【Ex- 119】じゃあちょっと大正から戦前にかけての日本アイドル史について聞いた限りの話を語っておきますね、まあ僕自身はそこまで詳しくもないんですけど

 なんか横から口を挟む形になっちゃって申し訳ないんですが、さっき匿名コンのグループDMを見たら「明日あした待子まつこさんって架空の登場人物だと思ってた」って話が出てて、成程あの『【No. 145】青春のアイドル』を読んでそういう認識になる方もいるのかって若干びっくりしたんですよ。僕なんかは元々ムーランルージュ新宿座や明日待子さんのエピソードを知ってたので、ふんふん史実に題材を取った作品かー面白いなーって思いながら読んでたんですが、確かにご存知ない方も多いでしょうから一応ちょっと注釈しておきますね。まあ僕はこの分野は専門でもないのでそれほど詳しくは語れないんですけど、そもそもムーランルージュ新宿座というのは1931年末に開業した大衆劇場で、そのルーツは大正の頃に一世を風靡した浅草オペラまで遡るんですが、まず皆さん浅草オペラって通じますか。「コロッケのうた」とかで有名なやつですが。今だとオペラというと高尚なイメージがあるかもしれませんが、当時の我が国におけるオペラは落語や芝居なんかと同じ庶民の日常的な娯楽の一つで、西洋のそれと比べるとだいぶコメディ寄りだったんですよ。今でいうと吉本新喜劇とかが近いかもしれないですね。それでこの浅草オペラにも今日でいうアイドル的な存在がいて、帝国歌劇部出身の正統派優等生だったさわモリノと、その八歳下で騒がせ屋として知られた河合かわい澄子すみこの人気争いなんかは、まあ浅草オペラを語る上で欠かせないトピックとして色々な本に出てきますよね。それで、アイドル的存在がいれば当然ドルヲタもいるということで、熱狂的な浅草オペラのファンは「ペラゴロ」なんて言われてたそうです。娘義太夫むすめぎだゆうの「ドースルれん」みたいなものですね。ああ、娘義太夫というのは明治の青年に人気だった演芸で、漱石や志賀直哉、高浜虚子きょしといった名だたる文人達も熱心に通っていたことで有名ですよね。今でいう「センター」的な立場だった竹本たけもと綾之助あやのすけの名前くらいは、ああもちろん女性ですが、皆さんも一度は聞いたことあるんじゃないですか。だから、先述の明日待子さんが後年になって「日本初のアイドル」とよく言われてたんですが、実際にはムーランルージュの誕生以前からアイドル的な存在はいて、その連綿と連なる軌跡の先に花開いたのが「まっちゃん」ブームだったという理解が正しいんじゃないかと思います。大正から昭和初期にかけては少女歌劇も既に出てきてましたしね。現在、歌劇団というと勿論宝塚たからづか、あるいは松竹しょうちく歌劇団を思い浮かべる方が多いと思うんですが、実は戦前には温泉や遊園地なんかのレジャー施設と紐づく形で日本各地に少女歌劇の団体が作られていて、ざっと古い順に挙げると広島の羽田はだ別荘少女歌劇団、これが大正7年の初演ですが、続いて大阪の琵琶びわ少女歌劇……これは本当に琵琶を使っていたからこういう名前なんですけどね。それから、同じく大阪の浪華なにわ少女歌劇、横浜の花月園かげつえん少女歌劇、博多の青黛座せいたいざ、大阪の大浜少女歌劇、大分おおいた鶴見園つるみえん女優歌劇……ええ、あの「九州の宝塚」と呼ばれた鶴見園ですが。ここまでが大正年間の開業で、昭和に入ってからも「北陸の宝塚」こと金沢の粟崎あわがさき少女歌劇、これなんか鉄道を通す所から始めていたというから相当本格的ですが、こういった宝塚の後追いといえる劇団が各地に林立してたんですよね。ただ、次第に女性向けにシフトしていった宝塚と違って、これらの劇団は男性向けに結構セクシーな見せ方も売りにしてたみたいで、結局戦後までは生き残れなかったんですよね。戦後も続いていたのはご存知、大阪から東京に進出した松竹で、これも浅草の松竹歌劇団の方は平成初期に解散したんですが、大阪松竹がOSK日本歌劇団と名を変えて今も残ってますよね。僕はちょっと歌劇のほうは専門じゃないのでそんなに語れないんですが、ともかく、現代のアイドルブームに通じる流れは実は昔からあって、その流れを汲むのがくだんのムーランルージュというわけなんですよ。ちなみにムーランルージュって元はパリにあるキャバレーの名前から取ってるんですが、新宿のムーランで上演されてたのは軽演劇やレビューで、最初はあまり知られていなかったんですが、中村進治郎と高輪たかなわ芳子よしこの心中事件が切っ掛けとなって一気に知名度が上がった逸話は有名ですね。中村進治郎って、当時は「モボの頭領」なんて呼ばれて人気絶頂の青年作家だったんですが、その彼がムーランの無名歌手だった高輪芳子とガス心中を図った末に自分だけ生き延びて、売名目的じゃないかと相当叩かれて文壇を追われてしまったんですよ。中村も結局その2年後に彼女の後を追ってしまうんですが、この「歌姫情死事件」の報道がムーランの名を世間に知らしめることになったんだから皮肉なものですよね。それで、この事件の翌年くらいに、ムーランの地方巡業中にスカウトされて入団したのが、例の明日待子さんです。お父上は警察署長というお堅い家庭の生まれなんですが、お父上は三味線、お母上は義太夫を嗜まれていて、言わば芸事の英才教育を受けて育ったわけですよね。それで、ご存知のようにムーラン創設者の佐々木千里せんりの養女として迎えられて、まあこれは他所からの引き抜き防止の意味合いもあったようですが、将来のスターになるのを期待して「明日待子」という芸名を付けられて、それで実際に彼女が出始めた頃からムーランの人気も拡大していって、「この子は福の神だ」なんて言われたそうです。待子さん、人懐っこいお人柄で、仲間からも可愛がられていたそうですね。そしてムーランの客層には学生が多かったので、学徒出陣が始まってからは戦地に赴く彼らを一人一人勇気付けていたのは有名な話ですが、詳細は『【No. 145】青春のアイドル』を読んで頂くとして。僕自身は別段アイドル史の専門家でもないんですが、当時の写真などを拝見すると彼女の可憐な魅力は伝わってきますよね。ええ。2019年に99歳で大往生を遂げられました。ご冥福をお祈りします。

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