第一章 それは、運命の夜でした

 大きく開かれた街路を人々が練り歩く。その人々のうねりの中を、馬車が所狭しと横断する。そんな馬車を人々は慣れた様子で避けながら街を歩いていた。


 アンネル共和国の首都・マール。別名『太陽の都』と称される、麗しの都である。

 ユースティア大陸にある大国の一角、アンネル。その首都、マールは華やかなりし大都市だった。学術、芸術、国力という点においても、世界で一・二を争う都市。


 アンネル国民の特性なのか、この国の人々は陽気な人間が多かった。顔に憂いの色は全く見られず、道行く人々は誰も彼も笑っていた。


 それまでマールは中世の姿を残す都市だった。家と家の境目がわからず、建物を敷き詰めるだけ敷き詰めて増改築を繰り返した結果、巨大な迷路のような都市になっていった。


 それが数十年前、マールの改造を計画、実行した結果、マールは近代というものを形にしたような都市に生まれ変わった。

 風が吹き通り、太陽の光が降り注ぎ、淀みのない空気が光り輝く街を流れていった。


 その光景を当時の歴史家はこう記録した。「まるで世界中の太陽が、この都市に集まったかのような印象を受けた」と。こうして、マールは太陽の都と呼ばれるようになったのだ。


 なるほど、確かに太陽の都である。マールで暮らす人々の笑顔。それはまるで、太陽の恵みを受けて咲き乱れる、麗しの花々のように見えるのだから。


 それら笑顔が咲き乱れる都を、一人の若者が歩いていた。

 その青年は若者だとわかるのだが、どこか老人のような雰囲気を漂わせていた。


 若者らしくない服装。そんな彼は陰鬱な顔をしたまま、マールを歩いていた。人々の波を避けて歩く彼だが、よく見ると町の人々が彼を避けているようにも見えた。


 クラウス・フォン・シャルンスト。それが青年の名前である。クラウスはただ歩き続けた。まるでそれが義務であるかのように。

 太陽が傾き始めた時刻。クラウスは目的の場所、下町にある一軒のパン屋に足を運んだ。ドアを開けて中に入ると、香ばしいパンの匂いに出迎えられた。


 店に入るクラウスに、主人が怒鳴り声に近い挨拶を寄越した。クラウスはいつものパンを手に取り、主人に近寄った。

「お願いします」

「あいよ。いつものやつね」


 主人が紙袋にパンを入れる間、クラウスは店の中を見回した。

「今日は繁盛しているみたいですね。もう品切れですか?」

 棚に並んでいるパンを見てみると、いつもよりパンの数が少ないことに気付いた。中にはもう売り切れの札が置かれた棚もあった。


 何気ないクラウスの言葉だったが、主人からはため息が返って来た。

「いや、そうじゃないのさ。小麦粉が手に入らなかったんだよ」

「小麦粉が? 何かありましたか?」

 困っているという風に苦笑いを見せる主人が事情を説明してくれた。


「いつもの問屋に仕入れを頼んだんだが、どこかの会社が買占めをしたらしいんだ。いきなりのことで問屋も驚いたらしいが、押し切られてしまったようでね。なんとか手に入った粉で作ってみたが、今日はもう閉めなきゃならんだろうね」

「買占めですか……景気がいいのか、迷惑なのか」


 何か景気のいい話でもあったのだろうか? どちらにせよ、今日の食卓が寂しいものになることは変わりない。主人も困った顔を見せた。


「まあ問屋もこっちに回す分は確保してくれるって約束してくれたし、明日からはまた焼けると思うよ。このままだと値上げしないといけないからな」

「なるほど。それは困りますね」


 パンを紙袋に入れながら、主人が思い出したように顔を上げた。

「そういえばお前さん、ここに来てからそろそろ二年くらいになるか。だいぶこの国の言葉も上手くなったな」

「ありがとうございます。あとはこの国の女性を口説き落とせるようになれば、完璧なんですけどね」


 その冗談に主人は大きく笑い出した。

「はっはっは! そういう冗談が言えれば上出来だ。もし貴族のお嬢さんを口説き落としたら、ぜひウチに来てくれよ。上手いパンを焼いてやるからよ」

「わかりました。その時はぜひ」


 そこで初めて微笑みを見せるクラウス。彼はそのまま手を振って店を出た。主人も笑顔のまま、大きく手を振り返してくれた。


 再び喧騒と笑い声に満ちた街を歩くクラウス。その途中、彼は主人の言葉を思い出す。

「そうか。この国に来てから二年になるのか」

 そんなことを考えてながら歩いていると、後ろから何者かが近付いてきた。


「クラウスさん! こんばんわ! 今お帰りですか?」

 クラウスが振り向く。少しクセのあるアンネル語を話す若者がいた。笑みを浮かべながら近寄ってくる男に、クラウスも足を止めて口を開いた。


「タウルス。君も今帰りか?」

「はい。少し酒屋に寄って帰ろうとしていたのですけど、たまたまクラウスさんがいたので。どうです? これからご一緒しませんか? おこぼれを拾ったので、僕がおごりますよ」


 おこぼれというタウルスの言葉に、眉をひそめるクラウス。ため息を吐きながらクラウスは苦言を呈した。

「また博打か? やめろとは言わないが、少しは自重しろ。一応俺たちは留学生だぞ」

 躾係のようなクラウスの苦言だったが、タウルスは反省の色も見せなかった。


「これも社会勉強ですよ。たまには遊びも必要です。せっかくマールに来たんですから、ここでしかできないことをするのも必要ですよ。それで? 行きますか?」

 クラウスはやれやれといった感じで、タウルスの横に並んだ。

「お勧めの酒場を教えてくれ。できれば肉料理が出る店がいい」



 クラウス・フォン・シャルンスト。アンネルに留学中の学生。彼はアンネルの東に位置する国、グラーセン王国からの留学生だった。

 彼の実家、シャルンスト家は伯爵号を受けた貴族だった。代々軍人を輩出してきた、長い歴史を持つ一族である。


 グラーセン国民の性格は、一言で言えば質実剛健。歩く姿は軍人。沈黙する姿は陰鬱な哲学者。良く言えば真面目。悪く言えば頑固者と表現するとわかりやすいだろうか。


 全く対照的な性格のアンネル国民からすれば、笑顔も少ない根暗な人間に映って見えるという。

 逆にグラーセン国民から見たアンネル国民は、軽薄で楽観主義過ぎる印象だという。


 眼鏡が違えば見える景色も違って見えるようだ。問題は、お互いの眼鏡はお互いの欠点しか見えないということだろう。


 タウルスに連れられてやってきたのは、お望みの肉料理の美味しい酒屋だった。そこで食されるのは格式ばったコース料理ではなく、下町の素朴な肉料理。クラウスが買っておいたパンを取り出す。それからタウルスが頼んだワインがテーブルに並ぶ。


「デオシスの恩恵に感謝して」

 ワインの神に感謝を述べながら乾杯の音頭を取るタウルス。ワインの一流国であるアンネルのワイン。彼らの喉をデオシスの恵みが潤した。


「タウルス。お前がここに来て一年か。随分とこの国にも慣れてきたな」

「博打でも勝てるほどに?」


 先ほどの苦言を冗談で切り返すタウルス。ニシシと笑うさまは、悪戯を考える子供のようだった。


「ここまで来て叱りつける気はない。ただ本当に、この国に順応するのが早かったと思ってな。俺は二年になるが、まだ慣れないことが色々あるから、お前が羨ましい」


 少なくとも、自分から博打をしに行くことはしないだろう。そう自分を分析していると、タウルスは少し考えてから答えた。


「別に難しく考える必要はないと思いますよ。人には得手不得手があります。僕はこの国の空気が体質に合っていただけだと思います。クラウスさんは特にグラーセン貴族でもありますから、アンネルの空気に馴染みにくいんじゃないですかね?」

「そんなものか?」


 食べる物が違えば体に合わないことはあるが、それは国の違いにも当てはまるのだろうかと、そんなことを真剣に考えていると、そのクラウスを見てタウルスは笑った。


「僕の家は庶民ですからね。たまたま家が事業で成功して成金にはなりましたけど、本当だったら田舎で商店を切り盛りしているはずの民草ですよ。貴族みたいにグラーセン国民という意識も低いんですよ。クラウスさんみたいな貴族の生まれだと、体に流れるグラーセン国民の血は変わらないと思いますよ」

「ん? その理論でいくと、君の中に流れる血はアンネルのものになっていることになるな」

「ははは。本当にそうなのかもしれませんね」


 ワインを口に運ぶタウルス。ワインは一流国であるアンネルでは、アンネル国民の血はワインでできているとさえ言われている。そうなると、タウルスの体にはワインが流れていることになる。


「まあでも、僕から見てもクラウスさんはグラーセンの血が濃いんだと思いますよ。だって初めてクラウスさんを見た時は、グラーセンに帰ったのかなって思いましたよ。グラーセンの老人みたいに無愛想でしたもん」

「ああ、それは父にもよく言われたよ。もう少し愛想よくしろって、注意されたな」

 その答えにタウルスが口を開いて笑った。


 無表情で無感情で無愛想。椅子に座って黙っていれば、気難しい哲学者そのもの。それがクラウスという人間だった。グラーセン国民はまるで軍人みたいだとよく言われているらしいが、クラウスはそれ以上にグラーセン国民というものを体現していた。

 きっと彼に注意した父親も、そんな息子を呆れていたに違いなかった。


 飲み干したワインをもう一杯注文するタウルス。顔が火照っているのがわかった。


「でも、やっぱり人は変わるんだと思いますよ。魚だって住む環境を変えれば、それに適応するそうです。それと同じです。水や空気が変われば人も変わります。ビールしか飲まなかった僕たちも、こうしてアンネルのワインが楽しめるようになるんです。クラウスさんも自覚できないだけで、この国の空気に馴染んでいると思いますよ」


