第一章 参謀本部作戦課

 グラーセン王国宰相・スタールが行った演説は世界を駆け巡った。


 かつてのクロイツ帝国の復活を宣言する演説に国内の新聞はもちろん、列強各国の新聞が一面で取り上げていた。


 かつての帝国の構成国をまとめ、再び帝国として統一させる。グラーセン政府は公式にこの計画を宣言したわけである。


 この宣言に世界が揺れた。かつて大陸に君臨した帝国の復活。歴史用語でしかなかった帝国が、再びこの大陸に姿を現す。人々は様々な反応を示した。


 ほとんどの人間は驚愕し、言葉を失った。かと思えば、何人かはある程度予測できていたのか、落ち着いて受け止める人間もいた。


 そして何より、スタールの演説に最も熱狂したのは、グラーセン国民だった。スタールの演説は巧みで、国民の中に眠っていた愛国心を強く刺激し、これから起こる物語に誰もが興奮した。それまで一部の人間にしかなかった国民意識が、スタールの言葉で誰もが共有する美徳となった。


 老いも若きも、男も女も、貴賤の区別もなく、誰もが同じ国民として熱狂したのだ。


 また、スタールの演説に熱狂したのはグラーセンだけではない。かつて同じ帝国だった他の国々も、スタールの言葉に熱狂した。


 彼らの中にも、もう一度帝国に戻りたいと願う人々がいたのだ。スタールの演説は、そんな彼らの心も刺激したのだ。


 スタールの演説は確かに歴史を動かし始めた。動力炉に火を灯すように、歴史の歯車が動き始めたのだ。そして、一度歯車が動き出せば、あとは一気に速度を上げるだけ。


 歴史とはいつもそうだ。いつも唐突に嵐を巻き起こす。戦争や災害、革命。そして、英雄の出現が世界を動かし、歴史を回転させるのだ。


 スタールの鉄血演説から数か月。グラーセンはより一層活発に活動を始めた。かつての帝国の構成国だった国との交渉を始めたのだ。


 帝国が解体されてから数十年。各国はそれぞれの歴史を歩んでいた。そのため、それぞれの国で色々な違いが生まれていた。


 政治、法律、経済など、各国との間に色々な違いが生まれていた。また大小の違いはあれど、それぞれ行政権や外交権を認められた国家だ。帝国として統一するということは、それら国々を一つにまとめるということなのだ。


 統一は簡単な話ではない。しかし動き始めた情熱は止まることはない。情熱の炎は石炭を燃やすかのように、各国に統一の機運を燃え広がらせていた。




 グラーセン王国参謀本部。グラーセン軍の知の結晶にして、軍の頭脳。軍においても統一事業と無関係ではいられない。グラーセン軍でも統一に関しての計画が練られていた。


 その参謀本部にクラウスとユリカが帰ってきた。


「やっと帰ってきたわね。麗しの我が家に」


 ユリカの言葉にクラウスが呆れ笑いを見せる。


「ここは実家ではないのだがな」


 参謀本部にある宿舎に戻って、二人は一息ついた。


 彼らは軍に命令されて、先日までビュルテンに赴いていた。彼らはそこで、グラーセンとビュルテンを繋ぐ鉄道計画の進捗状況について見分してきたのだ。


「久しぶりに行ってみたけど、みんな元気にやっていたわね」


 そう言って感慨深そうに語るユリカ。その言葉にはクラウスも同意した。


 以前ビュルテンに行った時、彼らはそこで参謀本部の鉄道課に所属するフェリックスと、ビュルテンに暮らすラコルトと仕事をしていた。今回の旅で彼らとも再会した。


 フェリックスはビュルテンで鉄道敷設の仕事を進めていた。彼らの働きで鉄道も敷設も進んでおり、またラコルトにはビュルテンでの鉄道会社の経営を任せており、彼の働きでビュルテンでも鉄道の運営に目途が立っていたことを確認した。


 彼らの働きでグラーセンとビュルテンとの間に新たな結びつきが生まれようとしていた。いずれグラーセンとビュルテンの間に、鉄道が走ることになるだろう。


「みんな元気で嬉しかったわ。思わずはしゃいじゃったわ」


「ラコルトさんなんか、前より若返ったんじゃないか? 楽しそうに仕事をしていたようだし」


 元々グラーセンとの統一に慎重な態度だったラコルトだったが、いざ事業が始まれば人一倍熱心に働いてくれていた。クラウスたちと久しぶりに会って、彼が一番歓迎してくれたのだ。


 彼らとビールを飲み交わして、お互いの仕事の成功を祝う宴会になるほどだった。


「仕事だったのに、本当に旅行になってしまったな。みんな忙しいというのに」


「あら、いいじゃない。今まで頑張ってきたんだもの。御褒美と思えばいいわ」


 そんなことを言うユリカに、クラウスも苦笑いを浮かべた。


「それに、ビュルテンもそうだけど、シェイエルンも統一には賛成してくれているわ。悪くない動きよ」


 ユリカの言うとおり、帝国の構成国だった国はほとんどが統一に賛成してくれていた。特に隣国のシェイエルンが統一に前向きになっていたのは大きかった。シェイエルンが賛成の意志を見せると、それに続くように他の国も統一に賛成するようになったのだ。


 そのうち統一に関して国民投票が行われる予定だが、事前調査では賛成が圧倒的多数だという。投票はあくまで確認作業であり、ほとんど答えは決まっているようなものだという。


