君の鎖になれるなら

藍ねず

君の鎖になれるなら

 

 どう考えても理解できない事柄を目にした時、人はどうなるのだろう。叫ぶのかおののくのか、逃走するのか攻撃するのか。

 私は何もできなかった。悲鳴も出ないし震えもしない。逃走する考えも浮かばなければ、攻撃するなどという発想もなかった。


「あ〜〜〜〜〜〜?」


 ただ、奇声はでた。悲鳴ではなく奇声。語尾の上がった間抜けな反応。

 バイト終わりに薄暗い方を向いて奇声を上げる女子高生なんて、傍から見ればおかしなものだ。誰も見ていませんように。


「ぁぁぁぁ……」


 私の視線の先でも微妙な反応が発生した。上下黒のジャージに黒いニット帽を被った奴。夜に出歩く姿としては適していない気がするが、服装は別にいいのだ。闇の中で見えにくかろうと着ている本人の選択だ。


 というか、今の私からすれば相手の服装などどうでもいい。非常口のマークに似た、走り出しそうな格好で固まっている奴が同じ高校であることも百歩譲る。


 私が一番気になって、奇声の原因となったのは、奴が突然ことだ。


 お店の裏側。スタッフ用の扉を開けて右を見た瞬間、正に「パッ」と現れた奴。角から飛び出してきたとかではない。その場に出たのだ、コイツは。息を切らせて、肩を上下させながら。


 背後でスタッフ用の扉が閉まる。走り出しそうだった奴はぎこちなくこちらへ向き直り、痙攣する頬を上げた。


「お、お疲れ様で〜……す」


「……お疲れ様でーす」


 ***


「あー、ぇー……あのぉ〜」


「おはよう、玉響たまゆら君」


 玉響たまゆらすずめという同級生は何となく覚えていた。一年生の時に同じクラスだったが、茶色く固い髪と名前のせいで「チュン」と呼ばれていた奴だ。とても印象深い。


 ただ、私が覚えていただけで相手はこちらを忘れているようだ。昇降口で待ち伏せされていたのだが、私が同級生ということしか知らなかったのだろう。


野分のわきだよ」


「そう、そうだ野分さん!」


 玉響君は冷や汗いっぱいの顔に空笑いを浮かべる。あまりにも痛々しい笑みから視線を外せば、彼は視界の中に移動してきた。なんだよ朝から。


「あのさ、昨日のことなんだけど……」


「あぁ、うん、別に誰にも言わないよ。SNSとかも興味無いし」


 ゴマすり姿勢に入る玉響君に伝えておく。上靴に履き替えた私を追ってくる姿はご機嫌取りする輩のようだ。こっちが申し訳なくなるからやめようよ。


「え、あ、その、ありがとう。それなら安心……」


 笑う玉響君は、どことなく情けない。眉を下げて笑う姿は安心しきっていないではないか。流石に伝わるのだが、彼は何も続けない。

 後味が悪いな。そして居心地も悪い。どうしてだ。私は選択を間違えたのか?


 私は足を止める。そうすれば横にいた玉響君も止まった。彼の顔色は会った時から最悪だ。


「気が変わった。誰にも言わないから、君が昨日なにをしてたか教えてくれる?」


「え〜〜〜〜……あ〜〜〜〜」


 玉響君は全身から冷や汗を垂れ流す。興味が無さすぎると安心しないと思って、興味を示してみたんだけど。

 いや、元から興味はあった。興味津々であった。しかし聞いてはいけない気がして堪えていたのだ。それはやり過ぎた気遣いだったようだけど。


 玉響君は全身から「どうしよう」という雰囲気を醸すので、こちらまで困ってしまうではないか。


「……玉響君は、聞いた方が安心する? 聞かない方が安心する?」


「え、」


「私はどっちでもいいから、玉響君が選んでいいよ」


 選択を相手に丸投げする。それは逃げだろうけど許して欲しい。自分なりに相手を気遣ったつもりなのだが、分からないのだ。

 どうして欲しい。どうしたらいい。私の考えと君の思いがズレているなら訂正してくれ。


 玉響君は自信がなさそうに口を開閉させると、私と放課後の約束を取り付けてきた。一対一で、落ち着いた場所で聞いて欲しいのだとか。他の人には聞かれたくないし、今だって気が気ではないのだと彼の雰囲気が伝えている。