 そう言ってタウルスは運ばれてきたワインを再び口に運んでいた。

 そのタウルスの言葉に同意せざるを得ないクラウスだった。彼もまた、ここに来て変わっていることを自覚しているからだ。


 マールに来た当初は、これからビールが飲めないことを深く嘆いていた。グラーセンと違って陽気過ぎる人々。全く違う言葉。水や空気、全てが違う環境に戸惑うばかりだった。


 それが今ではどうだ? パン屋の主人とはアンネル語で軽口を言い合えるほどに馴染んでしまい、ビールではなくワインを楽しむ自分。今ではワインを飲めば、それがどこの産地かわかるほどになっていた。


 時折思う。このままアンネルにいると、グラーセンの言葉を忘れてしまうのではないか? グラーセン国民ではなくなるのではないか? それを考えると、不思議な怖さがあった。

 このことを国にいる父に話したらどんな顔をするか、想像できなかった。


「とりあえず、深く考えずに楽しみましょう。確かにビールは恋しいけど、アンネルのワインは今しか飲めないんですから」

 そう言ってワインを飲み干すタウルス。クラウスも手元に置かれている肉料理を口に運んだ。グラーセンにはない味の料理が、美味しいと思うクラウスだった。



 すでに夜の世界がマールを包み込んでいた。あれからしばらくタウルスと飲み交わした後、さらに別の店に行こうと誘うタウルスを振り切り、クラウスは下宿に向かっていた。


 だいぶ飲んだせいか、足元がふらついていた。これでもワインには強くなった方で、最初の頃は立っているのやっとであった。


 太陽に祝福されしマール。それが月の光に変わると、マールは別世界に姿を変える。それは喧騒という意味では同じだが、乱痴気騒ぎと呼ぶべきものだった。


 太陽と共に起き、労働に汗を流した人々は、一日の終わりを祝うべく、酒を飲み交わす。日中も騒がしいほどの喧騒に満ちていたマールは、夜になっても騒がしいことに変わりがなかった。


 酒場で男たちが怒鳴り声のような声で大笑いしていた。いい酒を飲んでいるようだ。

 それを横目で見ていたクラウスは、静かに笑った。

 耳を傷めるような騒ぎは好きではないが、人々が心の底から笑っている光景は嫌いではなかった。


 きっと今頃、グラーセンでも同じような光景が見られるに違いない。

 やはり祖国が恋しい。改めてそう思うクラウスだった。


 今は春の暦。それでも太陽がいなくなれば、マールも肌寒くなる。ワインで体が火照ってはいるが、早く下宿に戻ろうとクラウスは足早に歩いて行った。


 騒ぎの続く酒場広場から離れると、静かな住宅街があった。すでに住民は眠りについているところも多く、街灯以外にいくつかの明かりが見えるだけだった。先ほどまで耳に響いていた酒場の騒ぎも、ここでは隔離された世界のように遠く感じられた。


 街を見守るように並ぶ街灯。それを頼りに歩くクラウス。街灯がなければマールの片隅で迷子になっているだろう。たった一人で歩くクラウスを守るのは、点々と並ぶ街灯だけだった。


 その時、蒸気の唸る音が鳴り響いた。悲鳴のように響く轟音は、鉄道の汽笛が鳴らされた音だった。

「……こんな時間に珍しいな」

 すでに暗い時間になっており、おそらく終電だろうとクラウスは思った。


 鉄道も産声を上げて数十年は経っているが、未だにその存在を知らない人間もいる。何も知らない人間は、汽笛を悲鳴と勘違いすることもあるらしい。


 闇に溶け込むように響く汽笛も、夜の藍色に飲み込まれていった。

 それから間を置くことなく、異変が起きるのはすぐだった。


 どごん! と大きな音が聞えてきた。その音は遠くで起きたもののようで、駅の方から聞えてきた。その音を聞いた瞬間、クラウスの肌が嫌なものを感じ取った。


「……なんだ?」

 簡単に言って、嫌な予感しかしなかった。人の殺意とか、怒りとか、そんな感じの空気が流れてくるのを感じていた。


 何か騒ぎが起きている。それはクラウスにもわかった。だが、それは広場で行われていた乱痴気騒ぎとは違う。何か嫌な匂いのする騒ぎのようだった。


 辺りを見渡す。その時気付く。街灯の明かり以外、ここには自分ひとりだけ。他には誰もおらず、街灯守もいない。まるで孤独な夜の住人のように見えた。

 もし強盗にでも襲われれば、ただでは済まないことは明白だった。そうしていると、さきほどから漂う嫌な感覚がさらに大きくなっていた。


 早めに切り上げるべきだったか。今更なことに舌打ちしつつ、彼は早く安全な下宿に戻ろうと、足早にその場を後にした。 

 下宿はすぐそこだった。慌てる必要はない。しかし手遅れになっても困る。急ぐな。しかし歩くな。矛盾した無理難題を言い聞かせながら、クラウスは足を動かし続けた。


 そうして、下宿まであと少しのところまで辿り着いた。あとは目の前にある角を曲がるだけだった。

 安堵の息を吐くクラウス。ここまで来れば安心だと、彼の無意識が語っていた。


 しかし、その角を曲がるだけということも、神は許す気はなかったらしい。

 クラウスが角を曲がろうとした時だった。向こう側から何かが曲がってきたのだ。一瞬、クラウスにはそれは黒い影のように見えて、人の形をした影が自分にぶつかってきたように錯覚した。しかも相手は全力で走っていたようで、その勢いのままクラウスと正面衝突したのだ。


「うわ!」「きゃ!」

 同時に上がる悲鳴。よろめきつつも相手に視線を向けるクラウス。


 それはまさしく黒い影のようだった。

 クラウスよりふた周りくらい小柄な体格は、闇に飲み込まれそうなほど小さかった。帽子を目深にかぶり、着ている服も全身黒いから、もはや闇と一体化していた。


 その姿から、クラウスは死神を連想した。もしや自分は、地獄で死神と対面しているのではないかと、自分でもおかしいと思えることを考えていた。


 相手が顔を上げてクラウスを見るのだが、どんな顔がはっきりと見えなかった。もしかしたら、髑髏がそこにあったのかもしれない。

 次の瞬間、クラウスを見た相手がはっと息を呑み、一言呟いた。

「我が同胞……」


 何を言われたか理解できず、キョトンとするクラウス。すると向こうから足音が聞こえてきた。その音から大人数で、しかも走ってこちらに来ていることがわかった。


 クラウスの前にいる影がそれに気付くと、一回周りを見た。それから何かを覚悟した様子で、クラウスに近寄った。

「同じグラーセン国民と見込んでお願いします。あなたに愛国心があるのであれば、これからやって来る人たちに何も言わないでください。お願いします」


 同じグラーセン? 愛国心? いきなり何を言い出すのか? 

 クラウスがそれを問い質そうとする前に、死神はすぐ横の路地に入り込み、身を潜めた。

 まるで奇術のように暗闇と一体化した男は、そこにいるのかどうかわからなくなるほどだった。


 クラウスが何も言えずにいると、向こうから大勢の人間が走ってくるのが見えた。クラウスのところまで走ってくると、そのうちの一人がクラウスに話しかけてきた。


「ああ、お邪魔して申し訳ありません。少しお時間よろしいでしょうか?」

 やってきたのはアンネルの警官たちだった。走り回ってきたのだろう。肩で息をしながらクラウスに声をかけてきた。


「こちらに不審人物が走ってくるのを見かけませんでしたか? 黒い衣服でして、ちょうど肩くらいの背丈なのですが……」

 その問いかけにクラウスの背中が冷やりとした。小柄で黒い衣服の不審人物。それはまさしく、さっきの男のことではないか?


 クラウスはどうするか迷った。警察が追いかけているということは、何か犯罪を犯したのではないか? それなら協力するべきではないのか?

 しかし相手は何も言わないで欲しいと言っていた。


 彼の中の良心が疼く。ちらりと横に目を移すと、彼が隠れている路地が見えた。まだそこにいるのかわからない。

 しかし、自分を見つめるあの瞳。自分を見つめながら彼は言った。助けて欲しいと。

「……ああ、はい。確か広場に向ったみたいです。それがどうか?」


 クラウスの言葉に反応して、指揮官と思われる男が視線を送ると、部下達が一斉に走り出した。

「わかりました。ご協力感謝します。それでは」

 そう言って、彼らはクラウスの『偽証』を信頼し、広場まで走って行った。


 喧騒が過ぎ去って呆然とするクラウス。すると路地の暗闇から、先ほどの少年が姿を現した。


「ありがとうございます。あなたがいなければ、どうなっていたことか。感謝に絶えません。重ねてお礼を申し上げます」

 深々と頭を下げる少年。その仕草から、それなりに教育を施された人間であることがわかった。


 それが逆にクラウスを疑問の渦に引きずり込む。そのような人間がどうして、警察に追われていたのか? 