 統一計画は順調そのものだった。それらは全て、今までのクラウスたちの働きあってのものだった。彼らが走り回ったからこその成果だ。


 そのことを思うと、クラウスもつい笑うのだった。


「私たちのやって来たことは、無駄ではなかったな」


 その呟きにユリカが微笑む。


「そうよ。私たちが残したものよ」


 二人して笑い出した。とても心地の良い笑い声だった。


 クラウスが目を閉じる。彼は今でも忘れられない。スタールの鉄血演説を。


 演説の場に居合わせたクラウスは、スタールの言葉を聞いて、全身の血液が沸騰したような気がした。彼の中の『男の子』が、大きく熱を上げていた。今でも演説を思い出せば、体が震えるほど昂揚するのだった。


「本当に、統一が近づいているんだな」


 歴史が動いている。その歴史の末端ではあるけど、その瞬間に立ち会っている。その事実が嬉しくて、楽しくて、ついニヤニヤしてしまうのだ。


 その様子が面白いのか、ユリカも笑うのだった。


「余韻に浸るのもいいけど、まだまだ仕事は多いわよ。覚悟はできている?」


 ユリカの言葉にクラウスが顔を上げる。


「連れて行ってくれるのだろう?」


 これまでユリカと共に走り回って来たのだ。これからだって走り回る気でいる。帝国の統一が成される日まで。


 クラウスの顔を見て、ユリカも満足そうに頷いた。


「今夜はいい夢が見れそうね」


 こんなに心地よい感覚なら、きっといい夢が見られるだろう。とてもいい夜だった。




 翌朝、起床ラッパで目覚めるクラウス。体も慣れてきたのか、今ではラッパが鳴らないと脳が鈍る気がするほどだった。


 今日も意識が覚醒する。彼は飛び起きると、すぐに身支度を済ませた。軍というのは即応迅速が求められる世界だ。お嬢様みたいに鏡の前であれこれドレスを選ぶようなことはない。彼はすぐに身なりを整えると、少し準備してから部屋を出た。


 彼はユリカの部屋へと赴く。彼女の部屋で今日の予定を聞き、それから仕事に入るのだ。


「ん?」


 彼は意外なものを見た。ユリカの部屋から若い将校が出てくるのが見えた。彼女の部屋に客が来るのはあまりない事なので、クラウスは面食らっていた。その将校はクラウスを見つけると、お疲れ様ですと、敬礼を寄越した。


 クラウスは軍属なので、正規の軍人ではない。敬礼の必要はないのだが、それでも軍人としての礼を示してくれたのだ。クラウスは会釈を返した。


 将校がそのまま立ち去ると、その背中を見送ってからクラウスは部屋に入った。


「おはよう。食事の用意はできているわよ」


 いつものようにクラウスを迎えるユリカ。机の上に女給が食事を並べていた。


「ユリカ。今この部屋から誰か出てきたが、何かあったのか?」


「ええ。ちょっと用事ができたわ。今日は朝からやることができてしまったわ」


「ほう、そうか」


 クラウスが思案顔になる。その彼を見てユリカがにんまりと笑う。


「あら? 心配しているの?」


「そうだな。また何か危険な任務でもあるのかもしれないからな。何か計画に支障でも起きても

おかしくはない。不安にもなるさ」


 そんなことを真面目な顔で語るクラウス。そんな彼の様子にユリカがつまらなさそうに溜息を吐いた。


「何だ? 私はおかしなことを言っていたか?」


 彼女の反応に困惑するクラウス。何故そんな反応をするのか彼にはわからなかった。その疑問に答えるようにユリカが苦笑いを浮かべた。


「せめてヤキモチを妬いたと言ってくれた方が、可愛いのだけど?」


 その言葉にクラウスは納得した。若い将校がユリカの部屋を訪ねる。そのことにクラウスがヤキモチを妬いたり、不安になっている。そういう反応を彼女は期待していたわけだ。


 残念ながらそんなことはない。クラウスも苦笑いを浮かべた。


「あの人にはすでに素敵な奥さんがいらっしゃるそうだ。誠実な人だから、浮気なんてするはずがないさ」


「あら。顔見知りだったのね」


「時々奥さんの話を聞かせてもらっているよ」


 そもそも独身であっても、ユリカに言い寄るような人間はここにはいないだろう。ハルトブルク家の令嬢であり、王国宰相の孫娘なのだ。それなりの地位にある人間でなければ、彼女に言い寄る男はいないだろう。


 それに、彼女が乙女のように恋をする姿は、クラウスには想像できなかった。祖国のために走り回る彼女が、恋文をしたためたり、想い人に胸を焦がすようなことなど、あるとは思えなかった。


 クラウスは内心で思っていたが、本人には黙っておいた。


「しかし、彼は何の用事で君を訪ねたんだ?」


「ああ、そうだった。あなたにも関係のある話よ」


「……新しい任務か?」


 クラウスの声色が変わる。参謀本部の情報部として、いくつかの任務を受けてきた。今回も何か新しい任務を受けたのか、クラウスは身構えた。


 すると、そんな彼の思惑とは裏腹に、ユリカが戸惑い気味の顔を見せた。


「何だ? 何かあったのか?」


「任務……かどうかはわからないわ。理由は聞いていないけど、作戦課に二人で来てほしいって言われたわ」


「作戦課?」


 作戦課という言葉に今度はクラウスが困惑した。


 作戦課は参謀本部において戦略や動員計画など、軍の戦争計画を担う部署である。参謀本部においては最も重要な機関とも言える場所だった。


 対してクラウスたちが所属するのは情報部である。決して無関係とは言えないが、畑違いの世界である。その作戦課から呼び出しを受けたという事実は、彼らを当惑させるのに十分だった。


「何だろう? 何か呼び出されるようなことに心当たりはあるか?」


 クラウスの問いかけにユリカは肩をすくめた。


「さあ? 少なくともお茶のお誘いではないと思うけど?」


 それだったらどれだけよかったか。今までの経験上、クラウスは楽しい想像はできなかった。


 一体どんな用件なのか? 今回はそれすらわからないのだから、余計に不安だった。

 



