第二章 黒狼
不思議な少女だった。男装をしているのだが、それが妙に似合っていた。おそらくユリカよりも小柄なその体格は、余計に少年のような印象を植え付けさせた。
少年のような顔つきだが、しかしやはりそこにいるのは、幼さを残した少女の顔だった。
だというのに、幼さの奥にどこか怪しいものが光って見えていた。
思わずクラウスは身構えた。理由はわからないが、彼は目の前の少女を警戒していた。そんな彼を見て、少女はより笑みを深めた。
「失礼、驚かせて申し訳ない。よろしければ私も同席しても構わないだろうか?」
いきなりそんなことを言い出す少女。驚くクラウスに代わって、ユリカが口を開いた。
「失礼、そちらはどちらの方でしょうか?」
「おお! 失礼、名乗りもせずに申し訳ない」
少女はそう言うと、胸ポケットから名刺を取り出した。
「私の名はジョルジュ・デオン。アンネルから来た旅行者さ」
少女が名乗りを上げる。ただの旅行者が何故、彼らに話しかけてくるのか?
思わず身構えるクラウス。アンネルという言葉に彼は無意識に警戒する癖ができてしまっていた。
「アンネル、ですか……それで? その旅行者が私たちにどのような用件でしょうか?」
「私の記憶違いでなければ、君たちはグラーセン軍。それも参謀本部に所属する人間のはずだが、違うかな?」
いきなりクラウスたちの素性を言い当てる少女に、クラウスはもちろん、ユリカも驚いた。その様子が面白いのか、ジョルジュがさらに笑い出した。
「驚いたかい? 特に君たちみたいな人たちは目立つからね。自然と注目を集めるのさ」
クラウスもユリカも怪訝に思った。何故彼女が二人のことを知っているのか? 思わず警戒を強める二人。そんな二人にジョルジュは笑みを絶やさなかった。
「それに、君たちも私に会いたがっていると思うのだけどね」
「会いたがっている?」
一体何のことかわからないクラウスたち。混乱する二人にジョルジュはニヤリと笑った。
「君たちは『アンネルの黒狼』である私に会いたかったのではないのかい?」
クラウスが思わず腰を浮かした。横にいたユリカは驚きで呆然としていた。その反応がジョルジュの予想通りだったのか、彼女は楽しそうに笑った。
「いやあ、いい反応をしてくれる。実に面白い」
「アンネルの……黒狼? 本当に?」
クラウスが問いかける。するとジョルジュはポケットから何かを取り出し、彼らに見せた。
それはアンネル共和国軍が制定するレジオン勲章だった。
「信じてもらえたかい?」
普通の民間人が手に入れられるようなものではなかった。少なくとも、ジョルジュがただの旅行者ではないことは確かだった。ジョルジュは勲章をポケットにしまい込み、二人に向き直った。
「それで? 私は同席してもいいだろうか?」
クラウスたちは何も言えなかった。それを同意と受け取ったのか、ジョルジュは椅子を運び、彼らと同じテーブルに着くのだった。
三人のテーブルに注文した料理が届いた。ジョルジュは先に注文しておいたのか、彼女にはエスプレッソが運ばれた。彼女はそれを美味しそうに口に含んだ。
「いいね。アンネルのエスプレッソが一番だけど、この国のエスプレッソも悪くない」
そんな彼女をクラウスもユリカもじっと見つめる。ジョルジュはこの状況を楽しんでいるように思えた。
「……驚きました。まさかそちらから声をかけてくるとは。しかも黒狼が女の子だったなんて」
その言葉にはクラウスも同意見だった。目の前のジョルジュを見れば、とても狼などと呼べる印象ではなかった。少なくとも黒狼が少女だとは思っていもなかった。
その反応が面白いのだろう。ジョルジュは笑った。まるで悪戯が成功して楽しんでいる子供のような顔だった。彼女はカップを置いて彼らに向き直った。
「改めて、私の名はジョルジュ・デオン。そちらは?」
「私はユリカ。ユリカ・フォン・ハルトブルク。階級は大尉ですわ」
「……クラウス・フォン・シャルンスト。軍属です」
二人が名乗ってくれたことが嬉しいのか、ジョルジュが右手を差し出した。
「お会いできて光栄だ」
その手を握り返すユリカ。クラウスも同じように手を握り返す。
その時、クラウスの記憶が刺激された。
「……待ってくれ。君、デオンと言ったな。それってもしかして……」
そのクラウスの言葉にジョルジュが得意そうな顔でクラウスを見た。
「お。知っているのかい? 私の『おじさん』のことを」
デオン。それは歴史に刻まれた名前。誰もが一度は耳にしたことのある名前だった。
「君は『デオン元帥』の関係者なのか?」
かつてこの大陸を駆け巡った皇帝。アンネルが生んだ英雄、アレシア・ゲトリクス。
