戦女神の呪い 8
まさかイレイズとコンラッド騎士団長が恋仲とは知らなかった。
クラリアーナの部屋を出るとき、彼女からはこのことは内密にしておくように言われたけれど、なかなかに重たい秘密だ。もちろん口外するつもりはないけれど、万が一フランシスがイレイズを妃にと望んだらどうなるのだろう。
(泥沼三角関係?)
泥沼三角関係、というのがどういうことなのかはっきりとはわからないが、暮らしていた修道院の近所の村に住む恰幅のいいおばさんが、自分の娘が二人の男に取り合われて泥沼三角関係なんだと言っていた。きっと一人の女性に対して二人の男性が好意を寄せることを「泥沼三角関係」というのだろう。
エルシーはずれたことを考えながら、庭の薬草園に向かう。ダーナが一緒に行くと言ったけれど、今日は一人になりたいと言って丁重に断った。イレイズの嫌疑を晴らすために真犯人探しをすると言えば、絶対に反対されるからだ。
今日の空は少し曇っていて、気分まで重たくなるようだ。
薬草園に向かったのは、そこに何らかの証拠が残っていないだろうかと思ったからだ。
クラリアーナに盛られた毒――蜂蜜に混入されていた毒は、薬草園にある植物のものだったらしい。ここから採取されたならば何らかの痕跡が残っているはずだし、なければ別ルートで仕入れたものということになる。後者の場合、コンラッドと会っていたことを言わなくとも、イレイズの無実を証明することができるはずだ。
黙って薬草園に入るのも気が引けたので、庭師のポムを探したが、庭が広すぎて発見することができなかった。仕方なく、今度会ったときに薬草園を見させてもらったと伝えておこうと決めて、エルシーは薬草園に足を踏み入れる。
そこそこ広い畑だったが、きちんと区分けされていて、それぞれ各プレートに植えられている植物の名前が書いてあった。
一つ一つの植物をくまなく確かめながら進んで入ると、薬草園の一番奥――ちょうど、木の影に隠れている部分に一人の女性を見つけてエルシーは足を止めた。
(あれは……ミレーユ様だわ)
ミレーユ・フォレス伯爵令嬢だ。エルシーから見えるのは後姿だったけれど、オレンジ色の髪は少し珍しいから、間違いないだろう。
エルシーは声をかけようと思ったけれど、その前に、ミレーユはまるで誰かに見られることを恐れているかのように足早に立ち去ってしまった。
エルシーは不思議に思ってミレーユがいた場所に向かい、思わず目を見開いた。
「なんてこと!」
せっかく植えられた植物が踏み荒らされている。植物たちをわざと踏みつけたように、ほとんどの植物が踏まれてぺしゃんこになっていた。
(大変だわ! このままだったら枯れてしまう!)
