酒の場

「五郎!」

 名前を呼ばれて佐々木は振り向く。名前を呼んだのはホワイトキャットの選手兼投手コーチの山鰻やまうなぎ金治だった。

 山鰻は佐々木と同年代の元NPB選手。身長180センチ、体重90キロでピッチャーというか野手の体。そして顔は任侠映画に出てきそうな強面顔。

「この後、どうだ?」

 山鰻は親指で人差し指で作った輪を口元へ向ける。

「ああ。構わんよ」

「よし。そうこなくっちゃあ。良い店あるんだよ」

 そう言って山鰻は佐々木の肩をとんとんと叩く。

 ホワイトキャットの中でも、佐々木ほどの著名な選手に分け隔てなく、接するのは山鰻くらいである。他の選手はNPBやメジャーで活躍した佐々木には萎縮してしまうらしい。

 それゆえ佐々木の中でも分け隔てなく接してくれる山鰻の存在は大きい。


  ◯


 山鰻が紹介した店は個室のある和食料理屋だった。

「かんぱーい」

 子供のような無邪気な笑みで山鰻は乾杯の音頭をとる。

「乾杯」

 佐々木もお猪口を掲げる。

 そして互いに酒をぐいっと飲む。

「うまいねー」

「そうだな」

「最近、梅原と仲直りしたのか?」

「いきなりかよ」

 山鰻が酒に誘ってきたから梅原のことだろうと佐々木は勘付いてはいたが、いきなりくるとは思わなかったようだ。

「で、喧嘩の原因はなんだったんだ?」

「なんでその時に聞かないんだよ。終わってから聞くなよ」

「いやあ、俺もさ、忙しかったんだよ。あれこれ終わってから話を聞こうとしたらさ、もう仲直りしてんだもん」

「そりゃあ、すまんな」

「で、喧嘩の原因は何だ?」

「そもそも喧嘩というのかな?」

「いいから言えよ」

「俺達って、授業あるだろ? キャリアなんとか……」

「キャリアマネージメントな」

「それ。それに出る気はない。それと……」

 これは山鰻に言っていいのかと佐々木は迷った。

「トライアウトなしで戻るんだろ。古巣に」

「知ってるのか?」

「皆、知ってるよ」

 そう言って、山鰻はマグロの刺身を食う。

「まあ、それで、許せなくてな。ちょっと言い合いになっただけさ。お互いにオワコンだのって罵り合って……な」

 そして佐々木は酒を飲んだ。

「オワコン。そうだな。俺達はオワコンだな」

 山鰻は笑った。

「おいおい、笑い事ではないぞ」

「でも、現実だ」

 山鰻は声音を変えて告げる。目もおどけたものではなく、培った固い意志を持っている。

 佐々木はもう一杯酒を飲む。

「まさか定年退職まで現役なんて言わないよな」

 定年。それは65歳を指しているのか。それとも一般的な選手生命か。

 いや、これは前者であろう。選手生命なら佐々木はもう定年を越えているのだから。

「そりゃあ、言わないけど。まだ俺は出来ると思うんだよ」

 佐々木は自身の手を見る。

 バットを振り続けたボロボロの手。

「そうか。なら、頑張るしかないかもな」

 山鰻は酒を飲む。

「でも、授業のキャリアマネージメントもいいぞ」

「お前は転職する気なのか?」

「いやいや、結構面白い話を聞けるぞ」

「どんな話だ?」

「経済とか現代社会とかな」

「理解できるのか?」

 佐々木は笑った。

「おいおい、馬鹿にするなよ。結構分かり易い授業なんだぜ」

「へえ」

「例えば、今の日本は景気が良いと思うか?」

「アメリカにいたから知らん」

「それはずるい」

「で、どうなんだ? 悪いのか?」

「アベノミクスで景気は良くなったと聞くが、実際は一部の富裕層で一般の人は全くだって話。そして格差がより深刻したんだとさ」

「最低賃金が上がったって聞くが?」

「上がったからなんだよ。そりゃあ、上がることは嬉しいさ。でも、大事なのは正規雇用だ。正規雇用は変わらないぶん、最低賃金を上げた。つまりは非正規雇用で我慢しろってことなんだよ」

 山鰻は嫌悪の顔をする。

「詳しいんだな」

「勉強のおかげだね」

「でも、無期契約もあるだろ?」

「ところが無期契約イコール正規雇用というわけではないんだよ」

「へえ」

「だから、きちんとした無期契約のある会社を選ばないといけないんだよ」

「それはしんどそうだな」

「大北緑ジムとかは結構いいらしいぞ。あそこは無期契約も正規雇用のように雇ってくれるとか」

「ふうん」

「ジムトレーナーの何人かも元プロ野球選手らしいぜ」

 そういえば、棗小春なつめこはるは元女子プロと聞く。

 そこでもし自分が大北緑ジムで働けば彼らは先輩ということになることを佐々木は理解した。それが少しおかしかったのか、頬を緩めてしまった。

「どうした?」

「いや、お前がジムトレーナーというのもおかしいなと思ってな」

 と、佐々木は嘘をついた。

「なんだよそれ」

「すまん、すまん。イメージがな」

「でも、いつかは野球以外の仕事で働かないといけないんだぞ」

「そうだな。でも、できれば次も野球関係がいいな」

「お前ならコーチとかの話は来てないのか?」

「ないな」

 佐々木は首を横に振る。

「そうか。……っと、箸が止まってるな。どんどん食ってくれ」

「ああ」

 言われて佐々木は鯛の刺身を食べる。


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