【No. 037】「とと」の大人様ランチ

 くそっ、人を何だと思ってやがる。俺だってたまには休みたい、デートだってしたい。でもそんな相手いねえし、そもそも出会う暇すらねえ。もういい、そんなことどうだっていいから、せめて、せめて飯くらい……食わせろ……。

 



 高森隆盛たかもりりゅうせいの意識はそこで飛んだ。社畜歴四年。一人暮らしのボロアパートにはノートパソコンと布団が一組、そして散乱した空のペットボトルとコンビニ弁当の容器。崩れるように倒れ込んだ隆盛の上半身だけが、じっとり湿った万年床の上に辛うじて乗っていた。


 目が覚めたとき、体中がとにかく痛かった。頭もずっしりと重い。オレンジ色に反射する窓を見て、久し振りの休日が終わろうとしていることをぼんやりと悟る。ガタつく窓の隙間から、僅かに風が吹き込んできた。濃厚なトマトソースの香りを乗せて。隆盛はフラフラと立ち上がり、吸い寄せられるように外へ出た。


 すぐに小さな屋台が見えた。初めて見る屋台である。小さな暖簾には『望都』と書かれていた。


「いらっしゃいませ」


 まだ若い、でも落ち着いた雰囲気の男性がにこやかに隆盛を迎えた。隆盛はその笑顔に得も言われぬ安らぎを感じた。


「お疲れですね。元気の出るものを用意しましょうか?」

「あ、ああ、それで頼みます」


 ぼんやりと暖簾の文字を眺める隆盛に男性が言う。


「それ、僕の名前なんです。僕、上橋うえはし望都もとといいます」


 上橋……望都? その名前に隆盛は首を傾げる。この男とはどこかで会ったことがあるのだろうか。が、極度の疲労と空腹が隆盛の思考を鈍らせる。考えるより、一刻も早く食べ物にありつきたかった。


 ものの数分で、目の前にプレートが差し出された。隆盛は思わずスッと息を吸う。


「これは……?」

「望都の特製『大人様ランチ』です」


 オムライスとハンバーグには角切りトマトがごろごろ入ったソースがかかっていて、ハムとチーズ入りのサラダにはプチトマトが彩りよく添えられている。それに、具沢山のナポリタン、ウサギのりんご。


 ああ、この香りだ。


「……美味い」


 一口食べて涙が零れた。なぜか懐かしく、そして優しい。乾いた地面に水が浸み込んでいくようだった。疲れ切った体に、頭に、細胞の隅々にまで温もりが染み渡っていく。頬を濡らしながら無心に食べる隆盛を、望都はそっと見守った。


「ご馳走様でした」


 ソースの一滴も残さず平らげた隆盛は、ふとポケットに手を突っ込んだ。名刺を一枚取り出し、望都に手渡す。


「俺はこういう者です」

「えっと……高森隆盛たかもりさん?」

「『りゅうせい』です」

「はは、冗談ですよ、隆盛りゅうせいさん」


 『たかもりたかもり』とは隆盛のあだ名だ。高校生になるまでそう呼ばれていた。望都の笑い声に隆盛もふっと表情を緩ませる。


「望都さんの料理に、救われました……俺、毎日毎日残業で、腐った上司の面倒な雑用押し付けられて、飯食う暇もなくて、何のために生きてんのかって……」


 言葉に詰まった隆盛に望都はにっこりと笑って見せた。


「また来てくださいよ。いつでも待ってますから」


 その言葉通り、望都は毎日店を出してくれた。大人様ランチを食べるたびに、隆盛の荒んだ心が癒されていく。同い年だった二人は今やすっかり打ち解けていた。自分の他に一人の客もいないことなど、隆盛は気にも留めなかった。


 そんなある日。 


「俺、仕事辞めようかなあ」


 大人様ランチを食べ終えて、ぽつりと呟いた隆盛を望都が見つめる。


「俺の実家、洋食屋でさ、本当は親父に店継がないかって言われてたんだ。でも、田舎の小っちぇえ店にしがみ付くのが嫌だって啖呵切っといて、今更どの面下げて帰るってんだよな」


 そう言って隆盛は自虐的に笑った。


「大丈夫だよ。親ってのは、いつでも子供のことを一番に考えてるものだろ? きっと受け入れてもらえると思うよ」

「自分で飛び出してったくせに全部放り投げて帰るような奴でも?」

「僕は隆盛は立派にやってると思うよ、うん、凄く頑張ってる」


 望都は慈愛のこもった目で隆盛をじっと見つめた。


「なんか不思議だよな。望都と話してると凄え元気出る」

「そう? だったら嬉しいな」


 そう言って望都は声を出して笑った。相変わらずの激務にも関わらず、隆盛の心は穏やかだった。


 その夜、隆盛は夢を見た。若い頃の母と望都が笑っていた。不思議なことに、隆盛はまだ小さな子供の姿だった。「とと」、子供の隆盛が望都を呼んだ。そこで隆盛は夢から覚めた。


 隆盛は静かに涙を流していた。そうだった。ずっと忘れていた。あの日、隆盛がまだ四歳だったあの日。転がったボールを追って道路に飛び出した隆盛に覆いかぶさった大きな影、間もなく聞こえた急ブレーキの音と鈍い衝突音。

 以来、隆盛は「とと」の記憶を失った。毎年の墓参り、誰の墓なのか疑問に思うことさえなかった。あれは「とと」の墓だったのだ。


 望都の屋台はそれきり現れることはなかった。だが、「とと」との再会が隆盛を変えた。隆盛はゴミ屋敷一歩手前だった部屋を片付け、鍋を磨いた。鶏ガラを丁寧に煮出したブイヨンを味見する。洋食の基本はブイヨンだ。今は父が経営する小さな洋食店、かつてキッチンに立っていたのは「とと」だった。好き嫌いの多い隆盛によくお子様ランチを作ってくれた「とと」を思い出しながら、隆盛は今日もトマトソースを煮る。




 会社を辞め、実家に帰った隆盛に父は試験を課した。目の前に置かれたプレートを見て両親は絶句する。隆盛が作ったもの、それは大人様ランチだった。屋台で毎日食べたあの「とと」の大人様ランチ。

 母はじっと涙ぐんでいる。父は黙ってスプーンを手に取ると、角切りトマトソースのたっぷりかかったオムライスを一口、ゆっくりと口に運んだ。そして一言。


「……望都さんの味だ」


 父は望都の調理学校時代の後輩である。望都を尊敬していた父はまた、この洋食屋の常連でもあった。父と母は時に目頭を押さえながら、ただ黙々と隆盛の作った大人様ランチを食べ続けた。




 試験が終わり隆盛は店を出た。空を仰ぐ隆盛は清々しい顔をしていた。


「とと、俺頑張るよ。ありがとな」


 明日から料理人見習いとしての日々が始まる。吹き抜ける風に、かすかに懐かしいトマトソースの香りが混じっている。

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