第18話 ハチ公、ご主人様の心を動かす
その日、狛哉は上の空で学校での一日を過ごした。
朝と帰りのHRで担任の教師が「早くも病欠者が出たから体調管理には気を付けるように」というような話をしていたような気がしたが、他のことはあまりきちんと覚えてはいない。
前の席に座るこだまの背中を見つめ続けて、違和感を覚える彼女の様子に落ち着かない気分を抱える彼の心には大きな波風が立っている。
普段の我がままさが消え、人を振り回す強引さも消えた彼女は、狛哉の目から見ると不調のように思えた。
その原因は何なのか? 昨日、彼女に何があったのか?
自分に対する罪悪感でここまで態度が変わるとは思えなかった狛哉は、その答えを聞き出せる機会である放課後を待った。
そして今、彼女と共に数日前にも訪れたハンバーガーショップにやって来た彼は、あの日とは違い、テーブル席でこだまと向かい合うようにして座っている。
大食いな彼女にしては珍しくSサイズのドリンクだけを頼んでそれをちゅうちゅうと吸うこだまは、自分のことを見つめて微動だにしない狛哉の顔を見ると少し呆れた雰囲気で彼へと言った。
「……食べないの? 折角のご主人様からの慈悲を受け取れないと?」
「そういうわけじゃないけど……気になるからさ、森本さんの様子が。朝からずっと、変な感じだ」
「変? あたしが? どこがどう変だって言うのよ?」
ははっ、と乾いた笑いを上げながら再びドリンクを飲み始めるこだま。
そんな彼女の顔を真っ直ぐに見つめたまま、狛哉は自分が今日一日で感じた違和感について語っていく。
「……僕をここに誘う時、命令形じゃなかった。僕が知る森本さんなら、予定がなければ付き合ってなんて言い方はしないはずだ」
「ごく一般的な誘い方をしただけで変だなんて言われるのは心外ね。飼い犬が暇かどうか確認してあげることのどこがおかしなことなのよ?」
「……今、そうやってドリンクしか飲んでないこともおかしい。この間ここに来た時はビッグバーガーセットをぺろりと平らげてたのに、どうして今日はそんなに小食なの?」
「お腹が空いてない時があっても不思議じゃないでしょ? あたしはいつでもどこでもあんたが想像するだけの量の食べ物を平らげられるわけじゃないのよ?」
「知ってるよ、そんなの。でも、やっぱりおかしいじゃないか。森本さんは放課後に僕をこの店に付き合わせるつもりだった。一緒にご飯を食べる予定を入れてるのに、どうしてお腹を空かせた状態でいないの? 僕だけがハンバーガーを食べるような状況にするだなんて、やっぱり今の森本さんはおかしいよ」
「………」
こだまは我がままだが、相手への気遣いができない人間ではない。
自分から食事に誘ったというのに相手にだけハンバーガーを食べさせて自分は飲み物だけで済ますなどという、気まずい状況を作るようなことはしないはずだ。
一つ一つの行動や反応だけでもおかしいというのに、それを組み合わせると更に不可思議な点が見えてくる。
その妙な言動の理由は何なのかと、そう問いかける狛哉へと冷めた視線を向けたこだまは、小さく鼻を鳴らしてから侮蔑の言葉を口にした。
「気持ち悪い……! 何? あなたはたった二日や三日であたしの最大の理解者にでもなったの? ただの犬が、あたしのことを何でもかんでもわかる存在になれたと思ってるわけ?」
「………」
吐き捨てるように、馬鹿にするように、狛哉へとそう告げるこだま。
彼から視線を逸らし、ドリンクを一口飲んだ彼女は、窓の外を見つめながらこう続ける。
「今日は昨日の埋め合わせのつもりで誘ってあげただけよ。一応、あなたにも悪いことをしたと思ったし、そのお詫びのために食べたくもないハンバーガーを奢ってあげようと思っただけ。お詫びのつもりだったから予定を聞いてあげた。一緒に食事をするつもりなんてなかったからお腹の空き具合も気にしなかった。ただそれだけの話よ」
「………」
「まさか、あたしがあんたへの罪悪感で顔もまともに見れなくなってるとでも思ったの? その思い上がりっぷりが面白くって笑っちゃうわね。駄犬の癖に、何様のつもりよ? 調子に乗ってないで、とっととそれを食べちゃいなさい」