革命が起こったアンネルでは新たに国民軍が誕生し、ゲトリクス皇帝は彼らと共に大陸を走り抜けた。
そんな皇帝の横には、多くの忠臣がいた。皇帝と栄枯盛衰を共にし、数多くの武勲を積み上げた英雄たち。そんな英雄の中で最も皇帝の信頼を得た男。その名はデオン元帥。
デオン元帥はゲトリクス皇帝と共に多くの勝利を手にした、皇帝にとっては無くてはならない存在だった。もしデオン元帥がいなかったら、皇帝の版図は半分になっていただろうと評されるほどだった。
かつて皇帝は『自分は皇帝にはなれたが、元帥のような軍人にはなれない』と言って、自分と元帥との違いを評した。
かつて共に戦場を駆け巡った二人の英雄。彼らの名は今も歴史書の中で輝いていた。
そんなデオン元帥を『おじさん』と呼ぶジョルジュ。彼女はその元帥の親戚ということになる。
「いやあ、デオン家に生まれて一番ありがたいのは、おじさんの名前を出せば誰もが握手を求めてくれることさ。この名前で色々と得をしているよ」
「まさか、あの元帥の親戚だとは……」
「まあ親戚と言っても分家だけどね。さすがに会ったことはないけど、よく親戚のおじさんたちが自慢しているよ。デオン家の名はそれだけ誇らしいみたいだ」
自慢したくなる気持ちもわからなくはない。かつて世界を走り回った英雄と同じ名を冠しているのだ。誰もが仰ぎ見る一族なのだから。
「なるほど……それで、私たちにどのようなご用件でしょうか?」
「いやなに。さっきも言ったとおり、君たちはアンネルの情報部の中でも特に有名人でね。一度お会いしたかったというわけさ」
「有名人?」
クラウスが首を傾げる。どうして自分たちが有名人なのか。
「そりゃ有名さ。特にクラウスくん。君は情報部の中でも特に有名人になっているよ」
「私が?」
ますます腑に落ちない。ユリカが注目を集めるのはまだわかる。しかしその補佐でしかない自分が何故有名なのか? その疑問に答えるようにジョルジュが口を開く。
「君がユリカ嬢を助けるためにマールの警察署に乗り込んできただろう? その場に私の知り合いが立ち会っていてね。その時の話が情報部にも伝わっているのさ」
クラウスの記憶が呼び起こされる。ユリカと出会って最初の旅で、ユリカはマールの警察署に連行された。その彼女を助けるために、クラウスは警察署に乗り込んだのだ。
しかしクラウスには別のことが気になった。その時の騒動が伝わっているということは、その時警察署で何が起こっていたのか、知られているということだ。
「……えっと、デオンさん」
「ん? 何だい?」
ニコニコ顔で語り掛けてくるジョルジュ。その笑みにクラウスは嫌な予感がした。
「君は警察署で何が起きたのか、知っているのか?」
恐る恐る問いかけるクラウス。するとジョルジュはにんまりと笑った。それはよくユリカが見せるのと同じ笑みだった。
「いや、素晴らしい演説だ。思わず私の中の乙女が胸を打たれたよ」
思わず頭を抱えるクラウス。あの時ユリカを助けるために叫んだ言葉が、そのままアンネルの情報部に伝わっているということだ。
思わず口ごもるクラウスを面白そうに見つめるジョルジュ。コーヒーを美味しそうに飲んでいた。
「それにそれだけではない。君はシェイエルンで私の部下たちをその拳で叩きのめしたらしいじゃないか? その時の報告書が情報部に回っていてね。君は特に注目を浴びているよ」
シェイエルンという言葉にクラウスたちの記憶が刺激される。クラウスたちはシェイエルンでの活動の中、アンネルのスパイがシェイエルンに潜入していることに気付いた。彼らはそこで大聖堂のコル神父を襲っているところに出くわし、神父を助けるためにスパイと戦い、撃退した。
おそらくそのことがアンネルの情報部に伝わっているのだろう。
ただ、それ以上にクラウスには気になることがあった。ジョルジュは『自分の部下たち』と言っていた。
「待ってくれ。あの時の男たちは、君の部下だったのか?」
「ああ。君に殴られたせいで顔にあざができてしまってね。女性を口説けなくなったと嘆いていたよ」
そんなことを語るジョルジュ。男たちのことは気の毒だが、そんなことは問題ではない。クラウスが気になったのは、もっと別のことだ。
「デオンさん。あの男たちはコル神父を殺そうとしていた。あれは君が彼らに命じてやらせたことなのか?」
ジョルジュが彼らの上官だというのであれば、ジョルジュは彼らに命令を下す立場にある。ならば、男たちがコル神父を殺そうとしたのは、彼女の命令によるものということになる。
この小柄な少女が、そんな恐ろしい命令を下したというのか?
