まるで気ままな猫のような
雨依
まるで気ままな猫のような
丸で気儘な猫の様だった。
彼女を表すにそれ以上の十分な表現はないだろう。
私はそう思うと、既に彼女と通った時とは全く違っている道を一歩踏み出す。
そこに桜色の柔らかな風が吹き、私を包み込んだかと思うと、私を過去へ誘う。
その風からは、何故か途轍とない郷愁に襲われる香りがする。
いつまでも嗅いでいたい。そんな香りだ。
けれども、その香りを嗅ぐことはもう叶わない。
私が何時迄も嗅いでいたかった。近くで感じていたかった香りは、既に手に届かぬ場所にある。
風は通り過ぎ、遥か先の木々を揺らしている。
できれば、何時迄もそこにあってくれ。私の全てを捨て去ってもいいから。
―――――――――
遥か先から風が吹いてくる。非常に暖かな風で、季節の移り変わりを感じさせられる。
体も温もり、一応と思い着てきたコートを脱ぎ、一息つくと、吹いていた風に乗って柔らかな匂いが漂ってきていることに気づいた。
それは麦わら帽子から発せられたもので、その麦わら帽子は風に乗って遥か先から飛ばされてきたものである。
「すいません。帽子、落とされましたよ。」
風上の方へ暫く歩いて行ったところに、幸運にもその持ち主であろう白いワンピースの少女が立っていた。
「ああ。すいません。つい落としてしまって。とても困っていたんです。」
こちらを向いてはにかむ姿は、びっくりするほど美しかった。
「……学生さんかな?」
「はい。丁度今度から。貴方も?」
「はい。そうなります。どちらに行かれるかはまあわかりませんが、もし同じでしたらよろしくお願いします。」
彼女は見たところ全くと言っても過言ではないほど日焼けもしていない真っ白な肌で、ここより寒いところから、こちらで勉学でもするかするために引っ越してきたのだろうということが簡単に予想できる姿をしていた。
私の通う大学には、他にはない物を学べると、一部生徒は、かなり遠くから来ている人もいるという。
私は、彼女もその一員だと、そう感じた。
大体、この見た目の女の子がここに来る用事といえば進学くらいだ。
近くに他の学校があるわけでもない。すると自然に彼女は私と同じ学校に通うことになるというのは簡単に予想できる。
しかしながら、わざわざそれを指摘して、相手に無理やり認知させるような行動をすることは憚られた。
だから間をとって、またいつか会えたらいいですね。というニュアンスになるように言ったわけである。
それが功を奏したか、それから暫くは彼女と会うことはなかった。もちろん、入学が終わった後もである。
私が彼女と再会したのは、私だけが参加しているサークルのことである。
写真サークル。私の趣味で作ってしまった結果、部員が減っていき、最終的には名前貸し以外は私以外いなくなってしまったというサークルである。
そんなサークルに入部希望があったのだ。
時間を作って、その人と体験入部という形で顔を合わせた時、私はそれに気付いた。向こうもこちらに気づいてしまったようで、柔らかな笑みを浮かべると、手を振りながら再会を喜んでくれた。
意外にも、彼女は本気で写真に取り組んだ。撮影技法や、構図もすんなりと覚えた。意欲のある彼女と、私も教えるのが非常に楽しくなり、二人して夜遅くまで写真撮影を続けた。
ある日、そんな真剣な表情でカメラを構える彼女を被写体に写真を一枚コンクールへ提出した。
それは見事に最優秀と認められ、賞金も出た。
彼女はそれを自分のことのように思って非常に喜んでくれた。私はそれがとてつもなく嬉しくて、その日は出た賞金で、初めて二人で飲みに行った。
そこからは、何日かに一回のように、写真撮影の活動の後、飲むようになっていた。
美しい彼女と、楽しいお話を毎回できるのは、私の学校生活の楽しみとなっていたし、彼女も同じだった。
そのような関係の男女が交際に至るのは、何も不自然ではなかった。
交際が始まってからというもの、彼女は私はうまくいっていた。確かに、何もなかった。学生の身分である以上、有り余る金というのもなかったし、遊ぶ場所もなかった。
所詮交際というのも、今までの関係に名前が付いただけというの物だった。
それでも、名前の差異は、その若い私たちにとっては非常に大きな出来事であった。
でも、その時は、冷静に考えて、卒業まで保つとは考えられなかった。