 一つ返事で了承した私は玉響君と別れ、自席に着席した。


「いや、めっちゃ気になるが?」


「え、急にどうしたの野分ちゃん」


「ごめん独り言」


 机の下で足をバタつかせそうになり、大きい独り言で隣席のクラスメイトを驚かせてしまう。私は真顔で謝罪し、廊下では「チュン!」と呼ぶ声が聞こえた。玉響君、大丈夫だろうか。


 私はあまり授業に集中できなかった。まぁ、常に表情筋が死滅している私の好奇心など誰も気づいていないだろう。不思議な同級生と放課後お話するんだ、なんて、字面にするとおかしすぎる。


 廊下からはまた「おーい、チュン!」という笑い声が聞こえて、男子に肩を組まれた玉響君が廊下を歩いてた。


「あ、チュンだ」


「玉響君ね」


 私はお弁当を共にする友人に訂正を入れる。今まであまり意識したことはなかったが、接点ができると気がかりになるものだ。何が、とは言わないが。


 午後の私も時計と睨めっこしていたが、こういう日に限って時間が経つのは遅い。大変遅い。いったいどんな嫌がらせかという焦らしを喰らいつつ、終礼が終わったと同時に席を立った。


「玉響君って掃除当番なの?」


「いや、は、ははは……まぁ、うん」


 玉響君の教室まで向かえば、箒を持った彼に苦笑された。彼は「い、急いで終わらせる!」と意気込んでいるが、他の掃除当番達は横目に玉響君を確認していた。誰も何も言わないし、空気だって普通だ。居心地が悪いものではない。


 待つ間、私は玉響君を廊下から観察した。とても低姿勢で、力なく笑う顔が気弱な印象を与えてくる。そんな奴が夜に全身黒ずくめで何をしていたのか。


「お、お待たせ、野分さん」


「別に、行こうか」


 鞄を抱えた玉響君と学校を後にする。二人で話し場所を考えたが、なかなか一対一で落ち着ける場所とは無いものだ。どこもかしこも人がいて、目があって、耳がある。

 玉響君は冷や汗を浮かべていたので、私は自分のバイト先に案内した。小さな雑貨屋の裏は静かなものだ。スタッフが買いやすい位置に自動販売機も置かれているので飲み物もある。昨晩遭遇した場所というのも味があるだろう。


 炭酸飲料のキャップを開けた私は、紅茶のペットボトルを握った玉響君を見上げた。


「……大丈夫?」


「う、うん。今ちょっと、どうやって説明しようか考えてて、はは、」


 眉を下げて笑う玉響君。私は喉を刺激する飲料を胃に落とし、彼の手が震えている事に気づいていた。


「無理に話そうとしなくていいよ。私、玉響君とそんなに話したことないし、信用できないでしょ」


「いや、その、でも……」


 玉響君が顎を引く。私は建物の壁沿いにしゃがみ、隣に立っている玉響君を急かすことはしなかった。

 夕方からのシフトの人はもう来てるだろうし、暫くはスタッフ専用扉が開閉することはないと思う。しかし落ち着いて話せる場所って少ないんだな、世の中。


「信じて、もらえないかもしれないけど」


 漠然と今日のシフトを思い出していると、頭の掠れた玉響君の声が聞こえた。私の隣にしゃがんだ彼は、初めて目を合わせてくれる。

 今日一日つき纏っていた興味が途端に膨れあがった。私はペットボトルを地面に置き、真剣な同級生を凝視する。


 玉響君は、神妙な顔つきで説明してくれた。


「俺、息を止めてる間だけ、違う世界を歩けるんだ」


 ***


 玉響雀君は、息を止めると姿が消えた。彼の体も、鞄も、ペットボトルも、私の目の前で消えたのだ。肺一杯に空気を吸い込み、止めた瞬間に影すらいなくなった。


 呆気に取られた私を置いて、すぐに姿を現した玉響君。その現れ方が昨晩の「突然」と一致し、私は口を開けない。胸を押さえて息を吐く同級生は私の様子をうかがい、少しだけ驚いた空気になった。


「驚かないんだ、ね。野分さん」


「いや、驚いてるけど、たぶん顔に出てないだけ」


「そ、そっか」


 苦笑する玉響君は教えてくれる。息を止めた間だけ、こちらと似ているような、けれども違う世界に行けるのだと。


「凄いんだよ、これからお祭りが始まるみたいな空気。いつもちょっと薄暗い、夕暮れみたいな世界なんだけどね、橙色の灯りが道を照らしてる。色んな素材で作られた建物に、買い物とかしてる人達。俺は異形さんって呼んでるんだけど、あの人達には俺の姿が見えないみたいでね」