クラウスの問いかけの真意を悟ったのか、ジョルジュは笑みを浮かべたまま答えた。
「私は神父に危害を加えることまでは命令したのだが、少し命令伝達の不備があったみたいでね。まあ優秀な彼らのことだから、自分たちで考えて実行したのだろう。私としてはせっかくの計画が失敗に終わったことで、胸を痛めたわけだがね」
そんな、笑い話をするように語るジョルジュを見て、クラウスは背中に冷たいものが流れるのを感じた。
こんな小さな少女が、あんな恐ろしいことを笑いながら語っている。目の前の少女が、何か恐ろしいものにしか思えなくなっていた。
「まあそんなわけで、私にとっても君たちは憎むべき敵だ。ぜひともお会いしたかったというわけさ」
クラウスは胸ポケットを探る。目の前にはアンネルのスパイ。今ここで彼女を捕まえるべきではないのか? 彼は胸にある拳銃を握った。
「やめておいた方がいい」
そんな彼の気配を察知したのか、ジョルジュがクラウスを牽制した。
「このカフェには私以外にも何人か部下を潜ませている。もし私に何かあれば、彼らにはこのカフェごと爆破させるよう伝えてあるんだ」
クラウスたちの顔が強張る。カフェには何十人という客がいる。もしここを爆破されたら、無事に済むはずがない。
つまり、ジョルジュはこのカフェを丸ごと人質にしているというわけだ。
クラウスが周りを見る。みんな普通の客ばかりだ。とてもではないが、スパイが紛れ込んでいるようには思えなかった。
「安心してほしい。私も民間人に危害を加えたくはないからね。お話が済めば、このまま立ち去るつもりさ」
つまりは最後まで話をしようということだ。
「クラウス。座って」
ユリカが声をかける。一緒に話を聞こうということだった。
ここはグラーセン。クラウスたちの故郷だ。だというのに、。このジョルジュという少女は、敵を前にして圧倒的に有利な立場を築いていた。
あまりに恐ろしい少女だった。
「それで、君は私たちにどんな用件があるんだ?」
「ん? いや? 特別用事があるわけじゃない。さっきも言ったように、私の計画を阻んだ奴がどんな人間か、話してみたかっただけさ。そこは本当だよ」
そう言ってジョルジュがクラウスを見た。何かを見透かされている気がして、クラウスは落ち着かなかった。
「それで、デオン様。彼と話してみた感想は?」
ユリカが問いかける。するとジョルジュがにっこりと笑みを浮かべた。
「噂通りの色男だね。実にホレボレするよ。もしこんな形でなければ、ぜひデートにお誘いしたいと思っているよ」
にっこりと語るジョルジュ。いきなり色男などと言われてクラウスは戸惑う。そんな彼にジョルジュがさらに言い寄った。
「どうだろう? せっかく出会ったんだ? もしよければ今夜空いてないかい?」
「いや、いきなり何を……」
唐突に口説き始めるジョルジュにしどろもどろなクラウス。その様子が面白いのか、ジョルジュはさらに笑みを深めた。
「やめてくださる?」
その時、ユリカが口を開く。彼女は微笑みを浮かべながら、クラウスの腕を引いた。
「貴方が言うように、私の自慢の色男ですの。取らないでくださいまし」
『私の』という言葉に動揺するクラウス。何も言えないでいる彼を横目に、少女二人が語り合う。
「そもそも私たちは敵同士でしょうに。相手を口説くなんて、よろしいですの?」
「恋と仕事は別だよ。彼とはもっと話がしてみたいのさ。それにユリカ嬢もわかるだろう? 女は恋に落ちたら止まらない生き物だってことを」
「その恋の炎にその身が焼かれないことを願いますわ」
「いやあ、私は寒がりだから、もっと火に当たっておきたいくらいだよ」
楽しそうに歓談する二人。だが、すぐ横にいたクラウスは、二人の歓談に何か鋭いものがあるのを感じていた。まるで剣先を突き合わせるような、もしくは銃を向け合うような、そんな見えない緊張感があった。
