【No. 176】ハッピーエンドは自らの手で

 元患者の結依ゆいから会いたいと連絡を貰ったのは、医局に入って数年が経ち、漠然と人生への迷いを覚え始めていた頃だった。

 病の痕を感じさせない明るい声をスマホ越しに弾ませ、彼女は再会の場所として僕の自宅を所望した。下世話な芸能記者の目を避けるには賢明な選択か。

 今まで苦しんだ分、これからの人生では目一杯幸せになってほしい――その一心で応援してきた彼女との再会は、僕にとっても心の弾むものだった。


 約束の日曜日、夕食の買い物袋を抱えて彼女は僕のマンションを訪れた。退院した頃と変わらない、いや、当時の何倍も綺麗になった姿で。


「先生、彼女とか作らないの? ちょっと安心しちゃった」


 部屋に女性の痕跡がないのを見て取ったのか、生意気にも悪戯めいた微笑を見せる結依。

 手際よく食材を並べ、器用に包丁を操る姿に感心して見入っていると、彼女は「練習したもん」とはにかんだ。立派に生きてる姿を見てほしくて、と。


「歌やダンスは皆見てるでしょ。先生だけにって考えたら、これくらいしかなかったの」


 子供っぽいメニューを想像していたら、意外にも彼女が作ったのは本格的なパエリアだった。キッチンのワインセラーを勝手に物色して、白のボトルを「これ開けちゃう?」なんて持ってくる。


「まさか未成年飲酒なんかしてないだろうね」

「ふふっ、ひみつー」


 僕が眉をつり上げると、彼女はすぐさま「冗談だよ」と手を振った。


「お世話になった人達を悲しませるようなことはしませんっ」

「それならいいけど」


 彼女の手料理に舌鼓を打ち、食後の紅茶を淹れる頃には、窓の外はもう暗くなっていた。

 コーヒーが苦手な結依のために揃えておいた茶葉。そろそろ大人の味も覚えなよ、と意地悪く言ってやると、彼女は「まだいいもん」と可愛く頬を膨らませて――それから。


「でも、ちょっとだけ、大人に近付いた結依の話、聞いてくれる?」


 ちょっとだけ、というのは、ちょっとでは終わらないお喋りの前に付く口癖だったが。

 この時ばかりは、少し様子が違っていた。


「わたし、今度、ドラマで大きな役がもらえるかもしれないの」


 単に朗報という訳でもないのは、睫毛まつげを伏せた表情で察せられた。


「でも、そのためにはね……」


 十七歳の少女の口から訥々とつとつと語られたのは、だった。

 それはきっと、この世界ではありふれた話で。


「事務所の社長さんもマネージャーさんも優しいから、結依が自分で決めていいんだよって。せめてもっと強制してくれたら、わたしも迷わなくていいのにね」


 僕自身、医局の力学に組み込まれた歯車の身だからわかる。

 前時代的だろうと非倫理的だろうと、は今なお残る業界の常識に他ならないのだろう。


「この一回を断っても、この世界にいる限り、ずっと同じようなことは付いてまわるの。みんな少なからず受け入れてることだし、慣れちゃえばどうってことないのかなって――」

「もういい、結依君」


 言い訳を並べ立てるような姿が痛々しくて、僕は思わずその語りを遮っていた。

 だが、次の瞬間。


「だからね、先生。一生のお願い」


 微かに震える両手で僕の手を包み込み、彼女が発したのは思いもよらない言葉だった。


「偉い人達と、そういうことになる前に……。


 上目遣いに僕を見上げる瞳には、疑いようのない本気が宿っていた。


「わたし、先生のことが好き。ほんとは大人になったらお嫁さんにしてほしいの。でも、汚れた体になった結依のことなんて、先生は欲しくないでしょ?」

「……結依君」

「だから、まだ誰にも汚されてない内に、せめて……。初めての思い出が先生とだったら、この先、何があっても頑張れると思うから……」


 潤んだ瞳から、汗ばんだ手のひらから、彼女の決意が伝わってくる。

 いや、しかし……。

 僅かな逡巡を経て、僕はそっと手を引いた。


「僕にはできない。今の君とそんなことは」

「……結依が子供だから?」

「違う。君を一人の女性と認めるからこそ言うんだ」


 そう、久々に彼女と会って。テレビや雑誌と違う素の笑顔を見て、改めて気付いた。

 大人と子供としてでも、医者と患者としてでもなく――


「僕だって、君のことを大事に想ってる」


 濡れた瞳が、はっと見開かれた。


「だからこそ、君にはそんな形で自分を投げ出してほしくない。僕に対しても、業界のお偉いさん達に対しても。そんなことに頼って上を目指すより、君には、心からの笑顔をファンに届けられるアイドルでいてほしいんだ」


 涙ながらに頷く結依。きっと彼女も本心では無理を感じていたのだろう。

 なればこそ、その痛々しさに付け込むことも、あやまった決意に後押しを与えることもしたくなかった。もし僕が望みに応えてしまったら、彼女はもうその道を引き返せなくなる。


「君が信じる道を走りきって……悔いを残さずアイドルをやりきった先で、それでもまだ僕のことを想ってくれていたら。その時は、一緒に生きよう」

「ほんと? 待っててくれる?」

「ああ。約束する」

「うれしい」


 部屋を去る間際、結依はふいに華奢な体を翻して、爪先立ちで唇を重ねてきた。


「キスシーンだって、きっと経験するから。初めては先生以外に渡したくないもん」


 頬を染める彼女の頭を撫でて、僕もまた決意を固めた。



 ◆◆ ◆◆ ◆◆



「縁談の件、やはりお断りさせて頂けませんか」

「何だって?」

「心に決めた相手がいるんです。医局長せんせいにはせっかくお骨折り頂きましたのに、申し訳ありません」

「私のことはいい。だが、お相手は常任理事の娘さんだぞ。あの理事せんせいの顔を潰したら、この世界で出世は難しくなるぞ」

「覚悟の上です。それでも、自分の選択に悔いは残したくありません」


 深々と礼をして医局長室を出たとき、ちょうどスマホにメッセージが届いた。


《昨日話したこと、ちゃんとお断りしました。結依は幸せです。》


 強張っていた口元が自然と緩む。いばらの道を行くことに不思議と恐れはなかった。

 誰かにお仕着せされた成功よりも。ハッピーエンドなんてのは、自分達で藻掻もがいて掴み取るものだと思うから。


「一緒に足掻あがこう、結依」


 一握りの希望を信じて病と闘った、あの頃のように。

 ハートのスタンプをひとつ返し、僕はリノリウムの廊下を急いだ。

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