【Ex- 039】だからボクはマスクをかぶる。

 いつからだろう。

 人と話すのがこんなにもしんどくなったのは。

 ボクはスライダーのサインを出しながらそんなことを考えていた。

 9回表。

 ノーアウト。

 ランナーなし。

 7-1と大差で勝ってはいるものの、強打の柊陰打線は油断できない。

 そのはずなのに……。


 高校生になって、誰と誰が付き合ったとかフラれたとか、なんとかっていうグラビアアイドルが可愛いとかエロいとか、女性に関する話題が多くなった。

 それがボクには……苦痛だった。

 ――ボクは異性に欲情できない。

 もしこれがみんなにバレたらボクはどんな目で見られることになるのだろう。

 恐怖、それはもうまさしく恐怖だった。

 その事実を隠すため、ボクは仮面をかぶることにした。

 仮面で自身の欠落を隠し、普通の男子高校生として振る舞う。それは必然だった。平穏な高校生活を送るにはそれしかなかった。

 愛想笑いが上手くなった。

 ちょっと地味な感じの娘が好きだという設定になった。

 自慰のオカズはFANZAのサンプル動画ということになった。

 そうやって嘘を繰り返すうちに仮面はどんどん厚みを増していった。

 日に日にボクがボクじゃなくなっていく感覚。

 底なし沼に両足を踏み込んだ哀れな探検家のように、僕の心はずぶずぶと闇に沈んでいった。

 誰かがこの閉塞の地から救い出してくれることを強く願った。

 でもそれは叶わぬ夢だった。

 普通の男子高校生として生活を送り、無事に卒業まで逃げ切るためには、この厚い仮面に頼る他に方法はなかった。


 打者の近くで横滑りする高速スライダーを捕球し損ねた。

 弾いたボールがファウルグラウンドを二度跳ねフェンスにぶつかる。

 ランナーがいないのでゲームに支障はなかったのだけれど、あまりのイージーなミスにボクは思わず立ち上がってマウンドに駆け寄った。

「……ごめん」

「龍之介にしちゃあ珍しいじゃん。ああいうミス」

「ごめん……なんか上手く集中できなくて」

「ったく、なんだよそれ。回の先頭は大事にっていつも言ってる癖に」

「ほんとごめん。もうしない」

「信用してんだからな。頼むぜ相棒」

 そう言ってボクの胸をグラブでぽんと叩いた。

 相棒、という言葉にボクは少しだけ自分の心を取り戻す。

 マウンドにいるのはうちのエース、首藤和巳だ。

 長身から投げ込む快速球とキレのいいスライダーが武器の本格派……と言えば聞こえはいいのだが、実はカーブやチェンジアップのような抜くボールが投げられないだけだったりする。

 九州男児特有のちょっと濃いめの顔立ちは今風ではないけれど、ボクは男らしくてカッコいいなあと思っている。

 リトルリーグからずっと一緒で、二人の時は昔の愛称でかーくんって呼んだりするのだけれど、高校生になってからはガキじゃねーんだからと一蹴されるようになった。でもその感じがボクの中では結構心地良かったりして、懲りずにかーくんと呼んでみたりしている。

 ミットを構え、ゲームに集中する。

 打者は右打者。二番打者。

 ミートが上手く足が速い。

 転がされて出塁されると上位打線に繋がり厄介なことになる。

 そういう意味では初球の外スラは危険だった。ボールで助かったとさえ思う。

 二球目。ボクは内側にミットを構えた。ボールゾーンからいれてくるカットボール、いわゆるバックドアを選択する。

 投球直後はボールに見えるが内に入ってきてストライクになる。このカウントと状況なら、十中八九手を出してこない。

 振りかぶる。投げる。

 その球筋を打者はボールと判断する。

 思惑通りに見逃しでストライクを奪う。

 1ー1。

 もう一球、同じコースにバックドア、と行きたいとことではあるのだが、柊陰の打者は対応が速い。ここは目先を変えてやろうとボクは真ん中高めの直球を選ぶ。

 今日のかーくんの球威なら手を出されたところで前には飛ばないだろうし、転がして出塁を狙う意図があるならなら見逃すはずのコースだ。

 糸を引くような直球に対し、打者は予測を外れ手を出してくる。

 ボールは真後ろに飛んでフェンスを揺らす。

 そうか。柊陰の打者は流石に振ってくるか。

 それならば、とボクはもう一回同じ高めの直球を要求する。ただし今度はボール球で、振ってこないにしても次の布石になる球だ。

 だがその球は想定よりインコースに食い込み、打者を大きく仰け反らせた。

 あからさまに動揺するエースに、ボクは肩の力を抜くようにジェスチャーした。と同時に次のサインが打者を確実に抑えられることを確信していた。

 かーくんは自身のコントロールミスに動揺している。

 その動揺を利用する。

 ボクはミットを内側に構え、直球のサインを出す。

 そしてスパイクで土をざくざくと掘り、ミットを叩いて音を出す。

 そうやって打者に『次もインコース行きますよ』とあえて伝える。

 かーくんが振りかぶる。

 当てたくない、という気持ちが働いてボールにかかる指が少しだけ残る。いわゆる「引っ掛ける」というやつだ。

 インハイを狙ったボールが、引っ掛けたことによりアウトローになる。

 ただ、少し低い。でもこれぐらいなら想定内だ。

 ボクは身体を沈め、ミットを下からすくい上げるように動かす。

 パシン、と乾いた音と共にボールがミットに収まる。

 審判の手が上がり、甲高いコールが響く。

 見逃し三振。

 ああ、これだ。

 ボクは震える。

 ――捕手としてマスクをかぶっているときだけ、ボクは仮面を外せるんだ。

 会心の捕球を終え、ボクは再びマウンドに赴く。

「……悪い」

 インハイがアウトローになったことを言っているのだろう

 でもボクは、インハイに抜けて危うく当ててしまいそうな投球の後、優しい彼が内側の厳しいところに投げ込めるなんてボクは思っていない。

「あの直球なら何処に投げても大丈夫だよ」

「だといいけどな」

「もっと自信持っていいよ。最高のボールだった」

 ボクはミットでかーくんの胸をぽんと叩く。

「惚れたか?」

 珍しく飛ばしてきたジョークにボクは一瞬驚き、はにかみ、そして言った。

「――ずっと前から惚れてるよ」

 あとふたつアウトを取ることを忘れそうになるくらい、ボクは心の底からからそう答えた。

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