第二章 世界と繋がる街
翌朝。マール中央駅は早くも人の波と蒸気の匂いに満ちていた。
これから旅に出る者。それを見送る者。互いに別れを告げたり、再会の約束を交わしたりしていた。
ここはアンネル最大の中央駅であり、多くの人の出会いと別れ、そして人生の交差する場所だった。
何故か今日は警官の姿も目立っていた。人々も不思議に思っていたが、駅も汽車も関係ないとばかりに営業していた。
「もうすぐ汽車が出発しますわ。急ぎましょう」
「あ、ああ……」
前を歩くユリカが振り向く。それに対して視線を泳がせるクラウス。彼はユリカに視線を合わせることに躊躇していた。
「どうしました? 私に何かおかしいところがありますか?」
「いや、何もおかしくはない。まだあなたに慣れていないだけだ」
首を傾げるユリカ。クラウスが戸惑っているのは、今のユリカの姿に対してだった。
ユリカは紛れもなく淑女だった。昨夜は黒いスーツを着ていたこともあり、小柄な男性に見えないこともなかった。
その彼女は今、青いドレスで着飾っていたのだ。
美しいブロンドを飾る帽子。小柄な体を守る上着。わずかに膨らみを持たせた茶色いスカート。気品に溢れた姿だった。おそらく旅行用なのだろう。動きやすいように作られているようだった。
ユリカはそのドレスを見事なまでに着こなしており、彼女が紛れもなく淑女あることを証明していた。
出発する前、ユリカは一回自分の荷物を取りに戻った。しばらくして待ち合わせ場所に彼女が来ると、今のような姿になっていたのだ。
美しい髪もきれいな顔も見間違えるはずはない。間違いなく彼女だとわかるのだが、その姿にクラウスは困惑するしかなかった。
昨日までは黒いスーツを着ていたせいで、ユリカが女性であるという実感が薄かった。
そんな彼女が着飾って登場したのだ。そのギャップを埋めるのに必死で、どうしても彼女を直視できずにいた。
するとクラウスの気持ちを察したのか、ユリカはニンマリと笑うと、その場でターンしてみせた。
「どう? 似合ってますかしら?」
クラウスには女性とそういう話をした経験がなかった。どう答えるべきか迷った後、とりあえず素直に感想を伝えることにした。
「私にはファッションについての知識は疎いのだが……とても美しいと思う」
あまりに直接的な答え方だった。ユリカも一瞬面食らったが、すぐに嬉しそうに笑ってくれた。
「ふふ、ありがとう」
二人は汽車に乗り込んで、すぐに個室に入っていった。椅子に腰かけた瞬間に大きな汽笛が聞こえてきた。
「もうすぐ出発ですわ」
外を眺めると、汽笛に反応して他の乗客も同じ汽車に乗り込んでいるのが見えた。そのほとんどが労働者や商人のような格好をしていた。これから仕事に向かおうとしているのだろう。
そんな彼らに混じって汽車に乗り込む自分たちは、彼らからどんな風に映っているのだろうか? 少し気になるクラウスだった。
荷物を置くと、程なくして汽車は走り出した。満杯の人と物資、それからクラウスたち二人を載せて、汽車は一路ジズーへ向かう。
しばらく走ると、既に汽車は太陽の都から出ているようで、窓の外には牧歌的な田園風景が広がっていた。同じマールでもこうまで違うのだ。クラウスも不思議に感じた。
目の前ではユリカも同じように外を眺めていた。旅が好きなのか、目の前に広がる光景を楽しそうに見つめていた。時々牛や馬を見つけては、興味深そうに観察していた。
「楽しんでいるところ申し訳ないが、これからジズーに向かって何をするんだ? 自分は何も聞かされていないんだが?」
「ああ、そういえば。失礼しました」
ポンと手を叩くユリカ。彼女は昨日の出来事について話し始めた。
「昨夜、私が警察に追われていたのを覚えていますか?」
「昨日のことを忘れるほど衰えていない。それが何か?」
「クラウス様をジズーに同行してもらう理由を説明するのに、警察に追われていた理由をお話しなければなりません。クラウス様はあの夜、駅から汽車が出発するのが聞こえませんでしたか?」
クラウスは記憶を引き出す。確かにあの夜、駅から大きな汽笛が鳴っていた。
「ああ、そういえば汽笛が鳴っているのを聞いたな。珍しいとは思っていたが、それが今回のことと何か関係が?」
「その時の汽車は、ジズーへと向かう汽車でした。ただ人を運ぶ旅客列車ではなく、物資を運ぶ貨物列車ではありますが」
やはりそうだったかと納得するクラウスだが、どうしてユリカはその目的地まで知っているのだろうか?