 参謀本部作戦課。参謀本部の最奥にあり、人目を避けるように固く閉ざされた門の奥にあった。ある意味では、それ自体が強固な金庫であり、絶対に忍び込めない要塞のようにも思えた。


 その作戦課の一室。そのドアの前に二人が立っていた。ユリカがドアを叩くと、入室を促す声が聞こえた。


 中に二人が入ると、部屋の奥に一人の男がいた。男が二人に姿を見て立ち上がる。


「情報部所属。ユリカ・フォン・ハルトブルク大尉です」


 ユリカが敬礼と自己紹介を示す。それに答礼するように男も敬礼を返した。


「参謀本部作戦課、カール・フォン・クラビッツ少将だ」


 クラビッツは立ち上がり、二人に答礼した。


「クラウス・フォン・シャルンスト。ユリカ大尉の補佐官を担当しております」


 クラウスも名乗りを上げる。その彼にクラビッツが視線を送る。


 思わずクラウスは身震いをした。クラビッツの冷徹な瞳が彼を捉えた。その瞳には感情らしいものは感じられず、無機質という言葉が形になったような印象すらあった。


 今まで会ったどの軍人とも違う迫力に、クラウスは圧倒されていた。


「……よく来てくれた。君たちの働きは私も耳に入れている。素晴らしい働きぶりだと。だからこそ、今日はここに呼んだわけだが」


「お褒めに預かり、光栄ですわ」


 ユリカがにこやかに返す。それに対してもクラビッツの冷徹な瞳は変わることはない。ただあ、るがままを受け入れていた。


「それで少将。私たちをここに呼んだ理由は何でしょうか?」


 これ以上の話は無駄と判断したのか、ユリカは本題に入ろうとした。クラビッツにとっても都合がいいのか、すぐに話に入った。


「本題に入ろう。ただ、前もって断っておくが、これから話すことは全てが軍事機密であり、決して口外してはならない。もし漏洩してしまえば、国家反逆罪とされてもおかしくはない。いいか?」


 静かに語るクラビッツだが、そこには言い知れぬ迫力があった。冷徹に語られる言葉はすべて真実。彼の言うとおり、扱いを間違えれば、国家の裏切り者になってしまう。


 ある意味、それはクラビッツの確認だった。引き返すのなら今だと。危険に近づきたくなければ、今なら引き返せると。


 しかし、ユリカにはそんなことは関係なかった。彼女は笑みを浮かべたまま答えた。


「心得ております」


 ユリカは自信をもって頷いた。そもそも彼女は軍人になる前から、この道を歩く覚悟をしているのだ。今さら道を外れることはしないはずだ。


 彼女の返答にクラビッツは頷くと、おもむろに話し始めた。


「単刀直入に言おう。君たちには防諜活動をやってもらう」


「防諜……ですか?」


 ユリカが訊き返す。防諜とは情報漏洩を防ぐために機密保持をすることだ。ある意味情報部らしい仕事だが、それが何故作戦課から依頼されるのか?


 クラウスが疑問に思っていると、クラビッツがさらに続けた。


「君たちにはまだ伝えられていないが、このオデルンにアンネルからのスパイが潜入しているという情報が入っているのだ」


 クラビッツの言葉に思わず声を上げそうになるクラウス。ユリカも少なからず動揺を見せていた。


「それは本当なのですか?」


「かなり高い可能性の話だ。いや、確実と言ってもいいだろう」


 クラビッツが告げる。アンネルという言葉にクラウスはまた嫌なものを感じ取っていた。


「なかなかの手練れらしく、列強各国で暗躍してきたらしい。各国情報部の間では『黒狼』などと恐れられているとか」


「黒狼……聞いたことがありますわ。情報部で何回かその名前が挙がったことがあります」


「君たちにはそのスパイから軍事機密を守ることに協力してもらう。それが私からの命令だ」


「なるほど……ところで、彼らの狙いは何でしょうか? 何かわかっているのですか?」


「実際何が狙われているかはわからない。だが、何が狙われてもおかしくはない。ここにある物は全て国家機密だ。新兵器の設計図。外交情報。各国に配置されている情報部員の情報。どれ一つとっても漏洩してはならない情報だ。何が狙われているかなんて、考えればキリがないくらいだ」


 実際にその通りなのだろう。スパイからすれば全てが貴重な情報なのだ。


「スタール宰相閣下の演説から数カ月。あれから統一運動は加速した。かつての帝国の構成国はほとんどが統一に賛成の態度を見せてくれている。だが、全てが順調ではない。わかるな?」


 スタールが鉄血演説をしてから、世界は様々顔を見せていた。ビュルテンやシェイエルンなどかつての帝国の構成国は統一に賛成の意志を示してくれた。だが、当然のことながら全ての国が好意的なわけではない。


「列強の間にも当然のことながら反応があった。ローグ王国は中立を示しているが、それ以外は懸念を示している。特に、隣国のアンネルは遺憾の意を表すると言っていた。覚えているか?」


 クラビッツの言うとおり、アンネルからは帝国の再統合に対して、反発を強めていた。安定した大陸の秩序を乱す暴挙とまで、現地の新聞では報道されていたらしい。


「結構なことを言っていましたわね。ワインが美味しくなくなるとか」


「アンネル人にとってワインが美味しくなくなるのは、死活問題だろうからな。それほどのことなのだろう」


 実際かつての帝国が復活するのは、隣国となるアンネルにとっては脅威以外の何物でもない。かつて大陸を支配した帝国と国境を接することになる。彼らにとって看過できない事態だった。


「情報ではアンネル軍の活動が活発になっているらしい。明らかにグラーセンに対して軍備を整えようとしている。そんな中でアンネルからスパイが入り込んできたのだ。当然と言えば当然だ」


