【No. 141】穴

 突如として壁に空いた穴に、世界は騒然となった。穴が空くのは住人のいる家に限られた。公共の場所であったり、空き家には穴は出現しなかったのである。

 政府は不用意に穴に近付かないよう注意を呼び掛け、超常現象への対策チームが立てられた。

 宇宙からの侵略、神の選別、オカルト雑誌が飛ぶように売れたが、真実は誰も知らなかった。


 注意を呼び掛けたところで指示に従わない人間は多く存在する。彼らは命綱を身に付けて穴の中へと消えていった。ロープの長さが限界を迎え、ピンと張ったのち、床に落ちる。

 中に入っていった人間がロープを解いてしまったのか、ロープの届く範囲で探索を始めたのか。このまま穴から戻ってこないのではと思うくらいの時が経って、穴の中から戻ってきた彼らは、一様に晴れやかな顔をしていたという。


「穴の中で、一番逢いたかった人に逢えた」


 そう話す彼らは、しかし穴の中での出来事を多くは語らなかった。一番逢いたかった人とは誰なのか。家族、恋人、生き別れの兄弟、亡くした友人。インタビュアーがいくつも候補を挙げるも、彼らはただ緩やかに微笑むだけであった。


 危険はないのか、という問いについては彼らは饒舌だった。穴の中は一本道で何の危険もなく、最奥には居心地のいい空間が広がっていたと。


 穴から戻った人々の話が世に出るにつれ、どんどんと穴に入る人間は増えていった。逢いたい人に逢える。そんな夢のような話を信じるなんて、と否定的な人間もいたが、一人ではなく、何人もの口から出た話であったことが信憑性を高めていた。


 誰もが全ての穴に入れるかといえば、そんなことはなかった。自分の家に空いた穴にしか入れないのだ。複数人で暮らす家には人数分の穴が空いていて、それぞれ入れる穴が決まっているという。


 穴の中ではどんな機器も使い物にならず、完全に外界と遮断されていた。動画投稿者は穴の映る画角でビデオを長回しにし、自分が穴に入ってから出てくるまでを配信した。デジタルとアナログ両方の時計も一緒に映り込むようにしていた彼の動画は瞬く間に拡散された。彼は確かに穴に入っていき、そして戻った時には満面の笑顔であった。


「穴の中、最高だったよ!」


 そう言う彼の背後で、穴は見る間に収縮を繰り返して消えてしまった。しかし、彼にはもう穴は必要ないのだという。これからは今の自分を大切に生きると宣言し、視聴者にも穴に入ることを勧めた彼は、今でも楽しそうに動画を上げ続けている。



 私も、穴に入ろう。

 そう決めたのは穴が出現してから一年ほど経過した頃だった。その頃にはもはや政府も穴の危険性はないものとして扱っていたし、対策チームは穴の解析を半ば諦めていた。今の地球の技術力では到底及ばないほどのものであるとされたのだ。

 地球外から何らかの影響を受けているという可能性は残っていたが、いくら衛星を飛ばして調査しても芳しい結果は得られなかった。


 私は穴の前に立つ。もはやロープすら身に付けておらず、身一つで穴に入っていった。穴の中は薄暗く、しかし整った一本道であるために歩くことに不安はない。しばらく歩いていると一際明るく、開けた空間に出た。


「やぁ、随分待ったよ」


 眼前に現れた人間に、私は驚いて動きを止めた。その一瞬の逡巡の間に、私の首元にスタンガンが当てられた。私の意識を刈り取ったのは、間違いなくだった。





 私は目を覚ます。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、思い通りに身体が動くことを確認した。の記憶も問題なく引き継げている。私は口角が上がるのを抑えられなかった。


「はぁ〜、逢えてよかった……。まだ逢えてない人も多いし、私も頑張らないとな」


 こちらの地球では起きなかった技術革命。一大文明を築き上げた代償は大きかった。今や我々の地球は人間が住める環境ではなくなってしまった。深刻な大気汚染、貧富の差は激しく紛争が絶えない。冬になれば氷河期レベルの寒波が世界各国に到来し、夏は太陽から注がれる熱線が人の肌を焦がす。

 そんな私たちにとって、こちらの地球は救いだった。数多の並行世界から一番条件のいい地球を選び出し、二つの時空を繋ぐ穴を空けた。穴に入ってきた自分に成り代わることができれば、絶望的な現実から完全に解放されるのだ。

 こちらの地球では、同じ轍は踏まない。技術革命など起きないようにそれぞれが情報を操作し、地球の滅亡を避けなくてはならない。


 私は部屋に戻ると、穴を消去した。これでもう、はこちらに戻れない。ありがとう、健康に生きていてくれて。人によっては元々の自分にはないハンデを負うこともあるという。私はむしろ、長年悩まされていた腰痛が治っていて感動した。


「あなたに逢えて、本当に嬉しいよ」


 そもそも、しっかりとした家に住んでいてくれただけでも感謝しかない。決まった家に住まない人間には穴が開けられず、その時点で成り代わりは諦めざるを得なかったのだ。そういう人たちは、自分が成り代われる相手を求めて並行世界を調査し続けている。

 手間や予算を削減するために、最大人数の受け入れが可能なここが選ばれたが、個人で別の時空に穴を開けることも不可能ではないからだ。

 ただ、その個人にかかる負担は計り知れないし、時空を接続して固定するためには途方もない演算処理が必要である。コンピュータに任せきりにして時空の狭間に落ちてった人間もいる。そんなリスクを負うことなく入れ替われた私は本当に幸福だ。


 私はパソコンを立ち上げ、細々と日々の話を投稿していたSNSを開いた。私の投稿を読んでいる人は決して多くはないが、この手の話はとにかく発信者を増やすことが大切だろう。


『穴に入って、心の底から逢いたいと願っていた人に逢えました。これからも頑張れそうです。もしまだ穴に入ろうか悩んでいる人がいたら、相談に乗りますよ。気軽に連絡ください』


 エンターキーを押した私は、背伸びをしながらカーテンを開け放ち、窓を開けて外の空気を吸った。

 かつてないほどに気持ちのいい深呼吸だった。

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