桜華堂で待ってる
月代零
第一話 ストレイ・ガール
#1
春は、出会いと別れの季節だ。卒業式に入学式、あるいは進級、あるいは就職。寒い冬が終わり、暖かくなるのは嬉しいが、環境や人間関係が変わるのはストレスにもなる。
けれど、何となく街の空気が浮足立つ中、古書カフェ「
桜華堂は駅から徒歩約15分とやや不便な立地にあるが、古い洋館を改装して造られた落ち着いた雰囲気と、店主が仕入れてくる古本に、美味しいコーヒーや料理が評判となって、幸いなことに経営は安定していた。
裏庭に一本だけ植えられている桜の木は、蕾が膨らみ始めている。普段はこの木が桜であることなんて、正直忘れかけているのに、桜というのはこの時期になると急に存在感を主張してくる。
今年はいつ花見に行けるかな、などと考えながら、
4月から大学2年生になる昴の身辺には、大して変化はない。叔父が経営するこの桜華堂で下宿とアルバイトをさせてもらいながら大学に通って、1年が経つ。
ここは居心地がいい。いつまでもここにいることはないだろうけれど、大学生でいる間は、変わらずここで過ごせればいいと思う。
「ただいま」
昴は買い物袋を厨房のカウンターに置いて、中で働く面々に声をかけた。春休み中の今、昴も昼間からシフトに入っていた。
「おかえり、昴君。買い出し、ありがとうね」
穏やかな笑みを浮かべてコーヒーを淹れているのは、この店のオーナーで、昴の叔父でもある
「昴君、おそーい! 回らないから、早く入って!」
そう言って急かすのは、ホールスタッフの
客席から「すみませーん」と呼ぶ声がして、那由多は「はーい」と明るく返事をしてそちらに向かう。食材がなくなりそうになり、ランチのピークを過ぎた隙に買い出しに出た昴だったが、見ると20数席程度の店内は満席に近くなっている。
「仁さん、イチゴと生クリーム、ここに置いておきますね」
「ああ、サンキュ」
料理担当の
昴は買ってきたものを仕分けし、冷蔵庫に入れるべきものは入れる。手を洗ってエプロンを付けると、ホールに向かった。
交代で休憩を取りながらディナータイムの営業と閉店作業を終えて、21時。桜華堂は、他のチェーンの店より閉店時間が少し早い。
皆でリビングに集まってお茶とお菓子をつまみながら、テレビを見たり本を読んだり、それぞれ好きなことをしていた。
オーナーの陽介も含め、昴、那由多、仁もこの洋館の2階に住んでいる。別に住み込みで働くことが条件ではないが、家賃が格安ということもあり、ここで共同生活を送っていた。
「そうそう、今度、新しい子が来るんだ。部屋、那由多ちゃんの隣でいい? 今度の休み、掃除するから手伝ってくれる?」
陽介が、突然そんなことを言い出した。変化がないと思われた環境にも、変化が訪れるようだ。
「へえ、どんな子?」
「女の子だよ。4月から中学3年生だったかな?」
遠縁の子なんだ、と陽介は付け加える。ということは、昴とも親戚ということだろうか。
「……その子、親はいないんですか?」
仁がもっともな疑問を言う。
「いるにはいるんだけど、仕事で海外を飛び回ってて、あまり一緒にいられないみたいでねえ。親戚にあちこち預けられたりで、落ち着かない生活してるらしいんだ。けど、うちなら部屋もいっぱい空いてるから、来てもらっても問題ないし。仲良くしてあげてほしいな」
家主がそう言うのなら、店子である昴達がどうこう言うことはない。自分たちはここでの共同生活を上手く送るために努力する。今までもそうしてきたし、新しい住人がやってきてもそうするだけだ。
了解、と那由多が言い、
「で、いつ来るの、その子?」
「来週かな」
「随分急なのねえ」
「行き場がなくて困ってたみたいだから。知ってたら、もっと早く来てもらったんだけどねえ」
言っても仕方のないことだけど、と陽介は言う。中学3年という、ただでさえ難しい年頃に、そんな事情が加われば、一体どんな子なのだろうと、少々不安にはなるが、会う前から勝手な想像をするのも失礼だろう。
「その子、名前は何て言うんです?」
昴が尋ねる。
「
*
スマートフォンの地図アプリで道を確認しながら、スーツケースをガラガラと引っ張って、少女は桜華堂の前に辿り着いた。その古めかしい店構えを、ぼんやりと見上げる。チェーン店と違って、こういう個人店は中学生には入り辛い。
(……ここにはどれくらいいられるかな……)
とりあえず、粗相はしないようにしないと。目立たないように、息を潜めて暮らす。いつものことだ。高校生になったら、一人で暮らせばいい。それまでの辛抱だ。
胸中で呟き、少女は店のドアを開いた。ドアに付いたベルが、チリン、と澄んだ音を立てる。
「いらっしゃいませー。おひとり様ですか?」
すぐに、眼鏡をかけた若い男性店員が声をかけてきた。
「あ、えっと……」
口ごもっていると、奥にいた初老の男性がすぐに気付いて、
「やあ、晶ちゃん、だよね。よく来たね、待ってたよ」
にこにこと人の好さそうな笑顔を浮かべて、エプロンで手を拭きながらカウンターから出てきた。彼が新しい家主で暫定保護者の、七海陽介氏、だっけ?
