第二章 それぞれの夢 

 鐘の音が聞こえてきた。ベッドで横になっていたクラウスは、その鐘の音に叩き起こされた。


 昨日はいくらかフェリックスと話した後、二人は用意されていた個室を案内され、そのまま寝ることにしたのだ。


 やはり鉄道と馬車の振動が体に響いていたのか、柔らかいベッドの感触がクラウスの体を癒してくれた。心地よい睡眠だった。


 鐘の音が続いている。しかしその中にもう一つ不思議な音が聞こえるのにクラウスが気付いた。彼は起き上がると、そのまま窓を開けた。


 屋敷は街から少し離れた場所にあり、街を遠目に眺めることができた。その街を見ると、大勢の男たちが歩いていくのが見えた。


 彼らは鉱山労働者のようで、これから鉱山へと働きに行くようだ。そんな彼らを家族が見送る姿もあった。労働者たちは彼らに手を振って、仲間と共に仕事場へと向かっていた。


 きっとこの光景も、昔からあるこの街の姿なのだろう。代々この街を支えてきた男たちの姿。


 クラウスは貴族であり、また学生でもあった。だから彼らのように汗を流す労働者の感覚というのは、遠い世界のことのようにも思えた。だが目の前にある光景を見ると、彼らが幸せであることは理解できた。それくらい、眩しい光景だった。

 


「おはようございます。クラウスさん」


 部屋にはフェリックスと、そのすぐ横にはユリカの姿もあった。相変わらず朝は早いようだ。


「おはよう。いい夢は見れたかしら?」

「さあ? 夢も見れないほど眠りが深かったからな。そっちは何か見れたかな?」

「ええ。アンネルで見せたあなたの活躍が夢に出てきたわ。いい目覚めになったわ」


 そんなことを言われて動揺するクラウス。何のことかわからないフェリックスはただ不思議そうに二人を見ていた。あの時の恥ずかしいセリフのことは言っていないようなので、そのことにクラウスは安心した。


 朝食は簡単なものだった。いくつかのパンと卵料理。それと山で取れた野菜などだった。


「さて、今日はお二人はどうなさるおつもりですか?」


 フェリックスが問いかける。少し考えた後にユリカが顔を上げた。


「今日は二人で街を歩いてみようと思います。まだ知らないことが多いですし、実際に街の人々が鉄道計画をどう考えているか、話を聞ければと思います」


 情報は足で集める。基本にして重要なことであり、アンネルでもやっていたことを繰り返すことになるようだ。


「そういえば、おじ様は不在ということですが、今日は帰ってくるのですか?」

「ええ。夕方までには帰ってくるはずです。お二人が来ていることも知っているはずですので、会いに来ると思いますよ」

「そういえばフェリックスさん。シュライヤー卿は何をしに行っているのですか?」


 クラウスが何気なく訊いてみた。シュライヤー卿の人となりも気になっていたので、どんな人物か聞いてみたかった。


「シュライヤーさんは会議に出ているんです。ビュルテンの有力者が集まって、色々な話をしているみたいです。おそらく、グラーセンとの鉄道計画についても話し合われていると思います」


 エーバーハルト家は領主ではあるが、政治の実権を握っていたのは過去の話。今やビュルテンにも議会を開かれ、領主以外にも多くの人が集まり、政治について議論する体制が作られていた。


 その答えに納得すると同時に、クラウスは有力者という言葉に引っかかった。領主であるシュライヤー卿はわかるが、彼以外の有力者というのは何者なのか? 


「フェリックスさん。その有力者というのは誰なんですか?」

「ああ、市民に選ばれた代表者ですよ。特にこの街は鉱山労働者が多いですから、彼らが選んだ代表者が会議に出ていますよ。他にも商人組合に選ばれた人もいますよ。それぞれ意見を会議で主張し合っているようです」


 何気ない答えだったが、しかし有力者というのは少し気になった。おそらく鉄道計画に難色を示しているのは、彼らのことだろう。ユリカもそのことに気付いたのか、思案顔になっていた。


 彼らについても調べないといけない。そうなると会議に出ているシュライヤー卿との接触がますます重要になってくる。もしかしたら参謀本部もそのことを考えて、彼と面識のあるユリカを派遣したのかもしれない。


「なるほど。大事な会議ならば仕方ありませんわね」


 ユリカが小さく微笑んだ。きっと彼女の中では複雑な思考が渦巻いているに違いない。もしかしたらすでにビュルテンの構図が浮かび上がっているのかもしれない。


「そうだ。何か必要なものはありますか? 街に出るのであれば準備も必要でしょう。何かこちらで用意できるものがあればお渡ししますが?」

「あら、それなら一つ教えてほしいことがありますの」


 フェリックスの申し出にユリカが悪戯っぽく笑った。


「この街で美味しいと評判のお店を教えてくださる? 補給基地は確保しておきたいですから」


 フェリックスは冗談がわかるようで、大いに笑ってくれた。ただ、ユリカのそれは半分冗談ではないことをクラウスは知っており、内心でだけ呆れるのだった。



「結局、こうなるわけか……」


 そんなことを呟くクラウス。そんな彼の前でユリカが目の前にある鶏肉のソテーにナイフを入れていた。切れ目から溢れる肉汁を見て嬉しそうにはにかんでいた。


 屋敷を出た後、二人は街へと歩き出した。ビュルテンの内情を調査するためだ。


 そんな彼らが真っ先に向かったのは、フェリックスに教えられた街でおいしいと評判の店だった。


 王都にあるような貴族が使うレストランではなく、市民が行くような気軽なお店で、その内装も素朴なものだった。逆にその味わいがユリカのお気に入りとなったようだ。彼女は椅子に座るとすぐに料理を頼んだ。それなりの量だったので店員は驚きつつも、喜んで注文を受けていた。


 そうして、今の状況である。運ばれてきたのはシュガルト自慢の鶏肉で、丸々育てた鶏を大きく焼いたソテーだった。アンネル風の味付けはシンプルなもので、それが逆に鶏肉の味を引き立てるので、その味わいがユリカの舌をとろけさせていた。


 実においしそうに食べるユリカを見て、さきほどのクラウスの呟きである。


 彼女を止めることのできなかった自分にも非があることはわかってはいた。しかし自分の手を引いてこの店に入っていく彼女に対して、できることは何もなかったのも事実だ。


「あら? どうしたの? とてもおいしいわよ。それとも鶏肉は苦手かしら?」


 そんなクラウスを不思議そうに見つめるユリカ。自分を心配してくれる様子に苦笑いすら浮かんでいた。アンネルでもそうだったが、基本的に彼女は食べることが好きなようだった。食べている時の彼女はとても嬉しそうに笑っているのだ。


 そして、そんな彼女を見て楽しいと思っている自分がいることにクラウスは気付いていた。心地よい苦笑いが浮かんでいた。


「そうだな。確かにおいしそうだ。私もいただくとするよ」


 そう言って、ソテーを口に運ぶクラウス。確かに料理はおいしくて、クラウスの舌を喜ばせていた。その様子を見て、ユリカも楽しそうに笑うのだった。


「料理はいかがでしたか? よろしければワインをお出ししますが、いかがします?」


 二人の元に店員がやって来た。この店の女将さんだろうか、気前のいい笑みを見せていた。


「そうですね。一杯だけいただきますわ。この街でも評判の店だと聞いていたのですが、やって来て正解でしたわ」

「あら、ありがとうございます。お客さんみたいに美味しそうに食べてくれると、こっちも楽しくなります。お二人は新婚旅行でここに?」


 何気ない疑問をぶつけてくる女将。何度言われても慣れない質問だった。


「いえ、結婚はしていませんわ。彼がとてもシャイなので」

「あらあら。それはそれは」


 それはそれは、とはどういう意味なのだろう。自分をニマニマと見つめる女将の視線にクラウスの背中は変な汗が流れ出していた。

「それなら、この街で思い出を作ってください。お二人はグラーセンから?」

「ええ、そうなんです。旅行が好きで、この街にも来てみたかったんです。それで二人でやってきました」

「そうでしたか。よく来てくれました。大変でしたでしょう? 駅からここまでは馬車でないと来れないですから、腰とか痛かったんじゃないですか?」


 そんなことを言ってくれる女将。おそらくこの街に来た旅行者全てに同じことを言っているのだろう。馬車の座席の堅さは街の人も知るところなのだろう。


「いえ、大丈夫ですわ。ビュルテンの山の美しさに見とれていたので、座席が堅いことは気になりませんでした」

「それならよかった」


 そう言って、女将は二人分のワインを運んできた。


「でも、やっぱり不便じゃありません? 山に囲まれたこの街じゃ、どうしても馬車になってしまうけど、どうしても移動は大変じゃないですか? グラーセンは鉄道が走っているんでしょう? やっぱり鉄道が便利じゃないですかね?」