 クラビッツが二人を交互に見た。


「君たちには敵のスパイから情報を守ってもらう。情報部にも話を入れてある。協力してもらうぞ」


 まるで拒否を許さないといった様子の言葉だった。将校としてのクセかもしれない。


 そこでいくつかの疑問を抱いたクラウスを質問した。


「失礼、少将。質問の許可を」


「何だ?」


「確かに我々も情報部の人間であり、防諜も任務のひとつですが、作戦課の情報ともなれば国家機密に等しいはず。それほどの情報に関わることに、我々が関与しても良いのでしょうか?」


 軍というのは機密の塊であり、たとえ同じ軍人であっても、階級や所属によっては触れることのない情報だってある。隣の部屋で何を食べているのかすら、知らないことがあるのだ


 情報部と言えど触れられない情報だってあるのだ。ともすれば作戦課の情報など、最重要機密のはずだ。ユリカはまだしも、軍属であるクラウスが知っていいものとは思えなかった。


 少将も質問の意図を理解したのだろう。その問いかけに彼は答えてくれた。


「仕方ないのだ。むしろ君たちにこそやってほしい仕事でもあるのだ」


「どういう意味です?」


 クラビッツは答える前に小さく溜息を吐いた。


「我が参謀本部の中に、そのスパイの協力者がいるとの噂があるのだ」


 クラウスの顔が強張った。横にいるユリカは何も言わず、ただ静かに聞き入っていた。


「それは……本当なのですか?」


「確かな情報ではない。しかし、噂というのは馬鹿にはできない。それは君たち情報部員の方がよくわかっているのではないか?」


 少将の言うとおりである。情報部というのはどんな情報であっても調査し、分析し、解明する。それがどんな馬鹿げたものでも、それが恐るべき真実だった時もあるのだ。


 お茶会で淑女が笑い出すような話から、歴史が動く時だってあるのだから。


「この世界では馬鹿げた噂であっても、無視はできないのだよ」


「なるほど……しかしなおさら我々がいるのは危険なのでは? 我々とて容疑者だとしてもおかしくないのでは?」


「ふん。そんなこと」


 クラビッツは冷たく言い放った。


「気にする必要はない。私は全ての人間を信じていないからな」


 くだらないとばかりに言い放つクラビッツ。その言葉に彼らがいる部屋の空気も、時間さえも凍り付いた気がした。


「ああ、勘違いしないでほしい。別に悪い意味で言っているのではない。私は誰に対しても信用も疑いもしていない。部下も同僚も、もしかしたら上官であっても、私は信用も疑いもしていないのだ。こういう仕事していると、誰も信用してはならないのでね」


 あまりいい意味には聞こえなかったが、しかし彼の立場を考えれば、理解できる話だった。


 重要機密を扱う責任者としては、たとえ部下であっても完全には信用できないのだろう。特にスパイの疑いがあると噂があれば、警戒も強くなるのだろう。


 人として問題があるが、しかし軍人としてはこれも一つの完成された形なのだろう。クラビッツを見て、クラウスは変な意味で感心していた。


「まあ、そう言う意味では君たちも完全に信用はしていないが、しかし君たちには利用価値がある。私にはそっちの方が重要だ」


「利用価値、ですか?」


「そうだ。参謀本部に裏切り者がいるとするなら、それは作戦課の情報を知っていることになる。それなら作戦課の情報を全く知らなかった君たちはスパイの可能性は低い。まだ信用できるということだ」 


 確かにクラウスたちは作戦課の情報はたった今、少将から聞かされたのだ。そう言う意味ではスパイの可能性は確かに低かった。


「それにクラウスくん。君の能力は使えそうだと思っているのだ」


「私が?」


「君はアンネルに留学していたのだろう? アンネルの語学も堪能だと聞いている。アンネルについて知っている人間ならば、今回のことも役に立つと思っている」


 どうやら少将にはクラウスの情報が入っているようだった。


「君とユリカ大尉は色々と活躍しているようだな。今回も活躍してもらうぞ」


 信頼しているのかしていないのか。少将の言葉にクラウスは少し戸惑った。


 ただ確かなのは、アンネルのスパイがいること。参謀本部に裏切り者がいるかもしれないこと。そして、自分たちはスパイから情報を守らなければならないということだった。


 今までとは一味違った任務だ。もしかしたら今まで以上に重要な仕事かもしれない。だが、統一のためにやらねばならなかった。


「わかりました。微力を尽くさせていただきます」


 クラウスが答える。それに続くようにユリカも答えた。


「ユリカ大尉、命令を受領します」


 二人の答えを受け取ったクラビッツは、何も言わずに頷くだけだった。



「何だか、不思議な御人だったな。クラビッツ少将は」


 部屋に戻るなり、クラウスはそう呟いた。その呟きにユリカが不思議そうな顔を見せた。


「あら? そうかしら?」


「ああ、ここで色んな人と話をしてきたが、少将は何か違う。何と言うのか……全ての人間を信用していない代わりに、全ての人間を同じように見ているというか」


 軍人にも色々なタイプがいる。ここでクラウスも色々な人間と会ってきたが、クラビッツは今まで出会った中で、どこか異質な存在に思えてならなかった。


 そんなクラウスの心中を察して、ユリカも同意するように頷いた。


「そうね……私も何度か少将とお話をしたことがあるけど、最初は驚いたわ。少将にとっては全ての人がチェス盤の駒に見えるのかもしれないわね」


 なるほど、言い得て妙だった。駒は自分の意志で動く存在であり、動き方や役割に違いはあるが、それぞれ等しく一個の戦力だ。少将にとってはナイトであれポーンであれ、同じ駒でしかないのだ。