周囲にも別れたという者はいたし、私たちのような若者の心が移り変わりやすいものであることも理解していたからだ。
しかしながら、そんな心配も必要はなく、私たちは出会った頃と同じような愛情を持って、卒業まで漕ぎ着けた。
私の方が一年早く、彼女の方が一年遅かった。
ずっと、ずっと付き合ってきた私たちは社会人になり、「働く」を知った。
働くことの大変さ、やりがい。良い面も、悪い面も。
労働で気持ちが離れるカップルは多いと聞く。しかし、やはり私たちはより仲が深まった。
次第に、私たちは同棲を始めた。
仕事で会える時間が減り、それでも会いたいという彼女の願いからで、私もそう感じていたことから、あまり考える間も無くそれは実行に移された。
同棲というのは、ほとんど夫婦生活の練習だと、私は思っている。
意外だったのは、彼女が手芸が全くできなかったことだ。
「手芸なんて使わないからいいの!」
そうやって拗ねる彼女にドキッとしたりもした。
同棲生活も何年か続き、彼女は私に完全に心を許してくれていた。わがままだって言ってくれるし、私のわがままも聞いてくれた。
「支えあわなきゃ!」
と言って、家事をパッと済ませたと思ったら、
「君は癒し担当〜!」
と、私に甘えてきたほど、彼女は私に甘えるようになっていた。
私はそれがそこも好きだったし、彼女も、甘えてはいけないもののラインはしっかりとしていた。
それから暫くだって、私はジュエリー店へ向かった。
婚約指輪を。と言うと、感じのいいお婆さんが丁寧に対応してくれ、彼女に一番合うリングを作って、彼女の帰りを待った。
然し、いくら経っても、彼女が戻ってくることはなかった。
捨てられた?そんな最悪なシナリオが頭の中を支配して、仕事もうまく行かなかった。
彼女は全く家の中の物を持ち出しておらず、通帳すらまだ家にあった。
私はよくよく考えて、こんなことはあるのだろうかと考えた。
まずそうして、なくなっていた物だけをリストアップして、ようやく気づいた。
私は、彼女の実家に電話した。出ないことは知っていた。数日間で確認済みだ。一度一方的に別れを告げられた後、出なくなったのだ。
それでもかけ続けた。すると、彼女の父親が電話に出た。
「なんだね。君。もう娘は君に飽きたと……」
「娘さん、もしかして病院ではないですか。」
「……っ!」
私はそう単刀直入に聞いた。
「気づいたのか……そうか……」
そのことを隠していたであろう、彼女の父は、思ったよりもあっさりとその場所を伝えた。
「――病院だよ。大病院のね。」
その名前を聞いて、私の頭は真っ白になった。
来るなら、急ぎなさい。一刻も早く。とそうせかす彼女の父も、声は憔悴しきっていた。よくきけばわかるはずだったんだ。
1回目の通話。そこで気づけていれば。
私はおぼつかない足取りで着替えると、その病院へタクシーで向かった。車で事故なしで行ける自信がなかったからである。
病院につき、あらかじめ聞いておいた病室へ面会をした。そこには、美しかった髪は全て抜け落ち、眠っている彼女がいた。
私は待った。彼女が起きるまで。
何日も、何日も。ポケットの小箱を握りしめて。
結局、彼女が起きたのは、1週間経ってからだった。
彼女は、起きた瞬間私を認識した。
「な、なんで……君が……」
その目には涙すら浮かんでいた。
「君に会いたくて」
「私は会いたくなかった!」
「嫌いになったのかい?」
「そんなわけない!」
その声には力がなかったが、はっきり怒っているとわかる声色だった。それでも、彼女がまだ生きているとわかって、私はひどく安心した。
「……嫌いになった?」
「僕が、君を?」
ゆっくりと頷く彼女には昔の面影しかなかった。
髪が抜け落ちようと、顔が皺だらけになろうと、点滴の後で傷だらけだろうと、好きなものは好きだ。それは変わりない。
でも、わざわざそれを口に出すのは、野暮だと思った。
俺は、ゆっくりポケットから、小箱を取り出した。
「……私が渡したかった物だ。今もこの気持ちは代わってない。」
彼女の目には涙が溜まっていた。ゆっくりと上げた手からは、点滴の管が伸びており、手を上げたことで、少し血が逆流している。
その左手の薬指に、ゆっくりと彼女の指にぴったりのリングをはめると、彼女は大きく涙を流した。頬を流れる涙を拭くことさえ叶わない彼女に代わって、私が拭った。
私は、この日先生や、彼女の両親の強い勧めで、久しぶりの睡眠をとることにになった。