「………」
辛辣で容赦のない侮蔑の言葉を浴びせ掛けられた狛哉が無言で彼女を見つめる。
こだまはこちらを一切見ようともせず、テーブルを指でトントンと叩いて彼を急かすような真似をしていた。
自分のことを怒らせるような過激な発言を繰り返し、冷ややかな態度を取るこだまのことをじっと見つめていた狛哉は、小さく息を吸った後に彼女へとこう言う。
「……もう一度、同じことを言ってくれる? 今度は、僕の目を見て」
「はぁ? 何? あんた、罵倒されるのが趣味なわけ? 本当に気持ちわる――」
「こっちを見て話してよ、森本さん。僕の目を見て、そうしてから喋って」
「っ……!!」
狛哉のその言葉に、こだまはぴくりと肩を震わせて息を飲んだ。
とっくに空になったドリンクのカップをテーブルの上に置いた彼女は、唇を真一文字に結んだまま窓の外を見つめ続けている。
何も言わず、動きも見せず、ただただ押し黙ったまま時間が過ぎるのを待っているかのような態度を取るこだま。
そんな彼女を真っ直ぐに見つめながら、狛哉はこれまでのこだまの態度を見た上での自分の考えを述べた。
「森本さんの言う通りだ。僕はまだ君と出会って数日しか経ってないし、そんな僕が森本さんのことを何でもかんでも理解できるはずがない。だけど、やっぱり変だよ。今の森本さんは、普段と全然違うよ」
「………」
「カッとなって強い言葉を使ったり、嫌味を言うことはあった。でも、そんな風に相手の心を抉るような言葉を浴びせ掛ける人じゃないって、僕は思う。気持ち悪い僕の気持ち悪い勘違いだったらそれでいいんだけどさ……森本さん、強がってるんじゃないの?」
「………」
「僕のことを見て悪口を言えないのは、本心では悪いと思ってるからじゃないの? 本当は他に言いたいことがあるけど、つい強がって今みたいに罵倒しちゃっただけじゃないの? 本当は……僕に何か相談したいことがあるんじゃないの? それで僕をここに呼び出したけど、直前になって言いにくくなってるんじゃないの?」
「……何を、知ったような口を叩いてるのよ? あたしが強がってる? あんたに相談したいことがある? 調子に乗らないでよ。あたしのことをよく知ってるわけでもない駄犬が――」
「知らないよ、わかんないよ。だからこそ、君に話してほしいんじゃないか。僕は森本さんのことをよく知らないし、本当に鈍い駄犬なんだって自覚もある。でも、森本さんが困ってるのなら、友達として力になりたいって思ってるんだ。頼りないし、何ができるかわからないけど……そう本気で思ってるからこそ、君に話してほしいんだ」
「………」
真剣に、真っ直ぐに、そうこだまへと語る狛哉は一生懸命に彼女の心を動かそうとしている。
不器用な犬なりにこだまの力になろうとする彼は、感情を込めた声で彼女へとこう訴えた。
「いつも通りに命令してよ、あたしの力になりなさいって。そうしたら、はいでもYESでもワンでも、森本さんが望む返事をするから、だから――っ!!」
「………」
誠心誠意、彼女の力になりたいという想いを全力でぶつける狛哉。
彼の訴えを聞いたこだまはゆっくりと息を吐くと、正面へと向き直る。
俯きがちに視線を泳がせ、暫しそのまま迷いを感じさせる動きを見せていた彼女は、やがて怯えを感じさせるような表情を浮かべたまま顔を上げ、狛哉を見つめる。
もごもごと口を動かし続けていたこだまであったが、狛哉の真剣な表情を目にして覚悟を決めたように肩の力を抜くと、口を開いてか細い声で彼にこう問いかけた。
「……笑わないで、聞いてくれる?」
「笑ったりなんかしないよ。約束する」
普段の傍若無人っぷりが嘘のような弱々しいこだまの様子にただならぬ気配を感じ取った狛哉が力強く頷く。
その返事に少しだけ安堵したように纏っていた張り詰めた雰囲気を緩めた彼女は、再び俯きながら抱えていた不安を狛哉へと吐露した。
「……少し前から、誰かにつけられてる気がするの。嫌な気配を感じたり、見張られてるって思うことが何回もあって、それで――」
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