「よく目的地まで知っているな。どうやって調べた?」
「昨日の夜、駅に侵入して列車に載せられていた物資を調べましたから」
「……なんだって?」
そんなとんでもないことを口にするユリカ。あまりに自然に語るのだから、クラウスも聞き逃しそうになるほどだった
「駅に、侵入? あなたが?」
「はい。それで駅員や警官に見つかってしまい、不審者として追われていたのです」
それはそうだろう。不審人物がいたら何をされたかわかったものではない。よく逃げ切れたものだと、呆れにも似た感心を抱いた。
クラウスは今朝の駅の様子を思い起こす。駅の中に多くの警官がいた。おそらく今回の事件の捜査をしていたのだろう。
「なるほど。それで追われていたところを私に出会い、私はそれを助けたと」
「運命とは、こういうものなのでしょうね」
ふふ、と笑みを見せるユリカ。逆に笑えない心情のクラウス。犯罪の片棒を担いだようなものなのだ。気が気ではなかった。
「いや、まあ何が起きていたのかはわかったが、その理由がわからない。どうしてあなたはそんなことを? まさか単純に盗みをしていたわけではないだろうな?」
「もしそれが祖国のためになるのであれば、私は迷いなくするでしょうね」
冗談を返すユリカだが、クラウスもそんな答えを期待していたわけではない。沈黙を返すクラウス。そんな態度が面白かったのか、ユリカもクスリと笑った。
「冗談は置いて、本題はここからです。これは参謀本部が手にした情報ですが、最近アンネル政府が、何か大掛かりなことを企んでいるらしいのです。参謀本部から命令を受けた私は、それがどのような計画なのかを知るため、私はあそこを調べておりました」
「大きな、企み?」
「はい。クラウス様。最近マールの街で物が買い占められているというお話を聞いておりませんか?」
その問いかけにクラウスはパン屋の主人を思い出す。彼の苦い顔が思い浮かんだ。
「そういえば、小麦粉の買占めがあったとパン屋で聞かされた。どこかの会社が買占めをしていると聞いている」
「そう。実を言うと買占めは小麦粉だけではありません。小麦粉以外にもありとあらゆる物資が買占めにあっているのです」
その言葉に不穏なものを感じ取るクラウス。彼が聞いていないだけで、異変はもっと大規模な形で起きているようだった。
「それはどういうことだ? ありとあらゆると言うが、具体的には?」
「言葉通りありとあらゆる、ですわ。小麦粉、酒、食べられる物は全て。それ以外にも衣類など、商品となる物は全て買い占められおります」
あまりに大きな話に驚きを隠せないクラウス。ユリカの言葉通りなら、都市にある物は全て扱われていることになる。
ありとあらゆる物資を飲み込む嵐が起きている。クラウスはその嵐を知っている。彼はその嵐の名を口にした。
「まるで、戦争みたいだ」
「そう。確かに戦争みたいですわ。この買占めはそれくらい大規模なもの。そして、この買占めは政府が企業に指示してやらせているようなのです」
政府による買占めの指示。なるほど、確かに何か大きな企みがあると考えても不思議ではなかった。
「私はそれら買い占められた物資が貨物列車に運ばれ、ジズーに運ばれていくのを突き止めました。そうして調べていたところを、仕事熱心な警察のみなさんに見つかってしまったのです」
真相を聞かされたクラウスは納得した。
「なるほど、そういうことか。それで? これからジズーに向かうのは、どういった目的なのだ?」
「ご存知の通り、ジズーはアンネル最大の貿易港。そこから外国に物資を輸出することは確実です。問題はどこに輸出されるのか。私の目的はそれを探ることなのです」
アンネルの海の窓口、ジズー。そこは世界との商いの窓口であり、ユースティア大陸の列強はもちろん、はるか東の島国や、水平線の先の大陸など、百を超える国・地域と貿易を行い、数百を超える港と結ばれた貿易港だった。
ジズーに運ばれたなら、外国に輸出されるのは間違いなかった。問題はその相手がどこなのか。それを探るのがユリカの任務ということだった。
ここでクラウスに疑問が浮かぶ。ユリカの目的は帝国統一であって、それがこの任務にどんな関係があるのだろうか? その疑問をぶつけてみた。
「何故そのようなことを? 帝国統一とどう関係するのだ?」
「確かに直接の関係はありません。ただ、この買占めにどういう目的があるのかはわかりませんが、間違いなくアンネルの国力を強めるものでしょう。グラーセンがクロイツ統一を目指すのであれば、将来的に隣国となるアンネルとの衝突は避けられないものとなるでしょう。ならばアンネルの国力が強くなることは望ましくありません。私はアンネルの企みを掴み、それを阻止することで、将来の統一事業の障害をなくすことが目的なのです」
ユリカの言うとおりだ。クロイツ統一を目指すのであれば、近隣諸国との摩擦は避けられないだろう。特にアンネルにとっては、かつての帝国が復活するなど、容認できないことだ。それを考えると、アンネルが強くなることは望ましくなかった。
グラーセン政府、そして参謀本部はそのためにユリカを派遣したということなのだ。
ここまで聞いていたクラウスだが、そこでふと疑問が浮かぶ。その旅にどうして彼が同行させられているのか?
