで? 結婚した相手の名前を、なぜ私は思い出せないの?)
どんな出会いをした? どんな言葉を交わした? どんなふうに愛を誓った?
「聡美、こっちにおいで」
大きな手に手首を掴まれ、やや強引に引き寄せられる。足元をふらつかせた私を、逞しい腕がゆったりと抱きとめてくれた。熱い胸の中に招き入れられ、甘い雄の香りに頭の芯がとろけそうになった時だった。心の奥で警告音が鳴った。
(違う……!)
私は腕を突っ張り、男の胸から自分の体を引きはがす。男の瞳が切なげに揺れた。
「……まだ、孝行のこと忘れられない?」
「っ!」
その言葉を耳にした途端、頭の中へ記憶が雪崩のように注ぎ込まれた。
(そうだ、私が愛したのはこの人じゃない。私は孝行の妻で……そして……)
たとえようのない喪失感が私を襲う。
(私が孝行に離婚を言い出した……。この人と結婚するために……)
足元が崩れてゆく感覚。孝行の哀しみに満ちた儚い後姿を思い出す。
(どうして……? どうして……!?)
魂が削り取られ、粉々に砕けていくほどの絶望。
(私は孝行が好きなのに、愛しているのに! なぜ私は離婚なんて言い出したの!?)
その辺の記憶が一切ない。どんな流れで今の状況にあるかも覚えていない。分かっているのは別れを切り出したのは自分で、孝行がそれを受け入れ、私は新たな夫と新たな人生を歩み始めたということだけ。
(どうして!? なんで!? 孝行のもとに戻りたい……! どうすれば、もう一度孝行の妻に戻れる!? でも、どの面下げて!? 私から彼を突き放したのに!)
「聡美……」
「いや! あの家に帰りたい……! 戻して! こんなのいやぁああ!!」
私は暗い和室の布団の中で目を覚ました。視線の先には、見慣れた天井がある。時計の秒針の動く小さな音が静寂をより際立てていた。
「……」
恐る恐る首を右へとかたむける。安らかな寝息を立てる夫、孝行の端正な横顔がすぐそばにあった。
(夢……)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます