そして想いは隠される ―友達って顔してる残念女子高校生達5人の不安と恋とせつなさと―

冬寂ましろ

第1話 あっちょ「大人って、嘘をつけばなれるんですか」



 私は隠している。

 みんなには言えないことを。



 制服の上に来ているジャージのファスナーを上まであげる。チリチリという音が、誰もいない美術準備室に響いていく。

 桜の季節が過ぎたとはいえ、暖房がないこの部屋はまだちょっと寒い。両腕をさすりながら「あいつら、まだかな……」と、ひとりつぶやく。

 つまんなくなって、なんとなく体をゆする。座ってる適当な感じのパイプ椅子がギシギシと言う。飽きてきて、なんとなく目の前のテーブルを撫でてみる。やたら分厚くて傷だらけで、それはとてもデコボコとしてるけど、触ると意外と滑らかに感じた。――これって私達みたいなもの、かな。

 ガラガラという音を響かせて白い引き戸が横に動く。やっと来た。私よりも女の子らしいやっちんが、ウェーブした長い髪がふわふわと揺らしながら私に聞いてきた。


 「あれ。あっちょ早いわー。もしかして結構待ってはった?」

 「そんなでもないよ。今日はホームルームが早く終わっただけだから」

 「さよかー」

 「椅子、これ使って。奥から出してきた」

 「ありがとなー」

 「あいつらは?」

 「そのうち来るんとちゃうかな。クラス違ってもうて、もうようわからへんわー」

 「お昼はここへ集合って聞いてたけど」

 「うん、それは合ってはるよ」

 「ここ、よくひろのんがおっけーしたね」

 「あのいけず先生、めんどくさいことほんま嫌いやから」

 「私達にここを使わせるほうが、めんどくさいことになりそうだけど」

 「私達の説得をするほうが、よっぽどそうなんちゃう?」

 「ああ、そういう……」

 「そういうことやろなー。うちら札付きやし」

 「うーん。去年いろいろやっちったね」

 「夜のプールに忍び込むのはおもろかったわ」

 「あれは月と泳ぎたいとか言い出したにゃっこが悪いよ」

 「意味ありげだけど無意味に机並べはったり」

 「テレビ局来ちゃったよね」

 「お昼の放送部を占拠してアニソンかけまくったり」

 「子づくりしましょとか言う曲はにゃっこで、舐める系ASMRはてちのだっけ」

 「ほんま、ろくなことしーへんな、うちら」

 「それな」


 笑える。あのときの大人や同級生たちが私たちを見る残念そうな表情が思い浮かぶ。ぷふ。口を押えるけれど笑い声が漏れてしまう。あ、やっちんもくすくすしながら震えてる。目を合わした瞬間、ふたりで何かが決壊したように笑いだした。