 気になったクラウスは少年を問い詰めた。


「君は何者だ? 警察に追われて、何をしていたんだ?」

「ああ、失礼しました」

 そう言うと、相手は目深に被っていた帽子に手をかけて脱いでみせた。

 今度はクラウスが声を失った。


 帽子を脱いだ瞬間、そこには金色の長い髪が流れ出した。月の光を浴びた髪は一際美しく、そこだけ光り輝いているようだった。

 奇しくも街灯の真下にいたことで、まるでスポットライトを浴びているように見えた。

 そして帽子を脱いだ少年は、微笑みを浮かべてクラウスを見た。

「はじめまして。我が同胞よ」


 クラウスはやっと気付いた。さっきまで少年と思っていた相手が、見目麗しい少女であることに。

 クラウスは昔、女神の誕生神話を描いた絵を見たことがある。今目の前で起きた出来事は、その再現のように思えた。


 唖然とするクラウス。そんな彼に少女が詰め寄ると、上品な微笑みのまま問いかけてきた。

「申し訳ないのですが、もう一つお願いがありまして……どこか静かに、身を隠せるところはございませんか? このままあの人たちに見つかりたくはありませんの」


 淑女がエスコートをお願いするような気軽さだった。

 やはりこの少女は死神なのではないか? そんな疑念が不意に浮かぶクラウスだった。 



 結局クラウスは、自分の下宿に少女を連れてきた。元々狭い上に、学術書などが散乱している状態だったので、少女の麗しさを際立たせる結果を生んでいた。


 クラウスは改めて少女を見た。首から下は喪服のように黒い男性服を着ているのだが、腰まで伸ばした髪と整った顔を見るかぎり、少女であることに違いなさそうだった。

 あまりに場違いな少女の姿。まるでお姫様を誘拐した盗賊になった気分だ。


 クラウスの気も知らず、少女は部屋の中を珍しそうに眺めていた。

「何というのか、あまり広くはありませんのね。まさに最低限の生活だけを求めた部屋ですわ」


 元々この部屋はクラウス自身が希望した部屋だった。無駄に金を使いたくないというのもあったが、広すぎる部屋は逆に負担が大きいと考え、適度な広さを求めたのだ。


「シャルンスト家が貧窮しているわけではございませんでしょうに。もう少し素敵なお部屋を頼んでも良かったのではないですか?」

「いや、この部屋は自分が望んだもので、父は別の部屋を用意すると言っていたのだが……」


 そこまで言葉を紡いで、クラウスは沈黙した。

 この少女は今、シャルンストと言ったか? 何故彼女は、名乗ってもいないクラウスの名を知っていたのか?


 その疑問が顔に書いてあったのか、少女がクスクス笑い出した。

「あら? どうされました? 何か間違ったことを言いましたでしょうか?」


 彼女の言っていることは何も間違ってはいない。だからこそおかしいのだ。何故クラウスが何者なのかを知っているのか? 部屋を見回すが、シャルンスト家を示すものは何もない。


 クラウスは目の前の少女が得体の知れない存在に思えてきた。その様子を楽しそうに見ている少女も本当に楽しそうなのだから、余計に不気味だった。


「ふふ、申し訳ありません。王子様に助けられたみたいで、とても楽しかったものですから」

 歳相応の笑いを見せる少女。すると彼女はクラウスの前に歩み出た。そして、淑女として跪いて、その名を名乗った。


「はじめまして。私の名はユリカ。ユリカ・フォン・ハルトブルク。ハルトブルク公爵家の末席。ハルトブルク家当主様の孫娘にございます。以後、お見知りおきを」

 あ、と小さな声はクラウスのもの。ハルトブルクという言葉に彼は驚きを隠さなかった。


 ハルトブルク公爵。それはグラーセン貴族の頂点に立つ一族であり、王国と歴史を共にしてきた一族だった。


 王国の誕生と共に歴史書にその名を記され、繁栄の時も危機の時も王国を支えた一族だった。軍人や政治家を多く排出し、時に王家と婚姻を結ぶなど、『王冠なき王族』とまで呼ばれるほどの存在だった。


 シャルンスト家もそれなりに名門ではあった。しかし同じ名門でもハルトブルク家は次元が違った。シャルンスト家が剣で王国に奉仕していたとするなら、ハルトブルク家は言葉とペンで持って王国に貢献してきた一族である。

 ちなみにハルトブルク家の現当主は、宰相として王国議会で熱弁をふるっているはずだ。


 「ハルトブルク公爵の……御令嬢? つまり、宰相閣下の?」

 「宰相? そういえばおじいさまはそんなお仕事も兼業していましたわね」

 国王の信任を得る人物を『おじいさま』と呼ぶ少女。もはや冗談でしかなかった。


 その時、コンコンとノックの音が聞えた。クラウスの部屋に誰かが尋ねてきたようだ。

 緊張するクラウス。さっきの騒ぎの直後だ。不審に思った警官たちがここを捜索しに着たのではないか? そんな不安が横切る中、ユリカが安心していいと言ってきた。


「大丈夫です。私に任せてください」

 彼女はそう言うと、ドアの前まで歩いて行った。そこで立ち止まると、ドアの向こう側にいる相手に向かって言った。

「鉄」「石炭」


 それは合言葉だったようだ。相手の答えが合っていることを確かめたユリカは、ドアを開けてそこにいる人物を中に招き入れた。

 そうして中に入ってきた人間をクラウスは見た。相手はクラウスも何回か見たことのある人物だった。


「お嬢様。ご無事で何よりです」

「ありがとうございます。アイゼン大使。心配をおかけして申し訳ありません」

 ユリカに微笑みを向けられ、アイゼンもまた微笑みを返していた。


 彼はアンネルに駐在するグラーセン大使だった。アンネルにおけるグラーセン王国の代弁者であり、政府の代理人であり、そしてアンネルに滞在するグラーセン国民の庇護者であった。


 クラウスも幾度か大使館に行ったことがある。その時にアイゼンを遠目に見たことはあったが、こうして直接対面するのは初めてのことだった。

 そのアイゼンがクラウスに向き直った。


「クラウス様ですね。お嬢様を助けていただいて、とても助かりました。私はグラーセン外務省から派遣されたアイゼンという者です。グラーセン政府に代わって、お礼申し上げます」