「そうですね。移動速度もそうですし、輸送量も大きいですから、暮らしも大きく変わりますね。鉄道がなければ、この街に来るのも大変時間がかかったでしょうし」


「やっぱりそうですよねえ。やっぱりビュルテンにも鉄道ができればいいんですけど。グラーセンはビュルテンと鉄道を繋ごうとしているんですよね?」


 女将の何気ない発言にクラウスの心臓が跳ね上がった。公式の話ではないのに、どうして知っているのか? ユリカがここぞとばかりに身を乗り出した。


「ああ。確かにそんな噂もありますわね。どこまで本当かはわかりませんけど。でも、どうしてその話を?」


「ほら、この街に滞在しているグラーセンの人なんだけど、どうやらグラーセンの鉄道会社の人らしくてね。山を測量したりしているから、みんな噂しているんですよ。グラーセンとビュルテンを鉄道で繋げようとしているんじゃないかって」


 フェリックスたちのことを言っているのだろう。鉄道会社の社員を偽っているので、あながち間違いではない。気になるのは、街の人々が噂をしているということだ。


「そんなに気になりますか? 鉄道の話は」

「それはそうですよ。この街には鉄道に乗ったことのない人はまだたくさんいますからね。もしこの街とオデルンが鉄道で繋がれば、とても遠かったオデルンが一日で行ける場所になるんですから」


 鉄道がなかった時代。クロイツ帝国だった頃はビュルテンから馬車に乗って何日もかけてグラーセンに行っていた。鉄道が繋がれば、人々は一日で両国を行き来できるようになるのだ。それを思うと、クラウスは改めて鉄道の偉大さを思い知らされた。


 その時、ユリカが気になっていることを質問した。


「この街の人たちは、グラーセンと鉄道で繋がることをどう思っていますの?」

「そうですね。色々意見はありますけど、私なんかは賛成ですけどね」

「そうなんですか?」


 思わずクラウスが口を開く。いい意見を聞けないと思っていなかったので、少し驚いていた。


「ええ。若い人たちは大体賛成していますよ。グラーセンと商いができれば、それだけ儲かりますからね。男連中なんかはグラーセンのビールが飲みたがっているんですよ。鉄道ができればあっちのビールが運ばれてきますからね。だから鉄道の話が浮かんだ時は、みんな期待を口にしているんですよ」


「そうでしたか。反対している人がいると思っていましたが、意外です」


 クラウスがそう口にすると、女将は困ったように笑みを零した。


「反対している人は確かにいますよ。それぞれ色々な立場がありますから、単純に鉄道を繋げるのに慎重になっていますね。老人なんかは昔ながらの馬車で十分だって言ってますしね」


 なるほどとクラウスは思った。グラーセンでも鉄道を作る時、古い貴族の間でも自分たちの領地に鉄道を走らせることに反対する人が多かったという。いざ領地に線路ができると、彼らは汽車に乗ることを嫌い、中には線路を迂回して遠回りする人もいたという。


「確か今領主様たちが会議で鉄道について協議しているらしいですけど、やっぱり意見が対立しているみたいですよ。それで領主様も苦労しているみたいですよ」


 有力者会議のことを言っているのだろう。フェリックスから聞いた通り、会議は難航しているようだった。


 ただ、クラウスは女将の話を驚いて聞いていた。フェリックスの話では鉄道に対して否定的な意見があると聞いていたが、必ずしも全ての人が反対しているわけではないのだ。その事実は無視できないものだった。


「どうなるかはわかりませんが、できれば鉄道ができることを私は期待していますよ。グラーセンと繋がれば、お客様みたいに旅行で来てくれる人が増えますからね。この街も活気付いてくれればと思いますよ」


「そうですね。鉄道で繋がれば、グラーセン自慢のビールを振舞えますからね」


 ユリカが最後に付け加えた軽口に女将が楽しそうに笑ってくれた。その笑顔を見ながら、クラウスはワインを口に運んでいた。


 

  店を出た二人は街を歩いていく。ユリカは女将からオマケでもらった鶏肉のパイ包みを抱きしめながら、にんまりと笑っていた。その横ではクラウスは思案顔のまま彼女の横を並んで歩いた。


「少し、この街の内情が見えてきたな」


 クラウスの呟きにユリカが相槌を打った。


「そうね。思った以上に複雑なのかしらね?」


 さきほどの女将の話を整理する。おそらく反対派の意見として、鉄道そのものには反対はしていないのだろう。彼らが恐れているのは、もっと別のところにあるような気がする。


 それがなんであるのか。そこが問題なのだが、まだそれがわかるところまでは来ていなかった。


「でも、そんなに鉄道って怖いかしら? 私のおじい様なんかは、鉄道の旅が大好きなのよ?」


 ユリカがおじい様と呼ぶ人物。それはハルトブルク家の当主であり、グラーセン王国の宰相を務める傑物である。クラウスはその当主様が気になった。どんな人物なのだろう?


「閣下はどんな人なんだ? その口ぶりだと、他と少し違うようだが?」

「そうね。宰相をやっているのもそうだけど、領地を鉄道が走った時は、我先にと乗り込んだわ。おもちゃを与えられた子供みたいに。私も一緒に乗せてもらったけど、私よりもおじい様がはしゃいでいたわ」


 なるほど。確かに周りと少し違うようだった。まあそうでなければ、宰相なんてできるものではないのかもしれない。


「だから若い人との会話も大好きなのよ。早くあなたをおじい様に会わせてみたいわ」

「……いや、それはよしてくれ」


 さすがに宰相に会うなんてのは不相応としか思えない。さすがに遠慮してしまう。


 するとそんな彼にユリカはさらに笑みを深くした。


「あら? かのシャルンスト家の跡取り様は、我がハルトブルク家のお誘いをお断りになるの? 我が一族には魅力を感じないのかしら?」

「い、いや。そういうことではないのだが……」


 狼狽えるクラウスを見て、ユリカが楽しそうに笑う。明らかに彼女のいつもの悪戯だった。それがわかっているのにクラウスには逆らうことができず、押し黙るのだった。その様子がまた面白いのだろう。ユリカはコロコロ笑うのだった。


「でも、本当におじい様には一度会ってほしい。それは本当よ。私を助けてくれたのは事実だから、いつかおじい様に会ってほしいわ」


 そう語るユリカ。確かにここまで関わっておきながら、挨拶もしないというのはそれも無礼というものだろう。やはり畏れ多いことではあるが、いつかは宰相閣下に会うことになるだろう。その時には自分もそれなりの人間になりたい。そう思うクラウスだった。


「そうねえ。私の将来の伴侶として会ってもらうのも、ありかもしれないわね」

「それについてはもう何も言わないぞ」


 いつもの冗談に即答するクラウス。いつもの軽口の応酬にユリカは満足そうに笑うのだった。



「ねえ。ここに寄ってみない?」


 ユリカが指差すのは、土産物屋と思われる店だった。雑貨店と呼ぶべきか、店先には色々な商品が並んでいた。


 クラウスの手を引くユリカ。クラウスの答えも聞かないまま、彼女はそのまま店に入っていった。


「あら。素敵だわ」


 ユリカが感嘆の声を上げる。後ろにいたクラウスもほう、と感心したように溜息を漏らした。


 店の中は色とりどりの光で満ちていた。まばゆい輝きの白や、燃えるような赤。さらには癒しをもたらすような薄緑の輝き。世界の全ての色がそこにはあった。


 そこは宝石を使った雑貨を並べていた。宝石と言っても金や金剛石のような貴金属ではなく、天然石と呼ばれる色鮮やかな鉱石を使っていた。


 話によると、この街の鉱山では鉄鉱石を掘り出しているが、掘り出した石からは鉄だけでなく、こうした天然石も一緒に掘り出されることがある。鉄や金みたいに価値あるものではないが、ここではアクセサリーに加工することで、売り物にしているようだった。


