第08話 アレクシオの予感


 アレクシオはエアラの手を取り、ゆっくりと祭壇に向かい歩いていた。

 エアラを正式な婚約者とする為だ。

 些か早すぎるのではとは思ったものの、既に準備は万端だと王室や公爵から押し切られた形で纏まってしまった。


 けれどリリーシアが自分から逃げて行ったあの時から、アレクシオはどうしようもない苛立ちに襲われていた。

 黒馬に背負われ夜空を飛び去ったリリーシアを、臨時で招集した兵士では捕まえる事も、後を追うことも、方角を特定する事すら出来なかった為だ。


 あの日まで、アレクシオはエアラの手を握り、笑顔を見るだけで多幸感に包まれていたのに。

 今取るこの手に覚える不満とも不快とも言える感情は、リリーシアのせいだと思う。

 血に染まり青白い顔をした元婚約者があんな姿をしていれば、気分が悪いのは当然だ。


(彼女は今まで顔色一つ変えない人だったから、余計に……)


 エアラと出会ってからアレクシオは沢山の感情を知った。いつも笑顔でいる彼女に、自身の心に、まるで鮮やかな花が咲き乱れるように胸が高鳴っていったから。

 笑顔で本音を口にする姿が可愛いと思った。

 コロコロ変わる表情は裏表が無く、こんな風に気を抜いて誰かと接したのは久しぶりで……


 王太子教育を詰め込まれた反動か、アレクシオはこの感動に抗えなくて、自分にはエアラが必要だと思ってしまった。

 聖女である彼女は国民人気も高く、自分の隣にいるべき当然の人物だと、やがて彼女が近くで笑う事を誇らしく思うようになっていった。



『リリーシアさんて、強かな方ですよね。私なんて何も出来なくて目障りで……嫌われてしまって、邪魔者で……きっと当然なんだわ』

『そんな事ない! 何を言い出すんだエアラ!』

 落ち込み顔を伏せるエアラを慮り、ギリッと奥歯を噛み締める。



 リリーシアさえいなければ──



 口には出さずとも態度に出ていたと思う。

 自分とエアラの運命は必然なのに、彼女は邪魔をする、と。


 そしてリリーシアが下らない嫉妬から繰り返した行動がエアラを悲しませ、アレクシオの心は決まった。

 誰もがアレクシオとエアラの婚姻に輝かしい王国の未来を期待しているのだ。当たり前のようにそれを背負い……


 一歩、祭壇へ足を踏み出す。


 邪魔者は消えた。

 もう戻れないところまできた。

 それなのに、エアラの手を取った今、本当にこれでいいのかと思ってしまう。


 リリーシアさえいなければ──


 そう頑なに思っていたものが、あの時飛び去って行った彼女を見て実は不思議と解けていった。

 青白い顔で悪鬼のような黒馬に攫われる姿を思い浮かべれば、不快感の中に微かに潜む感情に気付く。


(彼女は……無事だろうか。ちゃんと、生きているのだろうか)


 リリーシア捜索の手配は今も回しているが、報告は芳しく無い。



 リリーシアがいなくなり、アレクシオの心はあの夜から一歩も動けないままだ。

 そして止めた足に絡みつく感情は肥大して、不安を掻き立てる一方で……

 不快感が不安を生み、焦燥感に駆られる。その繰り返し。


(本当に、これで良いのだろうか……)


 再び込み上げる焦燥感にアレクシオは奥歯を噛み締めた。

 隣を見ればエアラが幸せそうに微笑んでいる。

 ……リリーシアに悪いと言っていたのに、もう吹っ切れたようだ。


 リリーシアが呪術を使う罪人なのは疑いようもないと、今迄嫌がらせを受けて来た自分がよく分かっていると、エアラはアレクシオに涙ながらに訴えた。



 彼女はよくリリーシアが可哀想だと言って泣いていた。

 きっとリリーシアは間違えただけなのだと。


 そんな優しい心の彼女を見れば、アレクシオも辛くなる。慰めたいと、度々エアラへと心を砕いた。


 一方リリーシアは泣かなかった。

 嫌がらせがバレた時も、お茶が腕に掛かり赤く腫れていた時も、アレクシオが拒絶した時でさえ、顔を強張らせて謝っていただけだ。

 そんな二人を見比べ、アレクシオはずっと、自分は何も間違って無いと思っていた。 

 リリーシアの瞳に僅かに灯った失望に、アレクシオは気付かなかったから。


『エアラさんと殿下は、とってもとってもお似合いです!』


 何故か全く嬉しいと思えなかった、あの言葉──何故なら……




 お似合い? 

 王太子の自分が?


 市井育ちの平民の娘と──……?




 ガツンと頭を殴られたような感覚が走った。

 エアラは聖女だ。

 彼女はただの一般人ではない。

 そう思っても、リリーシアの言葉は取れない棘のように胸の奥まで入り込み、じくじくとアレクシオを苛んだ。




「私、幸せですアレク。聖女として、この国の為に尽力していきますね」

 瞳を潤ませにっこりと笑うエアラに、アレクシオの冷静な部分がどうやって、と問いかける。


 熱心に王太子妃教育に取り組んでいると聞いていたが、聞けばリリーシアが十歳の頃に修了していた内容らしい。

 十歳のリリーシアが一年掛けて学んだ事。それを二十一歳のエアラが半年程で修めた事を褒められて喜んでいた。


 あの頃は二十歳を過ぎてもこんなに純粋な人もいるんだなと思っていたけれど……

 そんな込み上げる思いの中に、微かにあった焦燥感。誰もが聖女に盲目となっていたあの時は、その危機感に気付きもしなかった。


 今急いでリリーシアがこなしていた執務を預けられる人材を探している。エアラでは間に合わないからだ。

 そんな中で、社交に励み出したエアラに、今度は頭の痛い思いをしていた。


『私にはこれくらいしかできないから』

 そう言って歯を見せて笑い、茶会や夜会のホストを担うけれど、実際の運営は侍従にやらせるしかない。そんな手腕は彼女にはまだ無いのだ。

 出来ない事はやらず、別の仕事を増やしてくる。

 そしてその度に人手が足りなくなり、また予算が必要になる。


 しかし聖女が美しく着飾り笑顔でユニコーンを撫でれば、それだけで誰もがあやかりたいと寄ってくるのだから、これ以上無い社交ではある。……その出費額には毎度頭が痛くなるけれど。


 アレクシオには王太子の仕事に加え、リリーシアが取り組んでいた王太子妃の仕事も回されるようになり、毎日目が回る程忙しい。

 エアラの奔放さを補っていたのもリリーシアだったので、今はもう、エアラと過ごす時間など取れていない。


(──リリーシアが、いなくなったから……)


 一人で励む政務がこれ程辛いとは知らなかった。

 誰かの為の献身。

 国の為なら自分を奮い立たせ耐えられた事が、たった一人に置き換えただけで、これ程意味合いが違ってくるのかと……

 楽しそうに笑い、遊びに誘ってくるエアラを見る度に何度も挫けそうになった。


(時間なんて無かったんだ……)

 それこそ何かを画策する時間も、城内で孤立化していた彼女なら余計にそうだった。


 エアラに染まっていた自分。

 愛しい人の為に、自分の心を犠牲にしている邪魔者だと、リリーシアに憎しみを向けていた。


(努力に憎悪を向けられて……彼女はどれ程辛かったのだろう……)


 エアラとの未来に覗き見える影に、焦燥感が募っていく。このままエアラと婚約し……やがて王妃として迎えてもいいのだろうか。

 これは本当に慶事で、これでこの国が安泰だと、本当に間違いはないのだろうか──?

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