第三章 信仰の街で

 翌日。クラウスとユリカはコル神父からの届く手紙に目を通した。


 コル神父がもたらす情報は非常に有益で、自分たちだけで走り得ない情報が多かった。


 今のところ落ち着いてはいるが、やはりまだ神父に信徒派への不満を伝える信者が来るという。


 神父の手紙を読んで、クラウスたちは思考する。


「色々と話を聞けたが……これからどうする?」


「どうって?」


「何かするべきだと思うが、何から手を付けるべきか、見当もつかない。どうしようか?」


「そうねえ……」


 沈黙するユリカ。彼女の頭脳が思考を繰り返す。しばらくそうしていると、彼女は一回伸びをしてからクラウスに振り向いた。


「ねえ? せっかくだから出かけましょう」


「はあ?」


 唐突なユリカの提案に変な声を出すクラウス。


「出かけるって、どこに?」


「決まってるでしょう? ベッケンを観光するのよ。まだまだ見ていない場所もあるだろうし、見に行きましょうよ」


 はっきりと観光と言葉にされ、クラウスも驚きを通り越して呆れていた。仕事で来ているのに、観光などしていいのだろうか?


「いや、さすがにそれはまずいだろう。任務の最中だぞ? 神父様にも手伝ってもらっておきながら、私たちは遊んでいていいのか?」


 さすがに罪悪感を抱くクラウス。しかし、そんなことなどユリカにはお構いなしだった。


「大丈夫よ。それに街の様子を見るのも仕事の内よ。ほら、準備しなさいな」


 そう言って彼女は外出用の服を取り出し始めた。どれにしようかなどと、鼻歌交りだった。


 溜息を吐くクラウスだが、今までの任務でも似たようなことはあったのだ。彼は諦めたように手を上げた。


「了解した。部屋に戻って準備するから、待っていてくれ」


 そう言って部屋に戻ろうと立ち上がるクラウス。そんな彼にユリカが笑った。


「今日は寒くなりそうだから、いっぱい着込んできなさい」


 確かに彼女の言うとおり、一段と寒そうな空気だった。



 


 二人は人々が行き交う街にやって来た。街は降臨祭に向けて準備が進んでおり、もう我慢できないのか、昼間から酒を飲む人もいた。


「それで? どこに行くんだ?」


「とりあえずは街を歩きましょう。この前はゆっくりできなかったし、静かに散歩したいわ」


 確かにベッケンに来てからは街をゆっくり歩いたりしていなかった。まだ見ていない場所を巡るのも悪くなかった。


「ふむ……しかし、寒いな」


 そんなことを呟くクラウス。空気は一段と冷たくなっており、吐く息すら凍り付きそうな勢いだった。クラウスは自分の体に手を回した。


「あら? 貴方って寒いのは苦手なの?」


「まあ得意ではないな。あまり外に出たりしないからだろうな」


 部屋で本ばかり読む生活だったのだ。冬の空気に慣れるわけもなかった。


「そう言う君は冬は大丈夫なのか?」


「ええ、寒いのは大変だけど、冬は好きよ。夏と違ってたくさん服が着られるから、たくさんお洒落ができるもの」


 そう言って満面の笑みを見せるユリカ。確かに今着ている服も青を基調としたものだが、彼女によく似合っていた。


「でも、あなたって寒いのは苦手なのね……」



 そんなことを呟くユリカ。すると彼女はクラウスの横に近寄って、いきなりクラウスの腕を抱えた。


「お、おい」


 一方的に腕を組まれて驚くクラウス。そんな彼にユリカは言う。


「ほら。こうしたら寒さも和らぐでしょう? 私、体温が高いから暖かいと思うわよ」


 そんなことをニヤニヤしながら言うのだから、実に彼女らしかった。


「おい。さすがに目立ち過ぎるだろう」


 ここは聖書派の人が住む街なのだ。あまり目立った行動は彼らを刺激するかもしれない。


 心配するクラウスだが、彼女はこの状況を楽しんでいるようだった。


「大丈夫よ。みんな降臨祭で浮かれているから、私たちのことはあまり気にしていないわよ。ほら、みんな楽しんでいるわよ」


 彼女の言うとおり、自分たち以外にも恋人と思しきカップルが街を歩くのが見える。みんなそれぞれ楽しそうに笑っていた。


「ね? せっかくだから、楽しみましょう。みんなが楽しんでいるのに、一人だけ無愛想なのはいけないわ」


「む……」


 確かに一人だけ無愛想というものよろしくない。せっかくの祭りに無粋というものだ。


「……そうだな。君の言うとおりだ」


 クラウスがそう言うと、ユリカは嬉しそうに彼の腕を引くのだった。


 恥ずかしい気持ちはあったが、確かに彼女に触れられると暖かくて、寒さも和らいだ。ここは彼女に甘えることにした。



「あ、ねえ」


 いきなり立ち止まり、指差すユリカ。彼女が指差す方を見ると、そこには何かのお店があった。


「ここ、入ってみましょう。何かありそうだわ」


 何のお店かはわからなかったが、こういう時のユリカの勘は大体当たる。クラウスは彼女に誘われるまま、店に足を踏み入れた。


 中に入った瞬間、クラウスもユリカも息を飲んだ。


 そこは雑貨店だった。しかもただの雑貨ではない。教会をモチーフにした雑貨が並ぶお店だった。


 神様の絵を描いたタペストリーや神の小さな像など、教会に関わる雑貨が並んでいた。今は特に降臨祭が近いためか、店内はにぎわっていた。中には降臨祭用のろうそくを手に取って眺める人もいた。


「ほう……これはすごいな。色々置いてあるな」


「本当……素敵だわ」


 クラウスたちは感嘆の声を上げていた。聖書派のことは知識では知っているが、こうして形になっているものを見ることはあまりなかったので、興味深かった。


「いらっしゃいませ。おや?」


 そんな二人に店主と思しき紳士が近寄ってきた。彼はクラウスたちを怪訝な表情で見つめていた。


「お客様。もしかして、信徒派の方でしょうか?」


 いきなりそんなことを言われてドキリとするクラウス。やはり歓迎されないのだろうかと、警戒心を強めた。


「ああ、はい。そうですが……やはり信徒派が来るのは、まずかったでしょうか?」


 心配そうに呟くクラウスに店主は面白そうに笑った。


「いえいえ。申し訳ありません。そういう意味で聞いたわけではありません。身なりからグラーセンからの観光客かと思いまして。失礼しました」


 そう言って店主は頭を下げて謝罪した。


「当店は聖書派も信徒派も関係ありません。降臨祭は誰にでも等しく訪れます。神は全ての人にパンと慈しみをお与えになりました。よろしければ一緒に降臨祭を祝っていただきたい。いかがですか?」