 微笑みを浮かべたまま、頭を下げてくるアイゼン。クラウスも同じように頭を下げた。


 少し気圧されるクラウス。アイゼンの笑みはどこか油断ならない雰囲気があった。外交官だからなのか、もしくは外交官特有の空気なのか、微笑みを浮かべているのに、眼鏡の奥に見える瞳は、わずかな鋭さが感じられた。


 気まずさを紛らわそうと、一回咳払いをするクラウス。一旦落ち着きを取り戻し、彼はもう一度ユリカたちに向き直った。


「あー……それで、あなたたちが何者かはわかった。しかしハルトブルク家のご令嬢が、どうして警察に追われていたのだ? まさか窃盗でもしたのか?」

 クラウスが問いかけたところ、ユリカが考え込んだ。答えに困っているようだった。


「そうですね……どこからお話すればよいものか……」

 その時、ユリカの視線がクラウスに集中した。何も言わず、彼を観察し始めた。

 値踏みするように上から下まで、全身を隈なく観察した。何を見ているのか不安に感じるクラウス。


「……何か?」

 クラウスが声をかけようとした時、ユリカが勢いよく顔を上げてクラウスに問いかけてきた。


「クラウス様。誰か婚約者か付き合っている人。もしくは想い人はいますか?」

「……はあ?」

 予測していなかった質問に呆然とするクラウス。横で見ていたアイゼンも同じで、呆気に取られていた。ユリカはそれにも構わず、さらに詰め寄った。


「一体何の関係が?」

「これは重要な質問です。お答えください」

 ユリカの目がクラウスを射抜く。その目は確かに真剣で、逃げることを許さない迫力があった。クラウスは視線を背けながら答えを口にした。


「いや……そういう相手はいない、が……」

 戸惑い、ためらいつつも答えるクラウス。それを聞いたユリカは笑みを浮かべた。可愛らしい笑みなのに、そこからは嫌な予感しかしなかった。

 ユリカは身を乗り出してある提案をしてきた。


「クラウス様。あなたさえよければ、私に協力していただけないでしょうか?」

 協力という言葉にクラウスは身構えてしまう。相手は警察に追われていた人間なのだ。そんな人間がどんな協力を要求するというのか。


「お嬢様。よろしいのですか? クラウス様は今日会ったばかりですし、それに民間人です。巻き込んでしまっていいのですか?」


 アイゼンが心配そうに問いかける。一体どんな協力を求めようとしているのか、クラウスにはわからなかった。少なくともアイゼンの態度からは、あまり良いこととは言えない代物のようだった。


「大丈夫です。それに協力者がいた方がこちらとしても助かります。クラウス様の安全だけは確保しますので」

「お嬢様がそう仰るのであれば……」

 まだ心配そうにしているアイゼンだが、最後には身を引いた。それからユリカはクラウスに向き直り、もう一度その瞳を向けてきた。


「改めてクラウス様。これから私たちに協力していただけないでしょうか? 無論内容を聞いて拒否する権利はあります。まずはお話だけでも聞いていただけないでしょうか?」


 どんな内容かはわからないが、相手は警察に追われていた人間だ。あまりいい予想はできなかった。それでも話も聞かずに拒否するというのも気が引けたので、とりあえず話だけでも聞くことにした。


「協力とは、一体どんな?」

「私と共に、祖国に貢献していただきたいのです」

 ユリカはそう言って、その場に立ち上がった。そして真っ直ぐにクラウスを見つめた。


「クラウス様。今から私がお話しするのは、これから百年先まで語り継がれるであろう、これから生まれる御伽噺、あるいは神話についてです。あなたがそれをどう思われるかわかりません。まずはどうか、私のお話を聞いてください」


 流れるように語るユリカ。その言葉はまるで福音のようで、聞き流すことのできない魅力があった。

 クラウスは知らない間に、彼女の言葉に惹きつけられていた。


「……それで? あなたの言う神話とは、一体どのようなものでしょうか?」

 それだけ問うのが精一杯だった。ユリカは話を聞いてくれるとわかると、はっきりとした口調で宣言した。



「私がここにいる理由はただ一つ。クロイツ帝国の統一。『皇帝戦争』によって消滅したかつての帝国の復活こそ、私が目指す未来ですわ」



 今度こそクラウスは耳を疑った。あるいは目の前の少女を疑った。

 ユリカの語る夢。クロイツ統一。それはかつて存在した帝国の再現であり、この大陸の過去を呼び起こすというものだった。


 まだ騎士が馬に乗り、鎧兜を着ていた時代。大陸には巨大な帝国が存在していた。

 クロイツ帝国。大陸中央部の大部分を領土とし、北はドッカー海から南はアルジェ海まで。文字通り大陸を縦断するほどの領土を有した大国だった。


 元々グラーセンもこの帝国の辺境地域に過ぎなかった。それが長きに渡って帝国に貢献してきたことで、クロイツ皇帝からグラーセン領の独立が認められ、新たにグラーセン王国が建国したのだった。