 自分が見たものについて教えてくれた玉響君は、今までにないほど目を輝かせていた。両手をいっぱいに使って話す姿は本当に楽しそうで、語りたいことが止まらず出てくる。

 不思議な異形さんをたくさん見た。息を止めたまま歩くとこちらの世界でも最初とは違う場所に戻って来る。どうすれば長く息を止められるか考えて、練習して、人通りのなさそうな所で力を使っているのだとか。


「でも、昨日は野分さんと会っちゃったね」


「驚いたよ、凄く。またすぐに消えてたら見間違いだって思うくらいに」


「うん、ごめん。俺もすぐに息を止めればよかったんだけど、呼吸が整ってなくて……」


「いいよ。お陰で面白い話が聞けたわけだし」


 玉響君の顔が明るくなる。学校では見たことない陽気さだが、こちらの方が私としては話しやすかった。彼は喜々とした横顔で何か考えたらしく、前置きなく私に手を差し出してくる。


「よかったら、野分さんも行ってみる? 一緒に行けるか分からないけど」


「……おぉ」


 突拍子もない提案に反応が遅れる。それを拒否だと思ったのか、はたまた半信半疑で話を合わせていただけだと思われたのか。どちらにしても間違った解釈をしたらしい玉響君は「あ、ごめん」と手を引っ込めそうになった。


 私は咄嗟に彼の手を握る。体を固めた玉響君は、誘ったくせに挙動不審だ。微かに狼狽えた彼を凝視し、私は手を握り続けた。


「行く」


 私の答えに玉響君の肩が跳ねる。彼は私の様子を確認すると、目元を染めて笑ってくれた。


 死角である自販機の影に二人で入る。小鳥が走るように脈打つ心音が、相手に気づかれないといいのだけど。

 節のある玉響君の手を握り直す。彼も私の手を包んでくれたので、どちらかが暴れない限りは離れることもないだろう。


「そ、それじゃ、行くよ」


「うん」


 泳ぎ始める前のように深呼吸して、肺に空気を溜める。口を閉じて呼吸を止めれば、様子を見ていた玉響君も口を結んだ。


 自然と瞬きする。瞼が下りて、上がる、一秒にも満たない時間。


 その間に、私の視界が暗くなった。


 暗い夕暮れのような空に、影が多く古びた街並みが辺りに広がる。


 建物の壁を伝うツルや、遠くから聞こえる不思議な音。神社の鐘がより籠ったような音は鼓膜にまとわりついた。周囲には催し物が始まる前のような奇妙な心地が蔓延し、私達は四角い物の影に立っていた。


 自販機があったのと同じ場所にある、よく分からない箱。その影から周りを見渡す玉響君の目は輝いており、私は自分を覆った暗さを見上げた。


 空を飛ぶのは鳥ではない。白い体に四つの翼がある、奇怪な生き物。鉤爪つきの細い足は三本あり、長い尾をたなびかせながら私達の頭上を飛んでいった。

 視線は建物の上へ引っ張られる。屋根を歩くのは小さな毛玉みたいな奴ら。単眼を瞬かせながら五体くらいが一列になって移動している。私の視界は回りかけ、どこを向いても入り込む不思議な存在――玉響君いわく、異形さん達に噎せそうだった。


 自分が立っている感覚が浮つきそうな世界。一日が終わりそうな空で、仄暗くて温かいのに、遠くから響く鐘の音が不安を植え付ける。


 思わず片手で口を塞いだ。私の様子を見た玉響君は呼吸を再開してくれる。


 そうすれば、私の視界が再び変容した。まるでカメラのシャッターが切られたように。


 何度も瞬きを繰り返し、反射的に息を吐いてしまう。浅い呼吸が続いて息の整え方を考えていれば、頬を汗が伝っていった。


「野分さん、だ、大丈夫?」


「だ、だいじょ……いや、嘘、ちょっと、だいじょばない」


「あ、あぁぁ」


 玉響君と手を繋いだまましゃがみ込む。彼は私の呼吸が落ち着くようにゆっくり息をしてくれた。私は同級生に合わせて呼吸を行い、軽い立ち眩みを遠くに逃がしていく。よし、よし……大丈夫。