「失礼、あなたの旅の目的はわかった。わかったのだが、どうして私がそれに同行することを求めてきたのだ? あなたは私に何をさせるつもりなのだ?」
ボディーガード役でも求めているのだろうか? そんなことを考えるクラウスを見つめながら。ユリカの顔がニンマリと笑うのが見えた。
「クラウス様。もし異国で女性が一人旅をしていたら、あなたの目にはどのように映りますか?」
「何だその質問は? まあ女性の一人旅はあまり見ないな。未亡人の傷心旅行かと思ってしまいそうなものだが」
「そう。そんな風に目立ってしまいます。ですが、もしこれが私とクラウス様になればどうでしょう? 二人並んで歩いていれば、恋人たちが旅行しているように思えませんか?」
恋人、という言葉に閉口してしまうクラウス。頭が理解するのを拒んでいるように感じた。
その様子をユリカが面白そうに笑った。彼の反応が予想通りだったのだろう。悪戯が成功した時の子供みたいな笑い方だった。
「要するに未亡人でもなければ傷心でもない。若い女性が異国で一人旅をする。そんな状況よりも恋人たちが旅行をしている方が怪しまれにくく、捜査がやり易い。そうは思いませんでしょうか?」
「……ああ、なるほど。つまり私とあなたが恋人同士と偽ることで、怪しまれることなく捜査ができる、と。そういうことか」
ユリカが満足してうなずく。
「その通りです。アンネル国民が、愛し合う恋人たちを邪魔するような人たちでなければ、捜査も上手くいくでしょう」
愛し合うという点をわざと強調するユリカ。冗談とはわかるのだが、クラウスには笑えなかった。相手はグラーセンの大貴族の令嬢である。そんな相手と偽りとは言え、恋仲になるというのは、身分違いにも程があった。
昔読んだことのある恋物語にも似たような話はあったが、自分が同じ立場になるなど、想像もしていなかった。グラーセンにいる父や家族が聞いたら卒倒するかもしれない。
心配するクラウスにユリカが声をかける。
「私の意図はわかってくれたかと思います。どうか私に協力してくれないでしょうか? 協力してくれれば、ハルトブルク家より必ずお礼を致します。どうでしょうか?」
クラウスが沈黙する。すぐに答えは出せなかった。正直安易に了承できる話ではない。
しかし、すでに汽車はジズーに向かって走り出している。自分たちを乗せた列車は走り出しているのだ。
汽車も運命も走り出した。クラウスは諦めの溜息と共に、その答えを伝えた。
「了解した。途中の駅で降りて帰るのも面倒だ。協力しよう」
クラウスの言葉にユリカが笑みを返した。彼女なりの感謝の伝え方だった。
するとクラウスが一つ提案をしてきた。
「失礼、お嬢様。これは個人的な要求なのだが、できれば『クラウス様』と呼ぶのはやめていただきたい。それと敬いの言葉もいらない」
その言葉の意図を掴めないユリカが首を傾げる。
「さて? 何か不都合でも?」
「不都合ではないが、『様』を付けられるほどの人間でもないし、正直あまり好きではない。そもそも身分はそちらの方が上なのだから、敬語はおかしい。それに恋人という設定なのであれば、話し方もそれに合わせるべきだろう」
クラウスの言うとおり、恋人同士で『様』を付けたり敬語で話すというのは違和感がある。クラウスの意図を受け取ったユリカがうなずく。
「確かにその通りですわ。わかりました。あなたの言うとおりにしましょう。ですが、それなら私からもお願いがあります」
するとユリカは貴族でもなく軍人でもなく、一人の少女として無垢に笑った。
「クラウス様……いえ、あなたもお嬢様や敬語はやめていただけるかしら? 私たち、恋人なのだから」
いきなりのユリカの言葉に面食らうクラウス。そんなクラウスを彼女は笑みを浮かべて見つめていた。
その時のユリカの笑みを、クラウスは忘れることはないだろう。困った顔のクラウスの反応が、楽しくて仕方がないといった笑みだった。悪く言えば悪魔のような。そして年相応の少女のような笑みでもあった。
不思議とクラウスには、淑女としてのユリカよりも、少女としてのユリカの方に好感を持つのだった。
「……わかった。ではそのように」
同意するクラウスに、ユリカが右手を差し出してきた。
「これから私たち、仲間ということね。よろしくお願いするわ。相棒」
その右手を戸惑いつつも握り返すクラウス。ユリカもさらに力強く、彼の手を握り返した。
クラウスは不思議と高揚していた。彼女とは偽りの恋人であり、同時に冒険の仲間なのだ。
彼は子供の頃に読んだ冒険物語を思い出していた。仲間たちと冒険を繰り広げ、世界を飛び回る勇者たちの冒険。
まるで自分がその主人公になったかのような、そんな不思議な高揚感がクラウスの中に駆け巡っていた。
体温が上がるのを感じた。きっと汗を流していたのも、勘違いではないだろう。
握手を交わした後、ユリカが一言呟いた。
「ふふ、まさか私に恋人ができるなんて、思ってもいなかったわ。グラーセンにいる父やおじいさまに報告した方がいいかしら?」
冗談とわかる軽口なのだが、クラウスには笑えなかった。冗談でもそんなことをされれば、とんでもないことになる。なのでクラウスは忠告だけでもすることにした。
「昔、どこぞの国の王が冗談で親友の悪評を口にしたら、その悪評が原因で親友を処刑台に送りそうになったことがあったという。それ以来、王は必要以外のことはあまり話さなくなり、『無口王』と呼ばれるようになったそうだ。権力者は口数が少ないとされる教訓だ。見習うといい」
苦言を呈するクラウスだが、ユリカは意外そうにしていた。
「冗談を冗談と受け取れない周囲の浅さも問題じゃないかしら? 冗談も楽しめないのは、無口王も側近に恵まれたなかったと、そうは思わない?」
屁理屈な気もするが、確かにそういう見方もできないではないので、クラウスも渋々同意する。
「まあ、確かにその通りだが……」
「大丈夫よ、父もおじいさまも、冗談がわからない愚か者ではないわ」
まさか本気で自分を恋人だと報告するのではないかと、心配するクラウス。目の前で笑うユリカを疑っていた。
それから数時間。いくつかの駅を通り過ぎて、彼らを乗せた汽車は目的の港町・ジズーへと到着した。
そこは潮風に満ちた街だった。すでに汽車の中にも潮の香りが流れ込み、息を吸えば海から流れる潮風が体の中に流れ込んでくる。
海の方を見ると、そこには多くの船が所狭しと航行していた。これから海に出る船。もしくは港に入ろうとする船。他にも小さな漁船など様々であった。
ここは海の旅人たちの憩いの場であり、見送ることと迎えることを生業とする街だった。
朝早くに出発したおかげで、昼過ぎに到着できた。いくつかの荷物を担いで駅に降りると、ユリカがクラウスの手を引いてきた。
「さあ、行きましょう。クラウス」
「お、おい。ちょっと待ってくれ」
いきなり手を握られて戸惑うクラウス。その様子をくつくつと笑うユリカ。
「あら? 私たちは愛し合っているのだから、恥ずかしがる必要はないわ。どこかおかしなことでもあるかしら?」
確かにそういう設定だったとクラウスは思い出す。別におかしなことではない。
「い、いや。確かにそうだが」
それでも昼間から女性と手を握って歩くというのは、クラウスには抵抗があった。彼は思わず周りを見てみる。周りの人々の視線が気になってしまう。考えすぎだとクラウスも思うのだが、皆が自分たちを見て笑っているように思えてならなかった。
「さあ、早く行きましょう。ずっと座っていたから疲れたわ」
そんなクラウスの心配とは裏腹に、ユリカはこの状況を楽しんでいるようだ。恐れるものはないとばかりにズンズンと前を進んだ。
二人が駅を出ると、そこは中世の香りが色濃く残る街だった。
ジズーの歴史は古く、この港町は中世よりさらに古い時代に誕生した。今日まで千年の時を生きた街には、その間に建てられた建築物が今も残っていた。
特に数百年前から街を見守る教会は、この街のシンボルであると同時に、この街に住む人々の自慢となっていた。
