38 自分の気持ちに正直になれ!

 綾小路は正座した膝の上に、汗をかいた拳を載せていた。

 広い和室で婚約者と二人きり。綾小路の両親は席を外してしまった──茶色いローテーブルを挟んで、座椅子に座っている。テーブルには湯呑みに入ったお茶とお茶請けが用意されていたが、手をつける気分にはなれない。

 綾小路から見て左側は廊下に続く襖、右側は庭園が見晴らせるガラス戸。天気も良く、いい景色だが、この相手と眺めたところで何も癒されはしない。

「…………」

「…………」

 ずず、とお見合い相手が茶を啜る音だけが、和室に響いた──彼の黒髪はきちんとセットされているものの、小太りの体型からは体調管理の甘さがにじみ出ていた。一重瞼で、細い目は開いているのかどうかも定かではない。大きな団子鼻と丸顔が、どことなく子供っぽさを感じさせる。

 今日こそは自分の思いをぶつける、と決心したはいいものの、いざ言い出すとなると萎縮してしまった綾小路を、婚約者の男性はどう思ったのか、

「……今日はいい天気だ、お庭にでも出ようか?」

 と、提案してきた。

 この人と顔を合わせるのは三度目だ──まだ緊張していると勘違いされたのかもしれない。

「……はい」

 婚約者に言われるがままに、綾小路は立ち上がった。



「立派な庭園だね、空気が気持ちいい」

「そう、ですね……」

 綾小路は俯いたまま、そう返事をするのが精一杯だ。

 池の中の鯉を眺める──この池から一生出ることもなく飼育されるこの魚と、弱肉強食の世界でありながらも、海を自由に泳ぎ回る魚は、いったいどちらのほうが幸せなんだろうか。

 囲われた狭い池の中で、外敵に襲われる危険もなく、餌にも困らない──自由のない安定した暮らし?

 それとも、自分の力だけ信じて生きていく、自由だけど危険な道?

 綾小路は、鯉に自身を重ねていた。

 両親に言われた言葉が蘇る──彼と結婚すれば将来安泰だぞ、と。

 自由と引き換えに得られる安泰とは、どれほど素晴らしいものなのだろうか。

 横を見れば、婚約者がうすら笑いを浮かべて、綾小路を見守っていた。それが、どれほど気色の悪い視線か、彼は自覚がないんだろう。

 ……早乙女さんだったら、なんて言うかしら……。

 自分の気持ちを向き合うきっかけをくれた、男勝りな口調のクラスメイトを思い出す──彼女は、『自由のない安定』に、どう評価を下すのか、少しだけ考えてみる。彼女らしいセリフは、すぐに思い浮かんだ。

 ──きっと、こう言うだろう。

「そんなもん、クソくらえ……」

「え?」

 口から出ていた。聞き取れなかったのか、綾小路らしからぬ口調に驚いたのか、婚約者が聞き返してくる。

 そんな彼を、綾小路は睨みつけた。

「あ、あの! わたくし、実はあなたに言わなければならないことがありまして……!」

 もう引かない。

 わたくしは、わたくしの夢を諦めない。

「ん? なんだい?──欲しいものがあるなら、遠慮せずに言ってごらん?」

 婚約者が綾小路の顔を覗き込む。高価なものが欲しいから、おねだりするのが言いにくいのだと推察したようだ。

 ──そういうところが、心底気持ち悪い。

 この人と結婚して、一生を添い遂げるなんて、わたくしにはできない。


「わたくし……! 大学に進学したいのです……!」


 綾小路は、ぎゅっと目を瞑って、宣言した。

 それは、明確な婚約拒否。

 綾小路が両親から聞いた結婚の条件によると、彼は綾小路を家から出す気は一切ないと聞いていたのだから──専業主婦と言えば聞こえはいいかもしれないが、軽い軟禁状態に陥れようとしているのは明らかだった。

「…………」

 リアクションは、ない。

 恐る恐る、綾小路は目を開けて婚約者の顔を伺う。

「…………っ!」

 見たこともないほど、彼の顔に影がかかっていた──いつも優しそうにニコニコしている細い両目を、気持ち悪いと感じたことこそあれど、こんなに恐ろしいと思ったことはなかった。

「……それは、聞けない相談だなぁ」

 ドスの効いた、いつもより数トーン低い声──恐怖に震える綾小路の細い手首を、彼は無遠慮に掴んだ。

「君のお父様に、事情を説明してもらわないと」

「い、いやっ……!」

 綾小路を引き摺るように、料亭へ戻る婚約者──綾小路は必死に抵抗を試みるが、びくともしない。

 ──怖い。

 涙が両目に溜まる。滲み始めた視界の中で、婚約者の後ろ姿がとても敵わない存在に見えた。

 言っても駄目だった。抵抗しても力で押さえつけられる。

 わたくしは、やっぱり諦めるしか……、


「よく言った! 綾小路!」


 そのときだった。

 綾小路のヒーローが、どこからか現れたのは。

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