「あ、見て見て。これ可愛いと思わない?」


 ユリカが手に取ったのは、小さな天然石を加工した指輪だった。金細工師のような職人が作るような精巧さはそこにはなかった。しかしきれいに磨かれた天然石の輝きと、シンプルに輝く天然石が、素朴だが味わい深い作りになっていた。ユリカの言うとおり、可愛いという言葉が似合っていた。


「そうだな。確かに可愛いな」


 クラウスは素直な感想を口にした。それが嬉しいのか、ユリカはますます楽しそうにはしゃいだ。


 確かに店に並んでいるアクセサリーはどれも素晴らしかった。金よりも価値は低いのは明らかだが、しかし世界に流通している金と違い、ここの品物はここでしか手に入らないのだ。そういう意味では金よりも貴重なものだとも言えた。


「あ、そうだわ」


 ユリカが思い出したように声を上げた。彼女はそのままクラウスに振り向くと、彼に微笑みを向けた。


「ねえ? またプレゼントを買ってくれない? ほら、ジズーのお土産屋さんの時みたいに」

「え?」


 ユリカの提案に思わず戸惑いを見せるクラウス。いきなりのことに理解が追い付かなかった。


「ほら。ジズーで買ったじゃない。二人でお揃いの、私を助けてくれたペンダントみたいに」


 ユリカの話を聞いて、クラウスはアンネルのでの出来事を思い出した。港町ジズーで二人は貝殻を使ったお揃いのペンダントを買った。それが巡り巡って、警察に捕まったユリカを助けるのに重要な役割を果たす道具になってくれたのだ。


「だから、あの時と同じようにお揃いの物を買いましょう。せっかくここまで来たんだから、記念に買いましょうよ」


 ここまで来ると観光気分としか思えなかった。一応任務で来ていることを考えれば、あまり褒められたことではない。しかし、ここで断るというのも無粋な話だし、記念というのも悪くはない。クラウスは呆れながらも彼女の提案に応じた。


「ああ、わかった。どれが買いたいんだ?」


 するとユリカはんー、と少し考えた後、何か思いついたとばかりに笑った。


「ねえ。今度はあなたが選んでくれる?」

「は? 私が?」


 予想していなかった言葉にクラウスが思わず訊き返した。


「そう。ジズーでは私が選んだでしょう? だから今度はあなたに選んでほしいわ」


 お願いとばかりに微笑むユリカ。その微笑みを前に、クラウスには逆らう理由が思い浮かばなかった。


「あ、ああ……わかった」


 とは言いつつも、正直クラウスは戸惑うしかなかった。女性へのプレゼントを選ぶなど、初めてのことだった。


 女性に対して何を贈ればいいのか? 女性が喜びそうなものなど、全くわからなかった。そもそもユリカは何が嬉しいのだろうか?


 ユリカを見る。クラウスが何を持ってくるのか、今か今かと楽しそうに待ち構えていた。


 クラウスは腹をくくった。自分の感性を信じるしかない。彼は並んでいるアクセサリーの中から、その一品を手に取った。


 わくわくしているユリカに近寄ると、彼はその手に握られているものを差し出した。


「これでいいだろうか……?」


 クラウスが差し出したのは、天然石を輪っか状に繋げたプレスレットだった。色々な天然石を繋げているので、まるで万華鏡みたいに輝いていた。彼はそれをユリカに、もう一つを自分の手に握っていた。


「すまない……私には、よくわからない。気に入ってもらえただろうか?」


 不安そうに呟くクラウス。するとそんな彼にユリカが優しい声で答えた。


「うん……嬉しいわ」


 顔を上げるクラウス。そこには嬉しそうに笑いながら、ブレスレットを握りしめるユリカがいた。その顔が本当に喜んでいるとわかると、彼は心底からホッとした。


「ふふ、ありがとう。あなた」

「ああ。喜んでもらえたならよかった」

「ふふふ。でもこれでそんなに緊張してしまうのなら、いつか結婚指輪をもらう時が大変なことになりそうね」


 最後にそんな軽口を呟くユリカ。クラウスは何も言い返さなかったが、まあ悪くない気分だったことは確かだった。



 それから街を散策した彼らは、夕方頃に屋敷へと戻った。すると屋敷の前でフェリックスが二人の帰りを待っていた。


「あ。ユリカ様。お待ちしていました」

「あら? フェリックス大尉? 待っていただかなくてもよろしかったのに」


 出迎えをしてくれるなど、さすがに悪い気がする二人。ただフェリックスが彼らを待っていたのは、出迎えのためではなかった。


「いや、実はお二人を訪ねてシュライヤーさんが来ているんですよ」

「おじ様が?」


 ユリカが驚いていると、屋敷の方から紳士が一人、こちらを見て会釈していた。



 クラウスたちはシュライヤーから食事に誘われ、今は馬車の中でシュライヤーと向かい合っていた。


「挨拶が遅れて申し訳ありません。今日は我が家で食事を楽しんでください」


 そんなことを言って、シュライヤーは大きく笑った。壮年ながらもその体格は見事なもので、グラーセンで見た屈強な軍人にも引けを取らない肉体だった。その体をゆすりながら笑っていた。


「こちらこそ、お忙しい所をお邪魔して申し訳ありませんわ。手土産でも持ってくるべきでしたわね」

「なんの。ユリカ様の変わらぬ、いや一層美しくなった御姿を見せていただければ充分ですよ。フェリックスさんもご一緒できればよかったのですが」


 フェリックスも招待はされたのだが、まだ仕事が残っていることもあり、辞退していた。ユリカも残念そうにしている。


 その時、シュライヤーの視線がクラウスにも向けられた。


「はじめまして。あなたがシャルンスト家のクラウス様ですね?」 


「あ、はい。そうです。こちらも申し遅れて申し訳ありません」


「いえいえ。なかなかご立派な。当主様は今もお元気ですか?」


「ええ。幸運にも病気やケガには悩んでいません。父にも会ったことが?」


「はい。シャルンスト家とは浅からぬ縁がありまして、お世話になったことがありますよ。いつかまたお会いしたいものです」


 懐かしそうに目を細めるシュライヤー。人の縁とはどこで繋がるかわかったものではない。きっとこの出会いも、何かの幸運だとクラウスは感謝した。


「今度父にも伝えておきます。家で退屈そうにしていましたから、きっと喜ぶと思いますよ」


 その言葉にシュライヤーも嬉しそうに笑ってくれた。


 エーバーハルト家の屋敷は街から少し離れた場所にあった。街を一望できる場所で、フェリックスたちが借りている屋敷とは二回りほど大きなものだった。


 三人は屋敷に入ると、そのまま屋敷の中心にある客間へと向かった。客間ではすでに準備していたのか、丸いテーブルの上に食器が並んでいた。その後ろではメイドたちが三人に向かって会釈してくれた。


 三人がテーブルに座ると、彼らの前にワインが注がれた。三人はワインを手に取り、乾杯をした。


「改めて、ようこそビュルテンへ。歓迎します。」

「ありがとうございます」


 ワインを一口飲む。それから一日の疲れを吐き出すようにホッと溜息をついた。


「そういえば、今日は街の散策をされていたそうですが、いかがでしたか?」


「とても楽しかったですわ。この街だけでなく、ここに来るまでにきれいな山が並んでいるのは圧巻でしたわ。昔もよく来たことがありますけど、山はずっと変わらないままでしたわ」