冷たい汗が止まらない。クラウスは背筋が凍るような気がした。
「ふむ。まあこればかりは仕方ないか。彼の気持ち次第だし。いつか私に振り向いてくれることを願うよ」
そう言ってエスプレッソを口に含むジョルジュ。美味しそうに味わう彼女に、クラウスが口を開いた。
「あー……ところでデオンさん」
と、その時ジョルジュが手を上げた。
「ジョルジュでいいよ。この名前は気にっているからね。できればジョルジュと呼んでほしい」
「……それじゃあジョルジュ。君に聞きたいことがある」
「何だい?」
どんな質問が来るか、彼女はわくわくしていた。彼女の期待に応えられるかわからないが、クラウスが問いかけをした。
「君は情報部にいるということだが、君の活動の目的は何だ? 君は何を目標としているんだ?」
ユリカとクラウスの目的。それはかつてのクロイツ帝国の復活だった。そのためにグラーセンを中心として、帝国の再統一を目指していた。
ならば、彼女にも何か目的があるのではないか? クラウスはそれを知りたかった。
するとジョルジュがにやりと笑った。
「そうだね……一言で言えば、私の目的も君たちと同じだよ」
「同じ、とは?」
ジョルジュはもう一度エスプレッソを飲んでから、彼女の目的を口にした。
「かつてアンネルが世界に君臨した時代。ゲトリクス時代を復活させたい。それだけさ」
そんな、子供の頃の夢を語るような気軽さだった。警察官になりたいとか、お金持ちになりたいとか、子供が語るような他愛ない話。
だが、今ジョルジュが口にしたのは、子供が語る夢ではない。神話を復活させるというものだった。クラウスもユリカも衝撃を受けていた。
ゲトリクス時代の復活。それはある意味では、クロイツ帝国の復活よりも恐ろしいことかもしれなかった。
ゲトリクス皇帝がいた時代。アンネルは間違いなく世界に覇を唱えていた。大陸の半分、いや三分の二は皇帝の領土となり、ゲトリクス皇帝とそのアンネル共和国軍は、間違いなく世界を占領したのだ。
少女はそのゲトリクス時代の再来を目指している。ある意味クロイツ統一と同じか、それ以上の困難な道かも知れなかった。
思わず口を閉ざすクラウスたち。その様子をおかしそうに見つめるジョルジュ。
「ははは。まあそういう反応になるよね。仕方のないことだ。だけど、それは不可能ではないと私は断言する。そのためなら、私はどんな手段も使うつもりさ」
そんな風に嬉々として語る少女。その言葉にクラウスが言葉を返した。
「どんな手段も、ですか……それはコル神父の時のように、誰かを殺すことも考えているとでも?」
「その通り」
即答するジョルジュ。まさか即答されるとは思っていなかったクラウスは動揺を隠せなかった。そんな彼を見ながら、ジョルジュは続けた。
「利用できるのなら、私は何だって利用するよ。人の命も、自分の命も。目的のためなら、私は神様だって利用して見せるよ」
微笑む姿にクラウスは目を離せなくなった。彼女が語った言葉に、一つも嘘はなかった。
最初に会った時から思っていた。彼女はユリカとどこか似ていたと。その理由が今わかった。
彼女もまた、祖国を愛する少女なのだ。その姿がユリカと被って見えたのだ。微笑む姿も、楽しそうな顔も、全てユリカに似ているのだ。
アンネルの黒狼。それは可愛らしい女の子で、そしてとても恐ろしい敵だった。
「さて、そろそろ行かせてもらうよ。お邪魔をして悪かったね」
ジョルジュは最後にエスプレッソを飲み干して、席を立ちあがる。自分の分の代金を机に置いた。
「もしお話がしたければいつでも誘っておくれ。適当に街を歩いていたら、私から声をかけるよ。仕事では敵だけど、せっかく知り合えたのだ。仕事以外では良い友達でいたいからね」
そこまで言って、ジョルジュはクラウスに顔を向けた。彼女はクラウスに向けてウインクをして見せた。