ジズーを歩くクラウスたち。特に彼の手を引くユリカは首を右に左に、興味深そうに街を見て回った。まるで恋人と観光旅行を楽しんでいるとしか思えない様子だった。
自分たちはここに任務で来ていることを思うと、そんなユリカの様子にクラウスは焦りや心配すら感じていた。思わず口を開いた。
「おじょ、いやユリカ。早く港に向かった方がいいのではないか?」
「あら? こんな素敵な街を素通りするなんて、もったいないわ。この街には見落としていいものは何もないわ。足元に落ちている小石だって、見逃したくはないわ」
「いや、しかしだな」
するとユリカは顔をそっと近づけて、クラウスに耳打ちした。
「あなたもよく見ておいてちょうだい。二人の思い出を胸に刻んでちょうだい」
そう言って、彼女はもう一度街に視線を向けた。本当に大丈夫だろうかと、心配になるクラウスだった。
そんなことを考えながら街を歩き続けると、二人は港に辿り着いた。
遠くからでも見えてはいたが、やはり多くの船が航行する光景は圧巻だった。特に大型の貨物船が航行する姿は迫力があり、その間を小さな小型船が縫うように泳いでいた。
少し横に目をずらすと、小型のヨットがいくつも停泊する桟橋があった。おそらく貴族や資産家の所有物なのだろう。夏になればここに来て、この海を満喫するのだろう。
さらに周りを見てみると、多くの人が働いているのが見える。やはりここは港町なのだと思い知らせてくれる。
「それで、これからどうする?」
「そうね。昨夜運ばれた荷物を取り扱っているのは、クルノー社という会社だわ。運び込む貨物船は明日到着予定よ」
それはクラウスも聞いたことのある会社だった。アンネルでは最大規模の貿易会社である。
「どうやら目的の貨物船も到着していないみたいだわ。だから本格的な調査は明日から。他にも調べることは色々あるから、今日はこのまま宿に行きましょう。太陽もお休みの準備を始めているみたいだし」
ユリカの言うとおり、太陽が茜色の寝間着に着替え始めていた。そのまま寝床に行くかのように水平線に向かおうとしていた。
そんな太陽の輝きを受けて、海も黄金色に彩られていた。周りにいた観光客と思われる人々も、クラウスと同じように海を見つめていた。
手配していたホテルはちょっとした高台にあり、街を一望できる場所に建っていた。高価すぎず、しかし安価ではないホテル。高価すぎると目立ってしまうし、逆に安価だと防犯が不安になる。ちょうどいい宿だった。
「素敵な街ね。とても面白かったわ」
部屋に入るなりそんなことを呟くユリカ。その呟きにクラウスは不安になった。自分たちは任務のためにここに来ているのに、今日はほとんど観光をしていたようにしか思えなかった。
ユリカの態度にクラウスも戸惑いしか感じられなかった。
そんなことを考えているクラウスに、ユリカは振り返って声をかけてきた。
「さて、それじゃあ少し手伝ってもらおうかしら」
すると、ユリカは唐突に何かを取り出し、それを机の上に広げた。
それはジズーの地図だった。ジズーの駅を中心に描かれた地図であり、港やこのホテルはもちろん、小さな路地も細かく描かれていた。
ユリカは机に広げた地図を見て、何かを書き込み始めた。何かの時刻であったり、もしくは距離であったり、建物の詳細など、細かい情報を書き込んでいった。
一体何を書き込んでいるのか、見ているクラウスにはわからなかった。怪訝そうな顔をしているクラウスにユリカが口を開いた。
「ジズーにある乗合馬車の発着時刻、それに各公共機関やそれぞれの建物の距離。それに人が集まりそうな場所。この街で仕事をする以上、何が起きるかわからないわ。何か起きた時は逃走経路や潜伏場所など、覚えておく必要はあるわ」
そう説明するユリカ。改めてクラウスが見てみると、確かに郵便局や警察署。それに乗合馬車の停留所やその時刻など、必要と思われる情報が書き込まれていた。驚きは距離や徒歩何分くらいかかるのかまでが書き込まれていた。一体いつの間に調べたのか、クラウスは驚いていた。