「でも、そう言う意味では少将ほど指揮官として有能な人間もいないと思うわ。少将は個人個人の能力で的確な配置を決定するの。その人にとって最適解な仕事をやらせることで、最大の成果を上げることができるの。ある意味、一番駒の扱いに長けた人だわ」


 それもまた面白い見方だった。彼にとって出自などは関係なく、相手が持つ能力こそが重要なのだ。ナイトにできない仕事も、ポーンにできるのであればポーンを採用する。誰も信用しないというのは、逆に言えば、価値さえあれば誰でも利用するということなのだ。


「なるほどな……話を聞けば聞くほど、本当に不思議な御人だな」


「まあ、慣れるのには時間はかかりそうね。そういう意味では作戦課の人たちには同情するわ」


 そんなことを言いながら苦笑いを浮かべるユリカ。作戦課の彼らは少将と毎日顔を合わせるのだ。その苦労は察するに余りある。


「差し当って、我々はキングを守るポーンと言ったところか」


 キング。すなわち参謀本部の重要機密。それを守るためにクラウスたちはポーンとして働かないといけないのだ。


「あら? あなたはナイト役じゃないのかしら?」


 クラウスのそんな呟きに、ユリカが笑った。


「あなたは私を守ってくれるナイト様ではないのかしら?」


「ナイト、ね。私がナイトだとするなら、君はクイーンと言ったところか?」


「クイーンか。それも悪くないわね」


 クイーンと呼ばれて、まんざらでもない様子で笑うユリカ。確かに彼女にはお姫様よりも、女王や女帝こそ似合いそうだった。


「さて、それで何から始める?」


「そうねえ……まず参謀本部の内部情報を集めたいわね。本当にスパイがいるのかどうか、もしくは疑わしい人物がいるのか」


 まずは内部調査から。身内を疑うの気持ちのいいことではないが、まずはその疑いを晴らす作業から始めるべきだ。


「わかった。しかしどうやって調べるんだ?」


 やはりこういうのは憲兵隊に聞くべきだろうか? クラウスがそう考えていると、ユリカがニヤリと笑った。


「こういうのはね、一番情報が集まる場所に行くのがいいのよ」


 そんな彼女の言葉に、クラウスは何のことかと首を傾げた




 二人が向かったのは、参謀本部にある食堂だった。そこは多くの将兵が肩を並べて食事をする場所だ。


 なるほどとクラウスは思った。ここは一番人が集まる場所。つまり情報が集まりやすい場所だった。街では酒場が情報を集めやすいというが、参謀本部ではここが情報を集めるのに一番やり易い場所だということだ。


 とはいえ今は食事時ではなく、食堂には誰もいない。何故ユリカはここに来たのだろうか?


「ユリカ。さすがに早く来すぎたんじゃないか? 誰もいないぞ」


 首を傾げるクラウスに、ユリカがくふふと笑う。


「あら? あなたは『厨房のお姫様』に会ったことがないのかしら?」


「お姫様?」


 何のことかわからないクラウス。困惑する彼を置いて彼女は厨房へと向かう。仕方なくクラウスは後を追った。


 厨房のドアをノックすると、中から声が聞こえてくる。


「開いてますよ。どうぞ」


 ユリカがドアを開くと、そこには女性が一人、椅子に座っていた。右手にはナイフ、左手にはじゃがいもが握られていた。


「まだ配食には早いですよ? あら?」


 女性がユリカたちを見た。何か面白いものを見つけたような顔になっていた。


「へえ、噂のカップルがここを訪れるなんて。珍しいこともあるもんですね。デートですか?」


 にやりと笑うその様は、悪戯を考えるユリカに似ていた。思わず戸惑うクラウスだが、逆にユリカは楽しそうに笑った。


「はい。誰もいないこの時間なら、静かに過ごせると思いまして。お邪魔でしたかしら?」


「いいですよ。今日の分の仕込みは大体終わってますから。他のみんなも休憩に出ているから、しばらく誰も来ないですよ。ゆっくりしていってください」


 二人は気が合うのか、楽しそうに会話が弾んでいた。まるで数年来の友人と思えるほどに親しげに会話していた。その様子をクラウスは不思議そうに見ていた。


「お兄さんは初めてでしたよね。私、ルシアナっていいます。よろしく」


「あ、どうも。クラウス・フォン・シャルンストです。こちらこそ」


 慌てて自己紹介するクラウス。ルシアナはクラウスより年上の女性で、大人特有の魅力があった。思わずクラウスもドキリとした。


「ふふ。それで?」


 その時、ルシアナの顔が変わった。少しだけ鋭さを滲ませたその顔は、こちらを値踏みしているような雰囲気があった。


「わざわざ誰もいないこの時間に私を訪ねてきたということは、何かお話があったということですか? 何をお話ししましょうか?」


 するとユリカも興が乗ったのか、面白そうに話に乗ってきた。


「そうですわね……この参謀本部の噂話をお願いできるかしら?」


「あら? 色恋沙汰や口説き文句ではなく、そんなお話で楽しめますか?」


「女なら噂話が好きなはずですわ。特にドキドキするようなスキャンダルは」


 ユリカがそう答えると、ルシアナはすぐに笑い出した。


「ふふ、噂には聞いていたけど、噂通り面白い人ですね。久しぶりに口が軽くなっちゃいましたよ」


「だったら軽くなったついでに、私たちが知りたいお話もしてくれますかしら?」


「いいですとも。私程度ができるお話でよければ。楽しんでもらえるかはわかりませんが」


「大丈夫ですわ。私も彼も、女の子とお話するのは大好きですから」


「それならよかった」


 そう言ってルシアナは皮を剥き終えたじゃがいもを籠の中に放り込んで、こちらに向き直った。


「さて、知りたいのはあれでしょう? 参謀本部にスパイがいるっていう噂」


 ユリカがにやりと笑う。対してクラウスは驚きの表情を見せた。何故食堂の女給が噂について知っているのか? 