「特にクラウスくん。君とはもっとお話ししたい。ぜひ会いに来ておくれ」
それに対してクラウスは何も答えられず、狼狽えるだけだった。その様をジョルジュはにっこりと笑った後、その場から立ち去って行った。
しばらく呆けるクラウス。するとユリカから声がかけられた。
「何を呆けているのかしら?」
「……ああ、いや。すまない。少し気圧されてしまった」
彼自身情けないとは思うが、それくらいジョルジュという少女が恐ろしく感じられた。
祖国のためなら神様だって利用すると豪語した彼女。きっとそれは嘘ではないだろう。実際シェイエルンではそのようにしたのだから。
改めて、恐ろしい敵だとクラウスは感じていた。
「すごい人だ。君はどう思う?」
ユリカに顔を向けるクラウス。すると彼女が珍しく不満げな顔をしていた。
「……何だ? 私は何か変なことを言っただろうか?」
「ふーん……そうなんだ。そんなにホレボレするほどの美少女だったのかしら?」
「は?」
ユリカの言葉に思わず変な声を出すクラウス。彼女は何を言い出しているのか、理解できなかった。
「いや、いきなり何を言っている?」
「だってそうなんでしょう? あんなに可愛い女の子に口説かれて、デートのお誘いまで受けていたじゃない。色男さんとしては、名誉なのかしらね?」
そんな風に言ってくるユリカ。よくわからないが、この状況はよろしくないとクラウスは感じていた。何かまずいことになっているようだった。
「いや、別にそういうことではない。敵として恐ろしいと言っているだけだ」
「ふーん……まあそういうことにしておくわ」
まだまだ不満げな顔のユリカ。その様子に不安を覚えるクラウスだった。
「恐ろしい敵だわ……」
その時、ユリカが小さく呟くのを、クラウスは聞き逃していた。
「あっちから接触してきたか。大胆な娘さんだな」
クラウスたちの前でクラビッツが感心したように唸っていた。
クラウスたちは参謀本部に戻ると、すぐクラビッツに報告に向かった。報告を受けたクラビッツは静かに唸った。
「しかし、かのデオン元帥の関係者とはな。その名を耳するだけで体が震えそうだ」
戦史に刻まれた伝説。その関係者ともなれば、軍人なら誰もが畏れを抱くだろう。デオン元帥とは、そういう存在なのだ。
「君たちから見た印象はどうだった? 恐ろしそうな相手か?」
「……いえ、特に恐ろしい印象はありませんでした。男装をしたり男性の口調をしていたり、少し変わった女性ではありました。そういう部分を除けば、魅力的な女性でした」
そう語るユリカ。だが、彼女はさらに付け加えた。
「ですが、だからこそ恐ろしい相手とも思えます」
「ほう? 理由は?」
「彼女は可愛らしく、素敵で、人を惹きつける魅力があります。同性の私から見ても、魅力的な女性でした。とても陰謀めいたことを考えるような人間には見えませんでした。それはある意味、情報部員にとって最も必要な能力だからです」
情報部員の最も重要な条件。それは目立たないこと。ジョルジュは確かに魅力的だが、疑われるような目立ち方をしているわけではない。とてもではないが、彼女をスパイだと気付くものはほとんどいないだろう。気付いた者がいるなら、それは疑心暗鬼の森に迷い込んだ人間なのだろう。
「なるほどな……確かにそういう人間ほど、不気味なものはないな」
ユリカの説明にクラビッツも納得した。
そこまで話したところでクラウスに疑問が浮かんだ。
「しかし、それならどうして彼女は私たちの前に現れたんだ? 仕事を成功させるためなら、スパイであることをばらす必要はないだろう? 一体どんな意味があるんだ?」
スパイであることをばらして、得になることはないはずだ。しかし彼女は大胆にもクラウスたちと接触し、自ら身分を明かした。本来ならあり得ないことだ。