「それはそれは。良い旅になったようで、私も嬉しいですよ」


 まだ酒が入ったばかりなのに話が弾んでいる。シュライヤーとユリカは親子ほど年が離れているのだが、そんなことを感じさせず、楽しそうに会話をしていた。


「しかし、驚きました。まさかユリカ様とクラウス様。お二人が恋仲になっていたとは」


 思わずクラウスが吹き出す。シュライヤーの顔が冗談を言っているようではないので、本気でそう信じているようだった。


「シュライヤーさん。それは誤解です。自分と彼女はそんな関係ではありません」

「え? そうなのですか? それにしてはお似合いだと思っていたのですが」


 首を傾げるシュライヤー。するとユリカがここぞとばかりに泣きまねをして見せた。


「そうなのです。私には魅力がなく、彼を振り向かせることができないのです。私の声は彼に届かず、この想いは彼の心に響いてくれない。ハルトブルク家の人間として、おじい様に申し訳ない気持ちでいっぱいですわ」


 わざと『ハルトブルク家』という部分を強調するような言い方をするユリカ。見方を変えれば、ハルトブルク家に魅力がないと言っているようなものだ。


「やめてくれ。その言い方だと誤解を招く」

「あら? でも私とは恋仲ではないのでしょう?」

「いや、そうなのだが……」


 口ごもるクラウス。その様子をニヤニヤ眺めるユリカ。これがユリカの悪戯であるとわかってはいるのに、その悪戯にクラウスは逆らえないのだ。彼女もわかってやっているのだから、余計に性質が悪いとクラウスは内心で思っていた。


「ふむ……色々と事情があるようですな。ですが、そんな冗談が言い合えるような仲なら、悪くはないのでしょう」


 そんなよくわからない納得の仕方をするシュライヤー。その時、メイドたちが食事を運んできてくれた。テーブルには白いお皿に盛りつけられた、美術品のような料理が並んだ。昼に食堂で食べた料理と違い、上流階級で出されるような料理だった。


「さあ、いただきましょう。どんなお話をするにも、食事をしながらの方が楽しいものです」


 その時、シュライヤーが手を挙げる。それを合図にメイドたちが退室し始めた。彼女らを見送ってから、シュライヤーが口を開いた。


「そう。恋のお話でも、政治の話でも、です」


 その時、空気がピリッと焼き付くのを感じた。先ほどまで笑みを零していたシュライヤーも、今は鋭い空気を出していた。


「お二人が話したいのは、ビュルテンの鉄道計画について。そうなのでしょう?」

「そのとおりです。話が早くて、助かりますわ」


 ユリカも笑ってはいるが、その瞳の奥には鋭さがあった。彼女は貴族のお嬢様から、軍人のそれに思考を切り替えていた。


「ユリカ様たちやフェリックスさんたちの立場はある程度知っています。表向きはグラーセンの鉄道会社から派遣された調査員ですが、本当はグラーセン軍から派遣されたのでしょう。確か参謀本部、でしたか?」


「その通りです。フェリックス大尉からこのビュルテンでは、グラーセンと鉄道を繋げる計画に反対意見があると聞いて、その内情を探るために私たちが派遣されたのです」


 ユリカの説明に頷くシュライヤー。フェリックスからある程度話を聞いていたのだろう。特に驚いた様子を見せることはなかった。


「おじ様は昨日まで有力者を集めた会議に参加していたのですね? 恐らく議題は鉄道計画についてだと思いますが?」

「ええ。全くその通りです。私をはじめ、市民たちに選ばれた代表者たちが集まり、グラーセンと鉄道で結ぶべきかどうかを話し合いました」


 会議はどうなったのか? 視線で問いかける二人にシュライヤーは苦笑いを浮かべた。


「はっきり言いまして、反対派が根強いです。グラーセンとの鉄道を繋げることに難色を示しています」


 あまりいい話し合いはできなかったようだ。シュライヤーは小さくため息を吐いた。


「そもそもビュルテンというのは、市民から選ばれた代表者たちが集まる『全民議会』が国の政治を決める仕組みになっています。代表者たちは自分たちを選んでくれた市民の言葉を代弁し、政治に反映させるのです。私は議会に参加する一議員という立場なのです。私一人よりも他の代表者たち、彼らが政治を左右すると言っても過言ではないのです」


「つまり、その代表者たちが反対していると、そういうことですか?」


 シュライヤーは無言で頷く。


「私や他の貴族の人たちは、グラーセンと結ばれることはむしろ歓迎しています。これは公式の見解ではないようですが、グラーセンはクロイツ帝国の復活を目指している。そうなのでしょう?」


 その問いかけにクラウスは無言を貫き、ユリカは微笑みを返すだけ。それで十分だった。


「貴族の仲間内ではビュルテンも帝国に統合されると考えており、そしてそれを歓迎しています。もちろん私自身も。しかし他の代表者は意見を異にしているのです」


「シュライヤーさん。その反対しているのは、どういった人たちなんですか?」


「一番反対しているのはラコルトという人で、ラコルトさんは鉱山労働者の団体から選ばれた代表者なんです」


「どうしてラコルト氏は鉄道に反対しているのですか?」


「鉄道に反対というより、グラーセンと繋がることを恐れているということです」


 シュライヤーの答えに首を傾げるクラウス。鉄道にではなく、グラーセンと結ばれることを恐れている。何故恐れる必要があるのか? クラウスと同じ疑問を持っているのか、ユリカも理解できないという風に怪訝な顔をしていた。


「シュライヤーさん。どういうことです? 何故グラーセンと繋がることを彼は反対しているのですか?」


「主張はこうです。もしグラーセンと繋がれば、確かに流通が活発になり、経済は潤うことになるだろう。しかし、もしグラーセンの強力な経済力がビュルテンに流入すれば、ビュルテンにある企業や労働者は経済的に打撃を被るのではないか? そう言っているのです」


 その主張はある意味では正鵠を射ていた。確かに両国の経済力には多少の差があった。すでに工業化を果たしつつあるグラーセンと、まだ鉄道が走っていないビュルテンでは差が生じるのは当然のことだった。グラーセンにある企業もそれなりに強力になっている。もしそれら企業がビュルテンの市場に参入すれば、ビュルテンの企業は打撃を受けるだろうし、それは労働者たちの失業を生む可能性もあった。ラコルトが主張しているのは、そういうことなのだ。


 しかし、とも思う。あまりに極端な反応だともクラウスは思った。


「シュライヤーさん。さすがにそれは考えすぎではないのでしょうか? その懸念は理解はできますが、グラーセンは経済戦争を仕掛けているわけではありません。経済的摩擦は確かに起きるかもしれませんが、それ以上にグラーセンと繋がることは経済的利益も大きい。それを理解できないとは思えませんが」


「ええ、もちろんそんな意見があります。ですが、ラコルトさんたち鉱山労働者が反対しているのが大きいのです。ビュルテンでは鉱業は基幹産業であり、その組合は影響力も大きいのです。彼らの意見には他のグループも意見を同じくしないといけない。そう言う事情もあるです」


「他のグループ、ですか?」


「はい。例えば鉄がないと仕事ができない職人や、鉄を必要とする製鉄業。さらに彼らが生んだ商品を扱う商人組合。彼らはラコルトさんが代表する鉱山労働組合に逆らえない立場であり、彼らと意見を同じくしないと、仕事をもらえなくなるのでは? そんな懸念が彼らを一つにしているのです」


 なるほど、とクラウスは思った。ビュルテンの基幹産業である鉱業。ビュルテンの経済は鉱業を中心に回っている。鉱山から取り出した鉄を商人が売りさばく。その過程では多くの人々が複雑に絡み合い、利益を得ている。もし目を付けられれば、仕事ができなくなる。それで彼らはラコルトと意見を同じにしているのだ。これが今、議会で起きていることだったのだ。


 その時、ユリカが手を挙げた。


「シュライヤーさん。彼らが反対する理由は経済的な理由ということですが、では彼らの本音はどうなのですか? 彼らは同じクロイツ帝国の一員となることを、望んでいないのですか?」


 ユリカの鋭い質問にも、シュライヤーは苦笑いを浮かべた。


「正直な話、彼ら市民には帝国統一という考えはそれほど理想的には映らないみたいです。私たち貴族は帝国の復活を願っています。ですが市民は違います。彼らはクロイツ帝国の一員だったことよりも、ビュルテンの人間であることに意識が傾いているんです。だからラコルトさんなどは、ビュルテンの独立性を守るべきだと叫んでいるのです」


