#3

 カラン、とドアベルが鳴って、新しい客が入ってきた。

「いらっしゃいませ――」

 晶と同じくらいの少女と、その母親らしき女性だった。その少女と、晶の目が合う。

 瞬間、ぴしり、と世界にひびが入った。不協和音が響く。

 大きな乱れはその一瞬で、晶は何事もなかったように演奏を続けたが、その旋律が紡ぎ出す光景は、それまでとは明らかに異なっていた。

 雨に混じって黒いしみが地面に転々と広がっていき、水底に光が届かなくなる。

 晶は演奏を終えると、逃げるようにその場を去って行った。


 それ以来、晶はしばらく演奏はしない、と申し出た。

「正式に契約とかしてるわけじゃないからねえ。それは別に構わないんだけど……」

 元々晶次第で開かれていたものだから、多少客寄せになっていたとはいえ、経営に影響はない。しかし、心配なのは晶の様子だ。

 あの日以来、晶は少し元気がない。桜華堂に来て、初めは表情が硬かったのが、少しずつ笑顔を見せるようになってきたと思っていたのだが、ふっと陰ってしまった。どうしたのかと聞くと、「何でもない」と笑って見せるが、空元気なのは明らかだった。

 バイオリンは、人前では弾かなくなったが、一応練習は続けているようだった。時折、か細い音色が聞こえてくる。しかし、その音が光を纏って輝くことはなかった。

 

 そんなことがあった少し後の夜、昴は自室で大学の課題を終え、新作のプロットを練ろうにも上手くまとまらず、水でも飲もうと下に下りてきた。

 時刻はもう深夜に近い。しかし、リビングには先客がいた。

「あれ、晶ちゃん、まだ起きてたの?」

「うん。スペランツァの構って攻撃がすごくて……。スペランツァ、もう寝るからねー」

 言って、晶はスペランツァをケージに戻し、素早く扉を閉める。手慣れたものだ。

 晶と同時期に桜華堂の住人となったスペランツァは、当初離乳間もないくらいの子猫だったが、すくすくと育っている。誰もいない間は、危ないのでケージで生活してもらっているが、その分、ケージから出られる時間が嬉しくてたまらないようで、元気に跳ね回っている。特に、拾ってくれた晶には懐いていて、しょっちゅうまとわりついていた。

 ケージに入れられた後も、まだ遊び足りないのか、スペランツァはみゃあみゃあ鳴き続けている。

「じゃあ、おやすみー」

 晶はテーブルに置いていた一冊のソフトカバー本を持って、部屋に戻ろうとするが、

「その本……」

 思わず呼び止めてしまった。その本が、昴のよく知るものだったから。

「これ? 昴さんも知ってる?」

 知ってるも何も、それは一ノ瀬三月――昴のデビュー作だった。何度も読み返しているのか、表紙の角は擦り切れているが、大事にされている感じがする。

「……それ、面白い?」

 自分の作品の感想を聞くのは正直怖いが、何となく口をついて出てしまった。

「うん。小学校の時に、本屋さんでたまたま見かけたんだけど……」

 どうしてか、ぐっと惹きつけられた。表紙がきれいだなと思って少し開いて読んでみたら、どうしても手元に置きたいと思い、少ない小遣いを握ってレジに向かった、思い出の本なのだと。

「ずっと引っ越しばっかりだったから、荷物増やせなかったんだけど、この作者の本だけは捨てられなくて。読むと元気になれる気がするんだよね。新作も待ってるんだけど、ずっと情報出ないし。もう書かないのかなあ」

 それを書いたのは自分だと言ったら、彼女はどんな反応をするだろうか。でも、未だ新しい物語を生み出せない昴には、名乗り出る資格はない気がした。

「……やっぱり、元気なかったんだ?」

 いたたまれなくて、話題を変える。冷蔵庫を開けて、二人分のコップに麦茶を入れて、座り直す。

「あ、もしかして心配してた?」

「当たり前だろ」

 人の事情に深く踏み込まないのが暗黙のルールだが、同じ屋根の下に暮らす仲間の元気がないのは気になる。まして、それがまだ庇護されるべき年齢の子供なら。

 そんなに子供扱いしないでよ、と晶はすねたような顔をするが、

「……この前の子、小学校の……高学年の頃かな、音楽教室で一緒だったんだけど」

 やはり聞いてほしい気持ちはあったのか、話を始める。

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