クラウスの疑問を受けて、クラビッツが答えた。
「彼女が意味のない事をするとは思えんな。何か考えや計画があってのことだろう。彼女は他に何か言っていたか?」
クラウスはジョルジュとの会話を思い出す。
「……よくわかりませんが、私たちに会いたかったなどと言っておりました。彼女は自分の計画を阻んだ相手がどんな人物か知りたかったと言っておりました」
クラウスの話に黙考するクラビッツ。しばらくそうした後、クラビッツが顔を上げた。
「もしかしたら、彼女は君たちに何らかの攻撃を仕掛けてくるやもしれん」
クラビッツの言葉をすぐに理解できず、思わず顔を見合わせるクラウスとユリカ。
「私たちに、ですか? それは何故?」
「君たちは彼女の計画を一度は阻んだのだろう? そういう意味では君たちは彼女にとっては警戒すべき相手だ。今回の彼女の計画を邪魔されないように、自分から君たちに攻撃を仕掛けようとしているかもしれん。少なくとも、何らかの動きがあるのは明らかだろう」
確かにその可能性はあった。実際クラウスたちはシェイエルンでのジョルジュの計画を阻止したのだ。アンネルの情報部でもクラウスたちの名が知れ渡っているという。それなら要注意人物として警戒されるのも納得できた。
「君たちにも危害が及ぶ可能性がある。十分注意しておきなさい」
クラビッツの言葉に緊張するクラウスたち。実際ジョルジュが何を考えているのか、わからない。しかし、彼女の笑みの奥に何があるのか? それを考えると彼女の恐ろしさが一層増した気がした。
「わかりました。気を付けます」
翌日、クラウスたちは情報部の資料室に足を運んだ。アンネルの情報を担当しているドラック大尉に話を通すと、彼はジョルジュについての資料をまとめて取り出してくれた。
「これがジョルジュ・デオンに関する資料になります。彼女のことは情報部でも捜査していましたので、資料は色々集まっています」
ドラックが資料を机に広げる。ただ、資料はそんなに多くなく、クラウスは拍子抜けした感が否めなかった。
「これで全てですの? なんだか少ないような……」
ユリカも同じことを口にした。するとドラックは仕方ないとばかりに溜息を吐いた。
「実を言えば、必死に集めて『こんなに集まった』のです。彼女は仕事の痕跡はほとんど残しません。その足跡も記録もほとんど掴んだ試しがありません。ここにある資料も、何とか集めることができたものなのです」
息を飲むクラウスたち。スパイというのは知らない間に仕事を行い、誰にも知られることなく仕事を遂行する。それだけジョルジュは完璧に仕事をこなしてきたということなのだ。
それにしても、グラーセン情報部がやっと集められた資料がこれだけなのだ。その量の少なさこそ、ジョルジュの恐ろしさを示していた。
「しかしながら、彼女の情報は色々聞き及んでいます。噂ではアンネル情報部の仕事の半分が、彼女の計画によるものとすら言われています」
「なるほど……彼女は今までにどんな仕事をしていたのでしょう?」
「有名なのは二年前、彼女はローグ王国に潜入し、ローグ海軍が計画していた新型軍艦の設計図を盗み出すことに成功したと言われています」
「新型軍艦の設計図を!?」
思わず声を上げるクラウス。あのローグ王国を相手にそんな仕事を成し遂げるなど、普通なら考えられなかった。
「私も報告を受けた時は驚きました。しかもこれはあくまで憶測で、確証はありません。彼女は現地で協力者を作って、そいつに設計図の模写を持ち出させたらしいのです。結局協力者がへまをして事件が露見したのですが、その時にはすでに彼女はローグから離れていたそうです。当時の王国海軍は大騒ぎだったそうです」
新型軍艦の設計図など、それこそ最高機密のはずだ。それを盗み出すだなんて、女王陛下の首飾りを盗み出すようなものだ。一体どんな手を使ったというのか?