 クラウスはアンネルでのことを思い出した。留学生仲間だったタウルスから、自分はグラーセン国民としての意識が低いと彼は語っていた。彼はその理由を市民出身であることを説明していた。


 確かに貴族や上流階級と違って、市民階級には国民意識に差があった。さらに言えば、市民の間にクロイツ帝国の一員だったという意識はほとんどないのかもしれない。


 そう言う意味では、ビュルテン全民議会での貴族と市民との対立構造も理解できないではなかった。


「ラコルトさんたちはビュルテンを昔から支えてきた人ですから、その影響力は特に大きいのです。彼らを相手にするのは苦労しますよ」


 乾いた笑い声が響いた。きっと会議でも激しくぶつかったに違いない。


 その時、ユリカが手を挙げた。ニヤリとしたその顔は、何かを企んでいる顔だった。


「シュライヤーさん。つまりはラコルト様を説得できれば、鉄道計画を認めてもらえるかもしれない。そういうことでしょうか?」


 その一言にシュライヤーもクラウスもキョトンとした。そんな二人にユリカは続けて伝えた。


「よろしければ、その人に会わせていただくことはできないでしょうか?」


 え? とはシュライヤーの声。意外な提案にクラウスも声を上げずに驚いた。


「それはつまり、ユリカ様がラコルトさんを説得するということですか?」

「できるかどうかはわかりません。でも、お話だけでもする必要があると思います。彼らが懸念とするところを解消できるのであれば、話も進展するのではないですか?」


 戦争も政治もやることはいつも同じだ。一番堅いところから攻略することが手っ取り早いということ。議会で一番影響の大きい鉱山労働者たちと、彼らの代表者であるラコルト。彼らさえ説得できれば、ビュルテン全体が動くことになる。わかりやすい話である。


 ユリカの提案にシュライヤーは考え込んだ。どうしていいか迷っているようだ。対してクラウスは懸念を感じていた。彼らは参謀本部からはあくまで調査を命じられているのであって、交渉までは範疇外だ。交渉したとしても自分たちに決定権はないのだ。


 しかし彼らの懸念をわかってはいるのだろうが、それでもユリカも笑みは崩れなかった。彼らと話がしたいと、無言で語っていた。


 こうなっては彼女が止まることはない。クラウスはそのことを知っていた。それはシュライヤーも同じようで、彼女を見ておかしそうに笑った。


「わかりました。応じてくれるかわかりませんが、話を通してみます」


 そう言って、ワインを軽く飲むシュライヤー。


「ふふ、ありがとうございます。ラコルトさんは、私のような小娘でも口説き落とせるかしら?」

「どうでしょう? あの人は既婚者で、奥様を大事になさっておいでですから」


 つまり、説得は難しいとのことだ。どうなることか、クラウスは不安に思った。




 翌朝。クラウスはいつも以上にうろんな頭で目を覚ました。まだ酒の香りを感じる中の目覚めとなった。昨日はシュライヤーたちとワインを競い合うようにワインを飲み続け、そのまま酔った頭でフェリックスの待つ屋敷に戻ったのだ。酔った顔のままではユリカに笑われることは目に見えていたので、クラウスは念入りに顔を洗い、身支度を整えた。


 そうして部屋を出ると、同じように隣の部屋からユリカが出てきた。


「あら。おはよう。いい夢は見られたかしら?」


 そんな風に気軽に挨拶を寄越すユリカ。昨日は同じくらいワインを飲んでいたのに、そんなことを感じさせない様子だった。


「おはよう。夢は見られなかったが、気持ちよく寝られたよ」

「よかった。目にクマができていたら、せっかくの顔も台無しになるわ」


 そんな軽口を交わしてから、二人はフェリックスの元へ向かった。


 フェリックスのいる部屋に入ると、彼は渋い顔で地図を眺めていた。


「あ、おはようございます。昨日はだいぶ楽しまれたようですね」

「ええ。おじ様はお話が楽しいから、ワインがとてもおいしかったですわ」

「楽しい会話は、お酒の最良の友ですからね」


 お互い気が合うのか、心地よい挨拶を交わす二人。


「大尉。何か渋い顔をしておいでですが、何かありましたか?」


 クラウスが何気なく問いかけると、フェリックスは困ったように笑った。


「はは、見られてしまいましたか。実は部下からの報告を読んでいるのですが、鉄道の計画が少し厳しい状況になっているんです」

「それは、ビュルテンの住民の反対が激しいということですか?」


 その問いかけにフェリックスは首を横に振った。

「それもあるのですが、どちらかというと技術的な問題の方が大きいのです。ちょうどいいので、お話ししましょう」


 フェリックスはそう言って、机の上に地図を広げた。クラウスたちも地図が見える位置まで近寄った。地図の上には直線や曲線。それに見慣れていない記号などがいくつも書き込まれていた。


「私たちは測量課と鉄道課、それぞれビュルテンに鉄道を敷設するために実地調査をしているのですが、調査をする上で敷設可能な場所を選定しています。それで今考えられるのが、このルートなのです。わかりますか?」


 地図の上をフェリックスの指が走る。彼の指がビュルテンの山を大きく迂回するように曲線を描いていく。


「一応敷設可能な場所をこうして線にしていますが、これだと大きく山を迂回するルートになります。今調査して工事可能なのは、このルートなのです」


 計画ではクラウスたちが降りた国境沿いの駅から、ここシュガルトまで鉄道で繋げる計画となっている。そのシュガルトから国境まで走らせるには、山をいくつか迂回しないといけない。それだけに長大な距離となっているのがわかった。


 そのルートを指しながら、フェリックスがため息交じりに話した。


「このルートでは大量の費用や資材が必要になってしまいます。どれほどの予算になるか想像できませんが、簡単な話では終わりそうにありません」


 山を迂回する。それだけで費用も資材も必要量が多くなるのは当然だった。今フェリックスが示したルートは、確かに長大な距離となっていた。


「部下の一人は、工事を終える前にグラーセンの鉄がなくなるんじゃないかって、皮肉交じりに言ってますよ」


 笑えない冗談だった。ビュルテンから鉄を運び出すために鉄道を繋げたいのに、鉄道を繋げるためにグラーセンの鉄を使い果たすかもしれない。とんちみたいな話だった。


「大尉。自分は門外漢なので詳しいことはわかりませんが、トンネルを掘るのは無理なのですか? トンネルを使えばいくらか距離も節約できると思いますが?」


「もちろんそれも考えました。ですがこの土地の地質を調べると、トンネルを掘るのは難しい地質なのです。それに新たにトンネルを掘るというのも難事業になるので、簡単にはいきません」


 フェリックスの言うとおり、ビュルテンを囲む山というのは一つや二つではない。トンネルを掘るのも簡単な話ではないのだ。


「どうにかできないかと部下も色々と調査をしてくれていますが、あまりいい話にはなっていませんね」


 ため息を吐くフェリックス。鉄道屋にとって悩ましい事態のようだった。実際グラーセンを走る鉄道も、今でこそ西へ東へ伸びているが、それだって何年もかけて作り続けてきた結果なのだ。何もない所に新たに鉄道を敷設する。それだけでも難工事が予想された。


「さすがにこのままでは本国の承認も厳しいかもしれません」


 政府の仕事は限られた予算を効率よく分配することにある。いくら政府や軍の重要な政策と言っても、簡単に認められることではなかった。


 フェリックスの顔が暗くなる。その心情が理解できるのか、クラウスも無意識に暗い顔をしていた。


 すると、それまでフェリックスの説明を受けていたユリカが何かを考えこんでいた。地図を眺めていると、彼女は唐突にクラウスに顔を向けた。


「ねえ? 今日はこの山に行ってみない?」


 いきなりのことにクラウスもフェリックスも驚きを隠せなかった。


「おい。いきなり何を言い出すんだ?」

「実際にどんな場所なのか、この目で見たいと思うの。自分たちが鉄道を走らせようとしているところがどんな場所か、知っておく必要がある。そうは思わない?」


 言わんとするところはわかるが、しかしクラウスもユリカも鉄道は専門外だ。自分たちが見たところで、何もできることはない。


「ユリカ。私たちは測量器具も扱えないし、線路を敷設することもできないぞ。見に行ったところで意味がないだろう」

「ええ。そうかも知れないわ。でも、私たちがこれから何をしようとしているのか。この土地に鉄道が走るとはどういうことか。それを知らないで計画だけ立てるなんて、それこそ意味がないわ」