「……落ち着い、た?」


「うん、ごめん、ありがとう」


 玉響君は全身から心配そうな空気を醸し出す。私は拳を握って大丈夫だと示したが、彼の心配は払拭されなかったらしい。困ったな、今は本当に落ち着いたんだけど。

 脳裏に不可思議な世界が刻み込まれた私は、零れる感想を口にした。


「すごい世界だったね、驚いた」


「そ、そうだよね。俺も初めて行った時、すごく驚いたんだ。すぐに息しちゃって戻ったから、だから、野分さん凄いと思う。周りをあんなに見て、落ち着き払ってたね」


「そう見えただけだよ。でも、ありがとう。不思議な世界が見られて興味深かった」


 玉響君の顔から力が抜ける。手を握りっぱなしだった彼は慌てて離していたが、空気は柔らかいままだった。綿毛でも飛んでいそうな雰囲気だ。

 私は自分の手を見下ろして、息を止めてみる。しかし世界が変わることはなくて、やはりこれは玉響君の力なのだと理解した。


「玉響君は、よくあの世界に行くの?」


「うん。ここ最近は、毎日行ってるよ。学校が終わってから」


 自販機の影から移動し、濃くなった夕焼けの赤を見る。顔に深い濃淡ができた玉響君の頬は、興奮の色を浮かべていた。


「綺麗だったでしょう? あの世界」


 玉響君の目が見えない。細められた瞳が隠れている。

 私は瞼に焼き付いた世界を思い出し、背中に鳥肌を立てた。


「……不思議だったね」


 ***


 玉響君は、恐らく言われたことを断れない人だ。

 提出物の束を抱えた所に何回も遭遇するし、連日掃除当番をしている。「チュン!」と聞こえたら大概クラスメイトに呼ばれており、苦笑しながらつるんでいた。別に目に見える怪我がある訳ではなさそうだが、常に眉が八の字になっているのはどうかと思う。


 クラスが違うので日々の観察なんて多くはないが、彼の視線がいつも下を向いていることには気づいてしまった。


「お節介だろうなぁ~」


「野分ちゃん、今日も独り言が冴えてる」


「ごめん黙る」


 隣席のクラスメイトに謝罪を告げ、チャイムが鳴る。グラウンドには玉響君のクラスが出ており、固い茶髪の後頭部にサッカーボールが激突していた。


 ノートに触れていたシャーペンの芯が折れる。黒い粉がノートに跡を作り、私の目は玉響君を観察した。


 同級生に頭を撫でられる玉響君も、周りも一緒に笑っている。普通に会話しているようだし、彼以外のクラスメイトもボールをぶつけたりぶつけられたりと所謂じゃれつきをしていた。

 悪意は見えない。誰も意地悪をしてやろうという気持ちではなく、ふざけている範囲だと思う。


 それでも私は、どこか据わりの悪い空気を感じた。


 今日も授業にあまり集中せずに放課後がやってくる。本日は私も掃除当番であり、掃除を終えた後はゴミ箱を持った。他の子には帰ってもらい、一人やる気もなくゴミ捨て場に向かう。