「しかし、協力者を作ったということですが、どうやって協力者を得たのでしょう? 何かしら疑われるはずですけど……」
ユリカが疑問を口にする。言われてみれば、その協力者は設計図の模写をジョルジュに渡したという。逆に言えば、彼女に模写を渡すまで、彼は疑われなかったということになる。
普通、スパイというのはその兆候が見られるものだ。お金に困っていたり、もしくは不自然に金回りがよくなったり。そうした弱みに付け込んで、スパイ行為に協力させたりするものだ。それがわかっているからこそ、軍隊などでは身辺調査でまず経済面について調べたりするのだ。
そんなユリカの疑問を察したのか、ドラックが説明してくれた。
「実を言うと、そこが一番不思議なのです。その協力者というのは海軍の開発局に勤めていた技術者で、とても真面目な人間だったそうです。お金に困っている様子もなく、誠実な人柄だったそうです。少なくとも、もっとも疑いにくい人物だったとか」
ますます首を傾げる話だった。話を聞く限り、とてもスパイに協力するような人物には思えなかった。
「きっと当時の海軍関係者も同じように思ったでしょう。何故彼がこのような事件を起こしたのだろうか、と」
しかしと、ドラックは続けた。
「だからこそ、そこに私はジョルジュの恐ろしさを感じています。どんな手を使ったのかわかりませんが、彼女はもっとも素晴らしい協力者を作ったのです。全く疑われることのない人間を協力者にして、疑われることなく仕事を遂行させたのです」
ドラックの言葉にクラウスたちは戦慄を覚える。当時のローグ王国海軍は、まさかスパイがいるなんて、夢にも思っていなかっただろう。自分の隣にいる真面目な青年が、知らない間にスパイに加担しているのだ。ジョルジュという少女は、それを成し遂げたのだ。
「ジョルジュの名を聞いた時、嫌な汗をかきましたよ。この参謀本部に彼女の協力者がいると思うと、誰も信用できなくなりますから」
なるほど。全くもって恐ろしい話だ。いつも普通に笑い合っている相手が、もしかしたらスパイになっているかもしれない。そんな状況、あまりに恐ろしいことだ。
「なんともまあ、すごい人ね」
クラウスの横を歩きながら、ユリカがそう呟いた。
「ローグ王国を相手に仕事を成功させるだなんて。魔王の心臓を取ったようなものだわ」
「ああ、彼女の働きは二十年分の働きに相当するそうだ」
これは比喩ではなく、本当に二十年の時を埋める働きだと言えた。世界最強のローグ海軍は世界中の海軍より一歩抜きんでた存在だった。そのローグ海軍が密かに進めていた新型軍艦の設計図をジョルジュは盗み出したのだ。
アンネルとローグとの間には、海軍力に大きな差があった。その差は二十年分とも言われており、ジョルジュの働きはその二十年の差を埋めるほどのことだと言われていた。
「たった一人の少女が王国海軍を陥落させた。後世の歴史家は信じられないだろうな」
正直、クラウス自身が信じられなかった。あの不思議な少女がそんなことをしたなんて、想像できなかった。
しかし、実際にあの少女はクラウスの目の前にいて、彼に笑いかけてきた。その事実が、この話が真実であることを教えていた。
二人は外に出た。彼らが外に出てみると、当然のことながら色々な人間がいた。立派な髭をそろえた将校。戦友と共に笑い合う若い兵士。
軍人だけではない。遠くを見ると、軍人たちに混じって女たちが一緒になって笑い合っていた。彼女たちは食堂で働く女給たちで、若い兵士は女たちとの会話を楽しんでおり、女たちも楽しそうに笑っていた。
「あら? あの子」
ユリカが声を上げる。クラウスが彼女の視線の先を追うと、そこには見たことのある少女がいた。
「あれは確か……リタさんだったか?」
よく自分たちの部屋に食事を運んでくれる女給がいた。彼女の前には女性と兵士が並んで立っており、リタはその二人を見ながら、スケッチブックを広げていた。どうやら二人の絵を描いてあげているらしかった。
「楽しそうね」
「ああ、そうだな」
ユリカの言葉に頷くクラウス。全くもってのどかな時間だった。
それから三日間。クラウスたちは調査のために歩き回った。
情報部や作戦課。それに憲兵隊など、主だった所へは全て足を運んだ。
また参謀本部に出入りする人間の資料も集め、全て調べ上げた。
そうして得た結果は、全ての人間にスパイの可能性はないというものだった。
憲兵隊でも捜査をしており、彼らからも話を聞いたのだが、疑いのある人物はいないというものだった。身辺調査や家族や交友関係など、考えられることは全て調べ上げており、また経済状況についても調査していたが、誰も疑われるような人物はいなかったらしい。
「本当にスパイなどいるのだろうか……?」
思わずクラウスが呟く。それはスパイなどいないという、彼の希望とも言える呟きだった。その希望は楽観的に過ぎるだろうか?