 それからユリカは窓の外に視線を向けた。その先にはビュルテンを見下ろす大きな山が立っていた。


「それにね。あんな素敵な山。ハルトブルクの領地にもないわ。一回くらい歩いてみたいと、そうは思わないかしら?」


 まるでハイキングに行きたいと言わんばかりだった。いや、実際にはそれが目的の大半なのだろう。今の彼女の顔を見れば、今すぐに行きたいと叫んでいるように見えた。


 さすがに呆れるクラウスだが、そんな彼女の言葉にフェリックスはむしろ面白そうに頷いていた。


「なるほど。確かに見てもらうのもいいかもしれませんね」

「大尉。いいのですか?」


 自分たちは遊びに来ているのではない。そう言いたかったクラウスだが、フェリックスはむしろ歓迎している様子だった。

「いや、どうせなら私たちが見てきたものをあなたたちにも見てもらうのも良いと思います。それに、ユリカ様の言うとおり、山を前にしてじっとしているのも、お勧めはできませんしね」

「大尉が話がわかる人で嬉しいですわ」


 もう行くことは決定事項のようだった。こうなるとユリカが止まらないことがわかっているので、クラウスはもう何も言わなかった。


「ただ行く前に、お二人には言っておきたいことがあります」


 なんだろう? 何か重要な通達があるのだろうか? クラウスが身構えていると、フェリックスは二人の様子を見て言った。


「その洋服では山を登るのに適していません。作業用の軽装がありますので、そちらをお貸しします」


 

 そうしてユリカとクラウスはビュルテンの山に向かっていた。いつもの姿と違い、二人は登山のための装いになっていた。軍服にも似た衣服は、クラウスの体を守るように身を包んでくれていた。


 それはユリカも同じで、特に彼女は体が小さいから、登山用の衣服が逆に可愛く見えた。武骨な登山用の靴も逆にお洒落に見えるので、やはり着る人によって衣服も見違えるのだとクラウスは内心で感心していた。今は彼女も長い金髪を後頭部でまとめていた。それがまた彼女をいつもと違う印象を持たせていた。


 彼らはフェリックスに勧められたルートを歩いていた。そこなら比較的歩くのも容易で、それに敷設する予定のルートも見られるので、そこを歩くのがいいと言われていた。


 ユリカにとってはハイキングも同様で、屋敷にいる女中にお願いして、バスケットに料理を包んでもらっていた。今、そのバスケットはクラウスが運んでいた。


 これでは本当にハイキングだと、クラウスは呆れていた。


 そんな彼の前をユリカが軽々と歩いていた。女性ではきつそうな山道も、彼女はひょいひょいっと跳ねるように歩いていく。


 対してクラウスは荷物を抱えているというのもあるが、やはり山道は不慣れというのもあり、額に汗が流れていた。ユリカの後に続くのも一苦労という様子だった。


「あら? 初めて見る花だわ。グラーセンにも咲いているのかしら?」


 ユリカが足元に咲いている花を見た。グラーセンでは見たことのない白い花で、ユリカが珍しそうに見ていた。


「いや。たぶんここだけに咲く花だと思う。ここは山に囲まれているから、気候や気圧によって咲く花もグラーセンとは違ってくるんだろう。私も詳しくはないが、少なくとも初めて見る花だ」


 クラウスも花を見た。ユリカの言うとおり、確かに珍しい花だ。大学で少し学んではいるが、こうして目にするというのは、新鮮な体験だった。


「そうなのね……」


 それだけ呟いて、ユリカはしばらく花を見つめていた。美しさに目を奪われたのか、それともその珍しさに感心していたのか、じっくりと観察していた。


 その時、空から甲高い鳴き声が聞こえてきた。見上げてみると、一匹の鳥が翼を広げて、ゆっくりと飛んでいた。


 ユリカもその鳥を見ていた。


「ねえ。あの鳥もここにしかいない鳥なのかしら?」

「どうだろう? さすがに遠くてわからない。だけど、もしかしたらグラーセンから飛んできたかもしれないな。世の中には海の向こうを目指す渡り鳥もいるらしいからな」


 鳥たちには人間が築いた国境線は関係ない。彼らは彼らが望む場所へ飛んでいき、そこからまた次の目的地へ飛んでいくのだ。人間と違い、彼らは自由なのだ。


 その鳥をじっと見つめながら、彼女は押し黙っていた。何かを考えている様子で、鳥を見続けていた。  


「…………」


 その時、彼女は何かを呟いていた。何と言っていたのかはわからない。だけど、大事なことのような気はした。だが、クラウスはそれが何であるのかは訊くことはしなかった。


 するとユリカはクラウスに振り返って、満面の笑みで言った。


「ほら。私たちも負けてられないわ。早く行きましょう」


 言うや否や、彼女は答えも待たずに歩き出した。


「お、おい待ってくれ。少しペースを落としてくれ」

「あら? もう疲れたの? 本ばかり相手にしていたから、運動不足なんじゃないの?」


 実際そうかもしれない。大学では部屋にこもって本を読んでばかりいたのだ。筋肉が衰えていても不思議ではなかった。


「そういう君は疲れていないのか?」

「大丈夫よ。これでも軍の訓練も受けてきた身よ。それなりに体力には自信があるわ」


 そういえば、よくよく考えれば彼女もれっきとした軍人なのだ。戦闘職ではないにしても、最低限の訓練は受けているはずだ。そう考えれば彼女の元気そうな姿も納得できた。


「あなたも訓練を受けてみる? 少しは汗を流さないと」

「……そうだな。前向きに検討してみるよ」


 男として、みっともない姿は見せたくなかった。とりあえず今は彼女に遅れないように足を動かした。そのクラウスを見て、ユリカは微笑んでくれた。


 それから二人は山を見て回った。そこはフェリックスが説明していた線路を敷設する予定の場所だった。その光景にクラウスはなるほどと思った。


 遠くから見れば雄大で美しい山も、こうして足を踏み入れて見れば、そこは人の足が入り込めない危険な場所だった。道など全くない。手つかずの自然があるだけだ。それだけにこの場所に人の手を加えるというのは、それだけで難工事が想像された。


 逆に言えば、可能な場所でさえもこのような状況なのだ。他の場所など工事できる余地は全くないのだろう。


 クラウスはその光景に圧倒された。横で見ていたユリカは双眼鏡で周りを見ていた。蔵臼と同じ感想を抱いているようだ。


「大尉の言うとおりね。ここを汽車が走る光景は想像できないわ」

「同感だ。大尉が苦労しているのがよくわかる」


 むしろこんな場所まで来て彼らは測量をして、計画を考えているのだ。それだけでも大したものだと称賛されるべきだろう。


「とはいえ、今のままではグラーセンの鉄が全部なくなってしまうわ。あまり考えたくないわね」


 正直な話、国家予算の一割も必要とするかもしれない。それくらいの難工事が予想される光景だった。


 この山に鉄道を走らせる。たったこの一行がどれほどのことなのか。彼らは思い知った。


 しばらく歩いていくと、山の中腹に到着した。少し開けた場所があり、二人はそこで昼食にすることにした。


 クラウスが手に持っていたバスケットを開けると、二人分のサンドイッチと紅茶を入れた水筒。それに二人分の食器が入っていた。


「いただきます」


 さっそくユリカがサンドイッチを口に運ぶ。小さな口で思いっきり噛みついた。どんな味だったかは、その顔を見れば一目瞭然だった。


「あら。おいしいわね。これだったらお屋敷で出してもいいくらいだわ。あなたも早く食べたら?」

「ああ。いただこう」


 クラウスもサンドイッチを頬張った。なるほど、ユリカの言うとおり、実に素晴らしい味だった。


 顔を上げると、目の前にはビュルテンの雄大な山々が連なっていた。それが目の前一杯にそびえているのだから、絶景と言わざるを得なかった。


 もしかしたら、その絶景も料理をおいしくさせる秘密のソースになっているのかもしれない。こんな素晴らしい光景を肴にできるのなら、これほど贅沢な食事は中々ないだろう。


 その時、もう一度空を見上げると、さっきの鳥がまた空を飛んでいるのが見えた。どこまでも高く、高く。まるで自分がどこまで飛べるのか、挑戦しているように見えた。


「羨ましい……」


 そんな鳥を見上げて、ユリカが呟いた。今度ははっきりと聞こえたその呟きに、クラウスは首を傾げた。


「羨ましいって、あの鳥がか?」


 一体何が羨ましいのだろう? 彼女も空が飛びたいとでも思っているのだろうか?