 そんなクラウスの驚きを察したのか、女給が面白そうに笑った。


「ここは私を含めて、たくさんの女たちが働いていますからね。色々なところに出入りできるし、この食堂でも兵隊さんたちが色んな噂を披露してくれるんですよ。お兄さんも女が隣にいる時は、口には気を付けた方がいいですよ?」


 妙に説得力のある言葉だった。確かにここでは兵隊が集まるし、それにここにいる女給たちは将校の部屋まで食事を運んだりもしている。色々なところを出入りする彼女たちは、自然と情報を集めることができるのだろう。


「でも、その噂についてはそちらの方が詳しいんじゃないですか? 私たちは噂話でしか知らないですよ?」


「どんなことでもいいのです。たとえば、貴方たちから見て、疑わしい人物はいませんか?」


 ユリカの質問にルシアナは苦笑いを浮かべた。


「はっきり言って、とてもスパイがいるとは思えません。ここではみんな首を傾げていますよ」


「と、言いますと?」


「どんな人間にも弱みの一つや二つはあるはずです。お金に困っているとか、女性問題があるとか、不満を抱えているとか。でも、とても裏切りをするような人はいませんね。誰も借金を抱えたりはしていないし、女性問題の話も聞いていません。地位や待遇についてはわかりませんけど、そんな話は兵隊さんからは聞いたことはありませんね」


 スパイに協力する人間は、大体お金に困っていたりすることが多い。借金苦だったりすると、敵国のスパイがそこに付け込んで協力者に仕立て上げる。それがスパイの常とう手段だ。女性問題もスパイにとっては格好のチャンスだ。


 ただ、彼女の言う通り、クラウスたちもそんな人物には心当たりがなかった。それに参謀本部もスパイの危険性を考慮して、常に金銭問題や女性問題にも目を光らせている。完全に排除はできないだろうが、少なくともここにいる人間に危険な人物はいないはずだ。


 ただしと、ルシアナはさらに笑みを深めた。


「逆に言うと、誰もが容疑者だとも言えますよ。誰も怪しくない。だからこそ全員怪しい。私にはそう思えますね」


「それはどういう意味でしょう?」


 ユリカが興味深そうに身を乗り出す。クラウスも彼女の言葉に耳を傾けた。


「そもそも怪しまれるような人間はスパイには向いていませんよ。怪しまれずに誰にも気付かれずに仕事を終える人が、優秀なスパイなんでしょう? 誰も怪しくない。だからこそ私には誰もが怪しく映って見えますけどね」


 なるほど。ルシアナの言葉にクラウスは静かに感心していた。


 確かに目立ったり怪しまれるような人間はスパイには向いていない。


 そういう意味では誰もが怪しいと言えた。ルシアナの慧眼にユリカも唸った。


「なるほど。確かにその通りですわ。では、外部からの犯行の可能性はありますでしょうか?」


「どうでしょう? それこそ難しいと思いますよ。 ここには限られた人しか出入りできませんからね。見知らぬ人が入ったら、それだけで目立ちます。すぐに憲兵さんたちが飛んでくるはずですよ」


 参謀本部もそれ自体が軍事機密の塊みたいなものだ。保安や警備は王宮と同じか、下手をすればそれ以上とも言えた。知らない人間がいれば、憲兵隊が尋問に来るだろう。そんな場所に外からの犯行は不可能だろう。


 実際憲兵隊の方でも捜査はしているらしいが、スパイの尻尾は掴めていないらしい。


「では、今のところは全員容疑者だと?」


「そうだと思いますよ。さすがに専門ではないから大したことは言えませんけど、私の目から見れば、全員怪しいですよ」


 ルシアナがそう答えた時、ドアから誰かが入ってきた。


「失礼します。あ……」


 物静かな大人しい少女だった。彼女はクラウスたちを見ると、気まずそうな顔になった。


「あ、ごめん。リタ。ちょっとお話しているから、外してもらえる?」


「す、すいません。お邪魔しました」


 リタと呼ばれた少女は、頭を下げてそのまま部屋を出て行った。


「彼女はリタという名前なんですか?」


「ええ、そうですよ。あれ? お知合いですか?」


「ええ。私たちの部屋に食事を持ってきてくれるんです。今朝も運んできてくれました。お話したことはなくて、名前も今知りましたわ」


 クラウスも思い出す。見たことがあると思っていたが、時々ユリカの部屋の前で会ったことがある。大人しくて静かな印象があった。


「そろそろ休憩も終わりですね。人がやって来るから、そろそろ行った方がいいですよ」


「そうですわね。貴重なお話、ありがとうございますわ」


 ルシアナに促されて、クラウスたちは席を立った。


「そうそう。私からも聞いてみたいことがあるんですけど」


「はい? 何でしょう?」


 クラウスがルシアナを見た。その時の彼女の顔は、ユリカがよく見せる、悪戯な笑みによく似ていた。


「お二人の馴れ初めって、どんな感じでした? もうそれが聞きたくてうずうずしていたんですよ」


 それまで見たことのない満面の笑みだった。とにかく話が聞きたくてしょうがないといった様子だった。


「いや、私たちは別にそう言う関係ではないのだが……」


「そんなはずはないでしょう。よく一緒に仕事に出ているみたいですし。兵隊さんの間でも噂ですよ。今日も二人で楽しそうにお話していたって」


 それはたぶん、ユリカにからかわれて困惑しているクラウスのことを笑っているのだろう。だが彼女にはそんなことは通じるはずもなく、彼女の中では二人はカップルということになっているようだった。