 「あはは。もうだめ。やりすぎだよ、うちら。だからだよ。2年になったらクラスばらばらになっちゃったの。始業式の日、どうしようかと思ってた」

 「わかるわー」

 「でも、うれしいよ。また、こういう集まる場所ができて。うん、なんかこう安心する。家にいるよりもここがいい」


 やっちんが「ぷふー」と笑い出す。


 「ややわー」

 「なにが?」

 「あっちょ、マイルドヤンキーやのに、たまにおセンチな乙女になるんやなー」

 「ああん? 誰がマイルドヤンキーだって? それにおセンチって、いつの時代の言葉だよ」

 「平安時代ちゃうん?」

 「また、やっちんは適当言う」

 「ほら、よう言われてはるやろ。春は揚げ物、やうやうおセンチになるって」

 「言わないよ」

 「ぷふふー」

 「もう」

 「まあ、わかるんけどな。私もそーやから」


 また引き戸がガラガラと音を立てる。


 「お、にゃっこ、おひさー」

 「にゃっこはん、こんにちはー」


 肩までかかる髪をばさばさと揺らし、丸いメガネをキラリとさせて、にゃっこがづかづかと私に近づいてくる。


 「おい、なにしてんだ」

 「なにって、やっちんと楽しくうちらの悪行の数々を……」

 「あぐらかいて座るなよ」

 「え、そっち?」

 「この残念女子どもが」


 にゃっこがじろりと私たちをにらみつける。「ええーん、私もなんー」とやっちんが困ったように言う。


 「にゃっこだって、そうじゃんか」

 「私は違うぞ」

 「ええ……」

 「何か不満か?」

 「だってさ、にゃっこがいなかったら、うちらはこんな悪の道に染まらなかったと思うよ」

 「なんだと」


 やっちんが割って入るように言う。


 「まあまあ。ええやん、うちら残念組やし。それでええんやで」

 「くわっ、背景に花が散ってる。やっちん、やめろー。闇属性の私にはヒールが効く!」

 「そならケアルかけよかー、キュアのほうがええかー、どうしたろか、にゃっこー」

 「こ、こいつ。私を殺す気か」


 やっちんが手をかざすとにゃっこがひょいと避ける。そんなことを繰り返す。いつものじゃれ合い。いつもの光景。

 このデコボコとして、ドタバタとしている残念組は、私にとっては……。

 まあ、いいか。そんなこと。

 私は少しだけ顔が緩むと、ぼそりと言った。


 「にゃっこには感謝してるんだよ」

 「どうした? お腹痛いのか? 明日死ぬのか?」

 「なんだそれ」

 「言い慣れない言葉は使うなよ」

 「知るかよ。私がバカみたいじゃないか」

 「違うのか?」

 「そりゃ学年トップのにゃっこにしたら、私はおバカだよ」


 やっちんがテーブルを乗り越えて私の頬をつつく。わざとぷふーと膨らませてあげたら、何か知らないけれどやっちんは喜んでた。

 そんなことしてたら、また引き戸がガラガラと音を立てた。


 「あれ、遅れた?」

 「いや、大丈夫だよ、王子」

 「ん? あっちょ、お弁当は?」

 「一応持ってきたけどさ」


 私はぽいとコンビニで適当に買ったサンドイッチを放り出す。


 「あっちょはもう。あとで私のも少し分けてあげるよ」

 「お、ありがとうな。さすが王子」

 「何がさすがなんだか」


 王子がパイプ椅子に座る。とたんにそれが玉座に見える。どうしてもその優雅な姿が目を引いてしまう。こないだなんとなく聞いたら背は173cmもあるらしい。髪も少し短めで、汗が似合う感じで、みんなから王子と言われるのもよくわかる。


 「ほなら、お茶いれるよー。王子も飲むやろ?」

 「うん。ここ、お湯が沸かせるんだ?」

 「そやねん。王子はここ来るの初めてなん? 便利ええよ。流しもあるし。あ、マグカップないから、紙コップでええ?」

 「お気遣いなく。飲めればなんでもいいよ」

 「さよか。王子はやさしなあ」


 やっちんがよいしょっと椅子から立ち上がる。すたすたと部屋の奥のほうに行く。

 それを見ていたにゃっこが思い出したように言う。


 「そうだ。あの棚、上のほうを整理したい。背が高いところで、王子手伝ってくれるか? 空けたらマグカップとか置けそうだし」

 「いいけど……。そんなとこに置いたら、にゃっこの手が届かないんじゃない?」

 「私はいい。王子がやってくれる」

 「ひどいな。私は奴隷か何かかな」

 「王子は奴隷でもあるんだよ」

 「ずいぶん文学的だね」


 ふたりが立ち上がる。

 似合うんだよな、このふたり。最初に会ったときから。

 そして、もうひとり……。


 ガラガラガラ。


 「だからダメなんだって、春川さん」

 「そんなの、知らない」

 「だから知る知らないじゃなくてさ」

 「やだ」

 「いや、やだとかそういうのは関係ないんだよ。あーもー」


 私は椅子の音をガタりとさせて立ち上がる。ネクタイをちゃんとしている男子と、春川さんと呼ばれて少し嫌がってるてちに近づく。


 「おいなんだ、もめごとか? ああん?」

 「ひっ」と、男子。

 「あっちょ、ガラわるい」と、てち。


 私を見ずにそう言うてちに、少しぶっきらぼうに言い返す。


 「そうかよ」

 「あっちょが虚勢張るの、かわいい」

 「は?」

 「怖がらなくていいから」

 「……なんだそれ」


 てちが顔を上げて私を見る。黒い瞳が私をつらぬく。てちは鋭い。この輪の中に異物が入るのを恐れている私の気持ちなんか、すぐに見抜く。

 見つめ合ってる私たちに男子が割って入る。


 「あ、あの……」

 「ここは男子禁制だ。帰んな」

 「そんな、僕は……」


 いつのまにか後ろにいた王子が私たちに声をかける。


 「ごめんね、わきち。うちらこれからお昼なんだ。後でもいいかな?」

 「ぼ、僕はただ、学生はどこかの部活に入らないといけなくて、春川さんにその説明しているだけで……」

 「そうなの? てち、どこにも入っていないの?」

 「知らない人、嫌いだから」

 「てち、私たちだって1年前は知らない人たちだったんだよ」

 「いまは違うし」

 「それはそうだけどさ」


 廊下のほうから白衣の先生がひょいと顔を出してきた。猫背をいっそう丸め、目のクマをさらにどんよりさせて、私たちへ面倒そうに聞いてくる。


 「何してるんだ?」


 私は普段出したことがない女子っぽい声を出す。


 「ひろのんー、男子が絡むんですぅー」

 「違う違う!  違うんです、野々村先生」

 「違わないですぅー」

 「いやだから、僕は春川さんに……、その……」


 あわてて男子が弁明しだして、そのようすをちょっと私は面白がる。

 じれたようにひろのんが男子を促す。


 「で、なに?」

 「春川さんがまだ部活入っていなくて、それで……」

 「誰に言われた?」

 「……黒滝先生です」

 「なら、生徒会がらみか? 1年もほったらかしてたのに、今頃つつくとはさすがだな、あの陰険メガネ……」

 「あの……」

 「ああ。こいつら5人、2年から美術部になったから」


 ん? え? なにそれ?