 しかし、各国が繰り返してきた戦争により、大陸の地図は何度も書き換えられてきた。それはクロイツ帝国も同じで、少しずつ領土は切り離され、削られ、その形を変えていった。


 多くの戦乱に包まれ、民や領土はその度に疲弊していき、多くの諸侯の血脈が途絶えた。

 さらに大陸に大きな転換点が訪れる。『皇帝戦争』と記録される革命の時代である。


 数十年前、このアンネルで革命が勃発した。それまで王制が敷かれていたアンネルでは国民が国王の権威を否定し、国王を処刑。国民主権による共和国が新たに誕生した。

 その瞬間、共和国が誕生すると共に、大陸に革命戦争の時代が始まった。


 アンネルが共和国に生まれ変わった結果、革命が広まることを恐れた列強は共和国を警戒し、アンネルとの間で戦争が始まった。

 君主に率いられた大軍が瞬く間に共和国を蹂躙する。誰もがそう予想していた。革命の運命はすぐに尽きるかと思われていた。

 そのアンネルに一人の英雄が誕生したことで、歴史は大きく変わることになる。


 英雄の名はアレシア・ゲトリクス将軍。彼はアンネル共和国軍を指揮し、革命に対抗する列強との戦争を戦った。それからのアレシア将軍と、彼に率いられた共和国軍は、世界史上最強の名を刻むことになる。


 共和国軍は列強に連戦連勝。列強は悉く敗北。大陸の大部分がアンネルの勢力下に置かれる頃には、アレシア将軍はアンネルの皇帝となり、ユースティア大陸はアレシア皇帝のものになっていた。

 その皇帝と共和国軍の銃口は、ついにグラーセンとクロイツ帝国にも向けられた。


 グラーセンもクロイツも勇戦した。しかし戦争の天才アレシア皇帝と、共和国軍の熱狂は両国をいとも簡単に飲み込んだ。その結果、グラーセンはアンネルに屈服。さらにクロイツは講和条約で、領土の割譲及び帝国を形成していた中小のいくつかの諸侯領を『保護国』とすることが決められた。


 領土割譲と保護国化。それが意味するところは、帝国の分裂だった。

 結局帝国はその名前すらも消滅し、その存在を語れるのは歴史書だけになってしまった。


 その後、アレシア皇帝とアンネルは戦争を続けるが、列強も粘り強く戦い続け、アンネルを追い詰めていった。最後は列強とアンネルとの間で大会戦が開かれ、ついに列強はアレシア皇帝を打倒するに至った。


 その後、アレシア皇帝はアンネルを共和国として存続させることを条件に退位。アルジェ海の孤島に幽閉されて、一人静かに息を引き取った。共和国という遺産を残して。

 ここに革命は終わり、これ以降ユースティア大陸は長い平和の時代を実現させることになった。『皇帝戦争』と呼ばれる動乱の時代だった。


 皇帝戦争の時代から長い時間が経っていた。時代を越えた今、一人の少女が夢を語っていた。

 その歴史の中の存在である帝国を、ユリカはもう一度再現させると語った。

 それがどれほどの難題か、クラウスは考えることもできなかった。


「……帝国の、再統一?」

「そう。クロイツ帝国を復活させる。それが私が目指す未来です」

 するとユリカは胸ポケットからある物を取り出し、クラウスに見えるように掲げて見せた。

 クラウスが見ると、それは彼もよく知っている物だった。それはグラーセン王国の紋章が刻まれた勲章だった。


「グラーセン王国軍参謀本部所属。ユリカ・フォン・ハルトブルク大尉。それが私の今の階級ですわ」

 グラーセン王国軍参謀本部。それは軍の運営を担う一機関であった。参謀本部は平時において戦争計画を研究する機関であり、軍備や動員、兵站や人事など、軍隊という組織を強力にする為の機関である。ユリカはその機関に所属する、正真正銘の軍人というわけである。


 勲章をポケットに戻してから、ユリカは再度クラウスに語りかけた。

「これは公式見解ではありませんが、グラーセン国王陛下をはじめ、政府はグラーセン主導によるクロイツ統一を計画しています。私が所属する参謀本部は、クロイツ統一のために秘密裏に活動しております。私がここにいるのも、その一環だと思ってください」


 ユリカの横に並んでいたアイゼンも頷いていた。

「グラーセン外務省も参謀本部の活動に協力しております。外務省も政府と同様にクロイツ統一に向けて動いております。今はまだ公に活動しておりませんが、その内公式の見解として宣言されると思われます。これは陛下ならびに政府の意思でございます」

 王国政府の代理人が、政府の秘密の計画を明かした。


 その一言がクラウスには信じられなかった。すでに帝国が消滅してから長い時が流れている。かつて同じ帝国領だった国はそれぞれの立場を持っており、利害関係や同盟・敵対など、複雑な国際関係を形作っていた。帝国を復活させて一つの国家になるというのは、それら国々をまとめるということだ。

