【No. 070】神に叛いて誓いのキスを【残酷描写あり】

 私は神父で、彼女はシスターだった。

 山奥の小さな村にあるには立派な教会に二人で住んでいた。

 裏の畑で取れる野菜を日々の糧にしながら自給自足で暮らす私たちは、互いに互いを想い合ってはいたが、それを口にすることはなかった。

 毎朝顔を合わせる度に美しい笑顔を向けてくれる彼女を、自分のモノにしたいと考えなかったといえば嘘になる。けれど、私も彼女もそれ以上に、神の僕だった。

 一線を踏み越えることはなく、手と手さえ触れたことはない。

 それでいいと思っていた。

 あの日までは。


 あの日。

 未だかつてないほどの大雨が降る夜。立派とはいえ歴史ある教会は至る所から雨を滴らせていた。ありったけのバケツやタライを集めて、雨を集める。

 扉の隙間から入り込んでこようとする雨を防ぐため、彼女がタオルを持って入口に向かった時だった。物凄い音を立てて扉が吹き飛び、外から風雨と共に真っ黒な塊が飛び込んできたのだった。それは牙を剥き、唸り声をあげる。野生の狼は全身ずぶ濡れのまま、狂乱し、彼女に襲いかかった。

 あ、と思った時には、狼の鋭い牙が彼女の喉笛に突き立てられていた。私は無我夢中で狼に突撃し、彼女から引き剥がすことに成功する。それでもなお唸り、飛び掛からんとする狼に、近くにあった大きな燭台を必死で振り回した。

 砕け散った扉の欠片に火が燃え移り、私はそれをも手に掴んで振り回す。早く、早く彼女の血を止めなくてはいけないのに。

 炎が大きくなり、狼は一度大きく吼えて雨の中に姿を消した。木片を持っていた左手は火傷を負ってじくじくと痛んだが、それどころではない。木片を雨の降りしきる屋外に投げ捨て、慌てて彼女に駆け寄った。そして、すぐに手遅れだと知った。

 彼女の顔からは完全に血の気が失われていて、翡翠のような瞳は焦点が合っておらず、中空を彷徨っている。私は彼女の手を握った。初めて触れた彼女の手は、酷く冷たかった。


「ダメです。死んではいけない……」

「お、お慕い、……て、おりま……」

「あぁ、分かっています。貴女の心は分かっていますとも。だから、喋らないで……私を置いていかないでください……」


 聖職者失格だと思った。神の庭に旅立つ彼女を引き留めるなど、してはならないのに。本来であれば死への恐怖を和らげ、せめて幸福に神の庭へ行けるよう手助けをしなくてはならないのに。それなのに私は彼女に縋り付き、涙で彼女の頬を濡らしている。

 私への愛を囁く彼女をキツく抱きしめ、流れゆく血液の温かさが嘘のように、その身体がどんどんと冷たくなっていくのを感じていた。背中に回された震える手が弱々しく私を抱いて、それが最期だった。


「ああ、ああああああ、あああああああ……っ!」


 神よ。なぜ、彼女を連れて行かれたのですか。まだ歳若く、これから数多の人間を救い導くはずの彼女を、なぜ。自分の信仰心が揺らぐのを感じながら、私は泣いた。

 前日の雨が嘘のように晴れ渡った午後、村人たちと共に彼女を弔い、そして丁寧に埋葬した。村人が作ってくれた墓石に、十字架は刻まなかった。


◇◇


 それから一年が過ぎた。彼女のいない日々は苦しいものだったが、しかしそれでも懸命に祈りを捧げ続けていた。彼女の魂が、神の庭で平穏に過ごせますようにと。

 彼女の墓にいつもより豪華な花束を置き、愛していると小さく呟く。死者に愛を呟くことくらいは、許してほしいとも。


 教会を閉めて自室に戻ろうとした時、彼女の墓の辺りから物音がした。私は燭台と、あの日から持つようにした護身用の短剣を身構えて外へ出る。月は分厚い雲に覆われ、蝋燭の灯りだけが頼りなく周囲を照らしていた。


 墓石の影に、墓石よりも大きな何かがいた。まさかまた狼が、と反射的に短剣をそちらに向けて突き出すと、その何かがビクリと身じろぐのが感じられた。暫くその状態のまま様子を見ていたが、何かがこちらに襲いかかってくることはない。私は意を決し、何かに恐る恐る燭台を近付けた。


「シ、シエラ……⁉︎」


 そこには、彼女がいた。一年前、私の目の前で息を引き取ったはずの彼女が。変わらず美しい翡翠のような瞳から涙を零し、肩を震わせて私を見ていた。


「神父……さま……」

「ほ、本当にシエラなのですか? 夢を見ているのではない……?」


 私は短剣を腰からぶら下げた鞘にしまい、腕を小さくつねった。当然のように痛む腕に夢ではないのだと理解し、彼女に手を伸ばす。夢ではないのなら、もしやすり抜けるのではと思ったが、柔らかな彼女の腕を掴むことができた。あの時よりもずっと暖かかく、私の目から涙が一筋、頬を伝った。


「シエラ、どうして……」

「神父さま、私……悪魔になってしまいました……」

「あ、くま……?」


 予想外の単語が彼女の口から飛び出し、驚きで涙も止まってしまった。そんな私の反応を見て、再び大粒の涙を零した彼女は、死にたくないと、私とずっと共にいたいと強く思っていたら、気が付いたら悪魔になっていたのだと、子供のように泣き喚きながら語った。神父である私と共にいたいと願ったのに、悪魔になってしまっては会うことも叶わないと、ずっと遠くから見るだけだったのに、愛していると言っているのを聞いてしまったら、近くで姿を見たくなってしまったのだと。


 涙でぐしゃぐしゃになった彼女の顔を見ながら、話を聞きながら、私はどんな顔をしていただろう。彼女の背から生える蝙蝠に似た大きな羽根も、何も気にならなかった。ただ、目の前で起きていることが本当に夢ではないのかと、もう一度腕をつねっていたくらいで。


「シエラ、大丈夫ですよ。ほら、顔を上げて。貴女が悪魔になってくれてよかった。ねぇ、可愛い悪魔さん、私を、堕としてください」

「え……?」

「愛していますよ、たとえ貴女が悪魔だとしても。ほら、そんな私はもう、神父にふさわしくはないでしょう。どうせなら貴女の誘惑で私を堕としてください。ね?」


 ぱちりと瞬かれた翡翠の瞳にはもう、私しか映っていなかった。

 そのことに酷く満足しながら、私は彼女の唇に、そっと誓いの口付けを落とした。

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