#3
猫に手を伸ばそうとして、晶は途中で動きを止めた。
蘇るのは、昔に出会った同じ柄の猫の記憶だ。
幼い頃、子猫を拾った。冷たい雨が降る夕暮れ時だった。あの時は母と暮らしていたが、母は留守がちで、その日も晶は一人だった。
同じく一匹で弱々しく泣いていた子猫を放っておけなくて、家に連れ帰った。痩せて汚れた身体をタオルで拭いてやり、小遣いで買ったキャットフードを与えたが、あまり食べなかった。
元々弱っていた子猫は、時間が経つにつれて動かなくなっていった。晶はどうしたらいいかわからず、泣きそうになりながら、一晩中、子猫を抱いて撫でていた。
けれど、いつの間にか眠ってしまって、朝になった時、子猫は冷たく動かなくなっていた。
あの時の子猫と、目の前の子猫が重なる。
見なかったことにすればいい。きっとそれが一番楽だろう。でも。
宙に浮いた手に、子猫が頭を擦り付けてきた。ずいぶん人懐こいみたいだ。
それを見ると、心臓がぎゅっと痛んだ。
誰にも頼れない。頼らない。
晶は部屋に戻ると、財布を持って再び外に出た。ここに来る途中に、スーパーもコンビニもあった。キャットフードくらい売っているだろう。
夕方になると、店先には「本日、都合により早仕舞いさせていただきます」と張り紙が張られた。
そして、居住スペースのリビングに桜華堂の一同が会し、晶の歓迎会という名目で、夕食会が始まった。
テーブルの上には、サラダやハンバーグ、ドリアにパスタなどの料理が大皿に盛られて所狭しと並べられ、それぞれの前には飲み物の入ったグラスが置かれていた。
「店のメニューだけど、仁君の料理は美味しいんだよ。遠慮なく食べてね」
目を丸くする晶の手に、オレンジジュースの入ったグラスを持たせて、乾杯が行われた。
「じゃあ、改めて自己紹介しようか。僕はここのマスターで、七海陽介。何かあったら、遠慮なく言ってね」
そう言って、七海氏は優しく微笑む。そこに、昼間の美人ウエイトレスが割り込んできた。
「はいはーい、さっきも言ったかもだけど、あたしは藤森那由多。女の子が来てくれて嬉しいわ。仲良くしましょうね!」
彼女のグラスには、おそらく酒が入っている。酔った勢いなのか、これが元々の性格なのかは、判然としないところだ。
「冷めないうちに食べましょ。嫌いなものはある?」
言いながら、戸惑う晶の皿に料理を次々と取り分けていく。
「那由多さん、あんまり馴れ馴れしくしないであげてくださいよ。晶ちゃん、困ってるじゃないですか」
呆れ顔で言ったのは、眼鏡をかけたもう一人のホールスタッフの方だった。
「昴君は固すぎるのよ」
唇を尖らせてみせる那由多を無視して、
「俺は森山昴。大学2年。よろしくね。えっと、晶ちゃん、って呼んでいい? それとも和泉さん?」
那由多にはまた、そういう所が固いのよ、と言われている。
七海氏には既に「ちゃん」付けで呼ばれているし、どこの家でも大体そうだった。なので、今更別に気にしないのだが、きちんと許可を取ろうとする当たり、真面目というか、やっぱり固いのだろう。
晶は、名前で呼んでくれて構わない、と答えた。
那由多がうんうん、と満足そうに頷く。
「で、あっちのコワーイ顔してるのが、春日井仁君。ここのシェフよ。顔はあんなだけど、料理の腕は一流なのよ」
「怖い顔で悪かったな」
那由多に水を向けられて、ちびちびとグラスを傾けていた仁が顔を上げた。
「まあ、よろしく」
仁はそう一言だけ言った。やっぱり、あまり喋らない人のようだ。
「さあ、自己紹介も終わったところで、ご飯にしよう」
七海氏が言うと、それぞれ料理に手を付け始める。
晶も、那由多に山盛りにされた皿を取った。こんなに食べ切れるだろうか。
夕食会は、和やかに進んだ。那由多はあれこれと晶の世話を焼こうとするが、皆晶の事情を根掘り葉掘り聞いてくるようなことはなかった。あるいは既に七海氏がある程度話しているのかもしれないが、質問攻めにされないのは楽だった。
料理は昼間食べたパスタと同じく、どれも美味しかった。
自分のために用意してくれたご飯。それは不思議と温かかった。
食べながら、晶はそっと窓の外に目を向ける。
餌は少し置いてきたが、猫は無事だろうか。
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