 砕け散った宝石を再び元の形に戻すような、途方もないことだった。


 クロイツ統一。神話の時代であっても、そんな話は聞いたことがなかった。

 しかし、何より信じられなかったのは、その夢を語るユリカの瞳が、自信に溢れていたということ。それは確信している者の瞳だった。

 彼女はクロイツ統一という夢を、必ず実現する夢であると確信しているのだ。そのことがクラウスには信じられなかった。


「あなたたちは、それが可能だと思うのですか?」

 そんなことは不可能だと、そう言っているように聞こえた。実際、そうした気持ちが込められた問いかけだった。

 しかしユリカはそれを無礼だとは思わず、逆に胸を張ってみせた。


「神は我らに道を示してくれました。あとは私たちがどうやってその道を歩くかです」

 宗教家の格言にありそうな言葉だった。

「確かにクラウス様の反応は当然かと思います。多くの困難や試練が待ち受けていることでしょう。ですが、歴史はそうした不可能が実現してきたことを記録しております。帝国の復活も、不可能ではなく確実な未来であると断言します」

 アイゼンも頷いていた。政府がどれくらい熱心に動いているのかわからないが、アイゼンの反応を見る限り、相当本気であることがわかった。


 ふとここでクラウスが思い出す。それなら何故この少女は、先ほど警察に追われていたのだろうか? その疑問を口にした。

「あなたの目的はわかったが、それと今夜のことはどんな関係が?」

 質問されるとユリカはなんてことのない具合で答えた。

「帝国統一のための、小さな寄り道ですわ」

 何のことか要領を得ないクラウス。怪訝な顔のクラウスに、ユリカはさらに詰め寄った。


「さて、ところでクラウス様。明日から大学をお休みいただけないでしょうか? それで私と共にジズーまで来ていただきたいのですが、お願いできますか?」

「ジズー?」

 ジズーとはアンネル最大の貿易港であり、多くの商船が行き交う港だった。そういえば先ほど、協力して欲しいと言われたばかりだった。


「いきなり急だな。明日から? どうして?」

「これも王国の、そして帝国統一のため、とだけ言っておきます。細かいことは明日汽車の中でお話します。というより、来ていただかないとお互い困ってしまいますわ」


 不思議な物言いをするユリカ。お互いということは、ユリカだけでなくクラウスも困るということだ。一体どういうことなのか? その疑問にユリカは訊かれる前に答えてくれた。

「私を追いかけていた警官の皆さんが、クラウス様を疑わないとは限りません。多くの容疑者がいる中で、グラーセンからの留学生は多くありません。クラウス様にも捜査の手が及ぶのは確実でしょう。そうなれば私のことも疑われる可能性が出てしまいます」


「……なるほど、確かにその通りかもしれない」

 どう考えてもユリカに巻き込まれた形なのだが、事実として彼にも警察の捜査が来るかもしれない。何か犯罪を犯したわけではないが、面倒になる可能性はあった。


「ですので、明日からしばらく街を離れるべきだと思います。ジズーでは貴方がいれば大いに助かりますし、ぜひ協力していただきたいのです。どうでしょう?」

 そう言って、彼女は小さな手を差し出してきた。


 その手を握るか否か。たったそれだけのことで、運命は大きく分かれていた。

 相手はグラーセンの大貴族の娘。それほどの人間が自分に頭を下げてくる。それがどんな意味を持つのか、クラウスが理解できないわけがなかった。


 正直不安だった。警察に追われていた少女。その少女はクロイツ統一という夢を語り、その夢に協力して欲しいと手を差し出してきた。言葉だけなら、何が起きているのかわからないというのが本音だった。

 しかし、クラウスは目の前にある手を振り払うことができなかった。


 少女の夢は果てしないものだし、ありえないものだ。多くの人間が不可能だと思うだろう。

 だが、ユリカの言葉には不思議な魅力があった。

 もしクラウスが同じことを叫んだとしても、誰も見向きもしないだろう。だがユリカは違った。


 彼女の言葉はとても魅力的で、輝いていて、本当に叶うのではないかと、そう思わせる力があった。彼女なら、帝国の統一は不可能ではないのかもしれない、と。

 説得力とは何を言ったかではなく、誰が言ったかが問題だという。なるほど、確かにその通りだ。ユリカが言えば、これほど素敵なことはない。


 彼女と同じ未来を見てみたい。そう思った瞬間、クラウスは目の前に差し出された手を握り返した。

「……わかった。自分に何ができるかわからないが……」

 そんなクラウスの言葉にユリカは微笑んだ。嬉しそうに微笑んでくれた。


 今夜起きたことは誰に言っても信じてもらえるとは思えなかった。もしかしたら自分はベッドで酔い潰れているのかもしれない。

 しかし、その手に握るユリカの手からは、確かにぬくもりを感じた。そのぬくもりが、これが夢ではないことを教えていた。


 横で控えていたアイゼンも、クラウスに手を差し出してきた。

「クラウス様。お嬢様のことをよろしくお願いします。決して無理をなさらず、ご自愛下さい」

 信頼と心配を伝えるアイゼン。そのことに感謝しつつ、インクで匂いのするその手を力強く握り返すのだった。

 そんな二人を見つめながら、ユリカが満足そうに笑った。

「よろしくお願いしますわ。我が同胞よ」

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