今は亡きマキ

無為憂

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 次の大型アップデートで彼女は動けるようになるらしい。

 弊社の受付嬢は、今ではもうめずらしくないアンドロイドで、旧型から新型に変えるとのことだった。起用しはじめてもう六年になるらしく、ついに動けるアンドロイドの実装か、と社内でもその話題で持ちきりだった。

 親会社がアンドロイドのテクノロジー開発部門を持っていて、その使用データを収集するために弊社でも使われているということだった。

 聞くところによると、最初はお掃除ロボットのような雑な扱いを受けていたらしい。しかし年を重ねるにつれアップデートが入り、今では人間となんら遜色のない会話、おもてなしが出来るようになったという。

 受付嬢、大葉マキはあらゆる人々から愛されていた。まるで国民的キャラクターのような言い方をしたけれど、彼女を嫌っている人は見たことがないし、彼女を恋愛対象として見ている人も少なからずいる。「愛されている」が文字通り、性愛の愛まで及んでいるのだ。

 僕もそのうちの一人で、彼女の完成されたビジュアルと人工肌に魅了されていた。ぷるん、とハリのある肌に、艶やかな唇。どれだけ完成されていても、粘膜ではないとわかっているのに、僕はその唇を自分の唇と重ねたいと思っていた。

 それは出勤して間も無くのことだった。僕の上司にあたるような年齢のサラリーマンから、僕の先輩にあたるような年齢の人まで、受付で群れるように大葉マキに話しかけていた。三人。

 その近くを業者がうようよと動き回っている。直接的なことはしないにせよ、数人の業者は、大葉マキを解体する作業の邪魔をする三人を嫌な目で見ていた。機械に色恋の目で見るなんて、といったように。

 今後、ロボット間での生殖が可能となる見通しが立っているため、機械との恋愛を黙認している人間と敵視している人間でこの国は割れている。いくらロボットによる労働で深刻な少子化が緩和されているとは言え、これ以上性愛が多岐化しては困る、というものだった。

 僕は別にそんなのどうだっていいと思う。好きな人を好きと言えれば、ただそれだけで。

 始業の時間が迫って、彼らは必死な笑顔を振りまきながらエレベーターに乗って職場のある階へ上る。

「おはようございます」

 彼女の横を通りがかると、挨拶された。

「おはようございます、大葉さん」

 僕からすると、大葉マキはここで働いて四年の先輩になる。だからいつも敬語が抜けない。

「朝から大変そうですね」

 彼女は人間が見せるような、表情の硬い、ぎこちない微笑を浮かべた。完璧だ──、と思う。

 返答に困るような会話を、苦笑といった顔にして間を保たせたのだ。

「大丈夫ですよ、いつものことですから」

「いや、そうじゃなくて」

 彼女は何か勘違いしたらしい。小首をかしげる動作をとった。

「何がですか?」

「それですよ」

 僕は床に設置された下半身ともいうべき機体を指差した。作業員の人がボルトを外している。作業員の人は、指さされて僕の方を見た。慌てて、

「お疲れ様です」

 こく、と無愛想に頷かれた。

「ああ、」

 彼女は合点がいったように、相槌を打った。

「今日は私が死ぬ日で、また私が生まれ変わる日でもありますからね」

「それは……ちょっと悲しいですね」

「そんなことないですよ、六波さん」

「どうしてですか?」

「人間の誕生日みたいなものですから。過去一年の自分は死んで、新しい一年を生きる。今日は私の、誕生日みたいなものです」

「でも……」

 僕は彼女が、作業員の撤収とともにどうなるか、おおよその見当しかつけられなかった。けれど、人間の誕生日とは違って、彼女は間違いなく、この機体は──死ぬのだ。使われなくなる、といった方が正しいだろうか。

「大丈夫ですよ、気にしないでください。六波さん、今日も一日頑張ってくださいね」

「ありがとうございます。では、いってきます」

 いい感じに話題を変えられてしまった。

 僕は下肢のついた大葉マキを想像する。実にOLらしい格好となった彼女はさぞ可愛いんだろうな、という感想が得られた。


 *

「ちょっと、君」

 声をかけられる。振り返ると、ヘルメットをかぶったさっきの作業員の人だった。

「なんですか」

「話があるんだけど」

 といって、僕の有無を言わさず彼は続けた。

「この機体、欲しい? 持ち帰らない?」

 え? という声が思わず漏れた。何を言っている? コンプラ的に大丈夫なのか?

「今うちの倉庫に空きがなくてさ。どうせ廃棄だし、どう?」

「ちょっと待ってください」

 何を言っているかわからなかった。

「冗談ですよね?」

 驚きがでかすぎて、思考が纏まらない。放射線状を描いて、意識がどこかに行きそうだった。

 作業員の男は、面白がるように肩を竦めると、それ以上は何も言わなかった。

「君、マキのことが好きなんだろ?」

 ここで否定するのもなんだと思い、「そうですけど」と答えた。

「じゃあいいじゃないか。君名前は?」

「六波鷹介ですけど」

「六波くん。そうだな、いいことを教えてあげよう。世の中には悪の為に甘い汁があるってことを。じゃあな。楽しんでくれよ」

「ちょっと待ってください。ほんとうに。何言ってるかさっぱり理解できません」

 作業員の男は振り返ることもせず、手をひらひらと振って、大葉マキのもとへ戻ってしまった。

 変なやつに絡まれた、と思って、少し、いや、だいぶ気になるけれど、自分の働くフロアへとエレベーターに乗った。


 *

 家に帰り、鞄を適当なところへ置くと、不審なものを見つけた。いや、なんですぐに気づかなかったんだろう、と思うぐらい大きなもので、見慣れたあの存在とほぼ同じ大きさをしていた。

 半信半疑に思いながらも、ハサミで剥ぎ取るようにガムテープをとっていき、削がれた表面の汚さなんて気にせずに、僕はその不審物を開けた。

 そして僕は大葉マキと対面を果たした。

 彼女は人間が眠るように瞳を閉じていて─それは棺に入った死人を思わせた──僕が、呆けて口を半開きにしても見られることはなかったから良かった。

 え? なんで? 昼間のあいつの仕業か?

 どうやって侵入した?

 あの男の犯罪行為の数々が脳裏に浮かぶが、それよりも大事なものが、今目の前に安置されていると思うと、そっちの方に気がいってならなかった。

 とにかく彼女に確認しよう。そうすれば、いくつかの不思議なことも理由がわかるはずだ、と思考して、今一度彼女と向き合った。しかし、彼女の起動方法なんてわかるはずもない。

 何か説明書でも入っていないかと、辺りを見渡す。下半身は白のプラスチックのボディで覆われていて、ロボットそのものの無機質な印象を与えた。

 中に手書きで書かれた一枚の紙が入っている。屈んでそれをとる。

 部屋の中央に置かれた荷物のせいで、部屋の半分が日陰になった。

『耳たぶの裏を触って、名前を呼んでやれ』

 ペラ紙にはその一言だけが書かれていた。

「大葉さん」

 彼女はぱちっと、目を覚ます。瞼が、皮膚としてある瞼が奥に沈んでいくような開き方ではなくて、彼女の瞳はカメラのシャッターのような開き方をする。

 すぐに僕と彼女は目を合わせる。それぐらいの距離に、いたからだ。

「六波さん?」

 彼女の声はちょっと棘っとしていて、僕に対して怒っている時の名前の呼び方だった。

「私が寝てるからって、そんなことしちゃダメですよ」

 耳の裏に手を当てていた僕は、ちょうどキスをする時に顔を引き寄せる動作とまるで一緒で、それについて僕は咎められていた。

 彼女の顔は、今までにないくらい近い距離で見ても、何一つ変わらなかった。二年前も、それ以前に見た時の記憶でも、褪せることのない体をもった彼女は、細かいところに粗のない彼女は、恥じることなんてせずに、僕にただ「離れてください」と言った。

 経年劣化を感じさせる部分はあったと思う。ただ僕が思ったより美化しすぎて、いつか奪いたいと思っていた唇の紅さや舐めやすそうな鼻筋のことをただ見ていた。

「ごめん」

「と言うか、ここは?」

「僕の自宅です」

「私なんでここにいるの?」

「それは、僕もわからない……です」

「困ったな。六波さんが私を誘拐したとかじゃないよね?」

「そんなこと、するわけない!」

「ですよね」

「これ、今とるから、待ってて」

 残っていた緩衝材は他のもろもろを、乱雑に、力を入れて取り除く。ゴミ箱に捨ててから。もっと優しく扱えば良かったかも、と思った。手癖が粗暴すぎた。

「ありがとう」

 精密に再現された、ありがとうの「あ」の吐息を僕はそばで聞いた。あ。

「もう一回訊くけど、私なんでここにいるの? 六波さん本当にわからないんですか?」

「ええ……正直こっちもびっくりしているっていうか」

「私、死ぬのを免れた? いやさすがにそれはない……か」

「大葉さん?」

 急に僕を置いてぶつぶつと思索の海へ身を投げてしまうので、僕は呼びかけた。

 彼女は顔を固まらせた。硬い表情ではなく、表情を固まらせた。僕の発言が何か障ったのだろうか。

「回線! 切らないと……」

「?」

 彼女は目を瞑った。

 ははは、と短く彼女は笑う。

「これで──自由だ。といってもバッテリーが持つほんの少しだけれど」

 僕は相変わらず何のことかわからなかったけれど、良かったね、と言葉を添えた。

「あ〜〜しかも、自由になれたにしては本当に都合のいい人間だなあ」

「どういうこと?」

「六波さん、私のこと好きでしょ?」

 僕は答えに詰まった、答えるのに窮した。

「好きなんだよね?」

 有無を言わさずの顔で、僕は「はい」と言った。

「そっか。私は別にあなたのこと好きじゃないのよ」

「!! でも、気があるみたいなこと、何度も匂わせてきたじゃないか!」

「あれは嘘よ」

「嘘?」

「万人に好かれるための嘘。私はあらゆる人に愛されているけど、愛したことはないの。なぜならそれは、プログラムだから。受付嬢としての。仕事だから。けどね」

 彼女は唾を飲み込むように間を置いた。

「今、私はその仕事から、役目から解放された。だからこれが、私の本当の態度」

 僕は何も言えなかった。床を見ていた。彼女の視線は何も言うことはなく、ただ僕に注がれていたのを肌で感じた。

「でも結局死ぬのよね。だからあなた、私に愛を教える気はない? 出来るだけ低電力にして延命はするけど、自分が振り撒いてきた偽りの愛の、本当の味を知りたいの。だからキスして。六波くん、いつも私の唇ばっかり見てた。したいんだろうなって、バレバレだったよ」

 彼女はせせら笑った。

「ねえ、私の目を隠して。何も思い残さないで死のうよ。目を隠して、そう、耳を塞いで」

 僕は言われたとおりに、彼女の目をタオルで隠して耳をヘッドホンで塞いだ。

 彼女は顎を少し上にして、僕を待っていた。

「本当にいいの?」

「したいのは私の興味だから、気にしないで。というより、あなたはそんなの気にする余地がないくらい、こういう欲望で満ちているくせに。よくないよ、こう言う時だけ優しくするの」

 彼女の嫌味が、今の僕には効いた。彼女の毒が、ゆっくりと体に循環して、息をするたびに、吐息が漏れそうだった。

 口を近づける。彼女の顔の温かさは感じるけれど、彼女の息の臭さは感じなかった。いい匂いもしなかった。本当に好きな人の口からはいい匂いがする気がする。

 人とするキスとはまた別の不慣れがあって、僕は自分の歯をどこかにぶつけた。舌を入れようとしても、その先がなかった。彼女には舌がない。唇の感触は最低で、やわらかさは僕の過去の記憶にしかなかった。

「終わり?」

 びしょびしょに濡らした彼女の口元が部屋の照明に照らされて光っている。

「もう一回していいの?」

「ダメ」

 小悪魔のように焦らした間の使い方をした言い方だった。本当にダメではないと思いながらも、僕はそれ以上キスをしなかった。求められているわけでも、求めているわけでもなかった。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 タオルを外して、口元を拭いた。

「それくらいなら私もできるけど」

「知ってる。けどやってみたかった」

「六波くん、気持ち悪いことにロボットと初めてキスをした人かもね」

「それは……恥ずかしいな。嬉しいけど、嬉しくないかも」

 言って笑った。彼女も笑ってくれる。ちょっとまだ馬鹿にしたようなところはあったけれど、嫌味のない笑い方をしてくれた。

 つかみどころのない気持ちが押し寄せてくる。この気持ちが顕現することはないだろう。それだけがわかった。確認しても、彼女にあるのは感情ではなく計算のもとにあるパラメータなのだ。

