第四章 同じ血が流れる場所

 一言で言って、救いようのない愚行だった。お互いの街を結ぶはずの橋は、この日お互いの血が流れる悲劇の舞台となったのだ。


 多くの怪我人が出た。血も流れた。橋には血の跡が残っているという。


 騒動から一日が経っていた。クラウスとユリカはホテルの一室で暗い顔をしていた。


 周りの者から色々と話を聞いた。騒ぎは収まっているが、お互いの街では緊張感が増しており、お互いの不信感が強まっているという。元々対立があったので橋を渡る者は多くなかったが、今日はさらに少ないという。仕事や大事な用件でもない限り、橋を渡る者はいないという。


 ままならない。そんな想いがクラウスの胸を占めていた。


 怪我人は出たものの、死者は出なかった。それだけが救いとも言えた。


 しかし、血が流れたという事実までは消せない。人々の間に怒りが渦巻いているのは言うまでもない。街ではまた暴動が起きるのではないかと、不安でいっぱいだった。


「嫌な事件だったな」


 クラウスはそれだけ呟いた。対してユリカは無言を貫いた。相槌を打つ必要もないと思ったのだろう。


 どちらにせよ、彼らの任務に大きな支障が起きたのは言うまでもない。いずれグラーセンと共にシェイエルンも帝国に統一することを考えれば、信徒派の国であるグラーセンに聖書派の人々が信頼される必要があるのだ。しかし、このような事件が起きた今、信徒派に対する不信感は拭えないものとなった。


 今彼らが聖書派の街に行けば、何が起きるかわかったものではない。この日、彼らはホテルに留まることにした。


 窓の外を見た。少しずつ雪の勢いも増していた。だが街を見て見ると、降臨祭に向けて飾り付けられてはいるが、人々の間に活気はなかった。街が暗くなっているように見えた。


 クラウスが溜息を吐く。するとノックの音が部屋に響いた。


「失礼します」


 そう言ってホテルの女給が部屋に入ってきた。その手には手紙があった。


「お客様宛にお手紙が届いてます」


「……ありがとうございます」


 クラウスが手紙を受け取る。女給が退室するのを見送って手紙に目をやると、やはりというか想像通りの差出人の名を目にした。


「コル神父からだ」


「……神父様から?」


 ユリカが顔を上げた。彼女に手紙を渡すと、ユリカが手紙を開く。中身を一読して、その内容をクラウスに伝えた。


「今夜、大聖堂まで来てほしいと書いてあるわ」


 ある意味予想通りの内容だった。例の事件についての話がしたいのだろう。


「行くのか?」


 クラウスの問いにユリカが頷く。


「行きましょう。少なくとも、このまま傍観はできないわ」


 ユリカの目はまだ強かった。まだ負けてはいないといった顔だった。


 一体どんな話になるだろうか? クラウスは外をもう一度見た。今も雪が降り続けている。


 このままだといずれ降り積もることになるだろう。これ以上冷えなければいいのにと、そんな風に思った。




 街は静けさに包まれていた。いつもなら何人かが街に繰り出したりしているものだが、事件の影響か人通りもまばらだった。今は順序良く並ぶ街灯だけが、街を照らしていた。


 いつもなら寂しいと思う光景だが、今だけはありがたかった。クラウスたちは人目を避けながら、大聖堂へと向かった。


 大聖堂へとたどり着くと、彼らはそのまま裏手に回った。裏手のドアに着いたところで、コル神父が彼らを待っていた。


「早く中へ」


 神父も人の目を気にしてか、いつもより声を抑えながら彼らを迎え入れた。


 三人はこの前と同じ応接室に集まった。お互いに緊張した面持ちだった。


「何とも、大変なことになりました」


 コル神父が切り出した。辛そうな顔からは、この事件に心を痛めているとわかった。


「私からも無念をお伝えしますわ」


 ユリカが答える。その気持ちはクラウスも同じだ。今回の事件で三人とも立場は異なれど、同じように傷ついているのだ。


「神父様もあれから、何かありましたか?」


 クラウスの問いに神父は首を横に振った。


「ここも大きな騒ぎになりました。怪我をした者の家族が集まってきて、誰もが悲しみを訴えてきました。一人一人相手にしましたが、彼らに救いを与えられたか、正直自信がありません」