「あ、」


 階段を先に下りていた背中は、見知ってしまった彼のもの。私は少しだけ歩行にスイッチを入れ、玉響君の背中を追った。


 一階へ彼が先に辿り着く。私は段差を気にかけて一瞬だけ下を向き、すぐに視線を戻した。


 そこに彼がいない。一息の間に、消えてしまった。


 全身に勢いよく鳥肌が立つ。段差を跳び下りて廊下を確認するが、玉響君の背中はどこにもなかった。


 たった一瞬。ほんの数秒目を離しただけで置いていかれる距離ではなかった。そんな速度で彼は歩いていなかった。なのに、消えたのは、それは、つまり。


「は、ッ」


 ゴミ箱を抱えてゴミ捨て場まで走る。その道中で彼とすれ違う事はなく、目的地にも同級生はいなかった。


 私の心臓が早くなり、忘れられない世界が想起する。仄暗く、生温く、不可思議な生き物で溢れた世界の景色。


『綺麗だったでしょう?』


 足先から寒気が突き抜ける。腰から背中、後頭部を過ぎた冷たさに呼吸は浅くなり、私は再び駆け出した。


 下りた階段まで戻って来る。踊り場に再び足を踏み込む。


 その時、階段後ろの影から出てきた人を発見した。


「玉響君!」


「えッ、の、野分さ、」


 声を裏返した玉響君に詰め寄り、彼の腕を掴む。自分の体温が引いている自覚はあった。冷や汗が首筋を流れて、肺が痛い。彼が持つゴミ箱の中は、いっぱいだった。


「ぁ、あの、どうした、」


「行ってた? 向こうに」


 玉響君の言葉を遮ってしまう。微かに申し訳なさは浮かんだが、それよりも私は自分を優先してしまった。目を見開いた同級生は口を軽く開閉させ、何も言わない。かと思えば、口角がぎこちなく上がり、やっぱり眉を八の字に下げたのだ。


 それだけで分かる。その反応だけで、分かってしまう。


 私の喉が張り付いた。言葉が出ない。なんと言えばいいのか見当もつかない。これは彼の力で、彼の選択で、自由である筈だから。そこに私が口を挟むのはエゴに過ぎない。たった一度、偶然の遭遇をした私達の関係は、酷く曖昧なのだから。


 力が抜けて玉響君を離す。私達は暫く黙って向かい合い、先に口を開いたのは彼だった。


「……今日も、綺麗だったよ」


 私の体が固まる。微笑みを浮かべた玉響君は横を通り過ぎ、窓から夕日が射し込んだ。


 ――その日から、玉響君はよく早退するようになった。


 一人で校門に向かって歩く彼を見た。クラスの前を通る時、空席を見つけた。彼とよく一緒にいたクラスメイトは変わらず笑っていた。一日に数度は聞いていた「チュン」というあだ名を、聞かなくなった。


 午後からよく早退していたと思ったら、玉響君は午前中にも帰り始めた。そう気づいた数日後には既に、彼は学校を休んでいた。


 鳩尾がざわつく。指先がいじらしくなる。肺の奥に言葉が溜まり、息を止めたら石のように固く、重く、こびりついた。


 廊下を歩いても彼はいない。私は彼の連絡先も、何も知らない。なんとなく視線を下げて歩けば彼と同じ景色を見ている気がした。なんて、やっぱり私の自己満足だ。


「いや、チュンがどこ行ったとか知らねぇよな」


「学校でしか一緒にいねぇし、アイツ、何考えてるか分かんなかったし」


「……俺らのせいじゃねぇって」


 すれ違いざま、耳に入り込んだ男子生徒の会話。振り返った私は声の主達を確認し、考える前に腕を掴んでいた。


 相手が驚いた声を無視して、名乗らず、説明せず、ただ一方的に問いかける。


「玉響君、どこか行っちゃったの?」


 言葉にすれば体が冷えた。私の質問に同級生は居心地悪そうに顔を見合わせ、昨日から家に帰っていないらしいと教えてくれた。登校した時、担任に居場所などの心当たりを聞かれたが、自分達は何も知らないのだと。


 体から力が抜ける。頭の中を仄暗い世界が回る。


 私はお礼も告げずにその場を離れ、保健室に走った。体温計を借りてこっそり温め、微熱があるからと早退を要求する。

 養護教諭の先生は私の顔色なども確認していたが、元から顔には出ないんですと真顔で押し通した。こういう時に表情筋が死んでるのは得だと思う。小学生の頃は体調が悪くても気づかれないから寂しかったが、今はいいように使えるのだから。


 鞄を持って学校を飛び出す。これだけ走れるのだから体調不良など大嘘であると周囲にはバレたかもしれないが、それよりも、それよりも、なのだ。


 息を止めて違う世界に行っていた彼。いつも困ったように笑って、下を向いて、不可思議な世界の話をする時だけは明るくなってくれた同級生。


 これは私の我儘な捜索だ。偶然知ってしまった彼のこと。きっとあの夜がなければ今日だって気にかけていなかった。気にしてなんていなかった。


 でも、あの夜に玉響君と会ったことが偶然でないと思えば、偶々たまたまなんてこの世にはないと思ってみれば、私は走り出さずにはいられない。探さずにはいられない。


 彼が行きそうな場所なんて心当たりはなかった。ただ、人気のない所で行き来するようにしている事だけは知っている。だから小さな空き地を、活気のない商店街を、誰も住んでいない売物件の付近を探した。瞬きを惜しんで、一瞬の見逃しを怖がって、探し回った。


