【No. 138】元犬の白雪はご主人様が大好きです
『神様。もし願いを聞いてくださるなら、あたしを人間に生まれ変わらせてください。ご主人様とまた出会わせてください。ずっと一緒にいたいのです』
一心に祈りを捧げていると、にわかに目の前が光に満たされえもいわれぬ心地よい芳香に包まれた。
それが白雪の最期の記憶だった。
職場に向かう途中の黒須陽太は、疲れた肩を丸めて駅へと歩いていた。心は重い。
五日前に愛犬を亡くしたばかりなのだ。朝起きても夜帰宅しても、喜びに飛び跳ねながら出迎えてくれるあの小さな姿はないのだ。
駄目だ。あの子のことを思い出すと目頭がにじんでくる。
(こんな辛い毎日に生きる意味はあるんだろうか……)
――その時。
「ごおおおゅじんさまああああ!! 会いたかったあああああああああ!!」
十代半ば位に見えるぽっちゃりした色白の女の子が、弾丸のように一直線に駆けて来て陽太に飛びかかった。
「うわっ!?」
不審者!? 避けようとしてバランスを崩す。尻もちをついた陽太に少女は抱き着いた。獲物を組み伏す狼の様に。
「あああ、ご主人様の匂い久しぶり! 好き! 好き!」
そう言いながら陽太の顔をべろべろと舐め回した。
怖すぎる。脳がぐるぐるする。
「やめ……。誰か、警察……」
恐怖に慄きつつ少女のふよんとしたほっぺたを押しのけると、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「あたしですよぉ。陽太さん。あなたの白犬の白雪です」
「え、白雪……?」
うんうんと少女はうなずいた。
抜けるような白い肌に麦茶のような髪の色。澄んだ茶色の瞳は幼子のように輝いていてる。
悪意がある様には見えないが……。
だとしたら……ちょっと、本気でやばい人なんだろうか……。
「神様にお願いして、人間に生まれ変わらせてもらったんです。なんていい匂い!」
陶然とした顔で少女は陽太の匂いを嗅ぎまわり、顔を舐め回した。
ひっ……。背筋がぞくぞくする。
やべえなこいつ。
とりあえず逆らわない方がいい気がする。怒らせたら何をされるかわからない。
「わかりました。あの……白雪さん……? 人が見てるのでどいてもらえますか……」
ご主人様と呼ばれたり顔を舐め回されたり、そういうプレイを公然と楽しんでいると勘違いされて通報されかねない。もしや彼女はそういう人なのかもしれないが、巻き込まれる気はない。
懇願すると、少女は素直に身を引いて立ち上がった。
「はい! ではおうちに帰りましょう!」
「いえ、僕は仕事で……。あっ、遅刻だ!」
スマホの時刻を見る仕草をし、慌てたように駆けだした。
「いってらっしゃーい! ご主人様! お帰りを待ってますね。ずーっと待ってますから!」
怖ろしいセリフが背後から聞こえてきたが、とりあえず追ってはこなかったので安堵した。乾いた唾液の臭いが不快だ。早く顔を洗いたい。そして忘れたい。
その夜。
駅の北出口から吐き出される大勢の乗客たちを『白雪』と自称する少女は見つめていた。
「ご主人様あ? いませんかあ?」
ときどき声をあげながら捜している様だ。
駅構内の物陰に隠れながらその様子を見て、陽太は身ぶるいした。
(ストーカーってやつか? 通報する?)
怖さと面倒くささを秤にかけ後者に傾いた。仕事で疲れているのに警察に行ってあれこれ語るのはしんどい。今日は寝よう。
狂人とはいえ年端もいかぬ女の子一人だ。そんな悲惨なことには……ならない……といいな。認識甘い? 正常化バイアスってやつ?
そしていつもは利用しない東口の方からこっそり出て、遠回りをして自宅に帰りついた。
家のドアを開け電気をつける。静まり返った廊下を歩いてリビングにカバンを放り出した。家に帰っても虚しい。駆け寄ってくる白い姿が無いのに慣れる日は来るのか。
「ご主人様あ。お帰りなさいぃ―!」
はしゃいだ声と共にドアがドガンドガンと叩かれた。陽太は総毛立つ思いだった。
つけられてたのか?
「あたし、遅くなっちゃってごめんなさい。駅ってすごい人ですねぇ。でもご主人様の匂いがしたから追ってきたんです」
自慢げな声が外から聞こえる。あまり大声を出さないでほしい。
陽太はドアホンのモニターを見た。満面の笑みを浮かべた件の少女が立っている。
「開けてくださいよぉ。かくれんぼですか?」
息を殺して気配を伺う。危険な様子が見えたら即通報だが……正直、彼女の茶色の瞳は白雪に似てなくもなかった。キラキラ輝く人なつこい眼。
万が一、本物の生まれ変わりだったらという希望が少しだけないわけでも……。いやいや。
「もしもしー? ご主人様ー? あれ? あたしが食べすぎるから、いやになっちゃったんですか? 入れてくださいよお。もうお肉をねだったりしませんからあ。野菜だって食べますからあ」
少女の声が元気をなくし、情けないものになってきた。
「いい子になりますからあ。よく作ってくださったあの、ささみと白菜とトマトを煮込んだやつ。野菜ばっかり残しちゃいましたけど……。でもこれからは食べますからあ」
え……。なんだって。
生前の白雪は獣医から肥満を指摘されていた。彼女が早く命を落としたのも管理不足のせいではないかと己を責め続けていた。
食欲旺盛な白雪をなんとか減量させられないかと、よく鶏のささみと白菜やトマトをなどを煮込んだものを作っていた。だが彼女はささみの部分だけ拾い上げてあっという間に平らげ、野菜だけ残った皿の前で何かをねだる様な上目遣いをするのだった。
なんでこの子が知ってるんだろう?
「ご主人様あ……」
悲痛なその言葉にひぃーんと鳴く犬の声が重なった気がした。
「もしかしてご主人様が大好きな動画を見ている時に、あたしがワンワン鳴いてたから怒っちゃったんですか? だって楽しかったんですもの。ご主人様、ハイボールを飲むといつも超絶可憐美少女Vtuberメメルたんチャンネルを見て『恋してはぐりんちょ☆』を一緒に歌ってましたよね。それを聞くとうきうきしてきて、黙ってられないんですよぉ」
陽太は玄関に駆け寄ると秒をも惜しむ早さでドアを開けた。
「白雪!」
抱き着いてきた少女をしっかと抱きとめた。
「ああああ、ご主人様あああ。離しませんよお。これからはずっと一緒ですよお」
そして犬の願いは叶ったらしい……と人づてに聞いたので書き記しておきます。
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