消えた兜 1
「ねえ、もうやめましょう」
蝋燭のオレンジ色の炎が、二人の影を照らしていた。
狭い地下室には小さな祭壇。祭壇の奥には、剣と盾を構えた髪の長い女性――戦女神の像がある。
祭壇の上に食料と水の入った籠を置き、彼女は泣きそうな顔で彼の手を取った。
「もういいでしょう? もう、おばさまはいないのだから。あなたは確かにおばさまの子だけど、半分はおじさまの――この国の貴族の血を引いているのよ。だから……」
「駄目だよ」
彼は彼女の言葉を途中で遮って、彼女の手をそっと引きはがす。
彼女の頭を撫でて、淋しそうな顔で、ポツンと言った。
「だって俺の耳にはもう、母上の声がすっかり絡みついていて、どうあっても取ることができないんだからね。俺が生まれた理由は――母上が俺を生んだ理由は、たった一つ、それだけのためなんだから、だから俺は、自分を生んでくれた母上の願いを叶えなくてはいけないんだ」
「そんなことないわ! だってわたくしは――」
「駄目だよ」
彼はもう一度繰り返して、彼女の唇を指先でそっと押さえた。
「だから君ももう、馬鹿なことはやめるんだ。何をしても俺は止まらないし、止まることも許されない。……君はこれ以上罪を犯さず、どうか、ほかの優しい男と幸せになって」
彼女は目を大きく見開いて、はらはらと泣き出したが、彼は昔のように彼女を抱き寄せて優しく慰めてはくれなかった。
「食べ物をありがとう。でも、もうここには来てはいけないよ」
彼の指先が、唇から離れていく。
帰るようにと、すっと指示された細い階段を見て、彼女は両手で顔を覆った。
あの階段を昇ったら最後、本当にもう二度と会えないような気がしたからだ。
「ねえ――。最後に一つだけ。もし俺が死んだら、父上にごめんなさいとだけ伝えてくれる? ……あの人は俺のことなんてどうとも思っていないだろうけど、迷惑をかけることだけは本当だから」
最後なんて言わないでと、声に出して言いたかったけれど、どんなに縋ったところで、彼は立ち止まってはくれないのだろう。
ぽん、と背中を押された彼女は、何度も彼を振り返りながら、震える足でゆっくりと階段を昇った。
もう彼と生きては会えないかもしれないと、絶望しながら。
☆
用事がなければ部屋の外へ出てはならないというフランシスの命令は一日で解けた。
部屋にずっと閉じ込めておくのは可哀そうだと判断したのか、それぞれの部屋に割り振られた護衛の騎士を伴ってであれば、城の中と庭までなら出ることが許可されたのだ。
しかしフランシスから城内に不審人物が出たと知らされていたこともあり、積極的に部屋の外へ出ようとする妃候補は多くなかった。
「騎士の兜をかぶった不審者なんて、恐ろしいですわね」
イレイズが少しばかり疲れたような顔で言った。
エルシーはクラリアーナに誘われて、部屋に閉じ込められて監視がつけられているイレイズの様子を見にやってきたのだ。
イレイズの部屋の前にはコンラッドがいたが、エルシーとクラリアーナならばいいだろうと部屋に入れてくれた。クラリアーナに秘密を握られているコンラッドが、にこりと微笑んだクラリアーナに逆らえなかったのかもしれないが、彼がクラリアーナとエルシーを信用してくれているのも確かなようで、ララの時のように部屋の中へ入ってこようとはしなかった。
クラリアーナ情報では、コンラッドは暇さえあれば監視と称してイレイズの部屋の前にいるらしい。恋人のことがよほど心配なのだろう。
クラリアーナ曰く、フランシスは色恋沙汰にとても鈍感なのだそうで、コンラッドとイレイズのことはこれっぽっちも疑っていないのだそうだ。もっとも、気が付いたところで彼はどうもしないだろうとも言っていたが。
コンラッドが頻繁に姿を見せるからか、多少は憔悴しているようだが、思っていたよりイレイズは元気そうだった。
閉じ込められていることもあり外の事情に疎いので、クラリアーナがここ数日で起こった出来事をかいつまんで説明すると、彼女は頬に手を当てて、ほうっと憂いを帯びた息を吐き出す。
「ここだけの話ですけど、その兜は、昔この城に飾られていたものらしいですわよ」
「え、そうなんですか?」
エルシーが目を丸くすると、クラリアーナは悪戯っ子のように笑った。
「ええ。スチュワート様から聞き出しましたの。昔、城に飾られていた騎士の鎧が倉庫に納められていたのですって。使用人に確認させると、騎士の鎧はありましたが、兜だけがなくなっていたそうですのよ」
「昔の鎧なんて。錆びているのではございません?」
イレイズが当然の疑問を口にした。
「こまめに使用人が磨いていたそうで、今でもピカピカなのだそうですわ」
「もし不審者がその兜を使ったとして、どうして倉庫に兜があると知っていたんでしょうか?」
「それなのですよね。スチュワート様も不思議に思われて、念のため使用人たちの部屋を確認させたようなのですけれど、倉庫に鎧があることを知っていた使用人たちの部屋には兜なんてなかったそうですのよ」
他にも、使われていない客室など、調べられるところはすべて調べたそうなのだが、それらしいものはどこにもなかったという。
「倉庫には鍵がかかっていなかったんでしょうか?」
「南京錠をかけていたようですけどね、使用人が確認しに行くと、鍵が壊されていたそうですわ」
倉庫は城の地下にあって、使用人たちも月に一度訪れるくらいで、滅多に倉庫には行かなかったらしい。だから気が付かなかったようだ。
ちなみに、さすがに今回のことで危機感を抱いたのか、スチュワートは城の警備を見直すことにしたという。
「スチュワート様は自分がお強いからか脇が甘いところがあって、ご自身の周りは必要最低限の警備ですませたりするんですよねえ」
「え、スチュワート様ってお強いんですか?」
ラベンダーを大切そうに抱える、温厚でどちらかと言えば細身のスチュワートを思いうかべてエルシーは目を丸くした。強そうには見えない。
「ええ。たぶん、この城にいる誰よりも強いのではないかしら? 先王陛下の時代に、不定期に開催されていた剣術大会で優勝されたこともございますし」
クラリアーナはまるで自分のことのように自慢げに言った。
「ええ!?」
ここにいる誰よりも強いということは、現役の騎士団長よりも強いということだ。エルシーは驚いたが、それはイレイズもだったようで、控えめな声で「コンラッド様よりですか?」と確認を入れた。
「ええ。最近、剣を握っている姿をお見掛けしませんから、あくまで当時のお話ですけど、剣術大会で当時の第一騎士団の団長をあっさり負かしてしまったそうですの」
複数ある騎士団の中では、騎士団総長も兼任する第一騎士団の団長が一番強いらしい。それを負かしたとなると、なるほど、クラリアーナが「一番強い」と言ったのも頷ける。
人は見かけによらないものだ。コンラッド騎士団長も、外見だけで言うならば貴公子然としていて、とても騎士団長を務めるほど強そうには見えない。
この国では騎士は貴族の血筋からしかなれないと聞くけれど、実力がなければなれるものではないそうなので、やはり強いのは間違いないのだろう。
自分が強いと、どうにも他人に守られるということに無頓着になるようで、いくら庭先と言えど、スチュワートが護衛騎士をつけずにふらふらと一人で歩き回るのはそのためらしい。
今回の件で少しは反省なさってくださればよろしいのですけど、と言ってクラリアーナは締めくくった。
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