そんな彼の呟きに、ユリカが顔を上げた。
「あなたはジョルジュを見て、同じことが言えるかしら?」
その一言にクラウスの顔が変わる。
自分たちを前にして、大胆に微笑むジョルジュ。そんな彼女の顔を思い出して、彼はさっきの自分の呟きを撤回した。
「……そうだな。あのジョルジュが相手だったな」
ローグ王国すら落としたジョルジュが相手なのだ。忘れてはならないことだった。
そんな彼女のことを思い出したクラウスは、ふと疑問が浮かんだ。
「そういえば、彼女は何が目的なのだろうな?」
考えてみれば、彼女の目的が何なのかわかっていなかった。
参謀本部の機密情報だというが、一体彼女が何を狙っているのか、具体的なことはわからないでいた。
「それがわかればいいのだが……」
「そうね……」
クラウスの言葉に黙考するユリカ。しばらくして、彼女はいつもの笑みを浮かべながら言った。
「それなら、本人に聞いてみましょうよ」
「……は?」
彼女の言葉がすぐに理解できずに固まるクラウス。その様子が面白いのか、ユリカはニンマリと笑う。
「外に出て彼女に会いに行きましょう。直接話をすればいいわ」
「いや、さすがに無理だろう。彼女がどこにいるかわからないのだぞ」
「大丈夫よ。前に会った時はいつでも会いに来てって言っていたし。それに外を歩いていれば、あっちから声をかけてくるはずよ」
確かにモンデリーズで会った時はそんなことを言っていた。しかし本当に自分たちと会ってくれるのだろうか?
「とにかく行きましょう。あのまま負けたままなのも嫌だしね」
そう言って立ち上がるユリカ。すぐにでも飛び出そうとする彼女だったが、そんな彼女をノックの音が呼び止めた。
「失礼します。お食事を持ってきました」
いつのまにか昼食の時間になっていた。美味しそうな料理を前に、ユリカが振り向いた。
「ご飯を食べてから行きましょうか?」
「それで? 行くアテはあるのか?」
街を歩きながら問いかけるクラウス。王都も広大で簡単に探すことはできない。闇雲に歩いてもジョルジュに出会うのは無理だろう。
クラウスの不安を聞いて、ユリカは自信満々に答えた。
「モンデリーズに行ってみましょう。もしかしたらそこにいるかもしれないわ」
ジョルジュと最初に出会ったのもモンデリーズだった。彼女はあそこのエスプレッソがお気に入りの様子だった。確かにいるかもしれないが、そう都合よく会えるのだろうか?
「とりあえず行ってみましょう。会えなくても店の人に聞いてみたら、何かわかるかも」
「わかった。そうしよう」
そう言って二人はモンデリーズへと向かった。
モンデリーズに着くと、この日も店は客でにぎわっていた。中に入るのが難しいくらいだった。確かジョルジュに会ったのもこんな日だったとクラウスは思い出した。
二人が店に入ろうとすると、給仕が二人を出迎えてくれた。
「すいません。ちょっと聞きたいことがあるのですが……」
ユリカが声をかけると、給仕は笑顔で口を開いた。
「お待ちしておりました。ユリカ様にクラウス様ですね」
「……待っていた? 私たちを?」
いきなりの言葉に訝しげな顔をするクラウス。何のことかわからないクラウスに給仕はさらに続けた。
「はい。ジョルジュ様から言付かっております。お二人が来たら席まで案内するようにと」
またしてもクラウスはゾクリとした。ジョルジュはすでにこの店に来ていた。しかも給仕に二人が来ることまで告げていた。つまり、ジョルジュは二人がここに来ることを知っていたことになる。
クラウスは寒気がした。どうして彼女は自分たちの行動を把握しているのか?
恐怖で顔が強張るクラウス。それに対して、ユリカは狼狽えることなく、給仕にお礼を伝えた。
「ありがとうございます。さっそく案内してもらえますか?」
「かしこまりました。どうぞこちらへ」
そう言ってウェイターは二人を案内した。
そうして二人が案内されたのは、店の奥で一番日当たりのいい場所だった。その席でジョルジュが先にエスプレッソを飲んでいた。あの日と同じ微笑みを浮かべながら。
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