 私たちは思わずひろのんに声を上げる。


 「そうなの? みんな? 全部?」

 「だから貸してやってるんだよ、この美術準備室」

 「やっちんはそんなこと一言も……」

 「今、決めたから」

 「は?」

 「というわけで、お前、あの陰険メガネに言っといてくれ。ちゃんとルール守ってますって」


 さっきまでおどおどしていた男子が、勢いよく頭をぺこりと下げる。


 「すみませんでした!」


 そう言うと後ろを向いて、そのままとたとたと廊下の奥まで走ってく。

 王子の横からにゃっこが感心したように言う。


 「お前らよりあいつのほうが青春乙女って感じだな」

 「なんだよ、それ」

 「何って、見たまんまだよ」


 ひろのんがあくびしながら言う。


 「そう思うんなら、お前らも青春乙女してろよ」

 「なんすか。うちらに不満あるんすっか」

 「ないよ。面倒だけは起こすな。それだけだ」

 「……わかってますよ。なら、私たち絵とか描いてたほうがいいんすか?」

 「いや、何もするな。お前たちが絵を描いたら、私が見ないといけないじゃないか」

 「それはそうでしょ? 美術教師なんだし……」

 「めんどくさい」

 「ええ……」


 私のすぐそばで見守っていたやっちんがぼそりと言う。


 「ひろのんはダメな大人やな……。あっちょ、あんな大人にはならんとき」

 「八千代、うっさいぞ。寝てる間に口へシェーレグリーン詰め込んでやるからな」

 「ややわー、そんなんー、絵面がホラー映画やー、鉄男やー、悪魔の毒々モンスターやー」

 「あとは適当にな。ほら、お昼時間なくなるぞー」


 丸めた後姿を私たちに見せて、ひろのんは去っていく。そのまま手を挙げて、さようならの意思表示をしている。


 「あ、逃げた」


 私のその一言で、「ぶーぶー」「ひろのんが職場放棄だ」「このあふれる美術魂をどうしてくれる」と、みんなが勝手に言いながら部屋へと戻る。


 「ご飯食べよか。お茶入っとるよー」とやっちん。

 「そうだな、そうするか」とにゃっこ。

 「おかず、取り換えっこしたいけど、いい?」と王子。

 「今日のハンバーグ、なかなかいい出来だよ」とてち。

 「いいな。それひと口食べたい」と私。


 椅子に座ると、てちが猫背になったと思ったら「めんどくさい」って、ひろのんそっくりの声を出した。みんなが一斉にぷふーと笑い出す。私が笑いながら「じゃあ食べさせてあげるよ」と言うと、てちは「そうして」と箸を差し出す。「私にも食べさせろよ」「それなら、みんなのひと口ずつ食べさせたらどう?」「そないしたらあっちょのサンドイッチなくなるんちゃう? あんなん一口やで」と声が上がっていく。