エルシーにはどうすることもできないが、庭師のポムなら助けられる植物もあるかもしれない。
エルシーは慌てて、庭師のポムを探して走り出した。
ワンピースの裾をつまんでぱたぱたと庭を走っていると、前方から二人の騎士とともに歩いて来たフランシスがギョッとした。
「エ――セアラ! お前、なんて格好をしているんだ!」
思わず怒鳴られて、エルシーはビクリとして立ち止まった。
走りやすいようにワンピースの裾をつまみ上げているから、膝より少し上まで足が丸見えだが、それが問題なのだろうか。
ぱっとワンピースの裾から手を放したけれど、フランシスはずんずんと大股で近づいてきて、じろりと睨みつけた。
「そんなに足を出して庭を走り回るんじゃない!」
やっぱり足が問題だったようだ。でも、エルシーは裾丈が膝下のワンピースを好んで着ているから、言うほど大差ないと思う。ちょっと太ももが見えただけだ。
納得いかないなと思いながらも、相手は国王陛下なので逆らうわけにはいかない。素直に謝れば、フランシスは額に手を当てて、大仰に息をついた。
「あんなことがあったあとなのに、お前はここで何をしているんだ。一人でうろうろするな」
「は! そうでした! ポムさんを探さなくちゃいけないんで、失礼します!」
「ポム? こら、待て!」
フランシスに一礼して走り去ろうとしたのだが、その前に彼に手首をつかまれて押しとどめられてしまう。
植物が生きるか死ぬかの瀬戸際でとても急いでいるのに、邪魔をしないでほしい。
「ポムって誰だ」
「庭師のおじいさんです! 薬草たちが死んじゃうかもしれないんで離してください!」
「はあ?」
「だから薬草たちが踏まれて瀕死で大変なんですってば!」
その場で足踏みをしながら、エルシーが早口で説明したのに、フランシスはますます解せない顔をした。
「どういうことだ?」
「だから! 薬草園が踏み荒らされているんですってば! このままだと植物が死んじゃいますっ」
「薬草園が? 案内しろ」
「だから――」
「庭師なら騎士たちに探させる」
フランシスが二人の騎士に目配せすると、彼らは一礼してくるりと身を翻した。ポムを探してくれるのだろう。
エルシーは「もうっ」と心の中で毒づきながら、諦めてフランシスを薬草園まで案内することにした。
踏み荒らされた薬草畑まで案内すると、フランシスがその場に膝をつき、ぐっと眉を寄せる。
「トリカブトか」
「はい?」
「だから、この荒らされた畑に植えられていた植物だ」
植物の種類が重要なのだろうか? たとえ道端に生えている草花だって、踏み荒らされたら可哀そうだ。トリカブトだろうがなんだろうが関係ない。
だというのに、フランシスは踏まれたトリカブトを一つ一つ確かめて、こめかみを押さえた。
「女の足跡だな」
エルシーはハッとした。足のサイズまで見ていなかったが、言われてみれば男性の靴にしては小さい。
(もしかして、ミレーユ様が⁉)
だとすれば、どうしてこんなひどいことをするのだろうか。
「ここに、掘り返した後もある」
「え?」
エルシーが沸々とした怒りを覚えていると、フランシスが畑の一角を指さして言う。
掘り返した後? ミレーユは何も持っていなかったようだが。
どういうことだろうかとエルシーが首をひねっていると、騎士の一人が庭師のポムを連れて戻ってきた。
ポムは荒らされた畑を見て顔を強張らせると、「なんてことだ!」と怒りながらシャベルを手に踏まれたトリカブトを掘り起こしはじめる。大丈夫な株とダメな株をより分けて、植え替えるようだ。
手伝えることがあれば手伝いたかったが、薬草園の植物には毒があるものも多いので不用意に触れないようにと言われていたから、エルシーがいては邪魔になるだけだろう。
フランシスに促されて、エルシーは薬草園をあとにすることにした。
結局、イレイズの無実を証明するような手掛かりは見つけられなかった。
(グランダシル様にイレイズ様が早く解放されますようにってお祈りして帰りましょう)
エルシーが礼拝堂に寄って帰ると言えば、フランシスも付き合うという。彼は騎士たちに先に戻っているように告げて、エルシーの手をつかんで歩き出す。
「そう落ち込むな。一刻も早く犯人を捕まえられるように手は尽くしているから」
フランシスがポン、とエルシーの頭に手を載せる。