 すると、そんな彼女の反応が楽しいのか、ユリカもまんざらではない様子で答えた。


「ええ、彼とはアンネルで出会いましたの。あちらで私が危険な目にあった時、私を助けてくれましたの。白馬には乗っていなかったけど、おとぎ話に出てくる王子様みたいで、かっこよかったですわ。あの時の言葉は今でも忘れられませんわ」


 楽しそうに語るユリカ。すごいのは今の話のほとんどが本当の話というところだ。全てを話してはいないが、嘘も話していない。変に感心してしまう話術だった。


 その話を聞いていたルシアナがきゃっきゃとはしゃいでいた。


「へー。いい話ですねえ。私にも素敵な王子様が会いに来てほしいのですけどねえ」


「あら、貴方ほどの器量の持ち主なら、かっこいい将校さんが言い寄って来るでしょうに」


「うーん、それも悪くはないんですけど、ちょっと怖いというか。その点、お兄さんみたいな人だったら、私も一目惚れしちゃうんですけど」


 そんなことを言いながら、彼女は意地の悪い笑みを向けてきた。


 それに対してユリカは特に嫌な顔もせず、むしろ得意気な顔になった。


「ふふ、貴方にそう言われるのなら、私の目に狂いはなかったということね。安心しました」


「その余裕のある感じも、悔しいなあ」


 そこで二人で一緒に笑い出した。女二人が笑う中、どうしていいかわからず途方に暮れるクラウス。自分を置いて話がはずんでいるという状況は、彼も反応できなかった。


「もし何かあったら、また来てください。事件の話でも、恋のお話も歓迎しますよ」


「ええ、楽しみにしてますわ」




「頼むから、私を使って楽しまないでくれ」


 そんなことをぐったりとした様子で呟くクラウス。ユリカはそれが楽しいのか、にやにやと笑っていた。


「あら? 人聞きの悪い。一緒に捜査をしていただけじゃない」


「とてもそうには思えないけどな」


 しかし、確かにルシアナから聞かされた話は価値あるものだった。


 誰も怪しくない。だからこそ『誰もが怪しい』というのは、確かにその通りだった。


 しかしそうなると、この参謀本部にいる全員が容疑者ということになる。それはそれで困りものだった。


「しかしどうする? 容疑者なんて、挙げればキリがなさそうだぞ?」


「そうねえ……全員牢獄に突っ込むことができれば、一番手っ取り早いのだけど。さすがに牢獄がパンクするでしょうけどね」


 ユリカがそんなことを言いだした。あまりに過激な内容にクラウスも戸惑うしかなかった。


「いやいや。さすがにそれは……」


「あら? でも一番現実的な解決策よ。そうは思わない?」


 きょとんと呟くユリカ。確かに今言った方法も一つの解決策だ。できるかどうかは別にして、確実に犯人を捕まえることのできる方法ではあった。


「まあ、とりあえずは地道にやっていきましょう」


 そう言ってユリカが笑う。結局は足を動かすのが主な仕事になるようだった。


 それからは憲兵隊や情報部など、主なところで話を聞くなどして、地道に情報を集めていった。




 翌朝、いつものようにユリカの部屋で食事を取る二人。食事を終えると、リタが片付けに入ってきた。


「お皿、お下げしますね」


「ありがとう。お願いしますわ」


 ユリカの言葉にリタがおずおずと会釈を返す。


 彼女が食器を片付ける傍ら、クラウスたちは今日の予定について話し合った。


「今日はどうする? 何か用事でもあるか?」


「仕事は続けたいけど、今日はできることは少ないわね。少将から連絡が来るはずだけど」


 クラウスが頷く。彼は少し考えた後、ユリカに声をかけた。


「それなら、今日は出かけてもいいだろうか? 父に手紙を送りたいのだが」


 月に何度か、クラウスは実家に手紙を書いている。近況報告であったり、他愛ない手紙のやり取りだ。


「そろそろ書いておかないと、父が心配するからな」


「ああ、そういえばそうね」


 すると、ユリカがクラウスに顔を向けた。


「それなら、久しぶりに一緒に出掛けましょうか?」


「え? いや、私は構わないが、しかし仕事はどうするんだ?」


「今はできることが少ないわ。それに今日は本当なら休日ですもの。私も久しぶりに街で羽を伸ばしたいわ」


 片づけを終えてリタがドアから出ていく。それを見送りながらクラウスが思案する。


 正直スパイのことは気になったが、しかし自分だけ出て行くというのも確かにユリカに悪い気もする。


「わかった。それじゃあ一緒に出るか」


「久しぶりにモンデリーズに行きましょう。あそこのがランチが食べたくなったわ」


 モンデリーズは王都でも人気のカフェで、ユリカもお気に入りのお店だった。クラウスもあそこの料理は気に入っていた。


「わかった。準備ができたら呼んでくれ」

 



 郵便局から出てきたクラウスを、外で待っていたユリカが迎えた。


「もう済んだ?」


「ああ。書きたいことは全部書いて送った。そろそろ書かないと父も心配するからな」


 実際仕事で忙しい時期が続いた時、手紙を書かなかったことで父から手紙の催促が来たくらいだ。やはり自分の子供が心配なのは、どこでも同じなのだ。


「そういえば、お父様には軍属になったことは話しているの?」


「ん? ああ、前に帰った時に伝えてはいる。驚いてはいたけど、特に反対はしなかったよ」


「そう……それならいいのだけど」


 その時、ユリカが苦笑いを浮かべる。いつもと違う顔色にクラウスは不思議に思った。今の話に何か不安になるようなことがあっただろうか?