 今回の事件で傷ついた人々は、神父に救いを求めて殺到したのだろう。神父も騒ぎを収めるのに苦労したに違いない。


「マヌエルも色々と走り回ってくれたようです。こうして街が落ち着いているのも、彼の働きによるものでしょう」


「そうですか……マヌエルさんが」


 彼もこれ以上騒ぎが大きくなるのを見過ごせなかったようだ。元々対立に胸を痛めていたのだ。彼もまた、辛い思いをしているに違いなかった。


「しかし、何故今回の事件が起きたのでしょう? 何か聞いておいででしょうか?」


 ユリカが質問する。神父は彼が知る範囲での話をしてくれた。


「マヌエルから聞いた話なのですが、最初は小さな小競り合いだったそうです。あの橋で聖書派と信徒派の数人が言い争いを始めたそうです。それが段々お互いに人を集め始め、騒ぎが大きくなっていったそうです」


 想像しやすい話だった。お互いに仲間を集め、大きくなる騒動。炎に石炭を投げ込むように、どんどん熱が上がっていったのだろう。


「最後には聖書派の方から相手に向かって『黒い羊』などと言って殴りかかっていったそうです」


 『黒い羊』とは、かつて宗教革命の時代に教会から信徒派に向かって言い放たれた侮蔑の言葉だった。信徒派にとって屈辱の言葉であり、今でもこの言葉を許すことはないという。


 あまりの暴言に二人とも唖然とした。


「あとはもう知っての通り、殴り合いの騒動となりました。街の警官隊が来なければどうなっていたか……」


 沈黙が漂う。言葉にするのも痛ましい心持だった。


「しかし、最初に小競り合いが起きたということですが、一体何があったのでしょう?」


「さあ、最初は何があったのか。そこにいたのが誰だったのか。マヌエルもは調べはしたそうですが、何もわからなかったそうです。あの騒ぎでしたから、誰がいたのかわからなかったのでしょう」


「そうですか……」


 ユリカはそう答えるだけだった。


 その時、話を聞いていたクラウスが何か考えていた。コル神父の話に、彼の脳に何か別の刺激が起きていた。彼はその刺激の正体について考えだした。


 そんな二人を前にコル神父が口を開いた。


「お二人とも。こうなった以上は私も行動しなければなりません」


「行動、ですか?」


 ユリカの問いかけに神父が頷く。その様子はまるで、裁きを下す審問官のような面持ちだった。


「このまま大聖堂を開いていては、ここが騒ぎの原因になりかねません。心苦しいですが、しばらく大聖堂を閉鎖することにします」


 その言葉に思考の渦にいたクラウスが顔を上げた。横にいたユリカも同様で、驚愕の顔を神父に向けていた。


「ここには聖書派も信徒派も集まってきます。もしここでお互いが集まれば、それだけで危険です。対立を引き起こすようなことを大聖堂で招くことは出来ません。聖書派も信徒派も関係なく、大聖堂を閉鎖することにします」


「神父様。それはさすがにやりすぎではないですか?」


 ユリカが声をかける。その顔は考え直してほしいと訴えていた。


「そのようなことをすればまたお互いに怒りが増すことになりかねません。こんなことになったのは相手のせいだと。信仰のよりどころである聖堂を閉鎖すれば、街に動揺が走ります」


 確かに原因がどうあれ、大聖堂を閉鎖すればどんな混乱が起きるか想像できなかった。


「何より、降臨祭を心待ちにしている人々の間に悲しみが広がります。それはあまりにも悲しいことです。考え直してはくれませんか?」 


 ユリカが必死に訴える。しかしその訴えをコル神父は静かに受け止めるだけだった。


「ユリカ殿。貴方の言葉は痛いほどわかります。私とて、降臨祭に彼らを迎え入れないというのは、望むところではありません。ですが、ここに人を集めるのが危険である以上、その危険を避けるのも私の仕事なのです」


 コル神父の強い意志が感じられた。彼には彼の守るべきものがあるのだ。


「聖書派も信徒派も、どちらも神の子です。神も、そして私も神の子らが血を流すのを見たくはないのです」


 コル神父にとってはこの街に住む人は全て神の子であり、守るべき信者なのだ。彼自身、大聖堂を閉めるのは苦渋の選択に違いないのだ。それでも彼は信者を守るためにその選択を選んだのだ。


 やはり彼は、この街で神に一番近い神のしもべなのだ。


「事ここに至っては仕方ありません。ご理解ください」


 厳かに頭を下げるコル神父。今回の決断を下すのに大きな覚悟が必要だっただろう。しかしそれ以上にこれ以上血が流されるのも許せなかったのだ。


 誰も彼を非難できない。もし彼に言葉をかける者がいるとするなら、今も彼らを見下ろす神以外にはいないだろう。


 ユリカは何も言わなかった。言うべき言葉が見つからなかったのだ。重苦しい沈黙が部屋を包んだ。


「神父様、よろしいですか?」


 その沈黙を破り、クラウスが声を上げる。彼は神父を真っ直ぐに見つめた。


「神父様。事件の始まりとなった小競り合いですが、その当事者はまだわかっていないのですね?」


「……はい。マヌエルが調べているのですが、誰も知らないと」


 神父の答えを受けて、クラウスがもう一度考えこむ。その様子をユリカが怪訝な顔で見た。


「どうしたの?」


「……何か、おかしい気がする」


 クラウスの言葉にユリカも神父も首を傾げる。一体何がおかしいというのか?


「おかしいとは、何がでしょう?」


「最初の小競り合いの当事者を誰も覚えていないというのは、どこかおかしい気がするのです。マヌエルさんが調べているそうですが、信徒派側の人間のことはわからなかったとしても、聖書派側の人間のことまでわからないというのは、何かおかしいと思いませんか?」


 クラウスの言葉にユリカも神父も目を見開いた。彼の言うとおり、誰も当事者のことを覚えていないというのは、明らかにおかしかった。


「……確かにそうね。話に上がってもおかしくはないのだけど」


「ふむ……マヌエルも聞き回っているそうですが、確かに誰も話に上がっていません」


「それに、事件の始まりもタイミングが良すぎると思うのです。彼らはお互いに仲間を呼び集めて、大勢の人間が橋に集まったところで、そのタイミングを狙って『黒い羊』と叫んだ。まるで寄せ集めた大量の火薬に点火するようにして」 


 そうして爆発した火薬は、橋の上で多くのものを破壊したのだ。


「あくまで私の推測ですが、何か陰謀めいたものを私は感じます。何か大きな目的があって、今回の事件を起こした。そんな気がするのです」


「……確かに言われてみれば色々とおかしなところはあります。しかし、その目的とは何でしょう? 事件を起こして得になるようなことなどあるのでしょうか?」


「わかりません。ですが、考えようによっては誰もが利益を得ることができます。もしかしたら、これは私たちが見えている裏で、何か複雑なことが起きているのかもしれません」


 目に見えるものは真実だが、真相はいつも目に見えないところに隠されている。クラウスは隠された真相の気配を嗅ぎ取った。


「コル神父。今回の事件の真相を調べるよう、マヌエルさんに連絡してください。特に小競り合いの当事者を見つけ出してほしいと。おそらく彼らは何かを知っているはずです。この状況ですから私たちが聖書派の街に来るのは難しい。彼にお願いしたいのです」


「……わかりました。そちらはどうなされますか?」


「私たちは信徒派の街で調べてみます。こちらにも何かあるかもしれません。わかり次第、そちらにも報告します」


 クラウスの言葉にコル神父が頷く。お互いに顔を見合わせ、力強く頷いて見せた。


「わかりました。どうか、お願いします」


 その時、神父が手を差し出した。差し出された手を見つめて、クラウスがその手を握り返した。


「神の御加護を」


「貴方にも」




「本当に、貴方にはいつも驚かされるわ」


 そんなことをいきなり言われた。それが自分に向けられた言葉だとわかった時、クラウスは口をぽっかりと開けた。


「何だ? いきなりどうした?」


 そんな風に答えるクラウスをユリカは呆れたように見ていた。


 ホテルに帰った二人はユリカの部屋に戻った。そうして一息ついたところで今の言葉だった。いきなりのことだったのでクラウスは何のことかわからなかった。


「ユリカ。君は何を驚いているんだ? 私は何かしてしまったのか?」


 素直な問いかけだが、それが余計にユリカを呆れさせたのか、ユリカが思わず笑い出した。


「そういうところよ。いつもそんな風に素朴な反応を見せるくせに、さっきみたいに非凡なところを見せるんだから。本当油断できないわ」


 ここまで来るとユリカも呆れを通り越して、苦笑いを浮かべていた。ただその苦笑いもどこか楽しそうなものだった。


「もしかしてコル神父に話したことか?」


「そ。貴方が感じた陰謀ってやつ」


 そこでユリカは笑みを消して、真剣な眼差しをクラウスに向けた。


「陰謀ね……そんなものを感じ取るなんて、さすがだわ」


「……いや、正直確証めいたものはない。あくまで私の推測だ。私の勘違いの可能性もある」


 本音では自信はないと言った方が正しかった。感じ取ったなどと曖昧な言い方をしたことに今更ながら後悔していた。


 しかしそんな彼の心情を察したのか、ユリカはむしろ彼を信じているようだった。


「いえ、貴方の言うとおり、何かおかしいところが多いわ。調べる必要はあると思う」


 そこまで言ってユリカは息を吐いた。それから彼女は落ち着いた様子で口を開いた。


「正直ね、今回の事件のことを宰相閣下に報告するつもりだったのよ。いえ、報告はいずれするけど、どう報告するかを考えていたの」


「報告?」


 今回の任務はスタールからの依頼だ。彼に報告するのは当たり前だが、だがどう報告するか、とはどういう意味だろうか? クラウスがそのことを訊きだす前に、ユリカがその真意を話し始めた。


「今回の任務で、私たちは聖書派と信徒派の対立を解決することを目指しているわ。それはいずれ統一する時に、聖書派であるシェイエルンが潜在的な脅威にならないようにするためよ。問題は、その統一する方法よ」


「……どういう意味だ?」


 話続けるユリカに嫌なものを感じるクラウス。何か聞いてはいけない話のような気がして、彼は不安になった。そんな彼にユリカはその真意を告げた。


「議会や条約によって統一が無理ならば、宰相閣下は別の方法を取るということよ」


 ここまで言われてクラウスにもわからないわけがなかった。彼は思わずユリカに詰め寄った。


「おい。まさか閣下は武力を使ってでも統一を成し遂げようと言うのか?」


 クラウスの問いかけもユリカは冷めた様子で受け止めていた。そんなのは当たり前だと言わんばかりだった。


「帝国の統一のためなら、そういう手段も必要かもしれないわ。閣下にとっては帝国が統一されればいいわけで、そのために危険な存在である聖書派を制圧することも考えているでしょうね」


 唖然とするクラウスだが、しかし同じようなことをしてきた国は歴史上いくつもある。それは人道に反するかもしれないが、国家の統治のために必要なことでもあったからだ。


「実際閣下は教皇庁との対決も考えているはずよ。閣下にとっては統一こそが目的であって、その統一された帝国に混乱の種があってはいけないの。そのために武力を用いることも辞さないわ」


「……いや、理屈はわかるが、閣下がそんな人道に反するようなことをなさるのか?」


 クラウスが思わず呟くが、その呟きにユリカが苦笑いを浮かべた。


「そうね。確かに人道には反するかもしれないわね。でもね、閣下は慈善事業家でも博愛主義者でもないわ。国を背負う宰相であり、国民を守護する指導者なのよ」


 その言葉にハッとするクラウス。ユリカが話しているのは彼女の『おじい様』の話ではなく、祖国と幾万の国民を守る『宰相』の話だった。


「かつてのクロイツ帝国の統一。祖国の繁栄。そのためなら閣下はあらゆる手段を講じるわ。そう、多くの血が流され、敵味方の血でその手が汚れようとも、閣下は宰相としての任を全うする。閣下はそういう人よ」


 長きに渡りスタールのことを見てきたユリカの言葉。きっとその言葉に嘘はないだろう。


「だから私は迷っていたわ。閣下に渡す報告書に、武力行使の必要性があるかどうか、それを伝えるべきか迷っていたわ」


「……つまり、君の報告一つで、閣下は判断するということか?」


 スタールはユリカからの報告を受け取る。そこに書かれた言葉一つで、スタールは意志を決定することになる。もしユリカが武力の必要性を訴えたなら、彼はすぐに軍に連絡をするだろう。


 なるほど。確かに迷う内容だ。彼女の言葉一つで歴史が変わるかもしれないのだから。


「……それで、君はどう報告するのか決めたのか?」


 クラウスが問いかける。するとユリカはにんまりと笑った。


「できれば、私も嫌なことは書きたくはないわ」


 そう言って彼女はクラウスを見た。その目は彼に信頼を示す瞳だった。


「今私が言ったことは最終手段。できればそれはやめたいし、閣下も望んでいないはずよ。だから、今日の話のように事件の真相を突き止めないと。それができなければ、今年の降臨祭は最悪の一日になりかねないわ」


 ユリカが真剣な眼差しをクラウスに向ける。どうにかして真相を突き止めようと、その目が訴えていた。


 責任の重い話だ。しかしそうしないと、彼女言う通り悲劇的な結末が待っている。


「……そうだな。確かに降臨祭を楽しくしなければならないな」


 クラウスがそう答えると、ユリカがにっこりと笑った。


「やりましょう。必ず突き止めるわ」

 






 事件から数日経った。あれから雪が降り続き、街はすっかり雪で白く染め上げられていた。街は降臨祭の準備を進めているが、人々の間に活気はなかった。例の事件で街に緊張感が高まっており、緊急の用件以外で橋を越えることがなくなっていた。


 結果として、降臨祭の雰囲気は乏しくなり、変にぎくしゃくした空気が街を包んでいた。


 コル神父からは手紙が届いてくるのだが、やはり大聖堂を訪れる人の姿は少なくなっていた。特に信徒派があちら側に行くことがなくなっているという。


 事件の日から、クラウスとユリカは事件の真相を突き止めようと調べ回った。


 しかし、あまり目立った成果は上がっていなかった。街の人にも聞きまわり、事件の現場にも行った。とにかく行けるところはどこまでも歩き回った。


 だが事件の核心に行き着くことは出来なかった。事件のことは誰もが知っていたが、誰もその真相はわからなかった。騒ぎに参加した者でさえも、何で事件が起きたのかさえわかっていなかった。


 マヌエルも色々と調べまわっているらしいのだが、あちらもいい結果は出ていないという。


 徒労という行為ほど、疲れるものはない。クラウスもユリカも心身ともに疲労していた。


 この日、彼らはホテルにいた。二人とも机を挟んで椅子に座り込んでいた。話すでもなく、机に置いた紅茶も冷え切っていた。


「どうしたものかしらね」


 ユリカがそう呟いた。


「ああ、まったく、どうしたものか」


 クラウスがそう返した。特に意味のない受け答え。


 クラウスは思考を繰り返した。一体何が起きているのか?


 まず、この事件で得をするのは誰だ? 見方を変えれば信徒派も聖書派も利益を得ることができる。特に聖書派には信徒派の資本家に仕事を奪われたものが多い。その恨みを晴らしたいという気持ちがあるはずだ。


 逆に信徒派は聖書派を排除できれば、仕事がやり易くなる。お互いに対立を利用する意味があるのだ。


 ただ、そんな単純な話かと言われれば、クラウスには違和感があった。そんな単純な話なら、マヌエルやコル神父が把握していないとは思えなかった。


 では誰が? 一体誰がこの事件を起こしているのか?


 クラウスが思考する。脳に血が巡る。頭が熱くなり、さらに思考の回転を上げる。彼の頭の中で、推理と考察が入り乱れる。そこから真実を手繰り寄せようと、クラウスは必死に考え抜いていた。


 見つけたい。知るべき真実を見つけないといけない。そんな必死な思いが彼の中を駆け巡っていた。


「クラウス!」


 ユリカの声でクラウスの意識が引き戻された。驚いて顔を上げると、ユリカも驚いた顔で彼を見ていた。


「なんだ? 何か気付いたのか?」


「頭から血が出てる」


 ユリカが心配そうに言ってくる。ユリカに言われてクラウスは自分の頭を触った。ぬるっとした感触があった。手を見ると、確かに血が流れていた。


「……本当だ」


「気付いていなかったの? 痛くないの?」


「ああ、言われるまで気付かなかった」


 クラウスも不思議だと思った。頭に血が上ったことで、傷口から出血したのだろうか? 考えすぎて血が流れていることにも気付かなかった。


「いかんな。汚れてしまったな」


 すぐに血を拭き取る。痛みは無いが、まだ血が止まる様子はなかった。そんな彼を見て、ユリカが提案した。


「ねえ。せっかくだからマイス先生のところに行ってみない?」


「先生の所に?」


 ユリカが立ち上がる。もう出かける気でいるようだった。


「さすがに診てもらった方がいいと思うわ。気分転換もしたいし。それにヨハンナさんにも会いたいわ」


 なるほど。確かにヨハンナのことは気になった。この事件で彼女も肩身の狭い思いをしているのかもしれなかった。


「そうだな。ちょっと行ってみるか」


 


「おや? クラウスさんにユリカさん。何かありましたか?」


 病院に行くと、ちょうどマイスが出てくれた。意外な訪問に驚いた様子だった。


「すいません。実はまた出血してしまいまして。診ていただければと思いまして」


「そうでしたか。すぐに診ましょう」


 そう言って、三人はすぐに診察室に向かった。


 クラウスが巻いていた包帯を取り、傷口を見せる。マイスは丹念に傷口を診た。


「何か変わったことはありますか?」


「特に何も。いきなり出血したので驚きました。痛みも特にありません」


「そうですか……特に悪化している様子ではないですし、とりあえず消毒と新しい包帯を巻いておきましょう」


 そう言ってマイスが薬と包帯を取り出した。その間、周りを見ていたユリカが口を開いた。


「先生。奥様はいらっしゃらないのですか?」


「ええ。今は外出しております。最近よく外出することが多くなりまして。理由は聞いていませんが、何か用事があるみたいなんです」


 その用事というのは気になったが、さすがに詮索する気にはなれなかった。それ以上特に何も言わず、マイスは包帯を手際よく巻いてくれた。


「ありがとうございます」


「いえ、これくらいならいつでも。しかし例の事件があってから、お二人も過ごしにくいのではないですか?」


 唐突にマイスが事件について口を開いた。やはり彼も事件のことが気になっているようだった。


「ええ、まあ。特に何があったわけではありませんが、やはりいい気分ではありませんね」


「お恥ずかしい。この街の変なところをお見せしてしまいましたね」


 彼が謝る必要はないのに、マイスはそんなことを言ってくれた。この街の住民として、思うところがあるのだろう。


「私たちは大丈夫ですが、ヨハンナさんは大丈夫ですか? 何か言われたりはしていませんか?」


「ああ、大丈夫ですよ。少し変な空気にはなってますが、彼女のことはみんな受け入れてくれてますから。むしろ気遣ってくれて気まずいくらいですよ」


 苦笑いを浮かべるマイス。事件があった後でもヨハンナはいつも通りの生活をしているようだった。それだけヨハンナが善き隣人として振舞っているという証左でもあった。


「しかし、あの事件で先生も大変だったのではないですか?」


「そうですね。あの日は怪我人が多く担ぎ込まれてきましたからね。幸い大きな怪我はありませんでしたが、さすがに疲れましたよ」


 きっと病院が溢れかえるくらい怪我人がやってきたのだろう。それくらい大きな騒ぎだったのだ。無理もなかった。


「まあでも、やはりあの事件で色々と考えさせられました。やはり信徒派も聖書派も、どちらも同じ人間なのだなと」


 そんな意外な言葉にクラウスたちが怪訝な顔をした。一体どういう意味なのだろうか?


「それって、どういう意味です」


「まあ、こんな仕事をしていますと、信徒派だけでなく、あちらの方でも怪我人を診ることがありましてね。そこで聖書派の患者を診ることがあります。その時、彼らが流す血は、同じ赤い色をしているんですよ。それを見て思うんですよ。どちらも同じ血が流れる人間なのだと」


 マイスが感慨深そうに語る。今まで多くの患者を診てきた彼は、彼にしかわからないものを見てきたのだ。


「信徒派だとか聖書派だとか、色々違いや区別をしていますが、どちらも同じように血が流れていて、同じように笑ったり泣いたりする人間で、どちらも同じ神を信仰する人たちなんです。流される血を見て、改めて思い知りました」


 聖書にはこんなことが書かれている。生まれや身分が違っていても、流れる血は同じ色で、そこに違いはないのだと。マイスはそれを直に見てきたのだ。


「それなのに今回みたいな事件が起きたりするのです。考えや立場が違うというだけで。結局お互いの血で汚れるだけだというのに」


 マイスが悲しそうに話す。医者として、血が流れることが耐えられないのだろう。


 医者はその職業哲学において、貴賤の区別なく、全ての患者を平等に診ることを誓約するという。その誓いを立てたマイスにとって、この街の現状は悲しい現実に他ならなかった。


「もし神がこの状況を見ていたら、きっと大きな罰が下ることでしょう」


 溜息を吐くマイス。楽しい降臨祭を前にして、暗い話になってしまった。クラウスもユリカも暗い顔をした。


「すいません。つまらない話をしてしまいました」


「いえ、そんなことはありません。貴重なお話でした」


 ユリカが慌てて答えた。


「お医者様の言葉は貴重でしたわ。ありがとうございます」


「いえ、つまらない話をしてしまっては、傷の治りも遅くなりますからね。失礼しました」


 マイスが笑みを零す。その時、玄関から誰かがやって来るのが聞こえてきた。


「あ、妻が帰ってきたみたいです」


 マイスがそう言うと、ヨハンナが診察室にやって来た。彼女は驚いた顔でクラウスたちを見た。


「……クラウス様。それに、ユリカ様も」


「どうも、失礼しています」


 クラウスが答える。ユリカも会釈を返した。


「どうか、されましたか?」


「いや、実はまた頭から出血してしまったので、診てもらっていたんです。お邪魔してしまって申し訳ありません」


「いえ、そんなことは……」


 その時、ヨハンナが困ったような顔でその場に立っていた。何かを話したい様子だった。


「失礼、もうそろそろ行きますよ。お邪魔して申し訳ない」


 クラウスが立ち上がり、その場を去ろうとした。


「お待ちください」


 その時、ヨハンナがクラウスを呼び止めた。彼女にしては珍しいことだった。見ればマイスも驚いた顔でヨハンナを見ていた。


「ヨハンナさん?」


「クラウス様。それにユリカ様。お二人にお話したいことがあります」


 真剣な顔で見つめてくるヨハンナ。何かただ事ではない雰囲気が漂っていた。


「どうしました? 何か大事なお話でも?」


「クラウス様。お二人はあの事件について捜査していると聞いていますが、間違いないですか?」


 いきなりそんなことを言われてクラウスたちの顔色が変わった。何故ヨハンナがそのことを知っているのか?


「失礼、どこでその話を?」


「……実は、あの事件があった日、私は事件が起きた橋にいました」


 ヨハンナの一言にクラウスたちが声を失う。隣にいたマイスも腰を浮かしかけていた。


「あの時、最初にあった小競り合いを私は見ていました。それで……その小競り合いをしていた人たちなのですが、あの人たち、この街で何回か見かけたことがあるのです」


 クラウスとユリカが顔を見合わせる。二人は早鐘を打つ心臓を抑えつけながら、ヨハンナに問いかけた。


「ヨハンナ様。それはどういうことでしょう?」


「あの人たち、この街で何回か見たことがあるのです。その時は普通に会話していまして、特にケンカをしている様子ではありませんでした。それがあの橋の上で初めて会ったみたいにケンカを始めたんです。それからずっと見ていたのですが、それぞれ信徒派と聖書派の人々を呼び集めて、一気に大きな騒ぎにしていました」


 クラウスは頭に血が上るのを感じた。ヨハンナの話は受け止めるにはあまりに衝撃的な内容だった。


「ヨハンナ様。どうしてその話を私たちに?」


「コル神父に言われたからです」


「神父様に?」


 またも意外な名前が挙がったことに驚く二人。


「コル神父から聞きました。お二人がこの街の対立についてお調べになっていると。もし力になれることがあったら、協力してやってほしいと」


「そう、なのですか?」


 コル神父の意外な行動に面食らう二人。彼は彼で色々と動いてくれていたのだ。


「私は信徒派の街にも、あちらの街にも行き来できます。それで色々と動き回って調べていたのです」


「ヨハンナ、最近外出が多いと思っていたが、そんなことをしていたのか……」


 マイスが困ったように言う。怒っていいのか複雑そうな顔だった。


「すいません。神父様からのお願いでしたから……それで、色々と調べましたら、その人たちがよく集まっていた場所があったのです」


 クラウスが飛びつくようにヨハンナに近寄る。


「ヨハンナさん。それはどこです? 案内してもらってもいいですか?」


「クラウス」


 ユリカが制止するように声を上げる。後ろには心配そうにしているマイスの姿があった。


 クラウスが反省する。さすがにこれ以上ヨハンナに危険なことをさせることは出来なかった。


「すいません。その場所を教えていただけないですか?」


 するとヨハンナが首を横に振った。


「私が案内します。ついてきてください」


 その申し出にはユリカも驚いていた。さすがにその申し出を受けるのは難しかった。


「しかしヨハンナさん。何があるかわかりません。先生も心配していますし」


「だったら、主人もついて来ればいいだけです」


「え?」


 ヨハンナの言葉にその場の誰もが気の抜けた声を上げた。マイスに至っては理解できていない様子だった。


「クラウス様。貴方様はユリカ様をお守りするのでしょう?」


「……ええ、まあそのつもりですが」


「でしたら大丈夫。主人も同じです。彼は必ず私を守ってくれますから」


 淡々というその姿は、何故か迫力があった。それは所謂、惚気話というものだった。ヨハンナはマイスに顔を向けて言った。


「ね? そうでしょう? あなた」


 その言葉にマイスは何も言わなかった。ただコクンと、首を縦に振るのだった。


 その様子をクラウスは呆気に取られた様子で。そしてユリカはこらえきれないとばかりに笑って見ていた。

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