電話

 小春はこの町にマンションを借りて引っ越していた。

 荷解きは昨日のうちに済ませている。

 小春は夕食を食べ終えて、今は日課のトレーニングをしていた。

 もちろん、マンションの一室ゆえ、大きく体を動かすトレーニングはできない。

 今はバランスボールの上に座り、床に対して腕を平行に伸ばしながら鉄球を下にして指先で掴んでいる。

 そして指先と手首を使って鉄球を回し、すぐに指先で掴む。

 小春は鉄球を指先で回しつつ、今日のことを考えた。元メジャーリーガーの佐々木と梅原。トレーナー経験のない自分がどうして選ばれたのか。それは不思議であった。社長には自身がここに来た理由はから伝えられているはず。

 しかし、経験を与えるためにしては大役ではないだろうか。

(何か裏がある?)

 そんなことを考えていたら充電中のスマホが鳴った。

 トレーニングを一時中断し、スマホを充電コードから抜き取り、画面を確認する。

 母からの着信だった。

「もしもし、何か用?」

『何か用ではないでしょ。連絡するって言ってたでしょ。それなのに全然連絡してこないんだもん』

「ごめん。今、忙しくて」

 その言葉に間違いはない。

 昨日は荷解きをして、この町周辺に慣れるため、スマホのマップを片手に散策。今日は新しい仕事場で社長や課長と今後の話し合い。そして一緒に仕事をする先輩との顔合わせ。

『仕事はどう?』

「まだやってないよ。明日から」

『あら? なら今日は暇だったんじゃないの?』

「ジムの先輩とか担当する選手の顔合わせとか、あと今後の仕事の話」

『顔合わせ? 何よそれ?』

「私はバイトだから先輩と一緒にトレーナーをしないといけないの」

『資格を持ってても』

「資格を持ってるといっても経験はないし、それにジムの勝手が分からないのに単独でトレーナーは駄目でしょ」

『ふうん。で、その先輩はどんな人? イケメン?』

 小春の母は面白い話が聞けそうと楽しんでいる。

「残念。女性よ。歳は私より下かな」

『あらあら、それは大変ね』

「悪い人ではなさそうだから問題ないよ」

『そう』

 ここで通話を切ろうかなと小春は考えた。

 それが伝わったのか母親から、

『で、何か必要なものはある?』

「ないよ」

『ご飯は食べた?』

「食べた」

『弁当でしょ? たまにはきちんと自炊しないと駄目でしょ?』

「ちゃんと自炊してる」

『ゴミはちゃんと捨てるようにね』

「分かってるよ。もう切るよ」

『あっ、待って、お父さんも話したいことあるそうよ』

「ええ!?」

 小春は嫌そうな声を出した。

『おう、小春か。元気か?』

「うん。元気」

『その、なんだ、あれだ、ええと、お母さんはあれこれうるさいかもしれないけど心配してのことだから』

「うん。分かってる。もう切っていい?」

『ああ、元気でな』

「そっちもね」

 そう言って小春は通話を切った。

 スマホを再度充電コードに差して、次は3キロのケトルベルを使ったトレーニングを始めた。


  ◯


 トレーニング後、小春はシャワーを浴び、湯船に浸かった。

 湯船の中で腕や肩をほぐす。

 そして明日のことを考えた。

 トレーナー。それは新しい職種だった。

 前とは違った職種で、言うなれば表が裏になった感じ。

 もしもの時──いや、いつかはこうなると理解していた。人は育ち、そして衰える者だか。けど、あの頃はCSCSの資格が役に立つとは思っていなかった。

 生涯現役。

 そんな馬鹿なことを小春は当時考えていた。

(馬鹿だなぁ)

 でもあの頃は若かったのだ。終わりのことなんて考えていなかった。

 今を生きるので頭がいっぱいだったのだ。

 目を閉じるとあの頃のことが甦る。

 辛いこともあったが、楽しいこともあった。勝てば喜び、負ければ悔しく、時には泣くこともあった。それでも全体的には充実した日々だった。

「駄目、駄目! しっかりしなきゃあ!」

 小春は声に出して、自分を叱責する。そして頬を叩く。過去の幻影を消して、今を見つめる。

 湯船から上がり、バスチェアに座り、シャワーの蛇口を開放する。

「ぎゃあ! 冷たっ!」

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