「どうした? 何か気になることでもあるのか?」


「……いえね。私から頼んでおいてなんだけど、あなたを参謀本部に誘ってよかったのか、少し悪い気がするから」


 ユリカの意外な言葉に、今度こそクラウスは驚いた。いつものユリカなら、こんなことは絶対に言わないはずだ。


「どうしたんだ? いきなり変なことを言い出して」


「いえ、あなたのお父様は、あなたに文官になることを勧めてきたのでしょう? それなのに私は、あなたを軍属にしてしまったわ。なんだかお父様に気の毒な事したなって思って」


 元々彼の父親は、クラウスに文官になるよう勧めていた。そこには父親の過去が大きく起因していた。


 シャルンスト家は代々軍人を輩出してきた家系だった。クラウスの父親も同じように軍に入隊し、軍人として働いていた。しかし、父親の時代は戦争のない平和な時代で、軍人が英雄になる必要がなくなっていた。国は軍縮を決定し、父親は軍縮の一環として、退役させられたのだ。


 軍人が必要ではないことを肌で実感した父親は、クラウスには別の道を歩んでほしかった。だからクラウスには文官になることを勧めたのだ。


 そうしてクラウスは、文官になるべく勉学に励んでいた。そんな時、彼は留学先のアンネルでユリカと出会ったのだ。


「私にとってあなたと出会ったのは幸運だったと思うわ。軍属になって、一緒に仕事ができるのはありがたいと思っている。だけど、あなたやあなたのお父様にとっては、どうだったのかしら?」


 クラウスを軍属に誘ったのはユリカからの依頼だった。彼に仕事を協力してほしいという願いからだった。


 しかし、それはクラウスの父上の意志に反することだった。父のささやかな願いを遮ったことは正しかったのか? ユリカはそのことを気にしていた。


「もちろんあなたには感謝しているわ。今まで助けてもらったし、あなたがいなかったら、今の私はいなかったかもしれないもの。でも、あなたのお父様には気の毒なことをしたかもしれないわね」


 困ったように笑うユリカ。彼女なりに思うところがあるようで、どう折り合いをつけていいのか、彼女の中で複雑に絡み合っているようだった。


 そんな彼女を見て、クラウスは静かに口を開いた。


「確かに文官になる勉強はしていた。だけどそのために留学していたアンネルで君に出会ってしまったんだ。きっと私たちは、どこかで出会うようにできていたんだろうさ」


 まるで諦めたように呟くクラウス。だがそこにはどこか楽しげなものが含まれていた。

「それに、君との仕事もそんなに悪いものではなかった。少なくとも、私は悪い気はしていないよ」


 今まで色々あったが、全て思い出してみると、そんなに悪くない事ばかりだったとクラウスは思う。彼女に出会わなければ、きっとこの冒険は、経験できないことに違いなかった。それらを思い起こし、クラウスは悪い気はしなかった。


「それに、きっと君のことだ。どこに行っても私を探し出すだろうからな。それも運命と思って諦めているよ」


 そう。ユリカならきっとクラウスを探し当てる。それくらいのことなら、この少女は簡単に成し遂げるだろう。クラウスはそんな風に思った。


「それに文官になるよりも素晴らしいことがあったからな。これからも素晴らしい旅にしてくれるのだろう?」


 クラウスが静かに微笑む。彼にしては珍しく、穏やかな微笑みだった。


 ユリカがその微笑みを見つめる。キョトンとした後、彼女はいつもの笑みを浮かべた。


「そうね。これからも素敵な旅にしてあげるわ」


 いつもの自信たっぷりの笑顔だった。やはり彼女には、こんな笑顔が似合っている。クラウスは内心で笑っていた。


 そんな彼の手を握ってユリカが歩き出した。


「さ、行きましょう。きっと楽しいことが待っているわ」


 そう言って彼女の後をついて行くクラウス。呆れつつも、いつもの彼女に安心するクラウスだった。





 モンデリーズは今日も人でにぎわっていた。笑みを交わす恋人たち。春の日和を楽しむ老人。家族との時間を楽しむなど、多くの人々でにぎわっていた。


 クラウスたちが入ると、給仕が出迎えてくれた。


「いらっしゃいませ。二名様ですね。こちらの席へどうぞ」


 給仕に案内されて席に座る二人。すぐにユリカがメニューを開いた。


「さ、今日は何を食べましょうか?」


 すぐに料理を探すあたり、やはりここの料理はお気に入りのようだった。そんなユリカの姿を面白そうに見つめるクラウス。


「そんなに慌てなくても、ゆっくり決めればいいさ」


「あら。こういうのは迷うのも楽しみの内なのよ」


 そう言って再びメニューに目を向けるユリカ。なるほど、確かに彼女の言う通りかもしれない。料理が来るまでの時間を楽しむというのも、ありかもしれなかった。


「これに決めた」


 ユリカはそう言って給仕を呼んで、いくつか注文を告げた。クラウスもいくつか注文を伝えると、給仕はそのまま厨房へと向かった。


「そういえば、今日はこれからどうするの?」


「ん? そういえば何も考えていなかったな。このまま帰ってもいいのだが……」


 クラウスは父親に手紙を出せればいいだけだったので、それさえ済めば帰っても良かった。だが今から帰っても中途半端なのも事実だった。


 どうしたものかと、クラウスが思案し始めた。


 


「失礼、よろしいかな?」




 いきなりそんな声が二人に呼びかけられた。人々がにぎわう中で、何故か透き通るような声色だった。


 二人が声のする方を見た。そこにコートを着た小柄な少年がいた。


 いや、よく見ると少年ではない。男装はしているが、それは間違いなく少女だった。ショートカットの黒髪。幼さを残した中性的な顔立ち。そして、くりっとした大きな瞳。


 少女は蠱惑的な笑みを浮かべて、二人に声をかけてきた。


「よろしければ、自分もお話に混ぜてもらってもいいかな?」

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