 この5人なら、すぐにわちゃわちゃとした雰囲気になれる。

 ここが私の居場所。家にはない安らぎの場所。






 私は隠してる。

 この4人に想う絆のことを。






 放課後の廊下を私はあわてて走っていた。手にはスマホを握りしめて、他には何も持たず、ただそれだけを。

 スマホのメッセージ通りに校門のとこまで行くと、その人がいた。

 私は膝に手をついて、肩で息をしながら問いただす。


 「な……、なんで学校に……?」


 少しはだけた白いワイシャツが似合う大人の女。寄りかかってた青い車から離れると、サングラスを取りながら「いっしょにいたずらしよう」という感じで私に話しかける。


 「ちょっとドライブしたくなっただけよ、阿知花」

 「いつも急ですって。もっと早く連絡ぐらい……」

 「邪魔したくなかったから。このぐらいの時間に授業が終わるんでしょ?」

 「そうですけど……」


 私は黙ってしまう。いつでも連絡していいって言ってるのに。


 そのとき「あ」って、にゃっこの声がすぐ後ろで聞こえた。

 しまったと思う間もなく、4人が私の後ろからのぞき込む。


 「わー、オープンカーやー。BMWやーん」とやっちんが言う。王子は「高いんだっけ?」と、隣のてちに聞くと「確か。よくわかんないけど」と答えた。


 にゃっこが私のすぐ横に並ぶと、私を見ずに言う。


 「あっちょは、ちゃんとしていればお嬢様なのに」

 「ちゃんとってなんだよ」


 むすって言う私に、彼女が興味津々な感じで声をかける。


 「お友達?」

 「うん、まあ……」


 答えに困っていたら、彼女が手を前に重ねて、小さくお辞儀をした。


 「どうも母です。いつも阿知花がお世話になってます」


 やっちんが一歩前に出て、にこやかに癒しオーラを全開する。


 「こちらこそ、お世話になっとりますー。遙照八千代と申しますー」

 「友達の王子……じゃなかった鷲羽清音です」

 「春川……、です……」


 にゃっこは何も言わない。ただ彼女を面白そうに見つめている。


 「みんな良い子じゃない、阿知花」

 「うん、まあ……」


 ほんとに? ほんとにそう思ってるのだろうか。


 「へえ、ずいぶん若いな。お前の母さん」

 「にゃっこ、何言って……」


 彼女はおどけて言う。


 「化粧品変えてみたのよ。どう。ここの制服だって似合うんだから」

 「母さん、また若作りして」

 「あはは、いいじゃないの」


 笑い合う私たちへ、にゃっこがニヤニヤしながら言う。


 「ああ、似合うと思うぞ。お前の母さんならまだイケる」

 「イケるってなんだよ」

 「これからどっか行くのか?」

 「たぶん。そんなとこだと思う」

 「かばんどうする?」

 「あとで学校まで取りに戻るよ」

 「わかった」


 にゃっこが後ろに回り、私の背中を押す。


 「行って来いよ、お嬢様」

 「なんだよ、それ」


 私は先に行く。みんなを置き去りにして一足先へ。






 車が街を抜け国道246に入ったところだった。ハンドルを握る彼女がぷーくすくすと我慢しきれなかったように笑い始めた。


 「何笑ってるんですか」

 「だってさ。お母さんって言っちゃった。ぜんぜん違うのに」

 「涼子さん、女優でしたよ」

 「とっさに言ったわりには、名演技だったと思わない?」

 「あれならアカデミー賞取れますって」

 「あはは。うん、そうかもね」


 涼子さんが愉快そうに笑い出す。私も釣られて笑ってしまう。走り出した風がそんな私たちを包み込む。

 ひとしきり笑って、目元をこすりながら私はたずねた。


 「で、本当のところはなんなんですか?」

 「天気がいいのよ。だからどこか行きたくなったの」

 「そんなの母と行けばいいのに」

 「あの人は忙しいから」


 涼子さんの束ねた髪が、風にふらふらとたゆたっていく。

 車も服もみんな母が買い与えたもの。この人の愛情すらも母は金で買っている。


 「ねえ、海行こうよ。海で夕焼け見たい」

 「ええ……」

 「阿知花、いいでしょ?」


 彼女がつらいとき、母と何かあったとき、私をこうしてどこかに誘う。それは出会ってからずっとそうだった。


 「まあ、いいですよ」

 「やった」

 「ちょ、ちょっと、頭撫でないでください」

 「だって、かわいいし。もうちょっと撫でさせてよ」


 前を向いたままニッと大きく笑う涼子さんの横顔を、私は引き寄せられるように見つめていた。

 涼子さんのほうこそ、かわいくて、かっこよくて、それで……。

 私のあこがれ。

 私の大好きな人。

 でも、涼子さんは母の愛人。


 私はぼんやりと通り過ぎる街並みを眺めている。

 風に流れていく。淫らな想いも、どうにもならない今も、みんな後ろへと流れていく。

 どうしたらいいんだろうな、私……。






 私は隠している。

 自分の気持ちを。






 車は澄み切った青空の下、横浜ベイブリッジを駆け抜けていく。サングラスをした涼子さんが、私に声をかける。


 「退屈してない? 曲でもかけようか?」

 「なんでもいいですよ」

 「ほい」


 無造作にiPadを左手で渡される。


 「亜知花が選んで。あんたの方がセンスいいから」

 「ええ……」

 「私だとほら、演歌とかシャンソンとか年寄り臭い感じになるし」


 それは母の趣味だから。

 私は悩んでるふりをして、曲を選んだ。


 「じゃ、これで」


 派手なリズムが、車のスピーカーから響き出した。


 「おお、ローリングストーンズとはまた渋いね。亜知花の中身はアラフィフじゃない? 年齢詐称してるでしょ?」

 「してませんよ。ちっちゃい頃から見てるでしょうに」

 「どうしてこんな女に育っちゃったかな」


 それは涼子さんのせいだから。

 この曲だって、私が初めて涼子さんの車に乗せられたときに聞いた曲。私の泣き声の合間に聞こえてた曲だから。


 「あいきゃんとげっとのー!」


 涼子さんはノリノリで歌う。


 「さてぃすふぁくしょーん!」


 私も続けて歌いだす。

 体を揺らしながら、頭を振りながら。

 気持ちよさそうなふたりの歌声が、車を通り過ぎる風に乗っていく。


 「次は『Jumping Jack Flash』か。いいな。じゃじゃーん、じゃじゃーんじゃーんじゃーん」

 「ぷふ。涼子さん、こうですって。じゃじゃーん、じゃじゃーんじゃーんじゃーん」

 「ええーっ、同じでしょ」

 「なら、ふたりで歌えばいいんですよ」

 「あはは。そうだね」

 「「じゃじゃーん、じゃじゃーんじゃーんじゃーん!」」


 涼子さんがハンドルにかけた人差し指でリズムを叩く。私はそれに合わせてギターを引く真似をする。

 ふたりはふざけて笑いあう。わんちゅーとか、いっつおけーとか、適当な英語を言いながら。

 車のスピードが上がってく。私達の気持ちも加速していく。


 楽しい。

 涼子さんとこうしていられるのは、とても楽しい。

 だって、この楽しさは涼子さんが教えてくれたから……。


 「ねえ、亜知花ってさ、私と音楽の趣味は違うけど、好みはいっしょなんだよね」

 「そうですね」


 ずっと知ってた。

 母なんかより私のほうがいっしょのものを好きだって言えるのに。


 「なんだか、ちょっと楽しいな。ボニー&クライドの気分がする」

 「テルマ&ルイーズかもしれないですよ」

 「あはは、そうかもしれない。だったら、これからたくさんふたりで悪いことしなくちゃ」

 「何します? 銀行強盗? 詐欺? 男をぶん殴る?」

 「何でもできるよ。うちらは無敵だから」

 「なんですか、それ」


 母と居るよりも私といたほうが無敵なんですか?