 そんな柔和な笑みを向けてくる店主。商売の売り文句というのもあるのだろうが、彼の言う通り聖書派も信徒派も関係なく一緒に祝いたいと思っているのだろう。見れば周りの客もクラウスたちを一回見るのだが、特に気にした様子もなく買い物を続けている。


 それならば、店主の言葉に甘えさせてもらおうと思った。


「ありがとうございます。これも神からの計らいと感謝申し上げます」


 クラウスの言葉に満足して、店主はまた店の奥に戻った。


 それからクラウスたちは店内を回った。信徒派とは細かいところで文化が違い、お店に並ぶ商品を見ても、やはり信徒派にはないものが並んでいた。


「ねえ見て。このろうそく、火を付けたらお香の香りがするんですって」


「ほう。それは面白いな。降臨祭で使うのかな?」


「そうみたい。それにこれ。降臨祭に飾る人形たちよ。小さな神様や、信者たちですって。可愛いわ」


 きっと降臨祭の飾りつけのために作られた物なのだろう。祝いの席で並べて、家族で降臨祭を祝うのだ。


 それからユリカはすぐ横にある小さな置物をじっと見つめていた。色鮮やかなガラスをはめ込んだ置物で、それが宗教画を現していた。一つ一つ違う味わいがあり、それらを一つ一つゆっくりと眺めていた。


 どうやらしばらく時間がかかるようだ。クラウスは別の場所を見ることにした。


 実際商品の品揃えは豊富だった。儀式で使うための実用的なものや、単純にインテリアとしての雑貨も置いてあった。中にはお守りとして、神の言葉を刻んだブレスレットもあったりした。


 それらを見ながら歩いていると、クラウスはふと足を止めた。彼の前には、十字架をつけたネックレスが並んでいた。それも数種類並んでおり、金色や銀色。また白や黒もあった。


 それらを見ていると、クラウスは青い十字架が目に留まった。深い群青色の十字架。それを見て、彼はユリカを連想した。彼女はよく青い服を身に付けている。もしかしたら青が好きなのだろうか?


 そう思った時、、クラウスはその青色の十字架のネックレスを手に取っていた。 さらに彼は自分用に黒い十字架のネックレスも手に取った。それらを握りしめて、彼はユリカの方へ戻っていった。


「ユリカ」


「ん? どうしたの?」


 何事かと振り返るユリカ。そんな彼女にクラウスが先ほどの青い十字架のネックレスを差し出した。


「これ、買わないか?」


「……え?」


 クラウスの言葉にキョトンとするユリカ。何を言われたのかわからないといった様子だった。


「……買ってくれるの?」


「ああ。私もせっかくだから色違いを買おうと思っているんだが……」


 ユリカの反応に怪訝な顔をするクラウス。何故だろうかと考えていたが、よくよく考えてみれば、二人とも信徒派の人間なのだ。特にユリカはハルトブルク家の人間だ。そんな彼女が聖書派の道具を身に着けるのはまずいのかもしれない。


 考えなしの行動だったかと、クラウスは後悔した。


「すまない。邪魔だったのなら無理にとは言わない。戻してくる」


 そこまで言ってクラウスがネックレスを戻そうと振り向いた時、ユリカの手がクラウスの腕を掴んだ。


「ユリカ?」


 驚くクラウスにユリカは首を横に振って言った。


「邪魔じゃないわ」


 そんないつもと違う雰囲気のユリカを前に戸惑うクラウス。いつもなら子供みたいにおねだりする彼女が、本当にお願いするような雰囲気で彼を見ていた。


「……そう、なのか? 他にも色々あるが、これでいいのか?」


「ええ。それがいいわ」


 本当に真剣な顔で言ってくるユリカ。さすがにそれ以上何も言うわけにもいかず、クラウスは彼女の言うとおりにした。


「わかった。買ってくるから、待っていてくれ」


 そう言ってクラウスは先ほどの店主の所まで行った。すると、クラウスの横を数人の男がすれ違った。その男たちを振り返って、クラウスは店主に問いかけた。


「失礼。今のはアンネルの人たちですか?」


「ええ。そうですよ。よくわかりましたね?」


「アンネルに留学していましたから。話し方にアンネルの癖がありました。それにあちらでよく嗅いでいた香水の匂いもしていたので」


 アンネルでは香水が発達しており、男性も付けることがある。クラウスは留学中によく嗅いでいたので、その香りはよく覚えていた。


「珍しいですね。アンネルの人もここに来るんですね」


「ええ。降臨祭が近いと商売しやすいですからね。今の人たちも仕事で来たのでしょう。あちらの香水はこっちでは人気ですからね」


 ニコニコしながら語る店主。対してクラウスはあまり気持ちがよくなかった。アンネルでは色々あったから、いい思い出とは言えなかった。


「あ、失礼。こちらを買わせていただきたいのですけど」


「かしこまりました」


 二人分のネックレスを買って、クラウスはそのままユリカの元へ戻っていった。


「ほら。こっちの青いのが君のだ」


 ネックレスの入った紙袋を受け取るユリカ。それを大事そうに抱きしめる。本当の宝物のように。


 その様子をクラウスは不思議そうに見つめていた。いつもならこんな反応は見せないのに、どうして今日はいつもと違う表情なのだろうか? やはり聖書派の物はいけなかっただろうか?


 しかしそれなら断るはずだ。どうしてだろうか? クラウスが疑問に包まれていると、ユリカが嬉しそうに笑った。


「ふふ、ありがとう」


 本当に嬉しそうな顔だった。だからこそクラウスはますます不思議に思うのだった。




 それから二人は、街の外れまでやって来た。そこはこの街を象徴する、ある場所があった。


「ここが……『ヴィース巡礼路』か」


 ヴィース巡礼路。それはヴィッテルス大聖堂に並ぶ宗教遺産。大陸に残された信仰の足跡。


 かつて神の教えを広めようと、大陸中をその足で歩いた聖人がいた。彼の歩いた道はそのまま聖遺物として扱われ、いつしか信者たちは彼と同じ道を歩み、聖地巡礼をしようと試みた。


 巡礼路はベッケンにも続いており、今も多くの信者がこの道を歩いては、大聖堂へと行こうとしている。


 その巡礼路は教会によって石畳の舗装をされており、今も当時のままの形で残っている。クラウスたちの前には、中世の光景がそのまま目の前に広がっていた。


 その巡礼路を歩いて、今も多くの信者が街へ向かっていた。中には道そのものを聖遺物と捉え、道に接吻をする信者もいた。その光景にクラウスたちは不思議な感情を抱いた。


「やっぱり、宗教はすごいわね。誰かが歩いた道でさえも聖なる道として信仰の対象になる。数百年経った今でも変わらないのだから、不思議ね」


 感嘆の声を上げるユリカ。クラウスも同じ気持ちだった。巡礼路は今までに多くの人が歩き、大聖堂へと導いてきた。聖人が残した足跡は、

今も彼らを信仰の旅へと誘う。そして、これからも多くの信者が同じ道を歩くに違いないのだ。


「ねえ。この道って、グラーセンにも向かっているのよね?」


 ユリカが問いかける。巡礼路はグラーセンのある北の方角へ伸びていた。


「ああ、そうだな。昔はグラーセンからも信者が歩いてきたらしい。聖書派と信徒派に別れた後も、信徒派はこの道を使っていたそうだ」


 巡礼路は遠くアンネルからグラーセン。そしてこのベッケンに続いていた。この他にも大陸の多くの国に道は続いていた。今でこそ鉄道ができているが、それまではこの道を通って巡礼するのが当たり前だったのだ


「そう、なのね」


 クラウスの答えを聞いたユリカは、何か考え込むように押し黙った。何か寂しさを滲ませた顔だった。


「どうした? 何を考えている?」


 気になったクラウスが問いかける。ユリカは困ったような笑みで彼に向き直った。


「おかしいと思わない? この道は聖書派も信徒派も関係なく、みんなを導いてくれたわ。この道を通ってグラーセンから多くの人がこの国にやって来たのよ。どうして今は、対立なんかしているのかしらね?」


 ユリカの問いかけにクラウスは何も言い返せなかった。巡礼路は多くの信者を迎えるために、立派に舗装されている。グラーセンもアンネルも、他にも多くの国から信者が歩いてやってきた。宗教革命によって宗派は分かれてしまったが、それでも信徒派となった彼らはこの巡礼路を通ってシェイエルンに来た。神は全ての信者を受け入れてきたのだ。


 今、その信仰の歴史に傷が付こうとしている。


「シェイエルンも同じクロイツ帝国だったのに、今は宗派が違うだけで違う国なのね」


 寂しそうに呟くユリカ。彼女にとって今、シェイエルンで起きていることは、とても辛いことに違いなかった。かつて同じ帝国の一員だった仲間が敵となっている。帝国の復活を夢見る彼女にとって、悲しい事実だった。


 彼女は道の方を見た。彼女の視線の先にはグラーセンがあった。


 しばらくそうした後、彼女はクラウスに振り返った。


「だからね」


 その時、彼女は笑っていた。何も恐れていない、いつもの自信たっぷりの顔で笑っていた。


「聖書派も信徒派も関係なく、私たちはもう一度同じ、一つになれるわ」


 もう一度、一つの帝国へ。シェイエルンも共に、もう一度クロイツ帝国へ。彼女にとって譲れない願いだった。


 ある意味彼女らしかった。彼女にとって信徒派とか聖書派とか、そんなことはどうでもいい、小さな問題なのだろう。


 きっとこの巡礼路や、あの大聖堂みたいに、全てを受け入れるのだろう。そうでなければ帝国統一なんて、考えたりはしないのだ。


 彼女の自信たっぷりの笑顔を見ていると、確かに目の前の問題が小さく、そして不思議と笑えた。


「ああ、そうだな」


 クラウスも笑っていた。彼女の言葉が面白くて、そして頼もしくて。


 その言葉を受けて、ユリカはにんまりと笑った。



 

「あ、そうだ」


 ホテルに戻る途中でクラウスが声を上げた。


「一回マイス先生のところに行かないか?」


「どうしたの? 頭の傷が痛むの?」


 心配そうに顔を曇らせるユリカ。


「ああ、いやそうじゃないんだ。少しマイス先生と話がしたいと思ってな」


「ふーん……」


 ユリカが微妙な反応を見せると、苦笑いを浮かべた。


「あなたって、本当に優しすぎるわね」


 その言葉にクラウスは何も答えなかった。


 病院に来ると、マイスが二人を出迎えてくれた。


「ああ、クラウスさん。何かありましたか?」


「ええ、ちょっと傷を診てもらおうかと思いまして。お邪魔でしたか?」


「大丈夫ですよ。こちらも少し気になっていましたから。どうぞ中へ」


 快く中へ入れてくれるマイス。その時、ユリカはキョロキョロ周りを見た。


「失礼、ヨハンナ様はいらっしゃらないのですか?」


「ああ、彼女は買い物に出てますよ。何かお話が?」


「ああ、この前のお礼をお伝えしたかっただけですわ。気になさらないで」


 診察室に集まる三人。クラウスが頭の包帯を取ると、マイスが傷跡を診察した。


「この前よりよくなってますよ。これなら傷も残らないでしょう。他に気になることはありませんか?」


「特に何も……包帯もこまめに取り換えていますけど」


「それなら大丈夫。包帯も汚れがあると、そこから傷口に入ってくることもありますから、こまめに取り換えてくださいね。今から取り換えておきましょう」


 そう言って新しい包帯を取り出そうとするマイス。


 診察を受けるクラウスは、マイスが良い医者であると実感していた。話せば話すほど安心できた。患者に安心感を持たせるのも、いい医者の条件かも知れない。


「そう言えば街は回ってみましたか?」


「ええ、本当に素敵な街ですね。大聖堂にも行きましたよ」


「それはよかった。今は降臨祭が近いですからね。当日になればもっと楽しくなると思いますよ」


 そう言って笑ってくれるマイス。そんな彼にクラウスは気になっていたことを訊いてみた。


「先生、つかぬことを伺いますが……」


「はい? 何でしょう?」


 質問していいかどうか、クラウスは迷っていた。正直気のいい話ではないはずだ。だがクラウスはどうしても気になっていた。


「先生は信徒派ですよね? それなのに聖書派のヨハンナさんと結婚されたんですよね? どうしてまた」


 その質問にマイスがキョトンとした。彼にとって意外な質問だったのか、驚いてすらいた。


「すいません。お気を悪くしたのなら、忘れてください」


「あ、ああ。大丈夫。そんなことはありません。でも、そんなことかと少し驚きました」


 面白そうに笑うマイス。すると彼は少し照れながら昔話を始めた。


「彼女と出会ったのは、あちらの街で働いていた時なんです。あっちの病院で働いていた時に彼女と出会ったんです。あの時からヴェールを被って物静かな態度だったんですけど、話をする内に好きになってしまいまして」


 じっと聞き入るクラウス。その後ろではユリカが興奮を隠しながら聞き入っていた。彼女の好きそうな話だった。


「でも、あちらは聖書派ですし、宗派が違いますからね。あちらの家族から反対されないかと心配でした。そんなことを気にしていると、ヨハンナから言われたんです。結婚しようって」


「ヨハンナさんから?」


 意外な話に二人とも驚く。あの静かなヨハンナが自分から求婚してきたというのは想像できなかった。


「それからはもう止まることはありませんでした。ヨハンナの家族も特に反対はしませんでしたし、私の方も何も問題ありませんでした。私たちはそうして夫婦になりました」


 懐かしむように語るマイス。きっと今まで色々なことがあったに違いない。彼にとっては幸せな思い出のはずだ。


 ただ、クラウスはもう一つ聞いておきたいことがあった。


「……しかし先生。お二人はまだ式を挙げていないと聞いていますが……」


「ん? ああ、誰かから聞いたんですね」


 苦笑いを浮かべるマイス。その笑みが寂しそうに見えたのは、錯覚ではないはずだ。


「ええ、まだ式を挙げていません。あちらの方で反対があるらしいのです。まあ、こればっかりは仕方ありません。どうしても譲れないことはあるでしょうから」


 そんな風に答えるマイス。それは納得ではなく、諦めの言葉。寂しさの込められた言葉を聞き、クラウスもユリカも寂しく思った。


「しかし、ヨハンナ様も式を挙げたいと思っておいでではないですか?」


「……どうでしょう? 彼女はあの通り、自分の意見をあまり言わない人ですから。本当のところはわかりません。もしかしたら、もう式は挙げる気はないのかもしれませんね」


 マイスが寂しそうに呟く。諦めにも似た呟きが診察室に漂う。その寂しさにクラウスが切なさを感じていた。


「そんなことありませんわ」


 その時、ユリカが鋭い言葉で割って入った。まるでマイスのことを叱責するような鋭さだった。驚くクラウスに構わず、ユリカはマイスに詰め寄った。


「先生は女の子の気持ちがわからないのかしら? 女の子にとって王子様との結婚式はとても大切なものですのよ? 挙げなくてもいいなんて、そんなことは絶対にありませんわ」


 怒るような言い方のユリカ。実際彼女は怒っているのだ。ヨハンナの想いを代弁するように彼女はマイスを見つめた。


「女の子は大好きな人との結婚式をずっと想像して、どんなドレスを着て、どんなことを話そうかって、ずっと考えるものですのよ。一生に一度の大切なことを諦めることなんて、あり得ませんわ」


 女の子にとっての大事な日。ユリカはそれをヨハンナにも迎えてほしい。きっとそう考えているのだ。だから彼女はこうして、マイスに語り掛けているのだ。


 ユリカのあまりの迫力にマイスが呟いた。


「……本当に、そうでしょうか?」


「そうですわ。だって」


 そこでユリカが満面の笑みを浮かべた。


「ヨハンナ様が自分で選んだ王子様ですもの。絶対に式を挙げたいと願っておいでですわ」


 ヨハンナが自分で選んだ伴侶。それほどの情熱をもって彼女はマイスを選んだのだ。だったら、彼と共に式を挙げたいと願っても不思議ではなかった。


 きっとその情熱は、今も燃えているに違いなかった。


 ユリカがマイスの手を握った。


「だから諦めないでくださいませ。神はいつでも門を開けているのですから」


 そのユリカの言葉にどんな意味があっただろうか? 握られた手に何が込められただろうか? マイスは少しぼうっとした後、その手を静かに握り返した。


「……ありがとうございます」


 微笑みを浮かべるマイス。そこには寂しさはなく、前を向く力強さがあった。ユリカの言葉が彼の中に小さな火を灯したようだ。


 それを見たユリカは嬉しそうに笑うのだった。




 病院を後にした後、二人はホテルに向かって歩いていた。


「素敵な二人よね」


 ユリカが唐突に呟いた。それはヨハンナたちのことを言っていた。


「まるでおとぎ話みたいな馴れ初めで、心が跳ねちゃったわ」


 楽しそうに笑うユリカ。そんな彼女にクラウスが問いかけた。


「君も随分と楽しそうに話していたな」


「あら? 女の子は誰でも恋のお話は好きなのよ。特にあの二人みたいなお話は大好物よ」


 確かに前からこういう話は好きだったなとクラウスは思った。今日も楽しそうにしていたのだから。


 クラウスはマイスたちのことを思い出す。今日のマイスのことを思い出すと、やはり二人には式を挙げてほしかった。


「あの二人、式を挙げることは出来るだろうか?」


「できるわよ」


 即答だった。ユリカはただそれだけ答えた。


「私だってあの二人には結婚式をやってほしいわ。そうでなかったら、何のためにあの大聖堂はあるのかしら?」


 熱の入った言葉だった。ユリカもマイスたちに色々な想いを持っているようだった。


 ユリカは言っていた。女の子にとって結婚式はとても大事なことなのだと。


 だとすると、ユリカも自分の結婚式を想像し、その日を迎えることを願っているのだろうか? クラウスはそんなことを考えていた。

 




 それから二人は毎日街に出た。ユリカは毎日外に出ようと誘い、クラウスも迷いながらも彼女について回った。


 街中の聖地や名所はもちろん、街で一番大きな公園。美術館。または商業施設など、人が多くにぎわっている場所を巡った。そんなにぎやかな場所が好きなのか、ユリカはとにかく楽しそうだった。


 聖書派の街であまり目立ってはいけないと心配にはなるのだが、しかしユリカが楽しそうにしているものだから、クラウスも不安を忘れて一緒に楽しんだ。


 その間もコル神父からは毎日手紙が届いた。今のところ聖書派の人たちは落ち着いており、特に危険な兆候は見られないという。


 特に大きな問題もなく、日々は穏やかに過ぎていた。そんな時間が三日ほど続いた。


「お客様。お手紙が届いております」


 この日もコル神父からの手紙が届いた。


「ありがとうございます」


 お礼を伝えながら手紙を受け取る。その手紙を開き、ユリカは中身を読み始める。


「何か書いてあるか?」


 クラウスが問いかける。この質問も三日目だ。何事もないのはいいことだが、平和であるのと進展がないのとはまた別の問題だ。時間と予算を浪費するだけというのも、さすがにいい気分ではなかった。


 そんなクラウスの問いかけには何も答えず、手紙を読み続けるユリカ。すると彼女はニヤリと笑みを浮かべた。


「ねえ。今日も出かけない?」


「え? 今日もか?」


 さすがに驚くクラウス。まだ他にも回りたいところでもあるのだろうかと首を傾げる。


 とはいえ、今さら断る理由もない。それに彼女が出かけたいというのであれば、何か理由があるのかもしれない。


「わかった。準備してくる」


 クラウスが自分の部屋へ戻ろうとすると、ユリカが言った。


「今日は特にお洒落してね。私もうんとおめかしするから」

 

 


 頭の包帯は取れたのだが、まだ傷が治ってはいなかった。なのでクラウスは簡単な布だけを傷口に巻いて、あとは帽子を被って傷を隠した。


 クラウスとユリカはまた街に出かけた。少し冬の気配が濃さを増したような気がした。


「今日はあのレストランに行きましょう」


 それは数日前に訪れたレストランのことだった。あの時は準備中ということで、簡単な料理だけをいただいていた。


「あの時は簡単な料理しか食べられなかったでしょう? 今日はちゃんとしたメニューを食べに行きましょう」


「そうか。まあ確かにあの時は食べられなかったのだったな」


 確かにあの時いただいたサンドイッチは美味しかった。あれなら店のメニューはもっと美味しいに違いなかった。


 クラウスは特に何も言い返さず、ユリカと一緒にお店に向かった。


「よかった。今日はちゃんと開いているみたいね」


 お店にはいくらか客も入っていた。それほど数もいないので、入りやすそうだった。


「ほら。行きましょう」


「わかったから落ち着いてくれ」


 急かしてくるユリカを笑いながら見るクラウス。とても淑女とは思えないその姿を彼は呆れながら見ていた。


「失礼ですが、信徒派の方ですか?」


 そんな二人に、鋭い言葉が投げかけられた。冬の寒さよりも冷たい言葉が二人を射抜いていた。


 クラウスたちが声のする方を見る。そこには鋭い目つきをした男が一人立っていた。


 クラウスと同じくらいの年齢だろうか? その身なりから学生のような印象を受けた。ただし、その瞳からは冷たさを感じた。


 やはり目立ちすぎただろうか? そんな不安をクラウスが感じていると、横からユリカが一歩前に出た。そして膝を折って礼儀正しく挨拶した。


「はじめまして。マヌエル・カーン様ですね? お目にかかりまして、光栄ですわ」


 そんなユリカの言葉に男は目を丸くした。名乗ってもいない自分の名前を言われて、驚いているようだ。


「何故、私の名を?」


「コル神父からお名前を伺っておりました。そろそろ私たちに会いに来るだろうと。お話の通り素敵な御方と聞いていましたから、すぐにわかりましたわ」


 にっこりと笑うユリカ。対して誉められたマヌエルは複雑そうな顔をした。どう反応していいかわからないといった様子だ。


「それで、私たちに何か御用でしょうか?」


 ユリカが問いかけると、マヌエルも調子を戻して口を開いた。

「あなたたち、少し目立ちすぎている。私たちの間で少し噂になっている。あまり目立った行動はしない方がいい」


 事務的で機械的な言葉。こちらを心配しての言葉ではなく、しかし敵意を持っての警告でもない。あくまで最低限の申告だった。


「あら? それだけですの?」


 ユリカが訊き返す。しかしマヌエルは特に何も答えない。必要以上の関りを持たず、最低限の言葉だけを伝えようとしているようだ。


 するとそんな彼にユリカが微笑みを浮かべながら言った。


「よろしければ、これから食事にしようと思ってますの? マヌエル様もご一緒にいかがですか?」


 その申し出にマヌエルも、横にいたクラウスも驚いた。そんな二人を前にしても、ユリカはその優雅さを保っていた。


 ただマヌエルはその誘いを前に迷いを見せていた。何かの罠ではないかと疑っているのかもしれない。するとユリカは静かに語り掛けてきた。


「聖書にはこう書かれているらしいですわね? 『食事をする時は、一つ二つ席を空けておくといい。いつ友人が来ても、一緒に食事ができるように』と」


 ユリカの言葉にマヌエルが目を見開いた。それは聖書にある言葉。たじろぐマヌエルにユリカはさらに続けた。


「神はこのように仰っておいでです。それともこの言葉は信徒派は別ということですか?」


 信仰心に訴えかけるユリカの言葉。その言葉にマヌエルも覚悟を決めたようだ。


「……わかりました。神の御言葉を無視できません。ご一緒しましょう」


 その答えにニッコリと笑うユリカ。対してマヌエルは無表情のまま。そんな二人を困惑した様子で見守るクラウス。この不思議な状況に彼が一番困惑しているようだった。


 そんな三人をこの前と同じ女給が出迎えてくれた。


「いらっしゃいませ。あら?」


 女給の足が止まる。クラウスたちもそうだが、そんな二人と一緒にマヌエルがいることに驚いていた。

「えっと……」


「安心してくれ。別に何もしない。こちらの女性から食事に誘われただけです。ご安心を」


 女給の心情を察したのか、マヌエルが口添えした。


「えっと、それなら……」 


「失礼。よろしければ誰にも邪魔されずにお話しできる場所をお願いしたいのですが」


「……わかりました。個室が一つ空いてますので、そちらに来てください」


 

「お待たせしました。注文の品でございます」


 そう言って女給がユリカたちのテーブルに料理を運んできてくれた。


 テーブルの上にたくさんの料理が並んだ。豪快に焼いた豚肉の塊。伝統的なパンや、白ソーセージなど。鉄板に置かれた料理が美味しそうな湯気を立てており、一層食欲を刺激させた。


 シェイエルンは肉料理が有名で、ソーセージやベーコン。それに単純に焼いただけの肉が特に有名だった。そこにハーブなど香草を使っているので、独特な香りが漂っていた。


 そんな料理を前にして、ユリカが目をランランと輝かせていた。


「さあ、いただきましょう」


 そう言って、目の前のソーセージを口に運んだ。パキリと気持ちのいい音が響いた。


「……やっぱり美味しい!」


 心の底から叫ぶユリカ。それだけで美味しさが伝わってきそうだった。そんなユリカを前にして、マヌエルは押し黙ったまま彼女を見つめていた。どうするべきか考えているようだ。


 そんな彼に気付いたユリカが話しかけた。


「どうしました? お肉は嫌いでしたか?」


「いえ、そういうわけではないが……」


 するとユリカが手元に置いてあるソーセージを一本、マヌエルの方に差し出した。


「美味しいですわよ? ほら、食べてください」


 柔らかく微笑むユリカ。その微笑みを前に断れなかったのか、マヌエルはその一本を手に取り、一口かじるマヌエル。それを見てもう一度笑うユリカだった。


「それで? 何か話があるのではないですか?」


 さすがに落ち着かなくなったのか、マヌエルから切り出してきた。そんな彼の様子をクスクスと笑いながらユリカは見ていた。


「マヌエル様。私が聞いた話では、貴方が聖書派の人たちのリーダーと聞き及んでいますが、間違いありませんか?」


「……別にリーダーではありません。確かに聖書派の青年団をまとめていますが、あくまでそれはそういう立ち回りというだけで、そう決まっているわけではありません」


 堅い表情のまま話し続けるマヌエル。すると今度は彼から質問が投げかけられた。


「そちらは信徒派のようですが、シェイエルンの人間ではないですね? どちらから?」


「私たちはグラーセンから来ました。とある目的のためにここに来ました」


「目的、ですか。それはグラーセンの政府によるものですか?」


 ユリカたちの態度から、マヌエルはある程度ユリカたちの素性に気付いているようだった。だがユリカは自分の口に人差し指を押し当てた。


「そこは乙女の秘密、ですわ」


 ある意味その態度こそが答えになっているのだが、マヌエルもそれ以上指摘するような無粋なことはしなかった。


「……わかりました。そういうことにしておきましょう。それで? そんな貴方たちが私にどんなお話を? 私に何か聞きたいことでもあるのですか?」


 手っ取り早く話を進めるマヌエル。ユリカもそれ以上回り道せず、訊きたいことを率直に言葉にした。


「マヌエル様。我がグラーセンではシェイエルンとの間に新たな結びつきを作ろうと考えています。ですが、今この街では信徒派と聖書派との間で対立が起きています。それは信徒派の多い我がグラーセンにとって危険なことなのです。私たちは、この対立の解決を望んでいます。将来の友好のために」


 ユリカがビールを口に含んだ。気持ちよさそうに飲んだ後、彼女はもう一度マヌエルに視線を向けた。


「マヌエル様。貴方様にこの問題の解決の協力をお願いできませんか?」


 クラウスは自分が声を上げなかったことを誉めてあげたかった。。それは目の前にいるマヌエルも同様で、微笑みを絶やさない目の前の少女

を不思議そうに見ていた。


「貴方は、私が聖書派の人間であることを知っての上で、協力を要請すると?」


 にっこりとユリカが笑う。


「神様が教えてくれました。貴方は頼りになる人物だと」


 そんな答えにマヌエルもクラウスも首を傾げる。そんな二人を楽しそうに見つめながら、ユリカは話し続けた。


「マヌエル様。そもそも何故この街では対立が起きているのでしょう? 私は昔、この街に来たことはありますが、この街では聖書派も信徒派もいがみ合うことなく、同じ街の隣人として一緒に暮らしていたと記憶しています。それが何故今、対立しているのでしょうか?」


 ユリカの疑問にクラウスが同調する。確かにこの街の宗派対立は、何が原因なのだろうか? 宗派が違うというだけでも対立の原因にはなり得るが、この街では昔から穏やかな関係が築かれてきた。   


 それが何故今さら対立しているのか?


 そんな彼らの疑問を受け止めて、マヌエルが溜息を吐いた。


「そうですね。それにお答えするには、少し恥ずかしい話をすることになります。お二人は信徒派の街にいらっしゃるのですよね?」


「ええ、そうです。それが何か?」


「お気づきになりませんでしたか? あちらの街には銀行や金貸しなど、金融会社が多かったのを」


 クラウスが思い起こす。確かにあちらでは銀行家や質屋など、金融業が多い印象があった。


「この国の信徒派は、ほとんどそういった仕事に就いていることが多いのです。聞いたことはありませんか?」


「ああ。確かにそんな話がありましたね」


 クラウスが頷く。宗教革命で新たに生まれた信徒派だったが、しかし古くからある教会勢力からは迫害されることが多く、彼らができる仕事はほとんどなかった。そんな彼らが自分たちを守るために始めたのが、金貸しや両替商などの金融業だった。農業のように土地も必要なく、特別な技術もいらない。資本を貸して利子で儲ける。お金さえあればできる仕事は彼らにとって生業となったのだ。


「今でこそ信徒派にも金融以外の仕事が回るようになりましたが、それもここ数十年の間です。中世の頃は仕事すらなかった時代もあったそうです」


 想像に難くなかった。元々グラーセンも信徒派が集まった国だ。クロイツ帝国の頃は帝国中の信徒派が流れてきた。彼らは各地で追いやられた信徒派で、グラーセンに新天地を夢見た人たちだった。


 と、そこまで考えてクラウスが思い出す。それがこの街の対立と何か関係があるのだろうか?


「マヌエル様。それが今回の話と何か関係があるのでしょうか?」


 ユリカも同じことを考えたのだろう。そんな疑問を口にすると、マヌエルも続きを話してくれた。


「この二十年くらいのことです。世界に産業革命が燃え広がったように、このシェイエルンにも新しい時代がやってきました。新たな産業と技術は国を大きく変え、人々の生活を変えました。ですが、それはこの街の人々の関係ですら変えてしまいました」


 マヌエルの顔が歪む。語るのが辛いといった様子だった。


「新しい産業が生まれたことで、それまで金融に従事していた信徒派の資本家は、新しい産業にどんどん投資していきました。元々銀行や金貸しをしていたのですから、投資というのは彼らにとって当たり前の仕事でした。産業革命は彼らにとって大きなチャンスであり、事実彼らは豊かになりました。ですが、聖書派はそうではありませんでした」


 マヌエルがビールを飲む。嫌なことを飲み込むように一気に飲んだ。


「聖書派は農業や工業などをしており、信徒派のように大きな資本を持っていたりしていませんでした。この国で起きた産業革命は、そんな彼らの仕事を奪い、聖書派の間で多くの失業者を生むことになりました」


 マヌエルの話に頷くクラウス。よくある話だった。


 鉄道が走れば馬車が廃り、布製品の工場ができたら職人は必要なくなり、石炭が掘り起こされたら、木炭は不要になる。その結果、多くの人間が失業することになる。近代化に伴う痛みだった。


「今この街で騒ぎを起こしている聖書派の人間は、そうして失業したり産業革命に不満を抱く人たちの集まりなのです。彼らにとって産業革命を推し進めた信徒派の資本家は、自分たちを苦しめた憎むべき相手に映っているのです」


 マヌエルの話に二人も合点が行った。そもそもこれは宗教による対立ではなく、経済による対立だったのだ。


 投資家として産業革命を推し進めた信徒派。その産業革命によって仕事を奪われた聖書派。これは宗派対立の皮を被った経済摩擦だったのだ。


「今騒ぎを起こしている聖書派の集まりも、ほとんど各地で仕事をなくし、街に流れ着いた人たちの集まりです。彼らはその不満を信徒派にぶつけているのです」 


「なるほど……そういうことでしたか」


 皮肉な話だ。かつて仕事を得られなかった信徒派の人々は、下賤の職と揶揄された金融業で身を守るしかなかった。そんな彼らが今は投資家として産業革命を推し進め、代わりに彼らを差別していた聖書派が仕事を失ったのだ。


 歴史とはどう動くものか、わからないものだ。


「マヌエル様。貴方様は信徒派に対してはどうお考えですの?」


 そんな中、ユリカが問いかける。


「貴方も信徒派に対しては不満をお持ちですの?」


「……正直な話、私は信徒派に対して不満を持ってはおりません。私の家はこの街で代々暮らしてきましたし、私もこの街で育ちました。信徒派にも何人か友人がいます。個人的に彼らを敵と思ったことはありません。ですが、私は聖書派の人間です。同じ聖書派が苦しんでいるのであれば、助けてやりたいと思うのは自然なことです」


 その言葉をクラウスも否定はできない。彼も短い間ではあったが、アンネルで留学生活をしていた。あちらでアンネルの空気に馴染み、ワインも美味しく感じるようにはなった。だが、やはりグラーセンに帰ってみれば、やはり自分はグラーセンの人間であることを強く自覚したのだ。


 マヌエルが同じ聖書派を守りたいというのも、わからぬではなかった。


「……とはいえ、今この街の現状も、あまり好ましくないのも事実です」


「どういうことです?」


「先ほども言いましたように、私は聖書派ではありますが、この街では信徒派の隣人でもあります。友人同士がケンカをするのは、私の望むところではありません。私はできる限り、聖書派を抑えようとしているのです。そうでもしなければ、彼らは暴走してしまい、それを止めることができなくなります。そうなれば、もはや救いようがなくなります。この街、そしてこの国にとっては悲劇にしかなりません。それだけは避けねばならないのです」


 マヌエルの言葉に感心するクラウス。見た目はインテリ肌の学生だが、しかしその中には一つ芯の通った信念があった。郷土愛と言うべきか、それとも愛国心なのか。


 少なくとも無条件に聖書派を味方するのではなく、冷静に物事を見通せる思慮深さを持ち合わせているようだ。


 すると彼の話を聞いていたユリカが微笑みを浮かべた。彼女はその笑みを浮かべたまま、マヌエルに話しかけた。


「それでしたらマヌエル様。私たちに協力してくれませんか?」


「え?」


 ユリカの申し出に驚くマヌエル。その反応が面白いのか、より笑みを深めて彼女は話を続けた。


「先ほども言ったように、私たちはグラーセンとシェイエルンとの間に新たな友好を作りたいと願っています。そのためにこの街の対立は好ましくありません。この対立を治めたいと願うという点で我々は一致しております。よろしければ、私たちに協力していただけないでしょうか?」


 コル神父と話した時と同じような微笑みだった。しかし確かに彼女の言うとおり、対立を治めたいという点ではマヌエルとは仲間になり得た。むしろ彼と協力できるのは大きいことだとクラウスも思った。


 ユリカの言葉を受け止めたマヌエルは、そんな彼女を見て面白そうに笑った。


「なるほど。神父様が仰ったとおりだ。面白い御方ですね」


 そんなことを口にするマヌエル。何のことか首を傾げるクラウス。それに対してユリカはただニッコリと笑うだけだった。


「一緒に食事しようと言い出したり、かと思えば協力を要請するとは。不思議なお人だ」


「あら? そうかしら?」


 ユリカはそう言うと、手元にあるソーセージを一本手に取った。


「こんなに美味しい食べ物があるんですもの。信徒派も聖書派も関係なく、みんなで一緒に食べたいと思うのは、当然ではありません?」


 今も美味しそうな匂いを漂わせるソーセージ。独特なハーブの香りは、確かに美味しそうな香りだった。


 そんな彼女の言葉を聞いて、マヌエルはくすりと笑う。


「なるほど。確かにその通りですね」


 マヌエルはそう言って、手元にあるビールを手に取った。


「わかりました。私も協力していただけるのはありがたいです。どこまでできるかわかりませんが、私からもお願いします」


 マヌエルの言葉を嬉しそうに受け取るユリカ。彼女はそのまま自分の手元にあるビールを持ち上げる。そうして彼らがお互いのコップをキン、と叩き合った。


 それに倣うようにクラウスもビールを持ち上げて、自分のコップも軽く叩きつけた。


「よろしくお願いしますわ」


 ユリカはそう言って、ビールを口に運んだ。とても美味しそうな飲み方だった。


 

「あー、美味しかった」


 そう言って満足そうに前を歩くユリカ。ビールを飲んでほろ酔い気分なのか、足取りも軽やかだった。


 ただ、軽やかなのはそれだけではないだろう。マヌエルとの会談を成功させたことが、彼女を満足させているようだ。


「ユリカ、もしかしてここまで君の思惑通りなのか?」


 するとユリカはいつもの悪戯っぽい笑みを向けてきた。


「あら? 思惑って何のこと? まるで人を悪企みする魔女みたいに」


「いや、少なくとも今日のマヌエルさんとの会話も、まるで最初からあっちから来るとわかっていたみたいだったじゃないか」


 そもそもクラウスには最初から不思議だった。マヌエルとは初めて会ったはずなのに、ユリカは彼に話しかけられた時、すぐに彼の名を言い当てて、食事に誘っていた。どうして彼だとわかったのか?


「マヌエルさんも私たちに話しかけてきたし、まるで前から知っていたような……」


 そこまで言いかけて、クラウスはあることに気付いた。前からというなら、この数日間は毎日ユリカとクラウスは街に出かけていた。特に人通りの多い名所を。


「……そういえば君、最初に出かけた日、お洒落をするように言っていたが、もしかしてより目立つことで自分たちを見つけてもらうように仕向けていたのか?」


 クラウスの指摘を受けて、ユリカがニンマリと笑う。


「綺麗な女の人とすれ違うと、ついつい目で追ってしまうのでしょう?」


 ああ、やはり彼女のお洒落はそう言う目的があったのだ。なんとも彼女らしいと思った。


「なるほどな。それじゃあ私と腕を組んだりしたのも、より目立つためだったわけか」


 そんなことを呟くクラウス。するとユリカが笑みを浮かべたまま彼の顔を覗き込んだ。


「あら? 違うわよ。あれは単純に腕を組んで歩きたかっただけよ」


 いきなりそんなことを言うユリカ。彼女の顔を見返すクラウス。嘘をついているようにも、本当のことを言っているようにも見えない。そんな底の知れない笑顔だった。


「嬉しい?」


 悪戯っぽく言うものだから、クラウスは思わずそっぽを向くのだった。そんなクラウスを微笑ましく見つめるユリカ。


「まあでも、今回は神父様の協力があったから上手くいったわ」


「コル神父の?」


「ええ。マヌエルさんはコル神父から私たちのことを教えられていたらしいわ。私もそれとなくマヌエルさんと話をしてみたかったから、神父様にマヌエルさんからこっちに会いに来るよう言ってもらったの」


 クラウスも納得した。確かにマヌエルもそんなことを言っていたことを思い出す。


 何から何までユリカの思惑通りになっている。まるで全てを手玉に取るような、そんな底知れないものを感じさせた。今もクラウスの前で踊るように歩く少女。悪戯を成功させて喜ぶ、そんな妖精のようにも思えた。


「しかし、あんなに大量の料理まで注文して話をするなんて。君も大胆だな」


 お店ではたくさんの料理を注文し、それらを美味しそうに食べていたユリカ。途中でマヌエルにも勧めたりと、楽しそうにしていた。マヌエルもその食べっぷりには少し驚いていたようだった。


「いつもそうだが、君はいつも楽しそうに食べるのだな」


「あら? それっておかしなことかしら?」


 キョトンとした顔で訊き返すユリカ。彼女は不思議そうな顔でクラウスを見た。


「だって、みんなと美味しい料理を食べるのって、楽しいものじゃないかしら?」


 その答えにふとクラウスの思考が止まる。彼女は『みんなと美味しい料理を食べる』と言っていた。その言葉に何か不思議なものを感じた。そんなクラウスにユリカはさらに続けた。


「あなたはどうだか知らないけど、私ってよく一人で食事していたの。おじい様は仕事で忙しいし、父も母も忙しいから、食事はいつも私一人だったわ。屋敷のみんなが作ってくれる料理はもちろん美味しいのだけど……一人で食べるとやっぱり寂しいのよ」


 珍しく困ったように笑うユリカ。


 広い食卓で美味しそうな料理を前にする一人の少女。それらを静かに食べる彼女の姿。


 彼女のそんな姿は想像しやすかった。だけど同時に、彼女らしくないとも思えた。いつも美味しそうに食べて、楽しそうに笑うユリカ。クラウスが今まで見てきたのは、そんな彼女の姿だった。


 そういえば、彼女はいつも朝食は一人で食べずに必ずクラウスが来てから一緒に食べていた。クラウスがどれだけ遅くても、ずっと待っていてくれた。


「だから私、軍学校でみんなと肩を並べて食事するのがとても楽しかったわ。みんな不味い不味いって口にするのに、楽しそうに食べるのよ。だから私、あそこで食べるのが好きだったわ」


 その時のことを思い出しているのか、ユリカが懐かしそうに目を細める。


「この街の料理もとても好きよ。だから、私はみんなと一緒に食べたいの。信徒派とか聖書派とか関係なく、一緒に食事を囲んで、みんなで笑い合って食べる。それが一番大好きなのよ」


 マヌエルと会った時、彼女はすぐに食事に誘っていた。一緒に座る彼にソーセージをお勧めした彼女。きっと彼女は、彼にも食べてもらいたかったのだ。美味しいと感じるのは誰もが同じ。それを彼女はみんなで共有したいのだ。


 彼女は最後に振り向いた。いつもの夢を語る笑顔で。


「いつか聖書派も信徒派も関係なく、みんなで同じテーブルに着きたいわ。それはきっと楽しいに決まっているわ」


 彼女は夢見ている。みんなが同じクロイツ帝国の仲間に戻ることを。それはきっと素敵なことなのだと、彼女は信じているのだ。


 きっと今日みたいに、楽しい食事となるのを夢見て。


「……ああ、そうだな」


 クラウスが呟く。みんなが同じ帝国になれば、きっと今日みたいに一緒に食事をすることもあるだろう。それは良いことに違いないのだ。


 だから彼は、こう言うのだった。


「その時は、私も一緒にテーブルに着きたいものだな」


 静かに笑うクラウス。それに応えるようにユリカも笑うのだった。





 翌日。クラウスはいつもより頭がぼんやりするのを感じた。ベッドの上で目を覚ました彼は、何故かいつも以上に意識が覚醒するのが遅く感じられた。


「……あれ?」


 体を起こして周りを見ると、彼はすぐに異変に気付いた。いつもより起きる時間が遅かったのだ。予定より一時間も遅れていた。


 さすがに驚くクラウス。彼はすぐに起き上がり、身支度を整える。


 すぐに部屋を出て、隣のユリカの部屋に向かう。


 そうしてドアの前で立ち止まるクラウス。そこでしばらく考え込んだ。


 こんなに遅く起きたのは初めてのことだ。一体どんな顔をして入ればいいのか、迷っていた。


 きっと色々なことを言ってからかってくるに違いない。さすがに気後れしてしまう。


 しかし寝坊したのは事実だった。彼は覚悟を決めて部屋に入った。


「すまない。遅くなってしまった」


 中に入るなりそう口にするクラウス。しかし返事はない。不思議に思い周りを見ると、ユリカが窓際に座って、外を眺めていた。


 その横顔にクラウスはつい見惚れてしまった。静謐という言葉を形にしたような、静かな顔。そこだけ時間が止まったような、そんな静かな表情だった。


 ただただ美しい。それだけしか言葉がなかった。


「あら? おはよう。クラウス」


 するとクラウスに気付いた彼女はにっこりと笑って挨拶を寄越した。クラスも慌てて挨拶を返した。 


「あ、ああ。おはよう。何をしているんだ?」


「ほら、見て見なさい」


 ユリカが窓の外を示す。すると外には冬が舞っていた。


「ほう……雪か」


 まだチラホラとだが、雪が降っているのが見えた。そう言えば起きた時、一段と寒さが強くなったのを感じていた。


 もしかしたら、いつもより遅く起きてしまったのは、寒さが強くなったせいかもしれなかった。


「ふふ、こんなに寒いとベッドから起きるのは辛いわよね?」


「む……すまない」


 素直に寝坊したことを謝るクラウス。それが楽しいのかユリカはクスリと笑った。


「さて、今日はどうしましょうか?」


 ユリカが口を開いた。その時だった。窓の外で何か大きな音が聞こえてきた。


「なんだ?」


 クラウスが外を眺めた。見て見ると人々が右往左往しているのが見えた。すると街の向こうから怪我人が運ばれてきているのが見えた。


「なんだ? 何が起きているんだ?」


 さすがにただ事でないことが起きていることはわかった。しかしここからでは何もわからない。


「行きましょう」


 ユリカがすでに外に出ようとコートを羽織っていた。クラウスも何も言わず、彼女について行った。


 ホテルを一歩出ると、人々の騒動が大きくなっていた。一体何が起きているのか、クラウスたちは混乱していた。


 ユリカが道行く人を呼び止めた。


「失礼。何が起きていますの?」


「知らないのかい? あっちの方で信徒派と聖書派の連中がケンカをしているらしい。今日はいつも以上に激しくて、もう数十人も怪我人が出ているらしいんだ」


 早口にまくし立てる男の話に青ざめるユリカ。クラウスも驚きを隠せなかった。


「そんなに大変なのですか?」


「俺も詳しくは知らないが、あんまりひどくて、あっちとこっちを結ぶ橋でお互い睨み合っているらしい。下手したら今日は橋を通れないかもしれないぞ」


 あまりによろしくない話に、クラウスは唖然としていた。

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