久田高一

 遥か昔の地球、我々人類の最も古い祖先である男と女は、他者の感情を形として見ることができるという、現代人が失った力を持っていた。例えば、男がりんごを囓れば、男から淡い黄色をした四角形が空気に溶け出した。女が転んで擦りむけば、女から濃い灰色をした三角型が飛び出した。2人は言語を持たなかったが、それで良かった。

 ある日男は、近頃女が自分のことを見つめてばかりいることに気が付いた。始めは女から桃色の丸が漂っているだけだったが、次第にそれは紫色の菱形になり、灰色の台形になり、終いには黒の形容しがたい、現代人の幼子が書き殴ったように崩れた形になった。崩れた形はどんどん大きくなり、今や女の身体をすっぽり覆ってしまっている。男は恐怖した。そして、女のもとから逃げだした。

 遥か昔の地球は、1人で生きていくには過酷だった。食料が見つからず何日も腹を空かせ、獰猛な鳴き声のする草原で、木のうろに隠れて、灰色の三角形と横たわっているだけの日が何日も続いた。そんな時男は決まって女のことを思い出した。彼女は無事だろうか。彼女に会いたい。でも急に立ち去った自分に会ってくれるだろうか。でも彼女はまさか自分を追い返すようなことはしないだろう。でも最初に裏切ったのは自分なのに、どんな顔をして会いにいけると言うのだろう。でも……。

 男が女を思う気持ちは日に日に大きくなっていった。灰色の三角形が桃色の丸に変わり、次第に紫色の菱形になり、灰色の台形になり、終いには黒の形容しがたい、現代人の幼子が書き殴ったように崩れた形になったとき、男は弾かれたように起き上がり、力を振り絞って駆けだした。やはり自分は愚かだった。丸や三角や黄色や灰色では表しきれない感情があることに、そしてそれこそが2人を繋ぎ止めていたことに、男は気が付いていた。

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久田高一 @kouichikuda

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