その時、クラウスは気付く。ユリカは街を見ておくように無理矢理自分を引っ張っていったことを。街を楽しそうに眺めるユリカの姿を思い起こす。
「ユリカ、もしかしてこの街を歩いたのは、このことを調べるためだったのか?」
ユリカは微笑みを返す。そうだと語るより雄弁な態度だった。
さっきまでユリカに不安を覚えていたクラウスは自身の思考を悔いた。彼女のことを疑った自分に恥ずかしさすら感じていた。
「ふふ、でも観光気分というのも嘘ではないかも。まだまだ行ってみたいところがたくさんあるのよ」
そう言いながらユリカは地図に文字を書き込み続ける。彼女は美味しそうな料理の店に位置に印を付けていた。
そのことに呆れもしたが、笑みを零すクラウスだった。
「いや、しかしながら手慣れたものだ。参謀本部所属というのも伊達ではないということか」
ふふんとユリカは胸を張った。実際それくらいに彼女は優秀だった。
だからこそクラウスには理解できなかった。彼女ならば自分は必要ないのでは? むしろ足手まといな気がしてならなかった。
「ユリカ、本当に私は必要なのか? 流れでこうなってしまったのは仕方ないとしても、貴方ほど優秀なら、私が協力できることはないと思うのだが?」
「あら? そんなことはないわ。仲間はいるだけでも心強いわ。それが悪魔であっても、仲間がいるというだけでも違うわ」
「それが偽りの伴侶であっても?」
「もしかしたら、いずれ本物になるかもね」
笑えない冗談に疲れるクラウス。こういう冗談が好きなのか、ユリカはニタニタ笑った。
「そういえば、こちらには留学していたのよね? 大学で何を勉強していたのかしら?」
「私か? こちらではアンネルの言葉を学んでいた。他には政治や地理歴史。それに国際関係や外交問題も講義を受けていた。簡単に言うと、興味が湧いたものを勉強していたよ」
その答えにユリカが感心した様子を見せた。
「それは頼もしいわ。その知識の広さでもって、私を助けてほしいわ」
褒め称える彼女の言葉にクラウスも悪い気はしないが、役立てるとも思えなかった。
「確かに勉強はしているが、興味があるものをかじっただけだ。あなたの優秀さに比べれば、やはり役に立てるものではないと思うが?」
「いいえ。そんなことはないわ。あなたの話を聞いて確信したわ。あなたとの出会いを神に感謝したい気持ちですもの」
ユリカはその手を止めて、昔話を始めた。それは彼女自身の物語だった。
「私、確かに勉学を受けているけど、大学などの教育機関に行ったことはないの。家に置いてある本を読むか、たまに来る家庭教師の先生から教えを受けるくらいだわ。それを決して悪いとは思わないけど、やっぱり大学で学ぶのとは大きく違うわ。大学に通っているあなたなら、よくわかるでしょう?」
クラウスもそれには同意した。女性が大学に行けるはずもなく、そもそも勉学に励むのも想像できなかった。ユリカみたいな貴族は淑女としてのマナーを教わるもので、大学で学問を学ぶことはない。
仮に彼女みたいに意欲があったとしても、大抵は本を読むか家庭教師を雇うくらいだ。さすがに大学で学ぶのとは大きく違うのだ。
「それに私には気付けないことも、あなたにならわかるかもしれない。私の目には映らない世界も、あなたの目なら見つけることができるかもしれない。メガネはいくつあっても困るものではないわ」
そういえばそんな話もあったなとクラウスは思い出した。魔法のメガネをかけて世界を見ると、全く違った世界が見えたという教訓。
それでも自分に自信が持てないクラウスは、もう一度ユリカに問いかけた。
「私のメガネが曇っていないと信じられるか?」
「その時は私が磨いてあげる」
ユリカの笑みが零れる。その微笑みははっきりとクラウスの瞳に映った。
「だから、私が何かを見落とさないように、あなたが見つけてちょうだい」
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