「ごめんね、今ちょっと忙しくて。落ち着いたら部屋に案内するから、とりあえず座って。ご飯は食べた?」
七海氏は目を丸くする晶を窓際の端の席に誘導して、座らせながら、矢継ぎ早に言う。晶は首を横に振った。
「じゃあ、何か食べながら待ってて。これメニューね。あ、お金は気にしなくていいよ、店からおごるから!」
早口でそう言うと、展開についていけない晶を置いて、カウンターに戻ってしまった。
(どうしよう……)
お金は気にしなくていいと言われたが、それではいそうですか、と言えるような育ちを、晶はしていない。かといって、何も頼まずに席に座っているもの気が引けるし、移動で昼食を食べ損ねていたのも事実だ。ためらいながら、メニューに目を落とす。すると、
「お冷、どうぞ」
先程の眼鏡の店員が、七海氏と似た笑顔を浮かべて、水の入ったグラスを晶の前に置いた。
「注文、決まった?」
言われて慌ててメニューに目を走らせ、目に留まったきのこの和風パスタを注文した。
「ドリンクはどうしますか?」
どうやら、セットドリンクが付くらしい。
「じゃあ……アイスティー……。ミルクで」
「かしこまりました」
店員は伝票にそれを記入すると、少々お待ちください、と言って去っていった。
料理が来るまで、晶は店の中を横目で観察する。
店内は、ブラウンを基調にした落ち着いた内装だった。古本とコーヒーの匂いがする。お昼時はやや過ぎているが、客席はそこそこ埋まっていた。友人や恋人と談笑する人、本を選びながら料理を楽しむ人などがいるが、騒がしい感じはしない。
ホールには先程の眼鏡の店員の他にもう一人、20代半ばくらいの女性店員が元気に動き回っている。
カウンターの内側はオープンキッチンになっていて、働いている様子が見える。カウンターの中には、七海氏の他にもう一人、仏頂面でひたすら料理を作っている男がいる。30代くらいだろうか。女性店員の元気が有り余っている感じなのに比べ、彼は「いらっしゃいませ」も「ありがとうございました」も、申し訳程度にしか言っていない。なんだか怖い。
1階が店舗で、2階が住居という話だったが、奥の様子は当然ながらここからは見えない。
そうこうしているうちに、料理が運ばれてきた。
「お待たせしました」
きのこパスタとサラダの皿を晶の前に置いたのは、女性店員の方だった。アイスティーに添えられたミルクとガムシロップは、小さなポットに入っていておしゃれだった。
「初めまして。あなたが晶ちゃんね? あたしは藤森那由多。あたしもここに下宿させてもらってるの。後でゆっくりお話ししましょ」
那由多はそう言って、長いまつ毛に縁取られた目で晶にウインクを飛ばすと、仕事に戻っていった。
ここの人たちは、新しい住人をどう思っているのだろう。今までの多くがそうだったように、腫れ物に触るような、あるいはあからさまに邪険にされているような感じはしないけれど。
とりあえず、晶はアイスティーにミルクとシロップを少し入れて、一口すすった。冷たさとすっきりした風味が喉を伝い落ちていく。
続いて、パスタに手を付ける。香ばしい醤油とバターの香りが、食欲をそそる。パスタの茹で加減も絶妙で、しめじ、舞茸、えのきなどの歯応えに、玉ねぎとベーコンの旨味が加わる。
(美味しい……)
思えば、ゆっくり味わってご飯を食べたのは、久しぶりな気がする。いつも、周りの顔色をうかがってばかりで、味わう余裕なんてなかったから。
ふと視線を感じて顔を上げると、厨房の方を見ると、強面の料理人が少し笑った気がした。
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