 私は聞けずにいた。それを聞いたら、この楽しさがきっと壊れてしまうから。


 初めて涼子さんと会ったときもそうだった。母からは友達だと言われた。忙しい母に代わり、私の面倒を見てくれる人だとも。でも、涼子さんがその細い指を母に絡めるのを見て、私は何も言えなくなった。それがどんな意味なのか聞くことさえも。


 あれから怒ったり泣いたり笑うときは、いつもそばに涼子さんがいた。15歳になると涼子さんと関係を続ける母の顔を見ることができなくなった。私が家を出たいと泣きじゃくってすがったときも、涼子さんは黙って手配してくれた。

 あのときから、いまも、たぶんきっとこれからも、私は涼子さんに聞くことができない。






 私は隠している。

 母への嫉妬、涼子さんへの想い、そしてそんな自分を。






 稲村ケ崎を目指して鎌倉から続く海岸沿いの道を車は走っている。

 暖かい色の夕陽が、何もかも染めあげていく。波立つ海も、遠くに霞む山も、寂しくて恋しくて締めつけるような、そんな気持ちを抱く私にも。


 「いいな。じーんと来る」


 涼子さんはただ短くそう言う。

 左手でハンドルを持ち、頬杖つきながら、橙色の彼女はただそれだけを言った。


 なんて返事したらいいんだろう……。

 私もそうです? 違う気がする。じーんって何? ちょっとマヌケだ。他の話題にする? それもちょっとな……。

 自分が大人になったら、母ぐらいに歳になったら、なんて声をかけてあげられるのだろう…。

 流れていく風景を眺めてるふりをしながら、ぼんやりと考える。


 しばらく進むと島のような小山が目の前に迫っていた。その先まで行くと、涼子さんは車の速度を落とした。


 「あ、駐車場空いてた。ラッキー。車止めるね」


 ウィンカーを出し、涼子さんは大きくハンドルを回す。車が砂にまみれた地面に止まる。ゆっくりと車から降りると、夕陽の沈むおだやかな海が私たちを出迎えてくれた。


 私が前を歩き、歩きづらいコンクリの階段をとてとてと下っていく。砂浜まで降りると、私は目の前の風景に立ちすくんだ。

 空と海は、橙色と青色が重なっていて、果てからここまで色を変えながら繋がっている。そんな色は少しずつ黒に塗りつぶされようとしていた。沈む太陽はその間に落ちようとしている。今日はもうおしまいだから。そんなふうに言ってるように思えた。わずかな暗闇に灯る星が、それをはやし立てるようにまたたいていた。

 ひんやりとした潮風はどこまでも気持ちいい。私のどうでもいい想いがじんわりと消されていく。

 砂が付くのも気にせず、私は腰を下ろした。すぐそばに涼子さんが立つ。そのまま、私の頭を優しく撫でる。その髪を細い指に通し、何かを考えているように、優しく愛してくれるように、撫でてくれる。


 「これは泣きたくなるな……」


 波の音に交じって、そう聞こえた。

 私は撫でられたまま、母のように言い返した。


 「泣きたいのなら、泣いたらいいんじゃないですか?」


 その言葉に彼女が動きを止める。少し苦笑いしながら涼子さんは言う。


 「大人には意地があるんだよ。そんなこと言ってると、友達できないぞ。って、たくさんいたか」

 「まあ、あいつらは……」

 「居場所見つかったんだ」

 「……はい」

 「そっか。良かった」


 涼子さんが私の頭に手を置いたまま、海を見つめていた。


 「あれ、ちょっとまずいや」

 「どうしたんですか?」

 「これ、夕焼けが奇麗なせいだから」


 見上げた涼子さんの目元にきらりと夕陽が光っていた。それは、涼子さんの整った顔を伝い、やがて静かに落ちていく。

 私は前を向く。見ないふりをしてあげた。

 大きく砕ける波の音と穏やかな潮の匂いに、私達は包まれる。ただずっとそうしていた。


 思い出したように涼子さんが腕を上げる。それから両手でガッツポーズをした。


 「ふんす!」

 「なんですか、それ」

 「元気が出るおまじない。ほらやって」

 「……ふんす?」

 「ふんす!」

 「ふんす!」

 「あはは。私たちは無敵だから、大丈夫だよ」


 大丈夫なわけないのに。


 「お腹空いた。なんか食べよ」


 涼子さんが私に笑いかける。私の頭をぽんぽんと優しく叩きながら、大人が子供にそう接するのが当たり前だというように。いつまでもその関係が変わらないように。

 私はそのことに静かに怒り、そして落ち込んでいく。目の前の夕陽のように。






 私は隠している。

 大人が私のために嘘をつく、ということを。






 赤と白のクロスがかけられたテーブルの上で、ロウソクがはかなげに揺らめいていた。私の前には、しらすと海苔が散っているピザや、大きなエビが乗っているパスタが、冷めたままにされている。