エルシーはこくんと頷いて、礼拝堂の重厚な扉を開き、そしてふと首を傾げた。
何かがおかしい。
「エルシー?」
扉の前で立ち尽くしたエルシーに、フランシスが途中で振り返って不思議そうな顔をした。
エルシーはじーっと礼拝堂の中を見つめて、やおら息を呑むと駆け出した。
「グランダシル様⁉」
「エルシー⁉」
入口から祭壇に向かって走り出したエルシーに、フランシスが慌ててついてくる。
「エルシー、礼拝堂の中を走るな。危な――」
フランシスの声が聞こえるが、エルシーはそれどころではなかった。
礼拝堂に入ったときの覚えた違和感。それはグランダシル神の像が見当たらなかったことだった。
礼拝堂の祭壇の奥には、グランダシル神の像があった。それはどこの神殿も同じで、今朝、礼拝堂に祈りに来たときには確かにここにもあったのだ。
それなのに、どうしてなくなっているのだろうかと祭壇に近づいたエルシーは、言葉を失って立ち尽くした。
エルシーのすぐ後にやってきたフランシスも、祭壇の奥を見つめて目を見開く。
「……なぜ」
フランシスが茫然とつぶやいたけれど、エルシーの耳には入らなかった。
(……誰が)
ふ、とエルシーは息を吐いた。
「ふ、ふふ、ふふふふふ……」
その低い笑い声に、フランシスがぎょっとした。
「エルシー?」
「ふ、ふふふふふふふふ……」
「エルシー⁉」
フランシスがエルシーの両肩に手を置いて小さく揺さぶったけれど、エルシーの視線は祭壇の奥から動かせなかった。
エルシーは、笑いながら泣いていた。
エルシーの視線の先。そこには、無残にも砕かれたグランダシル神の石像がある。
誰かが引き倒した。そうとしか思えない壊れ方だった。
(誰が……誰がこんな罰当たりなことを……!)
怒りで頭がどうにかなりそうなのに、ぼろぼろと涙が溢れて止まらない。
エルシー、とフランシスにもう一度名前を呼ばれて、それでも反応できないでいたら、ぐいっと彼の胸の中に引き寄せられた。
一心に砕かれたグランダシル神の像を映していたエルシーの視界が、フランシスが着ていたダークブルーのシャツに変わる。ミントのようなさわやかな香りがした。
「落ち着け、エルシー」
優しい声がして、ぽんぽんと背中を叩かれる。
どのくらいそうされたのかはわからないが、やがて、怒りのためにカチコチになっていた体からすーっと力が抜け、ぼろぼろと溢れていた涙が止まると、エルシーはフランシスの胸の中で顔をあげた。
「もう、大丈夫です。取り乱してすみませんでした」
そう言って、グランダシル神の像に視線を戻したが、壊された像を見るとまた頭に血が上りそうになる。
頭を左右に振って冷静になると、エルシーは大きく深呼吸をした。
(落ち着かないと。怒ったってグランダシル様の像が元通りになるわけじゃない。そんなことより、早く像を起こして……ああ、これだけ壊れていたら、修復できないかもしれないわ)
腕や足が砕けて折れ、胴も真っ二つ。幸いにして首と頭はつながっていたけれど、だからどうにかなるという問題でもないだろう。相手が石像でも、ここまで壊れていたら元には戻らない。
「エルシー、ここの石像については、至急、職人に作らせるように言おう。ここにいてはお前が冷静でいられないだろうから一度外に出ないか?」
「でも……」
新しい石像を手配するのならば、あの壊れた石像はどうなるのだろうか。
グランダシル様は天にお住まいで、この石像は彼の姿を模したただの像であることはわかっているけれど、「処分」という言葉が脳裏をよぎったエルシーはここから立ち去るのを躊躇った。
不安そうにしていると、フランシスがエルシーの肩を引き寄せて、そっと耳元でささやく。
「あの石像なら問題ない。彫像師は、失敗した像や、撤去した像などを供養し埋葬する方法を知っている。あの像のことも、悪いようにはしないさ」
エルシーはホッと胸をなでおろした。
フランシスに肩を抱かれたまま、エルシーは礼拝堂から連れ出されると、背後でぱたんと閉まった扉を思わず振り返る。
そして、きゅっと唇を引き結ぶと、砕かれた石像を思い出しながら心に誓った。
(待っていてくださいグランダシル様。グランダシル様の大切な像にあんなことをした犯人は、絶対にわたくしが捕まえて反省させて見せますからね!)
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