「何が羨ましいんだ?」

「だって、あの鳥は自由にグラーセンとビュルテンを行き来しているのよ。羨ましいとは思わない?」


 ユリカは空に手を伸ばす。あの鳥を捕まえたい。そんな顔をしていた。

「私たちはビュルテンまで来るのに汽車を乗り継いで、国境では審査を受けて、それから馬車に揺らされながら、そうしてやっとこの街に着いたのよ。私たちはこんなに苦労しているのに、あの鳥は審査を受けていないし、馬車の堅い座席を知らないわ。それでも国境も関係なく、自由に行き来している。私には羨ましいわ」

「…………そうか」


 実に彼女らしい言葉だと思った。


 かつては一つの帝国であり、それぞれ国境線はなく、自由に行き来できていた時代。それがいくつかの戦争と時代を経て、新たに国境線ができてしまった。昔のように気軽に遊びに行ける隣人ではなくなり、違う国の国民になってしまったのだ。


 彼女の夢は、再び帝国を統一することだ。そうすれば国境線はなくなり、昔みたいに自由に行き来できるようになる。彼女はそう願っている。だから彼女にとって、国境など関係なく、自由に空を飛ぶ鳥たちが羨ましく思えるのだ。


 彼女には翼はない。国境を軽く超えることはできないのだ。


「そういえば昔は当主……宰相閣下と一緒に旅行していたんだよな? どんなところに行ったんだ?」


 何気なく問いかける。するとユリカは懐かしそうに目を細めた。


「おじい様には色んな場所に連れて行ってもらえたわ。最初に乗ったのは初めて領地にできた鉄道よ。私もおじい様もはしゃいでいて、外を流れる景色を一緒に見ていたわ。それからグラーセンを西へ東へ。行きたいところへはどこへでも行ったわ」


 楽しそうに語るユリカ。きっと少女だった彼女にとっては、大事な思い出なのだろう。それを聞くクラウスも自然と笑っていた。


「だけどね、おじい様はひとつだけ不満を漏らしていたわ」


 彼女はそう言って、北に視線を向けた。その先にはグラーセンがあった。


「国境を越えるのが実に嫌だって、よく言っていたわ」

「それはまた、ずいぶんと子供じみた不満だな」


 思わずそう語るクラウス。ユリカはクスリと笑った後、また話始めた。


「おじい様はね。かつては一つの国だったのに、今は国境線が引かれて、違う国にされてしまっている。それが嫌でたまらないって言っていたわ」


 その言葉にクラウスは押し黙った。


 かつてこのビュルテンも、それにグラーセンも同じクロイツ帝国だった。それが数十年前の皇帝戦争でバラバラに解体され、それぞれ違う国になってしまった。このビュルテンに来るのだって、彼らは審査を受けないと入れないのだ。


「このビュルテンにも何回か来たことがあるわ。ここは昔は同じ国で、帝国の仲間だって聞かされていたわ。だけど、その頃から入国審査を受けないと入れなかった。私もおじい様も不満だったのを覚えているわ」


 ユリカはそう言って、最後にぽつりと呟いた。


「友人に会いに行くのにいちいち審査が必要だなんて、おかしいとは思わない?」


 そんな苦笑いを浮かべていた。


 彼女にとってこのビュルテンも同じ帝国であり、同じ仲間なのだ。それなのに未だに両国の間に国境があり、行き来するのに手続きが必要なのだ。


 彼女にとってそれは、悲しいことなのだ。


 いつか帝国が復活した時、このビュルテンも国境がなくなり、一つの帝国となる。そうなれば彼らはあの鳥みたいに、自由に行き来できるようになる。彼女が呟いた『羨ましい』という一言は、そうした想いの結晶なのだ。


「国境がなくなったら、おじい様も一緒に来てくれるかしら?」


 いつか夢見る未来を夢想するユリカ。


「……そうだな。国境もなくなって鉄道ができれば、行き来も楽になるだろうな」


 クラウスがポツリと呟いた。別に意味のある呟きではない。だがその呟きを聞いたユリカは小さく頷いた。


「そうね。鉄道があれば、ね」


 彼女は何を思っただろうか。返した言葉には、決意めいた何かが感じられた。


 食事を終えてユリカが立ち上がる。


「さ、そろそろ行きましょう」


 ごはんを食べてより元気になったようで、今すぐに飛び出そうとしていた。そんな様子をクラウスは笑った。


「ああ、そうだな。あの鳥には負けられないからな」


 その言葉にユリカも笑った。いつかはあの鳥のように、このビュルテンにも自由に行き来できるようになるのだと。そんな未来はまだまだ先のことだろうけど、この手に掴める夢なのだ。


 二人は夢を叶えるために、またビュルテンの山を歩き出した。



 屋敷に帰ると、ユリカはお休みとだけ言ってすぐに部屋に入っていった。さすがに山登りで疲れ切っているのだろう。ベッドからのお誘いを拒むことはできなかったようだ。今頃はもう夢の玄関をノックしているはずだ。


 クラウスも疲れていた。少ししたらすぐにベッドに潜り込もうと思った。


「やあ。今日は楽しまれましたか?」


 するといつの間にいたのか、後ろからフェリックスが声をかけてきた。


「お疲れ様です。ただいま戻りました」

「その様子だと、だいぶお疲れのようですね」

「ええ。それくらい楽しい時間となりました」


 その言葉に嘘はなかった。実際に楽しすぎて、ユリカはもう寝てしまったのだから。


 その言葉に笑いながら、フェリックスが手招きした。

「クラウスさん。よろしければ少し付き合っていただけませんか? 一緒にワインを飲みませんか?」


 おや? とクラウスは思った。フェリックスからお酒に誘われるというのは初めてのことだった。意外な申し出だったが、最近は自分たちばかりが楽しんでいたのだ。フェリックスの申し出を断ることもできなかった。


「わかりました。ぜひ」




 二人はそのままフェリックスの仕事部屋にやって来た。フェリックスはワインを一本と、二人分のグラスを持ってきた。彼はそのまま二人分のグラスにワインを注いで、そのうち一つをクラウスに渡した。二人は流れるように乾杯をして、一気にワインを飲み干した。


 二人分のため息が吐き出された。特にフェリックスは全てを吐き出すかのような深い溜息だった。


「久しぶりに飲みましたが、その分美味しく感じますね」

「すいません。私たちばかりが外に出て」


 謝罪するクラウスだが、フェリックスは気にするなと笑い飛ばした。


「かまいませんよ。私は私で仕事が遅くまで残ってますし、その時間も私にとっては酒宴と同じようなものですから。でも、申し訳ないと思うなら、今日は色々とお話させてください」


 本当は疲れているのだが、フェリックスからの頼みだ。クラウスも最後まで付き合うつもりだった。


「大尉は参謀本部に所属して長いのですか?」

「長いというほどではありませんが、五年くらいになりますね。元々学校で測量をしていたのですが、軍の方からお誘いを受けまして、そこで参謀本部の測量課に配属になったんです」


 クラウスは納得した。初めて会った時から学者のような印象を受けていたが、元々学者だったのだ。だから参謀本部にいる今も、その雰囲気が抜けていないのだ。


「それでは、その時からずっと地図作りを?」

「はい。私が配属されたころは、参謀本部は鉄道を重視する考えを持っていました。鉄道は社会も経済も、そして軍事の常識も変えると思われていました。今あるグラーセンの鉄道の敷設にも少なからず携わってきました」