 両手を組んで顔を乗せた涼子さんが、つまらなそうに私へたずねる。


 「口に合わなかった?」

 「そんなことはないですけど、今日はなんだか……」

 「何?」

 「涼子さん、無理してないですか?」

 「何にもないよ? 楽しくしたかっただけ」


 涼子さんが目を細めて、グラスの縁を人差し指でなぞりだす。私はただそれを眺めていた。


 「ねえ、阿知花。私、楽しくなりたいんだけど」

 「なんですか、それ」

 「そうだ。学校のこと、聞かせてよ」

 「そこですか」

 「だって、きゃぴきゃぴしたこと聞きたいし」

 「死語ですよ、それ。まあ、話しますけど」

 「私に若いお母さんって言った子、いるじゃない? どんな子?」

 「にゃっこは頭良すぎておかしいタイプの人間で……。たまに突飛なことするんですけど、みんなを引っ張ってくれてます」

 「どんなことするの?」

 「急に怪しい踊りを踊ったりとか、変なこと言わさせたりとか。去年の夏なんか、夜中に学校のプールへみんなを連れ出したり」

 「あはは、悪い奴だな」

 「王子も悪いんですよ。にゃっこを甘やかしてばかりで」

 「あの背の高い子?」

 「そうです。良くも悪くも目立っちゃって」

 「目立つと言えば、関西弁の子、すごくかわいくない?」

 「やっちんはいつもそうなんです。うちらの癒し係というか。でも、1年のときみんなにハブられたときがあって。媚びてるとか、ウザいとか、なんかそういう……」

 「あらら」

 「にゃっこが助けたんです。つまんないなお前らって、やっちんを教室から連れ出して。てちもそんな感じだったかな。私も……」

 「ねえ、案外楽しそうじゃない?」

 「案外って。楽しいですよ。いまは」

 「そっか。前は飢えた狼みたいだったのに」

 「そんなんでしたか?」

 「そうよ。愛情に飢えてた狼さん」

 「母とは普通の親子にはなれませんでしたから」

 「それはそれでいいんじゃない? 和解しなくてもいい。近づかなくてもいい。そういう幸せもあるから。普通なんてないんだよ」


 それでも私は普通が欲しかった。

 母と一緒に笑っていたかった。

 あいつらとの仲も、涼子さんへの想いも、普通になれなかった寂しさが、そうさせているんじゃないか……。

 そんなふうに少しでも思うと、恐怖に身がすくむ。助けてって、叫びたい。そんなことはないって言って欲しくなる。


 「愛人な私が言うのもなんだけどね」


 涼子さんはあきらめたように微笑む。

 その手を握りしめたい。

 どこかに飛び出したい。

 母がいない、ふたりしかいないそんな世界へ。


 「あ、このピザ美味しい。これは正解だね。チーズがいいのかな」


 冷めたピザを美味しそうに言う。それが子供への義務であるように。


 「そうですね」


 私の想いなんか、どうにもならない。

 私もピザを一口かじって、にこやかに微笑む。大人への義務を果たすように。






 涼子さんが会計している横を通り過ぎて、駐車場に行った。辺りはすっかり暗くなって、半分の月が夜空を上がっていた。ひんやりとした風と波の音が心地良く、食事のときの気まずさを体から押し流してくれた。

 自分の気持ちを隠すのはなれていた。大人と子供のそんな程度の。私はそれで良かった。それで満足だと思い込もうとしていた。


 「帰りたくないな……」


 車のキーを握りしめて、涼子さんが苦しそうに言う。


 なんだよそれ……。


 私の心を縛っていた鎖が壊れる。せっかく必死に締め付けていたのに、想いがあふれだす。


 「泊まりません?」


 私がなんでもないようにがんばって漏らした言葉に、涼子さんは子供のようにはしゃぎだした。


 「そうしちゃおうか。ついでに日本一周しようよ。浜名湖で鰻食べたいし。大阪で久しぶりにジンベイザメ見たいな。そういや私、四国行ったことないんだよね。それから……」

 「明日の朝は学校に送ってください」

 「ええー。まじめだなー」


 涼子さんはまたいつもの大人に戻る。


 「ま、あそこが阿知花の居場所だもんね」


 そう言って車のドアを開ける。私がシートベルトをするまで涼子さんは、何かをスマホで探していた。青白い灯りに照らされたその顔を私はただ見守る。しばらくて顔を前に上げた涼子さんには、何かを決意したような表情が見えた。シフトレバーをドライブに切り替えると、ゆっくりと車が動いていく。