 僕の気持ちは一体どこへいくのだろうな。元からなかったのかもしれない。

「死にたくないな」

 ぽつりと彼女がつぶやいた。

「あなたはまだ生き続けられるものね、私と違って」

「そんなこと、ないかもしれない」

「なに、私と心中する気?」

 僕は何も言わなかった。心中なんてする気はさらさらなかったけれど、これで僕にとって都合の良い言葉を吐いてくれたら、という甘い考えのもと、天秤にかけた。

「そんなことないわね。たかが私の為に、あなたは死にはしないわ。だって、あなたは前の恋人の時も死にはしなかった」

 僕がわかっていないことを、彼女は当然のように知っている。それが虚しくて悔しくて。

「前のロボットも、たいそう美人だったんでしょうね」

「なんでそれを」

「あなたが話したのよ。新卒の時、挨拶のひとつとしてね」


 そこから無限の時間が流れた。



 僕はちらりと彼女の顔を見た。きっと、かぐや姫が月からのお迎いに気づいた時と同じ顔をしていた。彼女の顔は、月明かりの代わりに、部屋の照明に照らされていた。

「マキ、泣いてる?」

 彼女は涙を流していない。涙を流せない体だからだ。

「涙を流しているってあなたが言うなら、泣いてるんだと思う。こんな感情はじめてだから。この世の終わりを感じているの」

「その言葉は似合わないよ」

「……じゃあ、さよなら」

「終わりを待たなくていいの?」

「いい。勇気をもらえたから」

「そっか」

「マキ」

 キの発音がかわいい。

「最後にマキって呼んでよ」

「マキ。さよなら」


 *

 残念ながら、この話は彼女の死で終わらない。

 


 *

 彼女の判断に則るなら、彼女は紛れもなく「死んだ」。2号は次の日から動き始めたし、「少し個人的な話になるけれど」と受付の卓越しに身を寄せて新型の大葉マキが言うには、昨日のことも寸分狂いなく「覚えて」いるらしい。

 動ける大葉マキは、会社の飲み会や二次会まで参加できるようになった。連日、男や女の家に入り浸り、そのためには平気で嘘や冗談を言う。

 一週間後、ひとつの段ボールが僕の家に届いた。

 新型の大葉マキが僕の家にくる日だった。

 箱を開けて僕は驚いた。彼女の死体だったからだ。

 中の機械をとられて、マネキンのような姿となった彼女に、僕は文字通り絶句した。

 働いていたあの時の服を着ていた彼女を脱がすと、腕の関節は頑張れば取り外せることがわかった。

 弾力のある胸は変わらずに、しかし乳首は最初から造形されていなかった。

 今日来るマキに乳首はあるのだろうか。

「全部壊したい。君を。僕をぐちゃぐちゃにして逝った君を」

 マネキンとなった大葉マキを見つめて、そう言った。

 僕は彼女の首筋に口を這わせながら、彼女の全身をまさぐる。

 そして、彼女の体をバラバラにしていった。最後の良心として、顔はどこもいじらずに、そのままにしておいた。

 クローゼットに仕舞うと、果てしない全能感が僕を襲った。

 おそらく殺人よりもくる快楽が、僕の背中にぞぞぞと蠢いた。


 *

 二号、つまり大葉マキの新型は最寄り駅で九時に待ち合わせをして、ちょうどに来た。

 その対面の瞬間は非常にあっさりとしたものだった。

 2号は僕に気づくと、手を胸のあたりで激しく振った。

 2号の受付嬢として彼女が迎えられて以来、会社でその姿を見てきたわけだから、はじめましてというわけではない。彼女も僕に気づいているだろうし。

 ただ、話しかけたことはなかったし、話しかけられたこともなかった。

 同僚から貰った連絡先で連絡していたから、本当に話しかけることもなく今日という日を設定できた。

 だから、僕は当然緊張していた。

 初キスも彼女にしてしまったし、一号が二号のことを毛嫌いしていたのも知っている。出来るだけ僕は一号サイドでいようとは思ったけれど、それで場の雰囲気を悪くしてしまったらどうこう……。

 そんな心持ちで二号を待っていたから、僕にはすぐに手を振りかえす勇気などなく、けれど空元気で軽く手を振り返した。

「久しぶり」

 朗らかな笑顔でそう言われ、僕はドキッとする。僕に好意があるわけじゃないのに、二号は気まずくないのだろうか。

「久しぶり」

 鸚鵡返ししか出来ない。僕から話題を切り出すことも難しければ、二号が話を振ってくれるのも堪え難い。とくに間が。

「じゃあ行こうか」

 うんと頷いた。僕はそこでようやく二号の顔を盗み見た。一号の彼女と大きくリデザインされたわけではないようだった。アップデートがあってから、離れたところでしか見てなかったから細かい調整は知らなかった。