これが私の最大の後悔である。
その日の夢では、彼女が出てきており、春の暖かな風に包まれ、私と彼女で、初めて会った遊歩道で、まだ見ぬ子供と散歩をしている夢だった。
夢から覚めて、未だ深夜だったことに、私は激しい不安に襲われた。
なぜ今こんな夢を?そう考え始めると、携帯電話が鳴った。
結果から言うと、遅かった。私は、彼女の死に目に立ち会うことができなかった。
がん。ステージ4。まだ若いのに。
なぜ彼女が苦しまなければならなかったのだろうか。
彼女の両親はこれまで以上に憔悴しきっている。
私がなんとかせねば。
彼女は、遺書を用意していた。私宛て、両親宛ての二つだ。
私はそのうち、両親宛ての物を渡して、自分宛ての物を読む。
「いきなりでごめんね。
初めて会った時から変わらず、ずっーと好きでした。」
初っ端から彼女らしいストレートな好意の表現に、私は酷い懐かしさを感じ、涙が滲んだ。
「じつは、私はがんのステージ4でした。ほんと君にも伝える予定だったんだよ?でも、怖くなっちゃって。
ほら、君が悲しむと、私も悲しいからさ。
突然家から消えたのはごめんなさい。もうその頃には痛みに耐えられなくなって、病院に入院するために、家を出る他なかったんです。」
自力で導き出した解と同じ、家から出た理由だ。やはり、最初に少しでも捨てられたと疑ってしまった私を恥じた。
「捨てたって言う感じでって、お父さんとお母さんにお願いしました。思ってたよりひどく言ってくれてたみたいで、安心したんだ。
これで、もう来ないって。
でも、君はきてくれたよね。最後の最後だったけど、すっごく嬉しかったぁ
でも、それ以上に、見られたくなかったんだ。こんな姿の私を。
もう受け入れてくれないんじゃないかって。」
そんなわけない。
私はどんな君でも大好きなんだよ。
「だからさ、指輪をくれた時、本当に嬉しかった。
こんな姿の私でも、受け入れてくれるんだって。
だからこそ、もっと、もっと、この世とお別れするのが怖くなってしまいました。」
徐々に、水の滲んだ跡が増え、文字が震え出す。
「恐くなかったんです。でも、怖くなっちゃいました。
あなたのせいですよ!
でも、これは悪いことじゃないんです。
……その分、ずーっと大きな幸せを感じられたから。あなたがずっといてくれたから。」
さらに文字が震え出す。
「でも、やっぱりしにたくないよぉ……
あなたと生きていたいよ
でも、それはもう叶わない。だからさ。きっと、君も、私を気にせず、新しい人と、幸せに暮らせますように。ずっとずっと、願っています。
最後に、面倒ごとかもしれないけど、お父さんとお母さんを任せます。いま頼れるのはきっと、君しかいないから。」
俺は既に涙で読めなくなっている先の文字を必死で読み取った。
滲んだ紙に掠れ掠れ書かれている一言。
「大好きだよ。愛してる。ごめんね。」
―――――――――
それから、彼女のご両親を何とかして落ち着かせた。法事も、祭事も残っているし、何より、彼女の願いだからだ。
しかし、ご両親は思っていたより逞しく、彼女の死を受けいれ、その魂を弔って生きていくと宣言した。
結局一番弱いのは私だった。私は、葬式の最中も、祭事でも、全く彼女がもうこの世に居ないという事実を受け入れられなかった。
それは、彼女の墓前でも同じである。
あれから、もう十年ほど経つ。ようやく、ようやく、気持ちの整理がついてきたところだ。
彼女の笑顔も、怒った顔も、声も、仕草も、全て頭の中に残っているのに、ぽっかりと空いた穴が、全く塞がらないのだ。
私の心は怪我をして、熱い血潮が流れ続けている。
このままでは失血してしまうだろう。
しかし、それでも私は構わないと思っている。
それでも、彼女は私がこのまま生き続けることを望んでいた。それならば、もっともっと生きて、彼女から怒られないようにしなければ。
左薬指に未だ二つある指輪を撫でるように、暖かな風が吹く。
何度も何度も続かなければと思ったこの日々が続きますようにと願う。
余談だが、猫というのは、甘え上手で気まま。
そして、死ぬ時に飼い主……パートナーの前から消えようとするらしい。
そういう意味でも、彼女は、猫のような人だったと思う。
まるで気ままな猫のような 雨依 @Amei_udonsoba
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