 私は隠している。

 私にもある、こんな淫らな想いを。






 そのホテルは海を見るためのところだった。窓から続くテラスがあり、黒いうねりとなっている海をぼんやりと感じられた。

 私は薄いカーテンをつかみながら、そんな海を眺めてるふりをしていた。波の音を聞きながら、そんなことないからって、はやる自分の気持ちを必死に否定していた。

 風呂から上がってきた涼子さんが、白いバスローブ姿のままベットに倒れ込む。


 「いいな。今日は幸せだな」


 仰向けになって、手を広げてながらそう言う。

 ベット脇のランプしかついていない薄暗い部屋の中で、どうにか見える涼子さんの体のラインを目で追いかけてしまう。そんな自分が嫌になる。

 涼子さんは私に肌を見せない。それをしたら、一線を超えてしまうのがわかってるように。

 私はたぶん少し怒っていたんだと思う。大人を振舞う涼子さんに。


 それなら私から見せてやるよ……。


 私はベッドに近づくとリボンをほどく。ワイシャツのボタンをひとつ、またひとつと外していく。

 何か言われても、私もお風呂に入るだけです、って言い訳ができるように、ずるく卑怯に服を脱いでいく。


 「ここまでかな」


 涼子さんは寝ながら天井を見上げて、感情なくそう言う。

 私はその冷たく命令するような言葉に、はだけて胸が見えたワイシャツから手を離した。


 「阿知花のお母さんに、『もう必要ない』って言われちゃった」


 え、なにそれ……。


 「昨日、結構な額の手切れ金をもらってさ。しばらく暮らしていけるかな。

  まあ、今の家は引っ越すけどね。車もどうしようかな」


 私は動揺を隠そうともせずに声を出す。


 「母と別れるんですか?」


 涼子さんは答えない。

 私は納得できなくて問いただす。


 「私のせいですか?」

 「違うよ」

 「私が心配かけたからですか?」

 「違う」

 「私が母から離れたから……」

 「違うって」

 「じゃ、なんで……」

 「もうおしまいなんだ」


 あれだけ一緒にいろんなことをして、あれだけ一緒に笑ったり泣いたりして、私との関係も一緒に終わらせるの?

 涼子さんにとって、私とはそんな程度のものだったの? 

 私は……。なんなの……。


 「たまにだけど会いに行くから。まあでも、私なんかより、友達のほうがもういいよね、きっと」


 寂しそうにそう言うと、涼子さんが私に手をすらりと伸ばす。


 勝手が過ぎるよ。

 勝手に私を聞き分けのいい子供にするなよ……。


 黒い怒りがふつふつと湧き上がった。

 涼子さんの上へ乱暴に覆いかぶさる。その細い手首をつかんで枕のほうに押し上げる。


 「そういうつもりはないんだけどな」


 嘘つき。そんなつもりで誘ったくせに。


 「私が黙っていればいいんです」

 「私が嫌なんだよ」

 「それなら私を好きになってください」

 「うーん、よくわからないな……」


 嘘つき。わかってるくせに。


 「今日は想い出作りだったんでしょ? こんな綺麗な思い出だけで終わらせるんですか?」

 「そうだよ。それだけでいいんだ」


 嘘つき。私が好きなくせに。


 「私は……」


 悔しくて涙が出てくる。

 どうしたらいいんだ……。どうしたら……。


 「ほら、おいで」


 涼子さんの力が抜けてく。

 つかんでいた手首を離してあげた。

 涼子さんの腕が私を包む。抱きしめられる。体温も息づかいも気持ちもみんな感じられる。


 「暖かいでしょ?」

 「はい……」

 「ドキドキしてる?」

 「うん……」

 「私もだよ」


 涼子さんが私を強く抱きしめる。


 「その気持ちを覚えておいて。誰にも知られないように、心の奥に炉を置くように、その火を絶やさないように……」


 そう呪文のように私の耳元で囁くと、涼子さんは私を抱きしめていた手を緩める。それから左手を私の頬へ愛おしそうに添えた。

 私は目をつむる。

 左手に促されながれるように唇を重ねた。

 タバコの匂いと口紅の味が少しした。

 初めての味。大人に恋した子供が知る味。


 でも、それはすぐに終わってしまった。

 離れていく唇を感じて、私は目を開ける。


 「続きは大人になったらね」


 涼子さんの言葉がよくわからなかった。わかりたくもなかった。

 身をねじるようにして、涼子さんが私から抜け出す。テラスまで行くと細いタバコに火をつけた。

 はだけたバスローブをそのままに、薄い月明かりに照らされながら紫煙を漂わせる。

 置いていかれた私は、ベットの端に座り込む。自分でも引くぐらいの暗い声を出した。


 「大人って、どうすればなれるんですか。嘘をつけばなれるんですか」

 「時間が経てば誰でもなれる。そんなもん。そんな程度のことだよ」


 なんだよ、それ……。

 なんなんだよ……。


 「いまをたいせつにしろ。私みたいになるな。これはそういうお説教の類なんだよ。青春真っ只中の奴がいちばん嫌う話さ」

 「なんでそんないじわるするんですか!

  私が母の娘だからですか!

