5月7日 公開分
【No. 058】イマドキの微エロのためのエチュード【性描写あり】
「あんたと再会したのは思いがけない偶然だったわ」
そういう彼女のカラダはシャワーで濡れて上気し、薄く汗が滲んでいた。先程強く吸った首筋に、薔薇のように紅くアザが浮き出ていた。そのアザに指をそわせる。数年前より柔らかくなった肌は、手によく馴染んだ。
「やめてよ……」
「どうして? 」
「どうしてって、そんなの決まってるでしょ」
「わからないな」
俺は彼女の腰を抱き寄せ、強引に唇を重ねた。
「っ! 」
彼女は首を振った。だが俺はその動きを封じるように軽く頭を手で押さえつけた。
「俺には君が何を望んでいるのか分からない」
「……あんたには何も期待していないから」
「なぜだ? 」
「だって、どうせ私のことを愛してないんでしょう? 」
「……」
愛してるさ。だけどそれは口にできない言葉だった。別れようと言ったのは俺だ。俺は彼女の瞳を見つめながら言った。
「君は綺麗だよ」
「嘘つき…… 」
「本当さ。それにとても魅力的だ」
「やめてよ! 」
彼女は叫んだ。そして、泣きそうな顔になった。
「あんたとはもう終わったの。再会にかこつけた情事はこれで終わり」
「そうか、じゃあ最後にキスしよう」
「いやよ! 」
「いいじゃないか」
「だめよ! 」
「何が不満なんだ? 」
「全部よ! 」
彼女は吐き捨てるように言うと、バスローブを脱ぎ捨て、濃い紫に黒のリボンがついたブラジャーに、無い乳房を押し込んで、クローゼットに入れた服を着て帰ろうとした。
「待ってくれ! 」
「ついてこないで! 」
彼女が俺の腕を振り払った瞬間、バランスが崩れた。彼女はベッドの上に倒れ込み、スプリングが大きく軋んだ。俺は思わず手を伸ばしたが間に合わなかった。
「大丈夫かい? 」
「痛いわね」
「ごめんよ」
「謝らないでよ。惨めになるだけじゃない」
彼女は目元を擦った。俺は彼女に声をかけようとした。
「……何を言われても嫌よ」
「頼むから聞いてよ」
「絶対に駄目」
「分かったよ。無理強いはしない」
俺は諦めた。彼女は手早く服を着た。地味めのオフィスカジュアル。グレーのジャケットがよく似合う。
「さよなら」
彼女は俺の顔も見ずに部屋を出ていった。俺はそれを黙って見送った。ドアが閉まると同時にため息が出た。
俺は窓際に行き、カーテンを引いた。窓の外には夜の闇が広がっていた。俺は煙草を取り出し、火をつけた。煙はゆっくりと上昇しながら消えていった。
俺は自分がひどく空虚なものになってしまったような気がした。心の底から絶望していた。何もかも放り出して、どこかへ行ってしまいたかった。しかし、そんなことはできっこなかった。
俺は結局、死ぬまでこんな風に生きていくしかないのだと思った。たとえそれがどんなに辛いことであっても。
✳︎✳︎✳︎
「ダメダメダメ。こういうのは受けないよ」
S氏は僕の書いた短編を途中で放り投げた。
「まずヒロインがダメ。ヤっておいてゴネる元カノとか絶対ダメ。年齢いってる描写とか濃い紫のブラとかオフィスカジュアルとか全部ダメ。グレーのジャケットが似合うババアをヒロインにしちゃダメ」
ネットに書き込んだら即炎上ものの発言だな。
「今の時代ヒロインに求められてるのは癒しなんだよ。恋の駆け引きは要らないの。とっかえひっかえのアバンチュールは昭和で終わり! 今は令和だよ? 」
僕は平成生まれである。あとアバンチュールって死語じゃなかろうか。
「あと直球の事後描写とかダメだよ。読者が求めてるのはエロであってセックスじゃないんだから。微エロでいいんだよ。主人公が大好きで胸を押し当ててくるとか、うっかり太ももに主人公の手が当たって顔を赤らめるとか、そういうのでいいの。処女性が大事だよ。エロも恋もファンタジーが求められてるんだから。濃い紫のブラなんて絶対ダメ」
久しぶりの持ち込みはこんな感じで惨敗である。
アレでそこそこの出版社に勤め、僕とは桁違いの給料をもらっているS氏の背中を見送りながら、こっそりため息を吐いた。
S氏からメールをもらい、舞い上がった僕がバカだった。僕には初めての担当編集との再会でも、彼にとっては有象無象との暇つぶしなんだから。S氏がどんな作品が売りたいかをろくにリサーチもせず、作品を見せた僕が悪いんだ。たぶん。
……濃い紫のブラ、ダメだってさ。
心の中で彼女に語りかける。
無論、S氏に見せた短編は全くのフィクションだ。僕の元カノとは再会しても情事には至らないし、未練があるのは僕だけだし、彼女はあんな女女した話し方しないし、キスマークなんて絶対つけさせてくれない。濃い紫のブラだけがノンフィクション。
初めての彼女だった。僕の不甲斐なさに愛想を尽かされ、最後は喧嘩ばかりだったけど、心の奥底で再会を望むくらいは許してくれるんじゃないだろうか。
S氏は良いことを言った。エロも恋もファンタジー。本当にね。僕のファンタジーはイマドキではなかったのだ。
ぬるくなったお冷を喉に流し込み、僕はファミレスを出た。
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