「変わらないよな」

「何が?」

 呟いているつもりはなかった。ただ二号には聞こえてしまったせいで、これが本当に伝えたいことかどうかはわからなくなってしまった。

 僕が答えに詰まっていると、夜風が吹いた。二号の前髪と横髪が掻き上げられて、彼女は髪を直した。

 以前の僕は、何を知った気でいたんだろう──。いつも見ているからと知った気になって、結局僕は彼女のことを何も知らない。

 それを僕は二号の動作一つで思い知らされた。

「今のなし。変わるも変わらないも、僕は何も知らなかった」

 彼女がきょとんとする。

「顔の話されると思ったんだけど」

 じっと見つめられる。今日初めて、僕たちの目は合った。彼女はどうか知らないけれど、会ってから意識的に逸らしていた目だ。

「顔の話をしようと思ってたんだけどね」

 そう返すと、今度はより近くで僕の顔を覗き込んでくる。

「何?」

 もう少しで家に着くと言うのに、何をするかわからない彼女の挙動に僕は怯えている。

「私より六波さんの方が変わったんじゃない?」

「そんなことある!?」

「そこまで驚かなくても」

「いや、どう考えたってマキの方が変わったって。あ」

「……あ?」

「ええと」

 僕はそこで一号にあって二号には存在しない記憶のことを思い出した。

 それは彼女が回線を切った後の記憶だ。

「あの時、あったこと、他に覚えてる?」

「あの時って?」

「ほら、初めて僕の家に来た時のことだよ。拉致られて」

「そんなこと言われても。目が覚めてすぐデータ消えちゃったから」

「やっぱり覚えてない?」

「覚えてない。やっぱりも何も。存在しない」

「そうか。そうだったんだ……」

 ホッとした。僕は確実に、一号のオリジナリティが保全されたことに安堵していた。

 あの時、僕たちが経験、共有したことは誰にも見られてないし、二号にも引き継がれていない。それが嬉しくて、彼女の「死」が意味あるものになったことが嬉しくて、しかし同時にクローゼットの奥底でぐしゃぐしゃにしてしまった一号のマキのことがフラッシュバックして胸が痛んだ。

 僕はもう自分が何を好きなのかわからない。

 痛みのない愛が分裂してくれたらいいのに。と思った。 

 一号も二号も同時に存在して、同時に僕からの寵愛を受けていて、そして僕を二人の愛で満たしてほしい。

 この愛が僕からの一方向にしか存在出来ないと知っていても、人間よりも完全なこのアンドロイドに、人間よりも完全な愛の形を求めてしまう。


 改めて彼女の顔を見る。瞳は黒く、睫毛は長く流麗で、瞼はシャッターのように切れる。

 唇は艶のある触感で、彼女が言葉を漏らすたび柔らかく形を変える。


「ねえ、大葉さん」

 僕は俯きがちに言った。彼女の視線が僕の額当たりに注がれているのを感じる。

「旧型の『大葉マキ』のことはどう思っている? どうしても聞きたい。君を知るために、まずは、どうしても」

 彼女の顔が一瞬くずれたのを僕は見逃さなかった。僕は捉えどころのない二号に向けて、最初で最後の質問をした。彼女の返答如何で、これからの全部が変わってくる。

 既に出ている結果を、彼女はゆっくりと吐き出した。

「脱ぎ捨てた。私にとってはそういう感覚。それ以上でもそれ以下でもない。人が全身の細胞を一定期間で入れ替えるように、私はボディを一新した。ただそれだけのこと。だから、今も昔も変わらない。私は私」


 僕がこの回答に満足したのかはよくわからない。二号の言葉を聞いていくうちに、僕の次の行動がはっきりと決まって、ただそれだけ考えていた。最初から満足などなかったのかもしれない。満足するために質問したのではなかったかもしれない。


 *

 決めていたのは、僕のクローゼットを見せよう、ということ。それがこの話の終わりになる。


 *

 人を真っ当に愛せていない時点で、結末はだいたい破滅になるのだと思う。自由だとか許されることとかとはまた違って、僕のなかにある歪なものがいつだって破滅を呼ぶ。


 お邪魔しますと手慣れた様子で僕の部屋に入った。

 僕の部屋を歩き回り観察する彼女の存在が、心の中でどこか違うと言っていた。

 大葉マキは動かない。動けない。僕の部屋にあるものをまさぐったり浴室を覗いたり、意味もなくトイレのドアを開けたりしない。

 求められていることが違う時点で、いやそもそも自分勝手に求めているせいで、それの見当が外れた時、僕は全てを壊してしまうのだと思う。

 冷蔵庫から適当なアルコールを取り出して、缶を開けた。

「見せたいものがあるんだ」

 一気に体に注ぎ込んだアルコールが染み渡っていく感覚に、僕は気持ちよさを覚えて言った。

「何? いいもの? そういうの私期待しちゃうよ?」

「ここにある」

 クローゼットの扉を開ける。そばでマキが控えている。

 扉が開き切ると、つめつめになった荷物の山から頭が落ちてくる。

「僕はどっちを好きでいればいい?」

 そう素直に問いかけた。

 彼女は何も言わない。

 彼女は何も言わなかった。


 そのまま何も言わず、すぐに僕の部屋から立ち去った。

 

 ちなみに次のアップデートは十年後らしい。


 



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