第三話 アイネ・クライネ・ナハトムジーク
#1
「風が気持ちいいわね。ねー、スペランツァ?」
那由多の腕の中にいるスペランツァは、那由多への返事かただのタイミングか、みゃあ、と鳴いた。
那由多は桜華堂の屋根の上に腰かけ、星を見ていた。少しずつ蒸し暑い日が増えてきたが、夜風はひんやりと心地良い。
「あなた、賢くていい子ねえ。あたしの使い魔にならない?」
スペランツァは否というように、にゃっと短く声を上げる。
「冗談よ。あなたは晶ちゃんに会いに来たんだものねえ」
お詫びに撫でると、スペランツァは満足そうに喉をごろごろ鳴らしている。
しかし、
「スペランツァ、どこー? あ、昴さん、スペランツァ見なかった?」
下から晶の少し焦った声が聞こえてくる。
「見てないけど。いないの?」
「うん、どこにも見当たらないの。どっかから脱走してたりしたらどうしよう」
「どこも窓とか開いてないよね? 一緒に探すよ」
それを聞いて、
「心配させてるみたいだから、そろそろ戻りましょうか」
スペランツァを撫でながら語りかける。
そして、ひらりと身を躍らせると、窓から自分の部屋に入った。カーテンがふわりと夜風に揺れた。
*
「ただいま」
学校から帰ってきた晶が、裏からそっと顔を出す。
「おう、おかえり」
厨房にいる仁が真っ先に返事をする。夕方だからか、店内の客入りはまばらだった。
仁は仕込みをしていて、陽介は帳簿でも付けているのか、レジの前でパソコンとにらめっこしている。那由多はアルコールスプレーを持って、空いているテーブルを拭いていた。昴はいない。大学のようだ。
陽介と那由多も晶の帰宅に気付いて、「おかえり」と声をかける。
晶が桜華堂にやって来て二か月余り。新しい生活にも慣れてきた。
「ただいま」と「おかえり」。たった四文字のやりとりができるだけで、胸がほんのり温かくなる。ここが帰ってくる場所なのだと思える。
「陽介おじさん、後でちょっと、時間いいですか?」
晶が言うと、陽介は顔を上げて、
「今でもいいよ? どうしたの?」
何かあれば可能な限り迅速に対応する。それが子供に関わることなら尚更だ。それが陽介の方針なので、この時も事務作業を中断して晶に向き合った。
店でプライベートな話をするのもよくないので、住居スペースのリビングへ移動する。
「今度、三者面談があるんだけど……」
ソファに腰かけた晶は、鞄から案内の書かれた一枚のプリントを差し出す。希望日を書き込んで、先生がスケジュールを調整するらしい。
そういえばそんなものがあるのか。陽介自身に子供はいないから、どんな学校行事があるのかよく知らないままだった。把握しておかないと、と陽介は思った。
「水曜は定休日だからいつでも行けるし、平日も夕方なら抜けられるかな」
陽介は言いながら、プリントに希望日を書いて晶に渡す。
「ありがとう」
晶はプリントをクリアファイルに挟んで、鞄にしまう。
「ところで晶ちゃん、行きたい高校、決まってるの?」
聞くと、晶はきょとんと目を瞬かせる。
「……あんまり考えてなかった。行けるとこならどこでもいいかなーって……」
いつまで同じ場所で暮らしているかわからなかったから、考えようともしなかったというのが正しい。当たり前に未来の展望を聞かれる日が来るとは、思わなかった。
「でも成績良いんだし、大学も行くでしょ? だったらある程度偏差値の高い、進学校狙わないと」
見せてもらった晶の過去の成績表は、五段階評価でほとんど4か5の数字が並んでいた。
「考えてなかった」
そんな先のことまで、全然。早く独り立ちして、誰かの世話にならなくても生きて行けるようになろう。それだけしか、頭になかったから。
陽介はそんな晶の様子を見て、優しく微笑む。
「やりたいことが決まってるとかじゃなければ、大学は行ったほうがいいよ。武器は多いに越したことはないしね」
晶はテーブルに視線を落として、じっと考えている。
「お金なら気にしなくていいよ。君のお母さんから、ちゃんともらってるから」
「えっ、そうなの?」
始めて知った、という顔だった。
陽介の元には、晶の母親から毎月十分すぎるくらいの養育費が振り込まれていた。おそらくはこれまでもそうだったのだろうが、もしかして今まで知らずに、お金のことで苦労してきたのだろうか。
もっとも、陽介はそれがなくても子供一人くらいは養おうという覚悟で晶を迎え入れたのだが、言っても遠慮されるだけだろうから、言わないでおく。
「歩きか自転車で通える距離なら
晶は頭の中にそれらの高校の名前をメモしたのか、
「ありがとうございます」
と軽く頭を下げる。調べてみる、という晶と別れて、陽介はカフェの仕事に戻った。
しかし、三者面談よりも前に、晶の担任教師から電話があり、陽介は呼び出されることになる。
晶がクラスメイトに怪我をさせた、という話だった。
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