  私だって涼子さんのことが……」

 「言うな!!」


 初めて聞く涼子さんの強い声に、私はたじろいだ。

 怒られた子供のように、許してとすがるように、涼子さんを見つめる。


 「その先を言ったら呪いになる。

  私は阿知花を縛りたくないんだよ」

 「なんでですか……。そんなのは嫌だ……。とても嫌……」

 「それでいいさ。それでいいんだよ」


 それからは、涼子さんはもう私の頭を撫でることはしなかった。






 まぶしい朝日の中を車が駆けていく。海辺の道を東京に向かって走ってる。海はキラキラと光っていて、空はどこまでも深く広く澄みとおっていた。

 私はそんな輝く世界を憎みさえした。どうにもならない自分の想いを、遠ざけられてしまったそれを抱えて、子供っぽく八つ当たりするように。

 私は制服の上に着込んだジャージのファスナーを上げる。


 「寒い?」


 サングラスをかけてハンドルを握る涼子さんが、普段と変わらず優しく聞く。

 ずっと口を閉ざしていた私が、ようやく声を出した。


 「決めました。私がお金持ちになったら涼子さんのこと買います」

 「えー、私、おばあちゃんになっちゃう」

 「いいじゃないですか。死ぬときに手を握ってあげます。どうせ誰からも見捨てられて、ひとりで寂しくなってると思いますから」

 「あはは、だいぶ嫌われたね。まあ、そのときはお任せするよ」

 「わかりました。早く大人になってそうします」

 「そうしな」


 車のスピーカーから「She's a Rainbow」が流れている。

 彼女は虹色。私は透明。

 この世界は色褪せたから。

 消えてなくなりたい。

 この人のそばにいられないなら。

 昨日の夜、たくさん泣いたはずなのに、またじわりと涙が出てくる。その滴は風に乗り、海の向こうへと消えていった。






 車は大通りからちょっと外れたところに止まった。ビルに挟まれ少し暗いその路地の奥には、明るい朝の光に照らされた道が見えた。そこには同じ制服を着た学生たちが学校に向かって歩いている。

 私たちは車から降りると、暗がりに身を寄せるように抱き合った。


 「自分の居場所にお帰り」


 やさしくそう言う彼女に、ずっとそのままでいたい気持ちをどうにか抑える。こくりとうなずくと、私は光のその先を見つめる。


 「いい大人になりなよ」


 彼女は私の背中をやさしくぽんと叩く。それに押し出されるように、私は明るく光に満ちた道へと歩き出した。

 振り返ることはしなかった。

 それをしたら、涼子さんを困らせるだけだから。






 しばらくぼーっとしていたんだと思う。近づいてきたにゃっこにすら気づいていなかった。腕を捕まれてようやくわかる。


 「よっすって、言ってるだろ」

 「あ……。にゃっこ、ごめん」

 「ほらよ、かばん」

 「あ、ありがとう」


 朝帰りなのは、バレてるんだろうな。


 「潮の匂いがするな。たくさんする」

 「にゃっこは犬か。まあ海沿いにいたし……」

 「違うよ。涙だって海の味がするから」


 その一言が私を崩れさせた。

 どうにか蓋をしていた涼子さんへの想い、一生懸命保っていたもの、大人になろうとしてがんばっていたもの、みんな全部崩れていった。


 「なんでわかんだよ」


 そう言うのが精一杯だった。

 自分でも子供っぽいと思うぐらい、顔をぐちゃぐちゃにしながら泣き出した。

 にゃっこが困ったように私の手を引く。少し細い路地の物陰に連れて行かれる。


 「泣き止まないか?」

 「無理……」

 「そっか」


 にゃっこが私を抱きしめる。あっという間だった。にゃっこに唇を吸われたのは。

 それは少し甘い味がした。涼子さんとは違う味。たぶん私といっしょの味。

 舌がこすれるくすぐったさに、私は力が抜けていく。

 ゆっくりと唇が離れていくなか、にゃっこが小声で言う。


 「びっくりして泣き止んだろ」

 「そうだけど……」

 「ほら、がんばれ」


 にゃっこが体を離すと手を差し出す。私はその手を握った。にゃっこがその手を引いてくれる。


 ……あ。


 ふたりで元の道に戻ろうと振り返ったら、目の前にてちがいた。

 たぶん見られた。

 気まずい……。

 どう言い訳しようか、そもそもどう話していいのか困りだす。

 そんな私に、てちがハンカチを渡した。


 「跡ついてる」


 そう言って自分の頬を指さす。

 てちは何事もなかったようにけろっとしている。

 私が見つめていると不思議そうに見返す。


 「いつものあっちょになったほうがいい」


 てちがそう言うと、私はいつもの自分を少し取り戻す。元気で少し粗野でソフトヤンキーと言われているそんなあっちょという自分を。

 私はハンカチをてちに返す。


 「ありがとう。でも、これは勲章だから」

 「そうなの?」

 「そうだよ。ふんす!」

 「ん? ……ふんす?」

 「ふんす!」

 「ふんす!」

 「そうそう、それでいいんだよ」


 私は少し笑う。にゃっこもふんすふんす言いながら、いっしょに歩いていく。

 王子とやっちんが、そんな私達をすぐに見つける。


 「おはようさーん」

 「みんな、おはよう。あれ、いつも遅刻ギリギリのにゃっこがいる。明日は雪かな」

 「王子、今日はたまたま早起きしたんだよ」

 「そうなの?」

 「ああ、でも、お前と朝のランニングなんかしてやらんぞ」

 「ひどいな。やっちんも言ってやってよ」

 「にゃっこ、最近肥えとりません?」

 「ちょ、それを言ったら戦争だろうが」

 「運動不足ちゃいます? よーけみんなのご飯を食べはってからに。そのうちお腹がでふんでぶんって鳴りはりますよ」

 「がーっ。じゃ、いま走ってやる。いいか、あっちょ」

 「うん。いいよ」


 私はにゃっこの手をしっかりと握る。それから、みんなで走り出した。






 私は隠している。

 みんなに自分の恋が終わったことを。


 でも、それを言わなくてもわかってくれる友達が、私にはいる。





--------

次話はやっちんの番。なんで京都弁なんでしょうか? なんで美術教師である野々村先生に下の名前で呼ばれているんでしょうか……。

お楽しみに!



推奨BGM: ローリングストーンズ「She's a Rainbow」

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