 どこにも彼の姿はない。見つからない、見つけられない。彼が消えたことに、気づいてるのだって極一部。クラスが違う私だって知らなかったのだから、その他大勢が知る筈もない。こんなに目も耳も沢山あるのに、世界は何を拾ってるんだ。


 日が傾いて人通りが多くなってくる。この時間は彼と話をした時間と重なると思った私は、駄目もとでバイト先に向かった。


 汗が流れて本当に熱が出たような眩暈を覚える。当てもなく探し続ける焦燥感で肺が重い。頼まれてもいない行動が無意味なようで、鼻の奥が痛くなった。


 彼の話を聞いたバイト先の裏側。人通りのない静かな場所。初めて彼を見つけた、偶然の場所。


 私は周囲を見渡して、自販機の影にも、どこにも彼はいないと首を振った。


「玉響君……」


 疲れた足で、自販機の隣に座り込んでしまう。鞄を下げ続けた肩が怠く、今日も日は沈んでいく。夕暮れとはどうしてこんなに寂しいのか、誰か説明して欲しいなんて、変な感傷だ。


 途方もないことをして収穫が無いと、一気に体が重たくなる。妙な苛立ちすら抱えてしまい、私は静かに唇を噛んだ。


 向こうでも日は沈むのだろうか。あの不安を駆り立てる鐘の音を、彼は聞いているのだろうか。


 ごめんね、玉響君。何もしなくて、何も言わなくて、はぐらかしてごめん。勝手に君を気にかけて、ごめんね。


 でも、言い訳をさせてくれ。私は、君が綺麗だと言った世界が、どうしても……どうしても。


 膝を抱えて影が伸びる。ゆっくりと呼吸を整えながら自販機の向こうを見つめる。疲弊した瞼を下ろして、気力で開いて。


 その時、手品のように、嘘みたいに、全身黒ずくめの人が地面に倒れ込んだ。


 肩で大きく浅い呼吸を繰り返して、頬に張り付いた髪の毛は汗で濡れている。震える手を地面について、笑った膝を崩した彼は――……


「玉響、雀ッ!」


 弾かれるように立ち上がって、振り返った彼の肩を掴む。逃がさないつもりで黒ずくめの同級生を地面に押し倒せば、彼が息を止めると分かった。


 私も合わせて息を止める。


 二度目にやって来た世界は、変わらず仄暗くて、生暖かくて、どこかで鐘が鳴っている。

 白い人影が着物のようなものを着て歩き、目の無い蛇は地面を齧って咀嚼した。緑の触手を持った者は壁を這い、風に乗った枯葉が笑う。


 私が世界を飛んだのは一瞬だった。目に映る全てが変わったと理解した時には元の場所へと帰り、今しがた見ていたものが夢だった気さえする。


 私の下では玉響君が胸を上下させて呼吸を繰り返し、両目の縁は真っ赤に擦れていた。


「な、で、のわき、さん」


 情けないを通り越して、泣きそうな声が絞られる。唇が震えた私は、肺にこびり付いた言葉を吐き出した。


「ちゃんと、息しろ!  止めるな馬鹿ッ!」


 玉響君の目が零れそうなほど見開かれる。私は彼の襟を掴み、関節が白く浮き上がった。

 顔が熱くなって、表情が崩れていくのが自分でも分かる。目頭に溜まった熱は、雫になって彼の頬に落下した。


「君が何を考えてるか私は知らない、見てただけだから、何も、なんにも知らない! 苦しくないのかなって思っても、しんどいのかなって思っても、それは私の考え過ぎな気もして、でも、君が、階段で消えた時からずっと、ずっと、不安で、ッ」


