のちに砂漠の魔女と呼ばれるじゃじゃ馬の話

三浦常春

第1章 魔術士プランダ

1話 プランダ・ベッカー

 ある晴れた日のこと。シュティーア王国王都の一角に怒声が響き渡った。


「泥棒ーッ!」


 賑わいを切り裂く野太い怒号と、それから逃げるように人混みをかき分ける浪人が一人。腕にはひしゃげた皮の袋が握られていた。


 浪人の足取りはどことなく頼りない様子であったが、速さといえばさながらハヤブサのよう。怒号を引き離して中央街から離れようとした。


 ちょうどその時である。


 青みがかった髪を揺らた女が群衆を抜いていく。膝丈の外套コートを翻し、皮帯ベルトに差していた杖を引き出して、素早く唇を動かした。


「……『豊潤なる水の精霊よ、我に恵みを授けたまえ――!』」


 杖の先に水が集まる。言葉に応え、形を変えた魔力が泥棒の足へと絡みついた。


 どしゃりと無様にも倒れ伏す泥棒ははっとして足を振るが、魔術が解けることはなく。薄汚れた革靴を、貧相な下履きをずしりと重くしていた。


 そこへ近づく足音。魔術を放った少女は腰を屈めると、泥棒の手から皮の袋――パンが入った袋を取り上げた。


「火で焼かなかっただけ感謝なさい」


 名をプランダ・ベッカー。のちに『砂漠の魔女』と呼ばれる少女である。


 未だ水に捕らわれたままの泥棒は、年端もいかぬ少女を睨みつける。プランダはといえばフンと鼻を鳴らして、背後の足音を迎えた。


「はあ、はあっ……、助かったよ、プランダちゃん……」


「気にしないで、おばさま。たまたま通りかかっただけよ」


 追いついてきたのは、ふっくらと頬を膨らませた女性だ。


 彼女は確か脇道にある小さなパン屋の店主だったはず――プランダは記憶を探りながら、盗まれたものを返した。


 盗まれた個数、きっちり五個。きっと寝蔵に戻ってからゆっくりと食べるつもりだったのだろう。逃げながら口に放り込めば多少は腹も膨れただろうに。


 欲が浅いのか、それとも思慮深いのか。


「全く……よりによってパンを盗むなんて。もっと高額なもの、他にあるだろうに」


 品物のありさまを見た店主も呆れ気味だ。


 無事品物は返ってきたとはいえ、盗みは盗みだ。浮浪人に抵抗の意志がないことを認めると、プランダはひらりとスカートを返した。


「おばさま、少し待っていてくれるかしら。衛兵を呼んでくるわ」


 その時、ぐいとスカートの裾が引かれた。浮浪人がプランダを引き留めていたのだ。


「す、すまねぇ、見逃してくれ……幼い子供がいるんだ……」


「なら全うに働きなさい。何のために国があると思っているのよ」


「すまねぇ、すまねぇ……」


 ただただ平謝りを繰り返す男。


 何事かと立ち止まる人が増えてきた時、ふと店主が溜息を吐いた。


「あんた、行きなさい」


「おばさま!」


「もうこんなことするんじゃないよ。……それと、本気で働き口を探すなら、うちの門を叩きな」


 こちらを見上げる浮浪者の目に、微かな光が宿る。プランダは知らず知らずのうちに眉をひそめていた。


 店主の願い通りに〈水の魔術〉を解いてやる。すると浮浪者は何度も何度も感謝と謝辞を繰り返しながら去って行った。彼の手には何もない。


「ごめんね、プランダちゃん。せっかく捕まえてくれたのに」


 物言わぬプランダを見かねてか、眉尻を下げた店主が声を掛けてくる。プランダは首を振って、


「……いいえ。おばさまが、これでいいのなら」


 何よりも被害がないのが一番である。微笑んで返すと、店主も安堵したように破顔した。


「そういえばプランダちゃん、仕事場には行かなくてもいいのかい?」


「あっ」


 王都の中央にそびえる時計塔を見上げる。


 二本の針は十一を刺そうとしていた。始業の時間はとうの昔に過ぎているというのに、こんなところで油を売っているわけにはいかない。


「もうこんな時間! 始業に遅れそうだったの。ありがとう、おばさま」


 神使歴一三〇二年、春。プランダ・ベッカー、十八歳の出来事である。

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