第8話 目撃証言
ヘレナとイーナが日記を読み始めてから数時間。既に日は傾きつつあった。
「見つかりませんね……やっぱりなかったってことで、終わりにしませんか?」
ヘレナが心身ともに疲れ果てたように言う。
「もう日記を読むのもあと少し、これだけの量を読んだんだよ」
イーナはテーブルの上の本の塔を指さす。
確認済みの本は整理して並べてある。
司令部はかなり片付いてきていた。
「あと少しっていっても、数十冊以上ですけどね」
ヘレナは死んだ目で答える。
イーナがここまでナトゥアの痕跡探しに力を入れるのには理由があった。
連隊を計画的に殲滅するには、正確な偵察と街の包囲が不可欠だからだ。
日誌を読む限り、連隊はここまでの行軍で攻撃を受けていない。
とすると、偵察の手法は威力偵察ではなく、隠密偵察に限られることとなる。
隠密偵察は通常、敵を視認できる場所から距離をとってから行うことが多い。
しかし、ヴルカーンハウゼンまで進軍する連隊は、深い「灰色の森」を通るため、遠距離からの偵察は難しいと考えられる。
さらに、ヴルカーンハウゼンは盆地に位置し、帝都方面からの進軍は一つのルートしか存在しない。
これらのことを踏まえると、ナトゥアは計画遂行のために、連隊の進軍ルート上で待ち伏せ、通り過ぎるのを見送り、敵情を確認したうえで、そのまま包囲したのではないだろうか。
そして、一瞬でもそれを見たような気がする者がいないか、なんてことをイーナは期待しているのである。
森の中は薄暗く、索敵しているとはいえ敵の発見は難しい。
兵などが木を敵と見間違え、見えた敵を木だと自らに言い聞かせるのはよくある話だ。
単純な推論だが、ヴルカーンハウゼン周辺の地形を考えるとありそうな話ではあった。
「数十冊といえど、確認するのは全部じゃない、すぐ終わるんじゃないかな」
と、イーナはヘレナを宥める。
「恩人ですけど、人遣いの荒い恩人ですね…」
ヘレナは諦めたのか、再び本に目を落とした。
「うん?」
ヘレナのページをめくる手が止まる。
「ちょっとこれ、見てもらえませんか?」
ヘレナがイーナに寄って行って言う。
イーナが見ると、日記は連隊の「ゼルナー小隊」に属する、第二分隊の二等兵のものらしかった。
「ここです、ナトゥアに関係するらしいことが書いてあります」
ヘレナはページの一部分を指さす。
日付は連隊がヴルカーンハウゼンに到着した当日だった。
日記の書き出しは他の人間が書いたものとまったく変わり映えしない内容で始まる。
ヴルカーンハウゼンに到着。何も起こらなくて何よりだった。着いてもゆっくり休んではいられない。すぐに設営に駆り出されて、これを書くのは夜中になってしまった。廃墟の中で寝ればいいのに、中の瓦礫の片付けが全部終わるまでは許されないらしい。道端で寝なくて済むとはいえ、風よけの壁がないのは辛い。
嫌なことを思い出してしまった。森の中でのことだ。遠くの木々の間に、黒い何か、大きなものを見たような気がする。球のような人影。取り乱して仲間に説明したが、お前は元々臆病だとか、見間違いだと、相手にされなかった。確かにそうかもしれない。だが、見たには見たんだ。恐怖ゆえの幻覚だった、そういうことにしておく。
「球体……?」
イーナは予期しない日記の内容に首を傾げる。知りたいと思ったのはナトゥアがどのような行動を取り、連隊を壊滅させたかというプロセスなのに。
しかし、黒いという情報がある以上、ナトゥアの可能性も捨てきれない。
「しかもこれ、下手ですけど簡単な絵も描いてくれてるんです」
本文の下の余白に、落書きに近いような絵が描かれている。
木々の間から見える球体状の黒い物体はイーナが想像したものよりは大きく、思ったよりもきれいな球体をしていた。
球体は絵では暗く塗りつぶされているが、その下に曖昧な輪郭で塗られている部分もある。
イーナは妙なひっかかりを胸に覚えて、もう一度本文を読む。
『黒い何か、大きな、球のような人影。』
少し震えた声でイーナは言う。
「ヘレナ、ありがとう。これはしっかりと保存しておくよ」
イーナは背中に鳥肌が立っていくのを確かに感じた。
得体の知れない恐怖の中に、間違いなく興奮に満ちた喜びを感じる。
故郷のヴルカーンハウゼンで、ナトゥアを解き明かすチャンスが生まれた。
これで父の遺志を継げるかもしれない。
ナトゥアとの戦いの終わりを願い、研究し、最後には殉職した、イーナの父に。
結局例の日記以外に有力な情報はなく、作業を終えたのは夕方になってからだった。
外で火を起こして、二人で囲む。
春とはいえ、まだ日が暮れると寒く、外で寝るならたき火の火は必要だろう。
とはいえ、四ツ窓の二人は「部屋」を持っているので、外にたき火は必要ない。
厳しい気候や単独行動に強い。
四ツ窓が対ナトゥアで重要な役割を果たせる理由の一つである。
「増援、遅いですね」
ヘレナが鍋をかき混ぜながら言う。
「そろそろ頃合いかな、夕飯でも食べてゆっくり待とうか」
イーナは器を準備し始める。。
昨晩と同じく、キャベツとソーセージ、ニンジン、イモなどを煮込んだものである。
「サワークリームいれてもいいですか?」
ヘレナがサワークリームをスプーンにすくいながら言う。
「全然構わないよ、むしろ入れてほしいくらいかな」
ずっと同じ食事は飽きる。何しろ今日の朝も昨晩の残りのスープをパンに浸して食べているのである。まともに味を変えられるのはサワークリームくらいしかない。
「じゃあ、二人とも同意見ですし、鍋に直接入れちゃいましょうか」
ヘレナはサワークリームが入った容器を鍋に近づける。
「あ」
サワークリームが入った容器が丸ごと鍋に落ちる。ヘレナは短い声を上げた。
ヘレナは手を滑らせたようだった。
容器をすぐに掬い上げるが、スープの上に大きなサワークリームの氷山が浮かんでしまった。
「──すみません」
「いや、味に飽きかけてたからいいよ」
スープにサワークリームの山が浮こうと、不味くなる事はない。イーナはサワークリームをそのままでも積極的に食べる方だ。
イーナが器にスープをよそいはじめる。
すると、イーナの耳に、わずかに人のざわめきのようなものが届いたような気がした。
「増援、来たかな」
「えっ?そうですか?」
少しもすると、ヘレナにもはっきりと多くの人が近づいてくるのがわかるようになった。
広場の外壁の前で大きな声が聞こえた。
「フォルカー・エドラー大隊所属第2中隊のバウメルト大尉だ、広場に入れてもらえないだろうか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます