第三章 街と歴史と
その日は朝から雨が降っていた。だいぶ強くなった雨の中、二人はラコルトの屋敷までやって来た。
さすがに領主であるシュライヤーの屋敷ほどではないが、この街の中でもそれなりの大きさの屋敷だった。その門の前でユリカたちは立っていた。
「さて、どんな話になるかな?」
クラウスは少し緊張していた。ラコルトからどんな話が来るのか、想像できなかった。
「あら? 緊張しているの?」
そんな彼の胸の内を見透かしているのか、からかい気味に問いかけてくるユリカ。わかってやっているので、クラウスは悔しかった。
「そりゃあね。少し前まで学生だった男だからな。こういった場には慣れていないのさ」
悔し紛れに言い返すクラウス。するとユリカはクスクスと笑い出した。
「何だ? 何かおかしいのか?」
「だって、あなたって自分を過小評価するくせに、やることはたまに大胆だからおかしくて」
ユリカの言葉に怪訝な顔をするクラウス。自分がいつ大胆だったのか、彼には記憶になかった。
「忘れたの? あなたアンネルではローグ大使に向かって大胆な交渉をしていたじゃない。その次の日には警察署で相手をけちょんけちょんに言い負かして私を助けてくれたし。あんな大胆なことをした人が緊張しているなんて、おかしくておかしくて」
その話にはクラウスも反論できなかった。確かにアンネルではかなり大胆なことをしたと思っている。今思えば、自分らしくないと思った。
変な汗を流すクラウス。するとしばらく笑っていたユリカが彼に向かって笑みを浮かべた。それは信頼の微笑みだった。
「でも、これだけは忘れないで。そんなあなただからこそ、私の隣にいてほしい。あの時みたいに、また私を助けてほしいから」
思わず口を閉ざすクラウス。
ずるいな、と思ってしまう。こんなことを言われれば、もう何も言えないのだから。
それと同時に、不思議と嫌な気分ではなかった。自分を仲間として見てくれることが、とてもありがたいとも思うのだ。
だからだろう。クラウスの緊張もいつの間にか解けていた。
「さ、行きましょう。ラコルトさんが待ちくたびれるわ」
そう言って、ユリカは門を二回たたくのだった。
女中に案内されたのは屋敷の一番奥の部屋だった。おそらくそこが客間なのだろう。女中がドアをノックすると、中から野太い声が聞こえた。
「どうぞ」
女中がドアを開けて、中に入るよう促す。それに応じるようにユリカとクラウスが中に入った。
その部屋の中央のテーブル。その奥にラコルトがいた。
一言で言って、豪傑と呼ぶべき男だった。衣服では覆い隠せない筋肉の鎧。顔のいたるところに走っている傷跡。そして何より、ユリカたちを射抜く鋭い眼光。思わずクラウスは電流が走った感覚を覚えた。
あ、と思った。クラウスはその感覚を覚えている。それは彼らが初めてシュガルトに来た日の時だ。
鉱山労働者たちに囲まれる男。その男はクラウスたちを睨んでいた。あの時自分たちを睨んでいたのは、ラコルトだったのだ。
今も彼の視線は、クラウスを射殺そうとしているように思えた。
きっと彼も鉱山で働いてきた人間なのだろう。その顔の傷も、筋肉も鉱山で働くうちに出来上がったものなのだ。その鋭い目つきも、山で生きていく上で形作られたのだ。クラウスは息を飲んだ。
「ラコルト・クルップ。ビュルテンで鉱山業を営んでいる。そこの席に座りなさい」
ラコルトは対面への着席を促す。するとユリカはその眼光に臆することなく、促されるままに席に座るった。
「失礼しますわ」
クラウスも負けていられない。彼もユリカの隣に着席した。
「はじめまして。私、グラーセンからやってきたユリカ・フォン・ハルトブルクと言います。こちらはクラウス・フォン・シャルンスト。今回はお会いできて光栄ですわ」
流れるように紹介をするユリカ。この堂々とした態度はさすがとしか言いようがなかった。
その時、ラコルトが手を上げた。こちらを制するような態度にユリカは口を閉ざした。
「お嬢さん。とりあえず隠し事をするのはよそう。お互い嘘偽りなく、本音で語り合わないか?」
いきなりの言葉にクラウスが戸惑いを見せる。ユリカは顔こそ笑っていたが、空気が変わっているのがわかった。
「お二人はグラーセンの政府か、軍から派遣されたのだろう? それにシュライヤーさんの屋敷にいるフェリックスとやらも同じだ。違うか?」
いきなり言い当てられてクラウスの腰が上がりかけた。誰かが内通しているのか? 驚愕する彼をよそにユリカは心地よさそうに問いかけた。
「どうしてそう思われるのでしょう?」
「これでも長く生きているからな。いろんな人間を見てきた。身分を偽っても、必ず滲み出てくるものがあるのさ。振舞いや歩き方。それに話し方。たぶん軍部の人間だと思うが、違うかい?」
その時、ラコルトはワインを一本取りだした。自分とユリカの間にドンと置いて、彼は言い放った。
「酒の席では本音で語り合う。それが俺たちのような人間の流儀だ。お互いつまらない話はやめようじゃないか」
そう言ってラコルトは、三人分のグラスにそれぞれワインを注いでくれた。その態度が面白いのか、ユリカはニッコリと笑った。
「あなたの言うとおり、お酒の席で無粋でしたわね」
そう言ってユリカはグラスを前に差し出すと、ラコルトがそれに応えるように乾杯をしてくれた。クラウスも慌てて二人と乾杯をする。
ワインを一口飲んでから、ユリカが改めて自己紹介をした。
「改めて、グラーセン参謀本部から派遣されたユリカと言います。こちらのクラウスは、私の補佐と思っていただければいいですわ」
偽りのない自己紹介。その時、はじめてラコルトが笑みを見せてくれた。
「ラコルト・クルップだ。ようこそ、ビュルテンへ」
なるほど、裏表のない男だ。クラウスはその言葉の意味が初めて分かった。
「さて、さっそくだが本題に入ろう。二人が話したいのは、グラーセンとビュルテンを鉄道で繋ぐ計画について。それで間違いないか?」
余計な話は必要ないとばかりに核心をついてくるラコルト。逆にユリカは話しやすいのか、肯定の頷きを見せた。
「はい。我がグラーセンはビュルテンとの間に鉄道で繋げようと計画しています。あなたの言うとおり、フェリックスも私と同じように軍から派遣された人間です。これは軍と政府が計画していることです。ラコルト様。あなたはこの計画に全民議会で反対をされていると聞いています」
ラコルトはそうだと言わんばかりに大きく頷いた。嘘ではないと。
「ラコルト様。どうして反対されているのでしょうか? 私としてはあなたにも協力していただいて、今回の計画を成功させたいと考えているのですが……」
「反対する理由、か。それはシュライヤーさんから聞いているだろう。もしグラーセンと鉄道で繋がれば、ビュルテンの産業にとって不利益になる。自分はそう考えて反対している」
それはシュライヤーからも聞いていた話。グラーセンと繋がれば、グラーセンの経済力に押されて、ビュルテンの産業が打撃を受ける可能性がある。ラコルトはその懸念から鉄道計画に反対しているという。
「自分は鉱山労働者を代表して議会に参加している。彼らを守るのが自分の仕事だ。だから簡単には賛同できないんだ」
「ラコルト様」
その時、ユリカの透き通った声が響き渡った。何事かとクラウスもラコルトも彼女を見た。ユリカはワインを手に持って、微笑みを見せた。
「ワインを飲みながらの席で、本心を偽るのは無粋だと思われませんか?」
その時、ラコルトの眼が鋭く光った。射抜くような視線を受けても、ユリカは笑ったままだった。思わぬ空気にクラウスは緊張を増していた。
しばらく無言でいると、ラコルトが視線を外した。
「なるほど。お嬢様だと思っていたが、軍にいるのは伊達ではないということか」
「これでも最低限の訓練は受けておりますわ」
そんな返しにラコルトはふっと笑った。それから彼はワインを一口飲んで息を吐いた。
「そうだな。お嬢さんの言うとおり、さっきのはあくまで表向きの理由だ。ああ言えば俺以外の連中もわかりやすくて味方になってくれるからな」
「それでは、まだ他に反対する理由がおありなのですね?」
問いかけてくるユリカ。するとラコルトはそれには答えず、かわりに隣にいたクラウスに顔を向けた。
「そちらの方。このビュルテンの歴史について、どれくらい知っている?」
いきなりの質問に戸惑いつつ、クラウスは記憶にあるビュルテンの歴史を引き出した。
「え、ええ。いくらかは。昔から鉱業が盛んで、かつてはグラーセンと同じ帝国の一部だったこともあると学んでいますが、それが何か?」
「ふふ、なるほど。そんなものか。じゃあ質問を変えよう。この国が今までに何回、『戦場になった』かわかるか?」
いきなり物騒な言葉が出てきたことでクラウスは面食らっていた。そんな彼にラコルトはさらに続けた。
「お二人とも。この国の歴史を学んでいればわかると思うが、この国は何度も戦火に巻き込まれてきた。まだ帝国が健在だった時代。それこそ自分の祖父のその祖父の代から、何度もこの国に軍隊が押し寄せてきた。何故かわかるか?」
問いかけるラコルト。そんなの答えはわかり切っていた。この国が戦場になる理由。それはこの国の命そのものだ。
「鉄が取れる、からですか?」
「その通り。帝国にとってもどの国にとっても、この国の鉄は重要な資源だからな。この大陸で戦争が起きた時、この国は何度も侵略された。西のアンネルからも、南のエストリーからも、時には帝国からもな」
クラウスはユリカとの話を思い出す。この国と鉄道を結ぶのは、アンネルとの戦争に備えるためだと。交通の要衝であるビュルテンを繋げるのは、アンネルに対する牽制とするためだと。
ビュルテンはその地理的、経済的条件から常に戦場とされてきた国なのだ。何度も戦火で燃やされた国だった。
「戦争が起きた時、この国は何度も戦争に参加した。鉱山で働いていた若者は徴兵されて、戦場に行かされた。そうして生きて帰ってきたのはほんの一部。その度に鉱山は大変な想いをしてきたんだ」
容易に想像できた。昔の徴兵は今よりもひどい有様で、健康な人間なら誰もが兵士にされた時代だ。鍛えられた鉱山労働者など、兵士にうってつけだ。ビュルテンの若者は軍に駆り出されてしまい、そうして戦場から帰ってこれたのはごくわずか。そうなれば鉱山業が打撃を受けるのは必然だ。
「それに生きて帰って来れても、それまで働いていた鉱山がなくなっていたことも少なくなかったそうだ」
「鉱山がなくなっていた?」
「ああ、そうだ。考えてみるといい。この街が占領されそうになった時、鉄を相手に渡したくない時、何をすると思う?」
その問いかけにすぐに答えが出た。そんなの、戦争では当たり前の出来事だ。
「そう。昔この街を占領していたアンネル軍が街から撤退する時、鉱山を使えないようにして出て行ったんだ。何度も爆弾で念入りにな」
思わずクラウスが苦しそうな顔をする。横で聞いていたユリカも悲痛な面持ちだった。
そんな話、戦争ではよくある話だし、どの国でもやることだ。
だが知識として知っていることと、こうして直面するとでは大きく違う。この国の歴史を見せつけられ、クラウスは辛そうに顔をゆがめた。そんな二人を見て、ラコルトは落ち着いた様子だった。
「ひどい話と思うかね? でも、この国ではそんな話は何度も起きてきた。そして、その度に新しく鉱山を作り、鉄を掘り出し続けてきた。自分も、自分の父も、その父親も。この体にできた傷も、鉱山でできたものさ」
鉱山で生きるというのは、決して安全ではない。まだ掘削技術が十分ではなかった時代。落盤事故など危険な労働が多く、その度に死者が出た。彼らはそんな危機を乗り越え、世代を越えて、今日の鉱山を生み出してきた。その長い歴史の中で、彼らは何度も戦火に巻き込まれてきた。
この国は鉄と共に生きている。それを思い知らされた。
「お嬢さん。グラーセンは帝国の復活を計画している。その帝国にこの国も参加させようとしている。違うか?」
どこまでお見通しなのだろう。政府の計画を見抜いているラコルトの慧眼に驚きつつ、ユリカはごまかすことはしなかった。
「ええ、その通りです。グラーセンはクロイツ帝国の復活を計画しており、このビュルテンにも帝国の一員となってほしいと考えております」
「お嬢さん。もしこの国が帝国の一部となった時、この国は戦争と無縁でいられるかね?」
その問いかけにユリカは何も答えなかった。それはある意味では肯定を意味していた。
何故ならこの国を鉄道で繋ぐこと自体、軍部の計画でもあるのだから。
「お嬢さん、そうだったとしてもあんたたちやグラーセンを責めたりはしない。グラーセンにも色々あるんだろうし、国や政治ってのはそういうもんだって、学のない自分でも理解はできる。でも、理解はできても、この国を戦争に巻き込むのを黙って見ていられないんだ。今日も若いのがたくさん鉱山へ働きに出た。そして仕事が終わって、今は家族や仲間と夕食や酒を飲み交わしたりしているんだ。自分はあいつらが戦争の苦しみから守る義務があるんだ」
朝、労働者たちは肩を並べて鉱山へ向かう。そうして一日の仕事が終わると山を下りて、彼らを待つ家族の元へ帰るのだ。それがこの国での平和な日常だ。もし戦争が起きれば、そんな日常がなくなるのかもしれない。
「それでは、あなた様が鉄道に反対する理由とは、戦争に巻き込まれるのを避けるため、ですか?」
「そうだ。この国は独立を維持して、グラーセンにもアンネルにも属さないこと。それがこの国の平和を守ることだと自分は考えている」
はじめて、ラコルトは偽りなき言葉を伝えてくれた。そして、その言葉にクラウスは何も言い返せなかった。
ラコルトの言うとおり、ビュルテンが戦争に巻き込まれないとは保証できない。むしろ戦争が起きる気配は濃くなるかもしれない。グラーセンの帝国統一事業は、それだけ大きな問題なのだ。ラコルトの言い分も理解できた。
しかし、ユリカも聞いているだけではなかった。彼女は目の前のラコルトに挑むように語り掛けた。
「ラコルト様。懸念は最もですが、我がグラーセンはこのビュルテンを同胞と考えています。帝国の一員となっていただければ、グラーセン軍もビュルテンの安全保障を考えるはず。それではいけませんか?」
ラコルトが小さく笑った。まるで嘲るような、冷めた笑いだった。
「お嬢さん。かつてこの国がアンネルに征服された時、クロイツは大きな犠牲を払ってこの国を解放してくれた。その時、解放軍となったクロイツ軍が何をしたか、わかるか?」
それは歴史を学ぶ者ならよく知る話であり、戦争が起きる時に必ず起きる話。ユリカも察したのか、顔が強張っていた。
「この国にやってきたクロイツ軍は、アンネルと通じていた人間を『裏切者』だと言って、多くの人間を処罰したんだ。アンネル兵と商売していた商人や食事を出した酒場。ひどいのは子供まで疑われた時があったそうだ」
占領地で恐れられるのは、常に住民たちの裏切りだ。彼らは時に反乱分子として占領軍を襲う時もある。それまでアンネル領だったビュルテンは、クロイツにとって警戒すべき危険地帯だったのだ。
「この街の料理は食べたか? アンネル風の味付けの料理。あれはこの国がアンネルに占領された時、アンネル軍に睨まれないように覚えた味付けなんだ。それもクロイツ軍がやって来た時はクロイツ風の味付けに変わる。この国は、そんなことの繰り返しなんだよ」
街の食堂で味わった料理。アンネル風の味付けをされたあの料理は、この国の悲しい歴史の証人だったのだ。
「さすがに今の話は大昔。それこそまだ兵士が槍を持っていた時代の話だ。だけどな、そんな歴史をこの国は繰り返してきたんだ。もう起きないなんて、お嬢さんは保証できるか?」
ユリカは押し黙った。何も言い返せなかった。いつもなら軽口の一つくらいは言うはずの彼女が、反論できずにいた。
この国の歴史。その重さを前にして、彼女は言うべき言葉が見つからなかった。
彼女だって知らないはずはない。戦争が何をもたらすのか。戦争によってどんな悲劇が起きてきたのか。彼女が知らないはずはない。だが、その歴史を目の当たりにして、彼女は自分が何をしようとしているのか、初めて思い知らされたのだ。
クロイツ統一。それによって戦争も起きるかもしれない。彼女はそれを覚悟していたはずだし、戦い抜こうと決めていた。だけど、自分が何をもたらそうとしているのかを知って、彼女は初めて迷っていた。
押し黙るユリカを見て、ラコルトが最後に伝えた。
「わかってくれたか?」
沈黙が漂う。皮肉気に笑うラコルトと、押し黙るユリカ。その二人を交互に見つめるクラウス。
ラコルトの言葉は重い。ユリカが祖国を背負うように、彼も祖国を背負っている。立場も意見も違うけど、二人はよく似ていた。だからこそ、ユリカはラコルトの気持ちが痛いほどわかった。
もし逆の立場だったら、きっと同じことを言っていただろう。
ユリカの沈黙が漂う。ただ、その沈黙からは悔しさが滲み出ていた。
何も言い返せない。ユリカは初めて、悔しそうにしていた。あまりにラコルトの言葉が重かったから。
本当に悔しそうな顔。クラウスはユリカのそんな顔を初めて目の当たりにした。いつもは悪戯好きで、悪戯が成功したら子供みたいに勝ち誇る彼女。悔しいけれど、そんな彼女がクラウスには好感が持てた。
だからだろう。クラウスは黙っていることができなかった。
「ラコルトさん。よろしいですか?」
唐突に声を上げるクラウスに二人の視線が集まった。
「これはあくまで仮定の話として聞いてほしいのですが、もし仲間となるのであれば、あなたなら我がグラーセンとアンネルと、どちらを選びますか?」
いきなり何を訊くのだろうかとラコルトが怪訝な顔を見せた。それはユリカも同じで、不思議そうにクラウスを見ていた。クラウスはさらに話を続けた。
「私が聞きたいのは、あなたの本質がどちらの側かということです。経済や政治の話を抜きにして、あなたの中に流れている血は、我々を選ぶのか、それともアンネルを選ぶのか?」
クラウスの真っ直ぐな問いかけ。それを受け止めたラコルトは少し考えて、それから彼に向き直った。
「そうだな。ビュルテンの人間ではあるが、やっぱりクロイツを選ぶだろうな。自分の先祖はクロイツの人間だったし、自分はそんなクロイツの血が流れているんだろう。アンネルはお隣さんだが、クロイツは兄弟だと思っているよ」
静かな、しかしはっきりとした答えだった。政治や経済は関係なく、彼の中にはクロイツ帝国の血が流れている。ラコルトはそう答えた。
すると、クラウスの顔がニィっと笑った。初めて見るクラウスの顔にユリカも驚いた。
「なるほど、ではまだあなたを口説き落とせる余地があると、そう思ってよろしいですか?」
クラウスの不敵な言葉に、ラコルトが「ほう」、と驚きを見せた。
「そちらは大人しいタイプだと思っていたが、意外と大胆なことを言うな。てっきりフェリックスさんみたいな学者肌かと思っていたが」
「そうですね。その評価で間違っていないと思いますよ」
クラウスは話続ける。まるでこの会話を楽しんでいるようですらあった。
「ラコルトさん。確かに仰る通り、お互いの間には否定できない歴史があります。忘れてはならない傷跡です。ですが、あなたが仰るように、ビュルテンはグラーセンにとっては兄弟であり、我々はいつまでも離れていてはいけないと自分は考えます」
兄弟。それは血の繋がりであり、一つの家に集まる存在。クラウスはそれを思う。
「たとえけんかをしても、必ず兄弟は親元に帰ってくるものです。それにはどちらかが手を差し伸べ、仲直りをする必要があります。私としては、グラーセンから手を差し出したいと思っていますが、いかがでしょう?」
ゆったりとした語り口。その落ち着いた態度にラコルトはじっと聞き入っていた。何より、自分たちを兄弟と語ったことに、何か感じ入るものがあった。
「……何かグラーセンから譲歩してくれるのか?」
「さあ? 正直グラーセン政府が何かしてくれるのかはわかりません。ですが、私は政府を説得して、あなたやビュルテンが納得できるような条件を取り付けるために働こうとは思います。少なくとも、仲直りするためには手を差し出さないといけませんから」
茶化すように語るクラウス。何か演技するようなその話し方に、ラコルトが大きく笑った。
「あんた、かなり面白いな。あんたも軍人か? それとも政府の役人か?」
「正確には軍属ですが、軍の人間と思ってもらっていいですよ。実際軍から派遣されていますから」
「あんた、軍にいるよりも政治家か、それかペテン師の方が向いているんじゃないか?」
「それは無理ですね。アンネルに留学した時期もありましたが、その時はあちらの女性を一人も口説き落とせませんでしたから」
「なるほど。それは無理だな」
今度こそラコルトが腹を抱えて笑った。クラウスの話が面白くて仕方ないといった様子だった。
それを見ながら呆気に取られるユリカ。最初は眼光鋭かったラコルトが、今はクラウスとの会話を楽しんでいるのだ。少し怖いくらいだった。
しばらく笑った後、ラコルトがクラウスに向き直った。
「そうだな。確かに兄弟がけんかしたままなのはよくないな。だが、グラーセンが差し出す手には何が握られているかな?」
「どうでしょう。それはこれから話し合うことになるでしょうね。花束で口説き落とせればいいのですが」
「それは難しいな。自分が妻を口説いた時は、綺麗な腕輪を贈ったものだ。それくらいでないと、口説き落とすことはできないな」
クラウスとラコルト。二人はお互いに笑みを向け合った。二人とも、この会話を楽しんでいた。
その時、街の鐘が鳴った。外を見るとだいぶ時間が経っていた。
「……名残惜しいが、今日はもうお開きとしよう。楽しい時間ほど次の楽しみに取っておくべきだ」
「わかりました。次は腕輪を用意しておきますよ」
そう言って席を立つクラウス。それに続いてユリカも立った。
「ラコルト様。それでは、今日はこの辺で」
頭を下げるユリカ。するとラコルトが彼女に言った。
「すまなかったお嬢さん。少し厳しいことを言ってしまったな」
グラーセンやクロイツに対する不信についてのことだろう。ユリカにとって確かに厳しい話だったのは間違いない。だが、ユリカは首を横に振った。
「いえ、貴重なお話、ありがとうございますわ。この国がどれだけ大変で、それをあなたがどれだけ大事にしているか。それを知ることができて、私は嬉しく思います」
その言葉にラコルトがニヤリと笑みを返した。そんな彼に会釈をして、二人は部屋から出ようとした。
「ああ、そうだ」
その時、クラウスが立ち止まって振り返った。
「ラコルトさんはグラーセンに来たことはありますか? こちらのビールを飲んだことは?」
「何回か行ったことがある。ビールも飲んだよ」
「お味はいかがでしたか?」
一体何を訊くのだろうか? 不思議に思いつつもラコルトは答えを返した。
「ああ、とても美味しかったよ。やっぱりクロイツの血が流れているからかな。体も、心の底からビールの味に喜んだよ」
その言葉を聞いてクラウスがにっこりと笑った。
「それでしたら、今度は二人でビールを飲みましょう。ビールを飲めば、あなたを口説き落とせるかもしれませんからね」
そんなことを言うクラウスにユリカもラコルトもキョトンとした。しばらく呆けた後、ラコルトが笑い返した。
「できれば俺だけじゃなく、仲間の分も用意しておいてくれ」
「ずるい」
クラウスの後ろから、そんな言葉がぶつけられた。振り返ってみると、ユリカが膨れ顔をしながら、クラウスを睨んでいた。
「……ずるいって、何のことだ?」
訳がわからないクラウスには、そう言うしかなかった。少し強くなった雨の中、二つの傘が向かい合う。するとユリカは膨れ顔のまま彼に詰め寄った。
「最後の最後でカッコいい所を見せつけて、いいとこ取りして、ずるいわ」
どうやらユリカには、クラウスが最後のおいしいところを横取りしたのだと非難しているようだ。さすがにその言い分にはクラウスも困惑するしかなかった。
「いや、別にそういう意図はないのだが……というかカッコいいわけでもないと思うのだが」
「そこ。そういうことを無意識でやっているから、余計にずるいのよ」
そう言ってそっぽを向くユリカ。どうしていいかわからないクラウスは、ただ困惑するしかなかった。
するとその様子が面白かったのか、ユリカの顔が笑顔に戻った。それから彼女はクラウスに言った。
「ありがとう。助けてくれて」
安心したような、ほっとしているような微笑みだった。彼女にはわかっているのだ。ラコルトに何も言い返せなかった時、彼女を助けるためにクラウスは立ち上がったのだと。だから彼女はお礼を伝えたのだ。
照れ臭いのか、クラウスは視線を外した。
「いや、まあしかし、交渉は上手くいかなかったし、自分もあまり役に立てなかった。すまない」
「そんなことはないわ。あなたとの会話をラコルトさんは楽しんでくれたわ。これで少なくとも交渉の余地が残されたわ」
ユリカの言うとおり、完全に拒絶されたわけではない。まだラコルトは交渉に応じる姿勢を見せてくれた。まだ希望は残されているのだ。
「まずは帰って、このことをフェリックス大尉に話しましょう。あと本国にも一度報告しないと」
クラウスの隣に並ぶ。その時の彼女を見つめながら、クラウスが問いかけた。
「やはり、辛いか?」
その問いにユリカは何も言わない。代わりにクラウスはもう一度問いかけた。
「帝国がやって来たことを知って、辛くはないか?」
それはさっきのラコルトから聞いた話。かつてのクロイツ帝国は、このビュルテンの人々に悲劇をもたらした。戦争がもたらした悪意。同じ帝国の仲間を迫害した帝国軍将兵。
戦争だから仕方がないとも言える。しかし、帝国が行った負の歴史は確かに記録される。それは愛する祖国がやったこと。ユリカが何も思わないはずはない。
ラコルトは言った。また同じことが起きるのではないかと。彼は帝国を完全に信頼してはいない。また起きるかもしれない悲劇。帝国はまた
それを再現するのではないのか?
あの時、ユリカは何も言い返さなかった。彼女は祖国を信じている。しかし同時に歴史の恐ろしさも知っている。また悲劇が起こらないとは、彼女は断言できなかった。
あんなことを言われて、彼女の中に悲しみや迷いが生まれてはいないのか? クラウスはつい心配になった。
するとユリカは静かに語り出した。
「そうね。何も思わなったわけではないわ。辛くなかったと言えば嘘になるし、正直息をするのも苦しかったわ」
愛する祖国の負の歴史。それを目の当たりにした彼女。迷いが出てもおかしくはない。
しかし、彼女はすぐにいつもの笑みを見せた。何も恐れない、不敵な微笑み。
「でも、大丈夫。私は覚悟しているもの。私の欲しいものは、サンタさんのプレゼントみたいにふっと降りては来ないわ」
そう言って微笑むユリカ。その微笑みにクラウスはほっとした。彼女のその顔は、いつものように何も恐れない彼女本来の微笑みだからだ。
「神様が何を要求してくるかわからないわ。だけど、私は必ず帝国を統一すると決めた。だから、それだけは譲れないわ。たとえ悪魔と取引をしてもね」
その言葉にクラウスは呆れ笑いをした。ただ呆れつつも心地よい笑いだった。きっと彼女なら本当に悪魔とも取引をするだろう。
だが、彼女を相手にすれば、きっと悪魔は大損するに違いない。そんな想像ができてしまうものだから、クラウスは内心で大笑いするのだった。
それを知ることもなく、ユリカは前を歩き始める。
「さ、早く帰りましょう」
二人分の傘がシュガルトの街を並んで歩く。二人はフェリックスの待つ屋敷へと向かった。
クラウスたちを前に、フェリックスとシュライヤーが暗い顔を見せていた。
「なるほど。ラコルトさんが本当に恐れているのは、戦争に巻き込まれること、ですか」
ユリカとラコルトの会談の内容を伝えると、フェリックスたちは同じように渋い顔になった。
「私もこのビュルテンの歴史は知っています。実際祖父からはラコルトさんが話したような歴史も教えられたことがあります。そのことを思えば、ラコルトさんの気持ちもわかります」
シュライヤーもビュルテンの歴史を担ってきた古い一族だ。ビュルテンを想うラコルトの気持ちにも共感が持てた。
「はい。ですがまだ交渉の余地はあります。グラーセンより何かしらの条件を提示できればと考えています。フェリックス大尉。本国に連絡は取れますか?」
ユリカの声にフェリックスが顔を上げる。
「はい。本国とは電信で報告しています。ですが何と連絡を?」
「ビュルテンとの鉄道計画のために、ビュルテン側に何かしらの恩恵を考えてほしい、と」
これはユリカたちが考えることではなく、本国政府が考えることだ。本国政府から何かしらの条件を引き出さないといけなかった。
「わかりました。参謀本部にはそのように伝えておきます。ただすぐに返事は来ないでしょう」
「構いません。まずはこちらの状況をお伝えしなくてはなりませんから」
その時、外で稲光が走った。それから少ししてから轟音が響いた。
どこか山で雷が落ちたのだろうか? 朝より雨が激しさを増していた。
「だいぶ降っていますね」
フェリックスがぽつりと呟いた。不安そうなその呟きに、誰もが同じ想いを抱いていた。
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