 地図は軍事にとって重要な情報である。正確な地図がなくては行軍もままならない。測量技術も大きく発展し、より正確な地図を作ることが求められる時代だ。


「クラウスさんは軍属でしたね? どういった経緯で参謀本部に?」

「ああ、えっと……自分はアンネルでの留学中にユリカと出会いまして、そこで彼女の手伝いをしたんです。そこで彼女の目に留まって、参謀本部に誘われたんです」

「なるほど。そうでしたか……」


 さすがに詳しい話はできないが、それでもフェリックスは納得してくれた。するとワインを一口飲んだフェリックスがクラウスを見た。


「お二人は、お付き合いされているのですか?」


 思わず吹き出しそうになる。酔いがさめそうな問いかけにクラウスは慌てて首を振った。


「違います! 自分と彼女はそんな関係ではありません。あくまで仕事のパートナーです!」


 慌てるクラウスをどう捉えたのか、フェリックスは微笑みを返した。


「そうなのですか? お似合いでしたから、お付き合いされているとばかり思っていました」

「それ、ユリカに言わないでください。絶対からかわれますから」

「ははは。わかりました」


 酒が回っているのだろうか? フェリックスの笑い声がこだまする。すると彼はまたワインを飲んでから、クラウスに言った。


「実は私には、グラーセンに置いてきた恋人がいるのです。将来を誓い合った、婚約者が」


 今度こそクラウスは驚いた。あまり色恋沙汰の空気が感じられないフェリックスにも、そんな相手がいるということに。そんなクラウスの反応が予想できていたのか、フェリックスも苦笑いを浮かべた


「驚かれましたか? こんな私を好いてくれる人がいることに」

「あ、いえ。そういうわけではありませんが……」


 意地悪そうに問いかけるフェリックスに慌てるクラウス。それを楽しそうに見ながら、フェリックスは続けた。


「学生時代に出会った人で、友人からの紹介でした。私が出会った女性の中では特に博識で、本を読むのが好きな人でした。お互いに好きなことを語り合う内に、お互いのことを好きになりました」


 当時のことを思い出しているのか、フェリックスは幸せそうに語った。まるで物語のような恋の話。クラウスはじっと聞いていた。


「軍に入ると決まった後も、彼女との付き合いは続いています。それで……あと少ししたら、結婚しようと思っているんです」

「そう……ですか」


 クラウスは緊張で汗を流していた。自分ではない他人の恋の話。だというのに、彼の心臓は早鐘を打っていた。痛いくらいの鼓動が彼の胸を打ち続ける。


 苦しい。なのに、クラウスはその話を聞き続けた。


「クラウスさん。政府や軍がクロイツ帝国の統一を目指している、という話は知っておいでなのですよね?」

「え、ええ。ユリカから聞いています。政府も参謀本部もそのために動いていると」


 そもそもこのビュルテンでの活動もその一環なのだ。帝国統一のための活動だと。


「正直なことを言いますと、私にはその帝国とか統一という話は、よくわからないというのが本音なのです」


 クラウスが目を丸くした。参謀本部の人間がそんなことを言うとは、思ってもいなかった。

「そ、そうなのですか?」

「ええ。まあ、私は貴族ではありませんし、少し家が裕福なだけの庶民ですから、あまり帝国というものがよくわからないのだと思います」


 貴族と庶民の間では意識が違う。シュライヤーからも聞かされた話だ。それをフェリックスから聞かされるというのは、もっと別の意味で驚きであった。こうまでも意識に差があるのかと、クラウスは驚かされていた。


 そんなクラウスを見つめながら、フェリックスはワインを一口飲んでから、また口を開いた。


「でも、その話を聞いた時、私の中で一つの夢ができてしまいました」

「……夢、ですか?」


 フェリックスは語る。その胸に秘めた大いなる夢を。


「いつか帝国が統一された時、帝国全土の地図を作り上げたい。そんなことを考えていました」

「帝国の、地図を?」

「統一された広大な帝国。その帝国を渡り歩いて、全国地図をこの手で作り上げたい。そんな途方もない夢を持ってしまいました。途轍もない夢だと自分でもわかっているのに、その夢を思うだけで、私はとても楽しいんです」


 その時、フェリックスはにっこりと笑った。夢を語る少年のような、まぶしい笑顔を。


 たぶん一生忘れられない、かっこいい笑顔だった。


「そして、地図が完成したら、結婚した妻や子供を連れて、旅行に出かけたいんです。家族の前で地図を広げながら、こう言うんです。ほら、この土地の地図は私が作ったんだよって」


 そんな未来を想像して、フェリックスは嬉しそうにしていた。それはとても素敵なことなんだと、クラウスは静かに考えていた。


 今この街でも、フェリックスたちは地図を作り、鉄道を繋げようとしている。鉄道が繋がれば、グラーセンからビュルテンへ。逆にビュルテンからグラーセンへと人や物が行き交うことになる。グラーセンの恋人たちが新婚旅行にビュルテンへ。ビュルテンの商人が自慢の商品を持ってグラーセンへ。そう思うと、フェリックスたちのやっていることがとても偉大に思えた。


 帝国全土の地図を作る。そんな夢を語るフェリックス。まるでまだ見ぬ海の向こうの新大陸を探し求めた、偉大な探検家のように思えた。それくらいに、彼らが偉大に思えた。


「変でしょう? こんな夢」


 照れ臭そうに笑うフェリックス。それに釣られてクラウスも笑った。


「ええ。とても素敵な夢だと思いました」


 真っすぐに言葉を紡いだ。率直な偽りのない言葉だった。そんなクラウスの言葉が意外だったのか、一瞬だけ驚いた後、フェリックスはもう一度微笑んだ。


「地図が完成したら、自分も旅行に使わせてもらいます。地図があれば、旅も安全ですからね」

「ええ。ぜひ使ってください」


 それから少年二人は何も言わず、お互いのグラスをチン、と打ち付けあった。二人は少年のような夢に乾杯をしたのだった。


 久しぶりに気持ちのいいお酒だ。クラウスはそう思った。



 次の日。シュライヤーがユリカたちの元を訪れた。彼はラコルトの元に赴き、ユリカが話をしたいということを伝えていた。


「ラコルトさんは屋敷に来るようにと仰っています」


 どうやら話を聞いてもらえるようだった。するとシュライヤーから意外な言葉が飛び出した。


「ただ、条件としてお嬢様とクラウスさん。あなたたちだけで来るようにと言っていました」

「私たちだけで?」


 ユリカが訊き返す。横で聞いていたクラウスも不思議そうに首を傾げた。


「何故でしょう? 何か理由を言っていましたか?」

「特に何も。できれば自分たちだけで話をしたいとは言っていました」


 ますます不思議な話だった。何故ラコルトはそんな条件を求めているのか?


「何か企んでいる、とか?」

「いえ、それはないでしょう。腹の探り合いや駆け引きはあっても、何か陰謀めいたことを考える人ではありませんから」


 長年付き合ってきたシュライヤーが言うのだ。まず間違いないだろう。


 それだけに、やはりラコルトの真意が掴めない。一体どういうことなのだろうか?


 色々と考えこむクラウス。そんな彼をよそに、ユリカは関係ないとばかりに笑った。


「わかりました。それでは私とクラウス様、二人で行かせてもらいます」

「……大丈夫か? わざわざ条件を出すくらいだ。何かあるんじゃないのか?」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないわ。どちらにせよ、こっちはお願いしている身なのよ。だったらあちらのお願いを聞くのも筋というものよ。違うかしら?」


 なるほど、確かにその通りだ。それくらい応じることができなければ、対等な立場での会合など無理な話だ。クラウスも腹をくくった。


「それと、シュライヤーさんから一つだけ言われていることがあります」

「何でしょう?」


 ユリカが問いかけると、シュライヤーは苦笑いを浮かべていた。


「ラコルトさんからは、ビールは出せないが大丈夫か? とのことですが」


 ユリカたちはグラーセンからの客であることを伝えている。そんな二人に対しての言葉だった。ユリカはその言葉に微笑んだ。


「大丈夫。この街のワインは私好みよ」

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