第八膳🐹『孤独を癒すラーメン』①

 突然だが、二日酔いである。


「しもうた……飲み過ぎたわ……」


 ときおりガンガンと唸る重い頭を抱え、北橋きたばし達月たつきは今、のそのそと起き出してきたところだった。


 まだ朝の四時台。外が明るくなるのはもう少ししてからだ。

 キッチンの照明をつけ、水でも飲むかと冷蔵庫を開ける。


 庫内を占拠する食材の数々に、また顔をしかめる。

 なぜ、ひとり暮らしの自分がこんなに食料を買い込んでいるのかと。


「まったく。何か食わんと片付かんわ」


 ペットボトルの水を飲みながら、何から手をつけようかと庫内を眺めまわす。


「そういや関川さんに、アサリもろうたんやった」


 鮮魚店に勤める例の知人が、わざわざバイト先にまで持ってきて渡してくれた物だ。

 達月がそう何度も店まで行けないことをわかっているのだろう。ひとり暮らしの達月の体調をさりげなく気遣ってくれているようにも見える。


 食欲は、あまりない。ゆうべもろくに食べずに発泡酒ばかりを飲み続けてしまった。しかし、このアサリはありがたく消費せねば。


 そう思うと、やっと少し食欲が出てきた。アサリなら食べられる気がする。


「さっぱりと味噌汁でもええな。二日酔いにはシジミっちゅうけど、アサリも少しは効くやろ。あ、砂抜きせんといけんかった」


 塩水につけ、また布団に戻った。

 次に起きたら、うまいアサリ汁が飲めるはずだ。



  ◇ ◇ ◇



 目覚めると、食欲が味噌汁の気分を通り越していた。お腹がぎゅうと鳴る。

 アサリ汁にご飯をブッ込んでもいいのだが、買い置きの食料品の山の中にラーメン用の生麺があるのを見つけた。


「アサリのラーメン……さっぱり、塩。イケるかもしれん」


 他に具になる物がないか探してみる。

 わかめ、わけぎ、ゆで卵。先日作った、鶏の胸肉の酒蒸し。これだけあれば十分だ。


 作り方は簡単だ。

 砂抜きをしたアサリを水に入れて火にかけ、口が開いたら酒・塩・醤油で軽く味を調ととのえる。鶏肉の酒蒸しも、こごりごと入れる。

 別鍋で茹でた麺を湯切りして、アサリと鶏肉のスープに入れる。わかめとゆで卵を乗せ、刻んだわけぎを振りかけて完成。


 すっきりとした、アサリの香りが漂う。身を殻から外して口に含むと、ほんのりと潮の味が口内に広がる。酒蒸しにした柔らかな鶏肉からも、ほどよい鶏の旨味うまみが染み出ている。飲み疲れた胃袋にすんなり入ってくる、余計な飾りのないうまさだ。


 ふと思い立って、冷蔵庫からさらに一品取り出した。

 茹でた菜の花にツナとごま油を混ぜた、菜の花のお浸し。これもラーメンにちょこんと乗せる。

 独特のほどよい苦み、ごま油の香ばしさが潮の香りに溶け込んでいく。


「今のワイには、いい塩梅あんばいの塩っけやな……」


 食べながら、食材以外のことがどうしても思い浮かぶ。


「あいつの分は、別皿にとって冷ましてやらなあかんな。アサリも殻から取ってやらんと。麺も小さく切らんと、また貝ひもみたいに絡まってまうな。専用の丼……いや小鉢か、結局買ってやらんかったな……」


 今ここにはいない、友の姿を思う。

 不覚にも、目頭が少し熱くなってきた。ラーメンの塩気が少しずつ濃くなっていく気がするのは、自分の味付けのせいだけではないだろう。


「ハム……。自分、ちゃんと食っとるか……?」



  ◇ ◇ ◇



 ハムが、家へ来なくなった。


 事前に約束をしなくても気ままにやってくる間柄だったから、「ま、そのうち来るやろ」とのんびり構えていた。いつ来てもいいように、食材を買い込む習慣は続いていたが。


 いよいよ「おかしい」と思い始めたとき、どうすべきか達月は迷った。

 ハム関連で連絡先を知っているのは、ハムのトゥルーフレンドと翠鈴スイリンの二人のみ。二人とも今は海外だ。電話することはできるが、遠い場所にいる彼らに余計な心配をかけるだけかもしれない。


「ハム……どうしたんや? 何かあったんか?」


 あの小さい体で、事故にでも遭ったのか?

 いや、ハムは何があってもダメージを受けないはずだ。

 でも、年は取る。「おっさん」なのだから。

 人間だったときの歳は、確か五十か六十だったはず。でも、今は。


 ――まさか、寿命までハムスター化した……?


 嫌な考えが、一気に体中を駆け巡った。心臓の動機が治まらない。

 ハムに皿をぶつけてしまい、死んだかと思ったあの時の感覚がよみがえる。


 猫は死期が近づくと姿を隠すと聞いたことがある。

 まさか。


 いても立ってもいられなくなって、外へ捜しに出ようか、そう思ったとき。

 達月の部屋の、呼び鈴が鳴った。


「ハム!?」


 いや、そんなはずはない。ハムは呼び鈴を鳴らせない。

 いつも、ドアの前で達月の帰りを待ってるか、ベランダから入ってきて小石で窓をコンコンするのだ。


 ドア穴から覗くと、外にいるのは、翠鈴でもトゥルーフレンドでもなかった。

 まったく知らない、五十代か六十代に見えるご婦人がひとり。


「……どちらさんですか」


 また宗教の勧誘だろうと思ったが、返答の内容は達月の予想を大きく裏切った。


「達月くん、達月くんよね? 覚えてないかもしれないけど、私、大沢おおさわ咲子さきこです。元気だった?」


「え……すんません、人違いでは」


「あなたの携帯に、『OS』って連絡先が入ってなかった? あれ、私が入れたんです。私のことなのよ」


 この女性には覚えがない。が、「OS」という連絡先には覚えがあった。



  ◇ ◇ ◇



「現在の達月」にとっての「最初の記憶」は、約半年前。自分がこの近所の道路にひとりで突っ立っていた、というものだ。


 またか、と思った。

 また、記憶が飛んだ。

「まだ覚えていること」と「ぼんやりとしか覚えていないこと」、「すっかり忘れてしまったこと」がごちゃまぜで頭に残っている。


 自分がどこに住んでいるのかは思い出せないが、ジャージのポケットに財布と携帯電話を入れてあることは覚えていた。財布には鍵がついていて、中には運転免許証が入っている。


 免許に記載された住所を頼りに、このアパートへたどり着き、鍵を差してドアを開けた。

 部屋にも覚えがあった。どこに何があるのか、生活する上で必要な記憶は残っていた。部屋の隅に、五十万円ほどの現金と、達月名義の銀行口座のカードを隠してあることも。


「現在の達月の人生」が、そのとき、この部屋を拠点に始まったのだ。


「達月くんから連絡がなかったということは、まだ記憶が戻っていないのね……?」


 咲子の問いに、達月は無言で頭を下げた。


 達月が持ってた携帯電話に登録されていた連絡先は、「OS」という名の謎の電話番号のみ。電話の発信・受信履歴やインターネット閲覧履歴など、使用した痕跡を示す記録は見つからなかった。


 まさか、その「OS」が訪ねてくるとは。


「ひょっとして、あなたですか。ワイの口座に、いつも入金してくるのは」


 今度は咲子が、黙ってうなずいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る