 支離滅裂な言葉を押し付ける。肺から剥がれた言葉が、空気と一緒に出ていきたいと暴れてしまう。彼の頬を滑っていくのは、私の勝手な感情だ。


 玉響君の唇が震える。顔を歪めた彼は、目尻から細い涙を零していた。


「仕方ないじゃ、ないか。ここは苦しい。息の仕方が分からなくて、上手い呼吸の仕方が、分からなくてッ、」


 手首を掴まれる。節くれだった彼の手は小刻みに揺れて、全然、力なんて入っていなかった。

 彼の滴が大きくなって流れていく。私の下瞼から雨のように感情が落ち続ける。


 鼻を啜ったのは、息を吸ったのは、どちらだろう。


 目尻の赤を濃くする玉響君は、喘ぐように言葉を吐いた。


「酸欠だったんだ。訳が、分からなくなりそうだったんだ! だったらいっそ、止めていいじゃないか、止めて、綺麗な世界を歩いていいじゃないか!」


「余計にしんどい場所に行ってどうするんだよ!」


 襟を離して玉響君の両頬を挟む。目を合わせた私達は、お互いの瞳を覆う膜を見つめ合った。


「君が息を止めて、息を殺さないといけない場所に逃げる意味なんてないじゃん。綺麗だから何。向こうでは誰も君を見てくれないんだろ! 誰とも話せないんだろ、息が、できないんだろ!」


 汗で冷えた玉響君の頬に、私の熱が伝染すればいい。息ができないと喘ぐ彼が、完全に息を止めてしまわないように、引き留める熱になりたい。こんな我儘が、勝手が、エゴが、彼の呼吸の理由になればいいのに、なんて。


「……やめないでよ、玉響君。息をしててよ、生きててよ。消えないで、いなくならないで、怖いよ、嫌だ。君が苦しい場所に行くのが、君だけ息を止める理不尽が、私は、嫌で、苦しいんだ」


 嗚咽を交えて謝罪しよう。ごめんねって。勝手でごめんね。これは私が息をしたいだけの、憤りたくないだけの願望だ。君が息を止める道を持っているのだと知ってしまったあの日から、私は君が息をやめることが怖いんだ。


 泣きじゃくる私を、玉響君は怒らなかった。呆れてもいなかった。ただ我儘な私の手を包んで、眉を寄せて、私の言葉を聞いてくれた。


「息を止める前に、吐き出して、話をしよう。何でも聞く。どんな話も聞くから。溜めないで、止めないで……お願いだから」


「……お人好しだなぁ、野分さんは」


 目を細めた玉響君が、私の手を握り締めてくれる。口角は上がってるのに眉間には皺が寄って、酷い顔だ。涙も流して、鼻も赤くて、目の下には隈もある。


 脱力した彼は、声を、息を、震えながらも吐いてくれた。


「そんなに言われたら……消えられないじゃないか。もう少しだけ、息を止めないでいようって、思うじゃないか」


 声を押し殺して、彼が泣く。涙腺の決壊した私は彼の涙を掬い、自分の狡さに破顔した。


 ***


「……課題が多いよ~」


「早退してた分と、欠席してた分、あと反省文だっけ」


「うん。出席日数が一気に危なくなったとも言われた」


「風邪は引けないね。健康体でいよう」


 放課後、図書室で課題の山と格闘する玉響君。彼は小さく愚痴を零しながらも手を動かしており、私は自分の課題をしていた。


 隣で玉響君が口を結ぶ。私は思わずシャーペンのノック部分で彼の頬を押し、空気が吐き出される音を聞いた。安心。


「止めてないよ」


「どうだか」


「ちゃんと約束は守るって」


「信用が足りません」


「うーん、どうすれば信用を稼げるんだろう」


「自分で考えな」


 苦笑した玉響君は、あれから学校を休んでいない。教室で静かに本を読んでいる姿を見かけるようになり、廊下から「チュン」という呼び声も消えた。


 私は自分の課題に戻る。玉響君は暫く手を止めていたが、ふと思いついたように空気が笑った。


 つられて顔を上げてしまう。笑っている彼の顔は、やっぱりどこか情けない。


「野分さんとの約束だから、守るよ。大丈夫」


 私の表情は変わらない。その反応を見た彼の眉は下がり、仕方なさそうに言葉を変えた。


「俺のこと、ちゃんと「玉響君」って呼んでくれた人との約束だもん」


 手に少しだけ力が入る。課題の上でシャーペンの芯が折れる。


 玉響君は「あ、」と声を漏らし、私は真顔を貫いた。


「……六十点」


「厳しい」


 うなじを掻いた玉響君を見て、少しだけ口角が上がる。彼が息をする意味を増やしたい私は、少しだけ意地悪になろうと決めていた。


「どうか、百点を目指してね」


――――――――――――――――――――


誰かを引き留めることは我儘でしょうか。

息をしていて欲しいと願うのはエゴでしょうか。


窒息する前に見つかってしまった玉響君。

偶然にも彼を見つけてしまった野分さん。


二人の話を覗いて下さって、ありがとうございました。


藍ねず

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