【No. 033】一夜の夢と、強がりたくて

 ピンポーン。


 アパートの一室に鳴り響いたチャイム音で俺の意識は戻された。

「んん……誰だ?」

 つけっぱなしのテレビから流れる陽気なバラエティー番組が思考を撫でる。

 テーブルには飲み終えた三本のビール缶、酒を飲むうちに寝入ってしまったみたいだ。

 身体を預けた座椅子の傍に転がるスマホを叩く――時刻は深夜を過ぎていた。

 

「何時だと思ってんだよ」

 酔いが残る頭で玄関に向かうと、二回目のチャイムが届いた。

「おーいタケヒトー開けてー! 私ーメグミだよー!」

 続けて扉の向こうから聞こえるからりとした声と数回のノック。聞き覚えのあるこの声は……。

「メグミ……ぇ、ぁ、まさかメグミか?」

 ハリセンで思いっきり頭を叩かれたような衝撃を受けた俺は慌てて扉を開けた。


「やっほー久しぶりー、元気してたー?」

 扉の先には白のブラウスに寒色系のフレアスカートを着こなした、二十代前半の女性が軽やかな笑顔を見せる。

 見間違いじゃない、目の前で手を振っているのは二年前まで付き合っていた元彼女『メグミ』だ。


「こんな遅くにごめんね、偶々この近くを通ったらタケヒトのこと思い出しちゃって、それで顔だけでも見たいなって、引っ越してなくて良かったぁ」

「……」

 二年前、最後に顔を合わせた日と変わらないブラウンのボブカットが良く似合う元カノは、テンション高めで言葉を続ける。

「ん、て言うかお酒の匂い……もしかして酔ってる? 前はお酒殆ど飲まなかったのに、おーい聞いてる?」

 唖然と声が出ない俺を気にしてメグミは顔を近づけた、変わらぬ端正な顔立ちに俺の脈が跳ねた。


「あ、ああ、悪い少し酔ってて、お前……メグミ、何だよな?」

「クスクス変な質問、たった二年で彼女の顔を忘れたか薄情者ー」 

「違っ、覚えてる、ちゃんと覚えてるって」

「良かった、もう遅いけどお邪魔していい? 久しぶりだし色々話したいなって」 

「……ああ分かった、久しぶり、だもんな」

 俺が恥ずかし気に頷くとメグミは嬉しそうに目を細め、以前住んでいたこの部屋に遠慮なく入った。


「おー、ちゃんと整理整頓されてる。私が居なくなった後に汚部屋にならないか心配だったけど」

「掃除はマメにやってるよ、これでもお前が口うるさく言ってたゴミの分別も続けてるんだぜ」

「えらいえらい♪」

 テーブルからビール缶を退かし麦茶を注いだグラスを二つ置く、俺は座椅子にメグミは用意した座布団に座り一息入れた。


「このグラス私が買ったやつだ、綺麗にしてくれてたんだね」

「結構高かっただろコレ、捨てるのも勿体ないし現役で使わせてもらってる」

 片方は赤、片方は青、鮮やかなグラデーションのペアグラス。ここでの同棲中にメグミが買った俺のお気に入りの一品だ。


「来るってわかってるなら酒は飲まなかったんだけど、前もって連絡くれよな」

「アハハ無理言わないで、ここに来れたのは本当に偶々偶然だったんだから……それにさ、今は多分、酔ってる方が色々都合がいいよ」

「そうか?」

「うん、一夜の夢だって錯覚できるし」

 夢――メグミから零れた言葉はどこまでも寂しく乾いて聞こえて、俺は無意識にテレビ台の端に置かれた写真たてを見つめた。


「あれから二年か、遅くて、早い二年間だったな」

 俺の視線を追って写真たてを見たメグミから息を飲む音が聞こえた。

「そっか、ずっと忘れないで…………この二年間のタケヒトのこと知りたいな、仕事は順調? ちょっとは出世したかー?」

「たった二年で変わるわけないだろ、って、言いたいところだが、今年に入ってから大きな仕事を任せられて、上手くいけば上を目指せるかもしれない」

「ほほ~凄いじゃん!」

「この二年は仕事だけに集中してたから成果が出たのかもな、まぁやりがいは感じてるから良いんだけど」


「他には他には? 何でもいいから聞かせてよ」

「他? んー、そう言えばこの間お袋から親父と喧嘩したって電話が来てよ、離婚だー! って騒いで。もう何回目だっつーの」

「アハハ、おばさんも相変わらずだね」

「ああ、そうだ、今の職場に面白い後輩がいてさ――」

「うんうん――」

 メグミは肩が触れ合うくらいに距離を近づけ俺の話に瞳を輝かせる、そんな彼女の喜ぶ顔が嬉しくて、ほろ酔い気分な俺は自分語りを続けた。


 ……。

 …………。


「ぅ、んん」

「……もう寝そうだね、私もそろそろ時間だから良かったかも、タケヒトの話、沢山聞けて嬉しかったな」

「まだ、行かなく、て、も」

「それはダメ、今晩再会できたのも本当に偶然だから、これ以上の奇跡は起きない」

「俺も、一緒に」

「私はタケヒトと一緒に居られて幸せだった、本当にどうしようもないくらい……それと同じくらいタケヒトに幸せになって欲しいんだ」

「それは、俺……だって」

「私のことは忘れてなんて言い辛いから、一夜の思い出にしてね、それと仕事に逃げないで良い人見つけなよ、あーお酒の飲みすぎも禁止!」

「メグ、ミ……」



「ばいばい、タケヒト――大好きだよ」



 ――……。

「…………ん……あ、さ?」

 カーテンの隙間から差し込む光で目覚めた俺はゆっくり体を起こした。

「って、床で寝てる、飲み過ぎたかー」

 俺は頭をかきながら部屋を見渡す、目の前のテーブルには二つのグラスが置かれている、酔ったいせいで二つも持ってきたのか?

(何だ? 何か夢を見てたような……)

 誰かがここに訪れて、そして言葉を交わした夢。


 ……凄く大切な夢だった気がするのに、思い出せない。

 しかし、不思議なことに俺の体と心は軽かった。


 心の棘が取れたような開放感、俺はテレビ台の写真たてに写る、愛しき恋人に微笑んだ。

「おはようメグミ」


 スマホから日付を確認した、礼服の準備はばっちりだ。私服でも構わないご両親に言われたが形はしっかりとしたい。カーテンから差し込む朝日が俺を現実に引き戻す。


「……酒、控えるか」 

 

 あの日、交通事故で亡くなった彼女メグミの、二回目の命日が近づいていた。

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